2012年5月26日 (土)

テンデアン映画撮影所

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ここはテンデアン通りのテンデアン・プラザの手前の敷地である。昔から何かあると思って居たところであるが只だだっぴろいだけであったので記憶にないが何かの拍子にここは撮影所だとの記憶に置き直されていて、確認に行ってみた。真ん中にオランダ時代の倉庫風の建物があり、人が棲みついていたが、その前には何台もの撮影用のジェネレーターが置いてある。門の所の守衛に聞いて見るとやはりそうだ。しかし誘導尋問になった気配もしないわけではない。と言うのは小生はここが日本占領中の宣伝映画を作っていた所ではないかとおもっていたからであるが、今日調べるとそれはジャティネガラ方面のようでカラ振りであった。日本軍とは関係ないが撮影には違いない。地図で見るとWijayakartaと言う由緒ある名前であった。多くの屋台や仮設カフェ等も出来てにぎわっていたが運ちゃんに何か食べるかいと誘ったが食欲はわかなかったらしい。
小生の方はソニーのデジカメで高感度でとっても帰って悪い、この程度だから筆が進まない。

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2012年5月24日 (木)

ジャバの生活文化とワタスゲ

昭和15年頃、イギリスのボンダー女史著、矢吹勝二氏訳の「ジャバの生活文化」がある。当時のジャワの生活が女史の目を通して優しく語られている。彼女自身が優雅であるが、当時のオランダ人も本国を忘れて生活をエンジョイしているし、ジャワ人達もその生活が美しいと感嘆の目を持って語られる。
オランダ人の生活の一場面に「ワタスゲ」が出てくる。「どの家にもフォールガレリーがある。これは三方を開放した居間で、言わば家庭のショーウインドウのやうなものである。といふのは、家の正面には石の手すりか柱があるだけで、別に垣といふものが無いため、道路からそっくり見えるからである。部屋の壁には磨きたてた真鍮細工や古物の青皿などがかけてある。。。。よく伸びた棕櫚の木、鉢植えのクジャク草、花瓶に盛った深紅のワタスゲの花なども美しい。(1年中。。。ワタスゲだけはいつでも花を付けてゐる。  1年中見るのであれば今でもある筈であるが、聞いたことが無い。ワタスゲ自体が日本語であり、現地で何というのかも解らない。 
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Weblioの写真を付けたが見る様の綿の玉状の花を付いている。綿なので白であるが文中には真紅となっている。英名はCotton Sedgeである。 当時のオランダ人の家はWoonhuisとか言った筈で今でもいくつか残っているが、最近のインドネシア人の家はそれをいく倍も凌駕する豪華のものが多くなった。

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2012年5月23日 (水)

滝川とEnergy Building

Bellagioの「たけもり」ではない「滝川」が入居しているモールはジャカルタでいえば トップクラス。
どこがトップかと聞かれたら多分順不同で言うと Grand Indonesia、Pondoki Indaha Mall、Senayan City、Gandaria Mall、Plaza Indonesisa、Pacific Place、Central Parkを挙げるだろう。
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所がその入居ビルの一つにエネルギービルが有ると言うので驚きである。エネルギービルはスディルマン ビジネス ディストリクトにあるオフイスビルだからである。 行った時は日曜でビル自体が閉まっていたので中の様子は解らない。 エネルギーと言うだけにインドネシアのエネルギー代表企業 メドコが保有しているビルである。Medcoについては弊ブログ「MEDCO Panigoroの積極的展開 」に詳しい。

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2012年5月22日 (火)

BINUSに注目

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90年代は1ケ所しかキャンパスを持たなかったBinusが今は5ケ所以上のキャンパスを抱える大大学になっているのを知った。TelkomがCSRとして行っているTesca 賞の記事がWarta Ekonomiに出ていたが、堂々の3位に入賞している。これは大学の総支出に占めるIT関連費用の比率、コンピュータ設置台数、ファイルのデジタル化比率、ホームペイジアクセス数などでTIK度を競うものである。1位はUI 、2位はGunadarma 3位 Univ. Bina NUSANTARA(BINUS)、4 位Gajah Madah、5位 ITB….である。90年代はアカデミーであったが、特にコンピュータ、Accountingではリードしていた。日本語熱も高く日本祭りなどもニュースに流れる。
Kebun Juruk(Kemanggisan)辺りに大きなキャンパスを3ケ所、高校や文化会館など多くを構えていた。

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2012年5月21日 (月)

不気味なP坊の大統領選運動開始

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昨日偶然にも、プラボウォの手下組織GRIBの旗揚げ会場を通り過ぎた。その前の日、高速道路にビッシリ建てられた旗が記憶にあったので直ぐそれと解ったが運転手はプラボウォの新党だと言ったので、プラボウォのGerindra党が他党をいれて合同新党でも作ったのかと思ったがそうではないようだ。既に2014年の大統領選に出馬が確実なプラボウォが選挙戦の準備に入りスハルトの戦術と同じ活動青年団を結成したのである。この団長がHerculesとか言う名前のチモール・チムール出身の男で タナー・バンでやくざをしてきた男である。運転手はアンボン出身の男たちも見かけたと言う。彼らも有無を言わせずに処理をするので有名である。 昔、アンボンで宗教対立の激しい抗争があったが中でも3人の女学生の頭を切り取ったニュースを思い出した。何事もなく通り過ぎただけで胸をなでおろしたことであった。よく撮った写真だと思ったがどれも写りは悪いが、お祝いの花ボードに大統領の息子だったかKOSTRADの名前などもあった。

