2009年12月25日 (金)

元保険大臣の収賄事件経緯

元保険大臣Sujudiが収賄事件で国家に1045億の損害を与え20年の刑に訴えられているニュースがあった。容易に想像できるケースであるが一つの典型であるのでニュースを詳細紹介する。2003年~2004年時代の事であるので、メガワティ・ゴトン・ロヨン内閣時代である。
被告Achmad SujudiはPT.Kimia Farmaの社長Gunawa  PranotoとPT RifaJaya Muliaの役員のRinaldi Yusufと保健省の2003年~2004年度設備調達計画にかかわり汚職スキームに参画したと検察官Muhibuddinは汚職裁判所で木曜日起訴状を読み上げた。2003年、被告は直接国営製薬会社PT Kimia Farma を東部インドネシア及びインドネシア赤十字関連設備調達プログラムのサプライヤとして指名した。現在の法律でよればその調達プロジェクトは入札によることが必要である。会社は更にそれのパートナーとしてPT Rifa Jaya Muliaを指名、2003年10月、GunawanとRinaldiは彼らが供給する設備の価格を決定した。価格は総額1,939.7億でここには価格のマークアップを含んでいる。この価格は保健省の関連職員との交渉の過程で1,904億迄値引きされた。グナワンとリナルディはこれを4つの会社に下請けにだした。これらの会社はPT Berca Indonesia、PT Prima Semesta Internusa、PT Arun Prakarsa Indonesia及び PT Penta Valentである。PT. Rifa Jaya Muliaはこの違法なマークアップにより283億ルピアの所得を得ており、PT Berca Indonesiaは54億ルピア、PT Prima Semesta Internusaは66億ルピア、PT Penta Valentが91百万ルピア
を受け取り、グナワンは又2億ルピアを被告に与え、一方リナルディも5億ルピアを与えている。更にグナワンは25百万ルピアから7億ルピアの間の金額を保健省の職員幹部に与えた。保健省へのグナワンのトータルキックバックは83億に達した。グナワンもリナルディも別法廷で同じく20年の刑期で起訴されている。
クリスマスには話題として沿わないが。。

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2009年12月23日 (水)

豪華なバタビア・マリーナでクリスマス

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スンダクラパの灯台でも写真に撮ろうとウロウロ、ペニシ船の所、直前で右に回り、行きついた所に豪華な建物があり、びっくりした。名前はMarina Bataviaである。ここは海洋観光の拠点として、マリーナ、スンダクラパクルーズ、潜水遊覧、浮きプール、ワインバー、ビリヤード・プール、ビアガーデン、ウエディングボール、中華・日式レストラン等々を兼ねそろえている。華人のHeru Pramono氏の経営でゆったりさせてくれる。