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2012年5月20日 (日)

スラバヤの誕生

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5月31日はスラバヤの誕生日である。スラバヤの名前は市のシンボルになっている鱶SuraとBoyo鰐から来ているが。このる鱶とワニの戦いはある事件を象徴したもので史実的には1293年Wijayaが率いる軍とTar Tarが率いる軍との戦いがあったそうであるが、この年は大帝国マジャパヒットが興った年と一致する。そしてこの年は元が2回目の来襲があった年なのでこれらの歴史が背景にあるのであろう。すなわちWijayaはシンガサリ朝最後の王クルタネガラの娘婿で義父を殺したジャヤカトワンを撃ってマジャパヒット国を起こした最初の王であり、Tar Tarは元軍の司令官である。どちらが鱶なのかどちらが勝ったのかは不明であった。日工場から街に入る道のある公園に立っていた。

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2012年5月17日 (木)

私たちが待ってます。菊川

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このジャカルタに住んでいる日本人で菊川を知らない人はいないだろう。それほどこの地に住む日本人にとって今あるはこの先人達の苦労があったればこそと感慨にふける事が出来る日本料理店なのである。
着想したのが1960年やっと開業に漕ぎ付けたのが1969年というから40数年の歴史があるのである。創設者の菊池輝武氏もよる歳並みには勝てず95歳の往生を昨年遂げた。今は日本人はいないが従業員一同伝統を守って生き続けている。只お客が入る時はドアーを明けて挨拶し、お帰りになるときもドアーを明けてお礼の挨拶をしなさいとだけは教育しておいたので是非最近怒涛の如く来られた日本人も一度は是非行ってほしいと本当に乞い願うものである。今時すき焼き+天ぷら+焼き鳥+刺身+味噌汁ライスで63千ルピアでは気の毒と言うものだ。
菊池氏の話は弊ブログ「流れる川のレストラン 菊川」として紹介したが、再度彼は軍の将校ではなく一市民であり、奥さんはアメリカ人ではなくメナド美人であった事を論評者に断りも入れず訂正しておこう。レストランの給仕もかわいいメナド美人であった時代もあるが今はメナドはいなかった。
名前だけ上げるとCitraチャン18歳、kanaチャン17歳、Fatimahチャン17歳、あと両端にMariahとSophi がいる。予約は不要であるが3150668

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2012年5月15日 (火)

Bellezza と Bellagio

3月に行ったプルマタ・ヒジャウのThe Bellezza Shopping Arcadeは「Bellezza 自体がホテル」と紹介したがこのPlazaと姉妹がMega KeninganにあるBellagioである。
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ここは後ろがマンションで全面4階ほどがショッピング・レストラン街となっており日本食は「たけもり」が入っている。姉妹と言うのはどちらもGapura Prima社が保有しているからであるが又どちらもイタリア語で美しいとか言う意味で正面の構えはローマ時代の壮大さがある。
Mega Keninganの真ん中のサークルにあるRitz Cartonを過ぎて左側である。ここにゴルフシュミレーションもある。そこではビリヤードをしながら食事も出来るが料金はしおりに書いてないので電話 3002-9858で聞いて見ればよい。

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2012年5月14日 (月)

5月のイスマイル・マルズキ

イスマイル・マルズキIsmail Marzukiがトゥランブーランを唄ったと書いたが、このあたりは本当に何が無いやら解らない。Fachrul Khairuddin www.kompasiana.com / さんはこう書いている。
Ismail juga mengisi lagu untuk filem Terang Bulan yang dibintangi RD Mochtar. Dia menyanyikan lagu Duduk Termenung. Kesuksesan filem Terang Bulan membuat Ismail dan Lief Java diundang ke Singapura dan Malaysia untuk pentas karena filem Terang Bulan sangat sukses di kedua negara tersebut.
トゥランブーランの本家の取り合いをしているからインドネシア人が書くとインドネシアが主でマレーシアが従である。歌自身はフランス人が本家の本家だから目くそ鼻くその感じではある。
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イスマイルマルズキは生粋のジャカルタ ブタウイの出身で愛称はBang Ma’ingと呼ばれ、現在ホテル アルヤドゥタ近くのKwitangに1914年5月11日に生まれ1958年5月25日に亡くなった。ちゃんとメンテンのHISとMULOで学んでいるので金持ちの子供のだ、音楽のキャリアーは当時有名なHUGO Dumasの率いるLief Javaに属して積んだ。
小生のブログ「Kembang通りのTerang Bulan」で出生・死亡年月を間違っているので修正しておきたい。
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そういう事で昨日Kembang通りに出掛けて見たが、Kembang IV/97のアドレスも見つからず住民に聞いても誰も知らずやはりここは大ジャカルタの都心に取り残された無知と無関心の偉大な田舎のまま変わらない事が実感された。
Wikipediaでは彼の most populerな唄はRayuan Pulau Kelapa でオルデバルのTVRIの放送終了の時間に流された歌だそうで 英語版はFirst Coconut Islandと言うのでジャカルタ音頭を思い出した。TIM公園に胸像がある彼はやはり国家英雄に叙せられている筈である。

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2012年5月13日 (日)

トリサクティ事件とデモ

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出掛けるのにいつまで待ってもタクシーがなくバスにするとバスも来ない。真相はこの先のトリサクティ大学で1998年5月12日の悲劇と称している事件の14周年のデモ行事である。チケット売り場にはBahan Bakar Gasの充填で時間がかかっていると表示していたがどうしてだろう。
トリサクティ事件はP坊やのクーデターだという説などあるが、とにかく集会中の学生を狙撃して4人が死亡した事件でこれを契機としてあのジャカルタ暴動がおこりスハルトが退陣に追い込まれたのである。事件は下級兵士に責任を取らす形でうやむやにされている。
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今日のデモはその後徴用した市内バスの屋根にまで乗り込んで10台ほどで移動していった。デモの行く先はいつでもホテル・インドネシア前である。モナス広場などでやってくれるといいのだが、やはりここが一番目に着くからだろうがこれにより半日は交通がマヒした。 一時酪消化と思われたバスウエーもHI 手前は数珠つなぎであった。
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彼らはこの事件で革命の勝利と称された4人の人権は家族を含め回復されてないとしてインドネシアの人権蹂躙体質は変わってないと訴えていたが市民も優しく受け入れ平和なデモではあった。

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2012年5月11日 (金)

最悪の投資環境へ急ぐインドネシア

昨日のNNAニュースを見るととんでもないニュースが編隊で飛び込んできた。一つは輸入業者登録に商品ジャンルを登録するに1ジャンルしか登録できなくなったことである。従い日本の総合商社は専門商社化し全商品をカバーするには19もの会社を設立しないといけないと言う馬鹿げた話である。これには先に大騒ぎとなった製造業への規制のとばっちりで此方は従来製造業に認められていた完成品輸入(部品も含め)がなんと最高の裁判官がいるはずの憲法裁判所で(だったかな)憲法違反となったことである。昔なら、製造業者が製品販売時の製品ラインアップ上必要な上位タイプ等の完成品の輸入を認めていたもので、これは恩情があった。或いは商業の場合、許可される事業として輸入業者というのが認められたがこれはお客の必要とする商品を世界から探してきて調達してあげる業種であるので最初から商品ジャンルは決められない事は自明であったのである。こうした流れを知らないあほな公務員が勝手に法律を作っていく。冒頭に編隊と書いたが、他に
輸出優遇措置の見直しでKITE制度などが廃止になりそうである。これも前場があり保税製造輸出企業に認めていた国内売り上げの比率削減の続きのものである。
鉱物資源の輸出課税も出てきた。100億ドル輸出しているから20%の税を掛ければ20億ドルの税収増と胸算用している。
工業団地の土地代の値上げも著しい。この間ある撤退企業が$40以下で手放し泣いた時代を目にしたが今やその3倍である。そして圧巻は北朝鮮とニュース交信の協定をしたと言う事だ。今後デマ情報など出所を確認した情報の管理が更に必要となる。1日でこれだけあると今後が心配である。
この投資環境の悪化はずっと前からあり、小生は2011年トピックス第4位に上げていたものである。
第4位:外国企業進出に対する嫌悪感高まる(金融業界、輸入規制、外貨集中、販売のみの進出、保税国内出荷制限)

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2012年5月10日 (木)

ブカシの英雄Noer とChairil

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Bekasi市からKali Malang運河添いの道はKH. Noer Aliと言う通り名である。ハジNoer Ali は2006年に国家英雄に叙された。この道はブカシの写真のMal Metropolitanの所からCawang迄走ってくるがBekasiに至る東Karawangからの道はChairil Anwarと名付けられている。
そう、昨年9月のブログ“ハイリル・アンワルのKarawang-Bekasi叫びの勝利”で紹介し有名な“Karawang-Bekasi”と言う詩である。彼自身Angkatan 45の属した闘士であと一つブログ「Chairil Anwarの胸像」で紹介しているがこの詩の題材となったRawa Gedeの虐殺事件に発展した現地での闘争を指導した人がKH.Noer Aliなのである。上記ブログの後、この虐殺された村民431名へのオランダからの賠償が成立した報道は聞いたので上記のブログに追記・修正しておかねばならない。
彼は所謂Raskar Rakyatのリーダーで1945年の9月19日のジャカルタ・イカダ集会を企画した一人である。
連合軍に対する戦いは1945年11月29日にこの近くのPondok Purpleで起こり彼はチームを引っ張り急襲を掛け一時は連合軍を撤退に追い込んだ。そこで停止を命じたがSasak Kapok  橋の辺りで戻ってきた連合軍の為30人が死亡した。
2回目の戦い(事件)はRawa Gedeで起こったがその前にNoerは抵抗軍の堅守を見せる為村民に紙で紅白の旗を作らせ家々や木々にぶら下げた。オランダ軍はこの行為はTNIによりなされたとしてMayor Luke Kustaryoを捜査したが村民の非協力に怒ったオランダは村民虐殺に走った訳である。
Noerはブカシで1914年に生まれ1992年に亡くなっている。1934年メッカに赴きイスラムを修めている。独立後はマシュミ党やウラマのMUIの地域活動に奉仕した。

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2012年5月 9日 (水)

Kadinはどこ

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Kadinのメンバーは何社だろうか 10社ずつ4,939頁にわたって書いてあるので49,390社となるのであろう。
日本の経団連は代表的な企業1281社、主要な業種別全国団体127団体、地方別経済団体47団体などで1,603社というからKADINは一寸経営が困難な団体であろう。
従いこれを業種別にくぐると20になり、これがWKU会頭代理或いは副会頭であり、シナルマスのフランキーさんがアグリ・食糧部門の副会頭の場合この下に数名の委員からなる8個の小委員会がある。
会頭はSuryo Bambang Sulisto、顧問団(Dewan Nasehat)はFa.Idrisの下に8人の副委員長と30人の顧問メンバーがいる他協力諮問会(Dewan Pertimbangan)が会長Osman Saptahの下に4人の副とこれまた30人のメンバーがいる。
Kadinのビル(Menara Kadin)はラスナサイドにあるが通った時は夕方の逆光であったので又撮りに行かねばならない。ここも割と通る道ではあるが丁度曲線になって気がつかなかったが1997年に建設されている。写真では左手がMenara Karya(Kadinビルの裏手)、右手が保健省のビルである。

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2012年5月 7日 (月)

滝川ジャパニーズ・レストの驚異的出店

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Keningan City Mallのレスト滝川は表の高架工事で未だ人が寄り付きにくく、ここに開店した滝川も従業員が寝そべっていたが、この滝川と言うのは本当によく見かける。
日本名であるが日本人オーナーでなくパレンバン出身らしい。本店ビルがこのPanglima Polim Xにあり ジャカルタではトップクラスのモールに出店している。リストアップすると
Keninngan City(Podomoro)、
Central Park、
Grand Indonesia,
Senayan City、
Gandaria City、
Pondok Indah Mall、
Pacific Place、
Bekasi Square、
Cilandak Towan Square、
Supermall Karawaci、
Emporium Pluit Mall、
Setia Budi I、
Summarecon Mall、
Tangeran City、Kemang、
Energi Building、
Bogor Botani Square、
地方ではMakasarのTrans Studio、
Jogjakarta、
Surabaya Town Square, 
Bandung Supermall、
Balikpapanと続く。一寸この真似はそうは出来ないだろう。 本店の従業員に支店を上げさせたが上記のいくつかしか知らず Keningan Cityは答えに出てこなかった。しかし代わりにこの名刺をくれたが最初からそうしてくれたらよかったのだが。。

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2012年5月 6日 (日)

ガルーダの第1ターミナル

5月5日子供の日でゴールデンウイークも終焉するので、国際便のエアーチケットはガクンと安くなる。
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途中、シルバー団体旅行を見かけたので彼らはGWを避けて旅行するのかも知れないといやな予感がしたが、京成成田空港行き特急も第1ターミナルも割と閑散としている。特にガルーダに今回割り当てられた北ウイングは沢山あるレストランもショップも人待ち顔である。
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そして圧巻はガルーダの乗客も33名だと言う記録的乗客数であった。キャンセル待ちの人も居る訳ないので33人が乗れば飛行機は発車オーライでスケジュールの12:00には機体は既に九十九里浜に寄せる白い波の上であった。順調に飛行してャカルタは定刻30分前到着、普通遅れて出てくる7時ごろにはアパートに付いていた。こんなにも全てが順調・空いていたのはGW明けだけの理由ではないだろう。今年のGWは曇りと雨が続いたが小生が友人とのtokyou下町散策に出掛けた最初の日と今日ジャカルタ行きのGW最後の日のみがカラリと晴れた日であった。
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ガルーダは2012年から国際航空会社のアライアンス・スカイチームのメンバーになったのを機に成田・北ウイングに移動した。スカイチームは世界第二の航空会社デルタ航空を初めとするアライアンスで他に、アエロフロート航空、アエロメヒコ航空、エア・ヨーロッパ航空、エールフランス航空、アリタリア航空、中国南方航空、チェコ航空、ケニア航空、KLM オランダ航空、大韓航空、タロム航空、ベトナム航空の13社である。

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2012年5月 4日 (金)

明神も天神も同格神社

湯島天神が458年創建と言うので雄略天皇の略伝を見たが、それに繋がる様な記述はない。古墳時代に天神様があったかどうかは別に研究しなければならないが 更にそれがここ東京であると言うことが又不思議である。1600年以降の江戸しか知らないからだ。
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そう言えば、この間行った神田明神も案内立札に730年創建と出ていた。
平安時代後期、関東のこの地に桓武平氏の秩父氏が起こり、そこから江戸に繋がる江戸氏が11世紀にこの地に居たと言うから信じた方がいいだろう。改めて歴史の古さに驚く。
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正式には神田神社と言う、昔で言えば府社で明治天皇もお参りしたと言う由緒のある神社である。
2年の1回のお祭りには日本橋、秋葉原、丸の内を含む108町が200基のみこしを繰り出すそうであるが 昔日本橋の本社に勤務していたのに、あまり記憶はない。
神田で飲み歩いた時代、無事でいた事に、今さら感謝をするばかりであった。
湯島天神は湯島天満宮ともいうが、神田明神とも同格の神社である。

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2012年5月 3日 (木)

羽田のガルーダ

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久しぶりに羽田に行った時、インドネシアのモールの雰囲気に浸れ思わず写真を撮った。何も新しいものでもなく、又東京・横浜にはモット大きなきれいなモールがあるのであろうが、千葉方の小生は余り知らない。羽田に行ったのは羽田―デンパサール線がlanchしたからではない。
このニュースは羽田―インドネシアとのみ記載・報道され或いはジャカルタに行けるかもしれないと思い、電話で確かめたらやはりデンパサールであった。ジャカルタ直行はいつからですかと聞いた所、来年には何とかとか言っていたがもとより信じている訳でもないので、検討が始まる程度で思っておけばよい。
ジャカルタへのビジネス・生産活動がデンパサールへの観光・消費に勝つようになれば可能性がありそうと考えると或いはと期待する。羽田からのこの便も機内イミグレ手続きをやってくれると言う。ガルーダのアンケートが以前あったが何故ガルーダを選んだのですかの設問に機内イミグレの答えは用意されていなかった。日本だけの秘密のサービスであるからかもしれない。
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羽田はリムジンバスが便利である。国際線ターミナルもどのターミナルにもステーションはある。成田にもリムジンサービスはあるのかも知らないが羽田なら小生の市川でも30分で快適である。運ちゃんも居眠りする様な時間ではない。
再度標語を!日本が目覚めると羽田―JKT、首都と首都が結ばれて初めてパートナーシップだ。
ガルーダ:3240-6161 リムジン:www.95bus.com

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2012年5月 2日 (水)

130年の二つの病院

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何となく山の上ホテルを訪ねて来たお茶の水近辺は見るべきものが多い。
東京医科歯科大学を正面に向かう道だったか、ニコライ堂を過ぎてからだったと思う。まず、だれかの胸像が玄関脇に建っている佐々木研究所が目に入った。 
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ちゃんと説明文があり、その胸像は佐々木隆興という名前であったが医学の研究者で戦前に帝国学士院恩賜賞を2度も貰いS15年には文化勲章、S26 には文化功労章を得ている。
杏雲堂病院の興隆の学者なのであろうか、病院は既に2001年に120周年を祝っていた。
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そこを過ぎるとふと友人が何かつぶやいたのが井上眼科病院である。こちらも今の病院長の高祖父が井上眼科を始めたというのが130年を前である。
どうも視力の矯正手術であるレーシックなど高い眼科技術で有名のようで全国から患者が訪ねてくる。
薫風の夕刻 ちょっと歩いた間に歴史の重みのある東京を実感した。さすが日本である。

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2012年5月 1日 (火)

二つの湯島

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齢今頃になって湯島聖堂に迷い込んだ。お世話になった神田をしのんで神田明神(これも初めて)をお参りしようと地図を見ると湯島聖堂の裏である。入口に迷い多分裏側からはいったのであろうか、今もって全体が把握できないが、孔子像と大成殿も見たので見落としはないはずだ。入ってすぐは梅が咲き誇った神社の坂道も無く、湯島天神だと思っていた小生は不思議な気持ちがしていたのであるが、孔子像と何人かのお参りする中国人の姿からここは湯島天神と別の湯島であることを知ることになった。地図を見ると此方が湯島3丁目、天神の方が湯島1丁目(どちらも文京区)で同じ町内の様なものだと確認したが、聖堂は当初は大きな敷地(1万6千坪)があったようだ。湯島天神は457年の創建を誇るが聖堂は綱吉公の孔子廟から幕末昌平坂学問所を経て東大への系譜があり、現在学問所があった敷地には東京医科歯科大学となっており、明治期は文部省、国立博物館、つくば大学、お茶の水大学の先代があったそうで日本の教育の発祥の地と言われるそうだ。孔子像は台湾のライオンズクラブの寄贈で世界最高の像であると言う。

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2012年4月30日 (月)

プラボォの狙い HKPIの日

今日はHKTIの日と書き出してアップ忘れて3日、Himpunan Kerukunan Tani Indonesia農民調和協議会と言うのが1973年4月27日に設立されたそうだ。当時の農民団体14団体が集まって会議を開いた日である。スハルト時代に作られたインドネシア独立30年週年記念事業のアルバムにはこのことは書かれていない。当時の歴史背景を見ると1971年に久しぶりだ2回総選挙であるが相手なしのゴルカール圧勝だった後、1973年にはPPP、PDIが成立しているから集約させられたのであろう。今は多分選挙の大きな地盤になると思われ、不釣り合いなPurabowoが会長をしているようだ。1973年の米の作付面積は 8.3百万haで生産が14.7百万であった。未だ需要に追い付かず干ばつもあり輸入米の配給に頼っていた。米は1984年に自給を達成したが又輸入国に陥っている。
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農夫を自称して農作業に励んだ元住宅大臣であり林業大臣も務めたSiswono Judo Husodoも元会長である。写真は彼の本拠の事務所ビル。
今日は又Hari Permasuyarakatan Indonesiaであるそうだが関連は知らない。


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2012年4月29日 (日)

ニコライ堂の鐘

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神田駿河台近辺の散歩で友人が案内してくれた所が通称ニコライ堂と言う教会である。緑青をまとったドームを持つビザンチン式様式で重要文化財でもある。標識板には東京復活大聖堂と出ておりこれがニコライ堂の正式名で日本ハリストス正教会が持っているようだ。関東大震災では大ダメージを受けた後復活したが、復活はイエスキリストの復活である。鹿鳴館時代の建物(1891年築)でロシア人のシチュールポフの設計で監督はコンドル、東京大空襲は免れ、焼け野原の東京の駿河台の丘に建つニコライ堂の姿は都民に大きな力を与えたのであろうか。藤山一郎のニコライの鐘では、「姿変われど 変わらぬ夢を 今日も歌おうか 都の空に あぁニコライの鐘が鳴る」と唄う。ニコライとは1861年ロシア正教会のニコライ司祭(後、大主教)で1861年に日本にギリシャ正教を伝道しにやってきた人である。ハリトリスはキリストの事でギリシャ正教は国別にロシア正教会とか日本正教会などの教派教団がある。だからこの教団はロシア正教と関係はあるが系列ではない。と色々初めて知ることが多い体験となった。

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2012年4月27日 (金)

Franky Wijaya

又 Globe誌にFranky Wijayaの紹介(Mar.2012)があった。彼は現在KADINのアグリ・林漁業・畜産部門の副会頭そしており、気候変動で後進国が軒並み食糧生産に下落している状況下インドネシアのアグリビジネスが世界に貢献すると言う壮大な構想を持っている。
例えば米については現在生産は2.7/haで35百万トンであるが、これを6トン/ha迄引き上げたいとするもので、パームで施行している土地保有の農民と産業界とのパートナーシップ(Plazma)である。
小生の先の紹介記事は「Eka Tjipta Franky Teguh Wijaya」と言うものであったがFrankyはインドネシア大富豪の常に1-3位に顔を出す父親Eka Tjiptaの 5番目位の子息である。多くの妻を持ち、子供たちに色々経験させるためグループ企業に数名を複数で交差する如く配置し頻繁に変更のある役職からはっきりしない部分もあるがグループの幹部は本妻の子供達の以下を推定できる。
Teguh Ganda 1944年生まれ 紙パルプ部門 APP Peking Univ
Indra 1952年 Multiarrtha等金融、保険、証券部門 Nanyang Univ.
Muchtar 1954年 不動産部門 Concordia Univ.(加)
Jafar 1956年 Investment(BUND)、Sinarmas Land カリフォルニア大学バークレー
Franky 1958年 パームオイル部門 青山学院大学
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Frankyはグループの金の生る木を担当しておりグループを引きついでいるのではないかと思われる。
パームのグループトップはシンガポール上場のGAR(Golden Agri Resource) で年間売上$6milm利益13億ドルでその下にインドネシアのSMART TBKを保有、且つ中国オペレーション(精製など)を行っているもので生産中パーム・プランテーションは455,700haで2.5百万トンの生産、製品はFilmaなどがある。(営業報告から) かれはGAR,SMARTの会長で且つSinarMas Landの会長、Duta Pertiwi及びBumi Serpong の副会長でもある。タムリンのシナールマスの高いほうのビルの34階か高いフロアーで仕事している。

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2012年4月25日 (水)

そんなにも大きな宗教団体HKBP

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Cempaka Putih に行くLetjen. Supraptoの通りの左手を見ながら進むと汚い前列の商店列の向こうに異様な教会の尖塔が三つほど見える。何処から見ても商店が邪魔をするので思い切って近くに寄ることにした。
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汚い運河を超えてから左に曲がるのであるが車では行けなくやむなく徒歩で近づいて取ったのがこの写真である。看板に出ている通りHKBPの名前が見える。
これはHuria Kristen Batak Protestantの略でプロテスタント教団の一つでインドネシアではNUとMuhammadiaに次ぐ団体と言うので今まで知らなかった事に驚いた。
教徒は4.5百万でBatakの名前が付いているので生まれはやはりバタックであるが今は別にそれが条件ではない。1824年頃イギリスのバプテスト牧師が布教したとかで1861年が初めて現地人が洗礼を受けた日でタナプリでは Hakaristenonの日と言われ祝っている。
バタック人の世界雄飛もあるのかシンガポールはもとよりKuala Lumpur , Los Angeles , New York , Seattleなどにも教会はある。地区のトップはEphorusと言うが最初にバタック人がなったのは1940年 Siraitさん(さんでいいのかな)で 42-1974は Sihonbin、現在は Bonar Napitupuluさんである。代表的バタックの名前であるので記録を取った。
HKPBはPGIインドネシア教会連合(盟友)に属しているので、宗教団体をPGIでくくればPGIの方が大きいはずだが。。

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2012年4月23日 (月)

今日は プラムディヤ・アナンタ・トゥール

読売新聞のシリーズ 「ちきゅう 時の散歩」と言うのがあり4月20日はインドネシアの大作家 プラムデゥア・アナンタ・トゥール in ブル島と言うものであった。
何故この時期にと関係を探したが出生はジャワのブローラで1925年2月6日、逝去2006年4月30日で4月30日が近い。
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この島はアンボンのマルク等の傍にある大きな島であるが、監獄島としてスハルトが共産党関係者を追放した島として有名である。スハルトが権力を握る切っ掛けとなった1965年9月30日事件で共産党は禁止され、プラムディアもその嫌疑で連れてこられたもので1969年から1979年まで11年間 ここで生活を強いられた。プラムディアはその前もオランダにより拘禁2年、スカルノ時代の1年及びブル島送り前ヌサカンバンでの3年と獄に繋がれたため都合17年年間も、自由を奪われ、釈放された時はもう54歳であった。彼の代表作はブル島4部作と言われる以下の4つがある。
『人間の大地 上・下 Bumi Manusia 』
『すべての民族の子 上・下 Anak Semua Bangsa 』
『足跡 Jejak Langkah 』
『ガラスの家 Rumah Kaca 』
(4部作全て、押川典昭教授の20年間の努力により邦訳されめこん社が出版している)

これらはオランダ統治に対する住民の戦いを題材として、スハルト政権をなぞり、ブル島で書かれたが、参照するデータも無く記憶だけ或いは獄中の仲間の話だけで書いたもので、獄中の仲間はこれら小説を語り聞かされることが楽しみで生きる生命とした。
押川教授によるとブル島での強制労働を一種のスポーツとしてとらえ、この生活が無ければもっと早く死んでいたであろうと述懐したそうであるが、この4部作は出版(80年以降)後直ぐ発禁処分となり、釈放後も監視下に置かれETコードが身分証明書に押印された生活で、1989には回し読みした大学生3人が逮捕されたりもしている。

読売新聞はブル島収容された14,000人の中には、行き先も失いそのまま住み続けた人も居るが「既に高齢であり歴史を語り継ぐのに残された時間は短い」と結んでいる。
アナンタ・トゥールの波乱の人生そのものから多くを学ぶことが出来るだろうし何よりもこの人より他にノーベル賞を貰う人はいまいと思うのであるが。。
写真は読売新聞から。政治犯の上陸したナムレア港。 バリ島より少し大きい島であるがGoogle Mapでは何も書きこまれてない島であった。

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2012年4月22日 (日)

RRIと先代Niromの時代

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ムルデカバラットにもいくつかの史蹟がある。国立博物館とかKESERA国民福祉調整大臣府が代表であるが KESRAと憲法裁判所の間にあるRRIも歴史がある。但し元のNIROMのレンガ一つ残ってないのは残念だ。NIROMと言うのはオランダ時代の政府放送局であり、現在のRRIは日本のNHKに相当するがTV放送はTVRIに任せラジオ放送に従事している。広大なインドネシアをカバーするにはラジオステーション数で205に及ぶ機関を持って従事する必要があるのである。
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NiromはNederlands-Indische Radio Omroep Maatschappiの省略であるが、実はインドネシアの最初のラジオは16 Juni 1925に設立されたバタビア放送協会BRVでホテルデスインデスにより放送された。その後ジョクジャのMavro、ソロのSRV、BanndungのVoroとか多くの民間ラジオ局がジャワの各市で設立されたがその一つがNiromである。Niromは1928年に設立されジャワ全土をカバーする計画であったが技術が追いつかなかった。1934年になって初めて3月31日から広い地域に放送を流すことが出来た。そして一番大きな放送局として政府の支援も受け電話事業も行った。1937年ラジオ連盟PPPKが会長Sutarjo Kaartohadikusumoの下に設立された。
Niromは当時のミュージックグループLief Javaの流行に一役買ったこともあるが、彼らの許しも無くIslnder The Sweet Javaの曲を毎日流したためIswmail Marzuki と彼の友人たちはNiromを離れた。1942年に日本が占領した時はラジオ放送局と改名されたがNiromの最後の声は"Tot betere tijdenより良い時が来るまで“と言うものであった。閉鎖後もオランダの歌を放送したNiromの3人のオランダ人いたがこれらは日本軍により死刑に処せられたと言う。

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2012年4月20日 (金)

日本にも生きていたトゥラン・ブーラン

ブログ「現代インドンネシア事情」によるとアピログ(http://www.api-magazine.com/)4月17日付「編集部発!インドネシア最新情報」で昨日の小生のブログのTerang Bulanと同じ名前のガムラン・グループ等の舞踊と音楽のライブ、癒しのバリ島イベント『ぜんまい仕掛けの空』が開催されるそうだ。
日時は4月22日
場所は東京・池袋の鈴ん小屋(りんごや)
演出・出演:櫻田素子さん率いるガムラングループTerang Bulanとバリ舞踊家『荒内琴江』、音楽家『佐野篤』による舞踊と音楽のライブ、
このグループの名前のterang Bulanに戻ると、これはインドネシア生まれなのだろうか。
インドネシア映画協会の会長であったMisbach Yusa Biran氏によるとこの歌はジャカルタ・トゥグ地区に移民したポルトガル人の子孫から生まれたクロンチョンのリズムをもつスタブル音楽の一種だそうだ。
マレー半島でも大流行したこの歌はマレーシアが独立した1957年にマレーシアの国歌となったそうで、両国の懸案の事項となってが現在は隣人マレーシア国歌を尊敬しインドネシアでは謳う事が禁止されているようだ。
原曲の歌詞は以下の通り
Terang Bulan Terang Di kali
Buaya Nimbul Disangka Mati
Jangan Percaya Mulut Lelaki
Berani Sumpah Tapi Takut Mati
この歌は一風幻想的であるが、大本はあるフランス人が19世紀に作りSeychellesセイシェール島で流行っていたのがマレーシアに上陸し、1901年エドワードVII戴冠式の際にペラ土侯国の国歌として発表されたと。オランダバージョンもあるそうだ。マレーシア国歌はこの通りの歌詞ではあるまい。
小生も若い時歌声喫茶で謳っていたが、その理由が解った。それは1954年に日本で雪村いずみ主演で同名の映画が作られこの歌がヒットしたとのこと、さすがRoekiahが日本軍兵士からクロンチョンの名花と騒がれただけあり、ブンガワンソロと同じ様に日本に持ち帰られたのである。

詳しいいきさつなど知りたい方はご一報を、度欲おじさんやLagu2 会の掲示板の松田さん、よしさんのコメントがあります。


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2012年4月19日 (木)

Turang Bulan 誰がRoekiahを殺したか

昨日のTerangであるが、3月30日の「インドネシア映画の日」で忘れてならないのは1937年の「Terang Boelan」という映画である。有名な割に、調べて知るほどにインドネシアとの関係が薄くなるのをこらえながら主演女優のRoekiahに迫ってみたが真実はおぼろげであった。
監督はAlbert Balinki(オランダ人 Sumatra Postの記者)でシナリオSaeroenである。シンガポールのRKOがフイルムを購入しマレー半島で上演された。
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主演はMoch MochtarとRoekiahでこのフイルムで彼女は今マレーシアの「我が祖国」と言う国歌になってしまったTerang Bulanの歌を歌うのである。映画社はTan‘s Filmに属していた。映画が人気が出るに従いこの歌はマレーで有名になり民衆の歌となった。
インドネシアではポルトガルの末裔が歌うクロンチョンを源流とし1900年代のスラバヤでスタンブール・オペラを通してこのリズムは生まれたとしている。 イスタンブールを語源とするスタンブルはその後トニルに代わったがこれはオランダ語であったので日本占領軍はこれをサンディワラ(劇)と言うインドネシア語に変えた。
この歌がインドネシアに来てLive of Jawaオーケストラで、Ismail Marzukiに謳われると大変有名となった。
ルキアは1930年代の言わばアイドルで最初の映画スター(Bintang Pilem)或いはセレブでMIssと呼ばれたが彼女は既にKartolo と言う俳優と結婚していた。
彼女は1916年劇団巡業中のチレボンで生まれ、16歳でパレスチナグループでクロンチョンを謳いここでミュージシャンのKartoloと知り合い1934年に結婚した。その後Farokaグループでシンガポールに渡った。映画Terang Bulanはハワイを模したSawoba島を舞台にした花とギターの物語である。日本占領時代は日本軍慰問にも出掛け月明りの女優と慕われたそうである。
その後モデルやBataのサンダルやシンガーミシンの広告のモデルとなった時代もある。
子供はRachmat Kartoloと言う歌手になり、1980年代に俳優となったが、彼女自身は1945年28歳で亡くなった。 どうして亡くなったのかの秘密もあるはずだが、彼女の遠くを見つめる甘い瞳に引かれ残念でならないが、だが生きていても今は96歳の老婆である。それでもいいかもしれない。
詳しくは佐々木名誉教授のブログで紹介あった猪俣良樹『日本占領下インドネシア 旅芸人の記録』(めこん, 1996) 参照.特に「だれがルキアを殺したか」P244」を読むといいようだ。

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2012年4月18日 (水)

eとu、 rとl

インドネシア語を学びたての最初に発音をいい加減にすると永久に正しく綴れなくなる。
タイトルの二つが綴りに入るともうだめである。似たような単語があるから更に困る。eはオに近いエだがエに近く発音した方が間違わないかも知れない。小生はずっとテリマカシと発音してきた。(汗)
1) terang:明るい tulangは骨
発音はトゥランであるがKeterangan(説明)となるとeに近いと思う。
2) suruh:命ずる よく使うのに間違うと大変
suru:恋する
sulu:これはなし
suluh:灯火 トーチ
seru:叫んだ
seruh:これはなし
seluh:これもなし
selu::これもなし
3) terus:ずっと、続けて 
telus:これはなし だが
telusur:検索  これはあり、
tulus:誠実な (ketulusan hati 正直)
turus:利害関係?(あまり使わないか)
tulis:書く
turun:降りる
terung;茄子(terong)
turut:従う 参加する(menurut~によると)
4) keliru:間違う keliling 周囲
5) kurir:宅急便 kuliah講義
kurirの方は英語日本語も間違い安い courierでクーリエと読むのか、インドネシア語読みののクリルはインドネシアだけで上のケリルと間違うか
と、列挙すれば、いくらでもありそうだ。 

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2012年4月17日 (火)

昨日はKopassusの日

2009年の「昨日はコパススの日」としたブログを書いたが、小生のクロニクル・カレンダーで1852年というミスを発見し急ぎ訂正を必要として又同じ題となった。この年は先に言うと1952年で意外と昔で、RMSの反乱の時シリワンギ師団で特殊部隊として発足したので兄貴分の戦略予備軍KOSTRADの1961年(西イリアン闘争中)より早い。Kopassusは陸軍の特殊部隊、Kostradは国軍の戦略部隊。
従い今年は60周年であったのである。ジャカルタのCijantungにKopassusのKomplekがあり、Gedung Balai Komandoでは式典が行われた。現在の司令官はMaj Gen Vishnu Bawa Tenayaの挨拶の後は元司令官で現役の政治家Agum Gemlarが赤ベレー部隊の名前と誇りを守れと発破を掛けていた。
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何時かこの軍司令本部の写真を取りたいと思っていたが、果たせず何とこの3年機会が無かった事になる。仕方ないので今日はgoogleから借用。
Cijantungはゴルフ場エメラルダの北にあたる。エメラルダにはもう10年以上も行ってない。土曜日曜のプレーには170万ルピア以上かかるようで、現在の小生の土日ハーフプレーの10倍となる。行かないはずだ。

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7回忌の桜

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4月中旬も真ん中の15日、桜も消え去った九州に戻った。母の7回忌である。福岡は25度にもなる真夏並みの天候であったが、耳納山脈の百年公園には未だ桜が満開であった。
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八重桜の花はびっしりと花弁まいており、しだれ桜は地上まで枝を垂れ中に入ると花のカーテンである。お坊様の説教はこうして法要があるから念仏を唱え、合掌する機会にもなった訳でお先祖様から逆に供養されているのだと念仏の1行一句も出来ない小生は諭された。供養とは人が共に養うという意味でもあるのだ。帰って開いたおかもん先生の説教は所謂3輪空で布施とか人への善意にも 誰が誰に何をと言う事を忘れないといけないとのメールであった。
高齢者になると、あれこれとやりたがる癖に3輪を忘れられないことも多い。或いは昔のことまで思い出すが逆にもらう側になると空になれない。のではなかろうか。

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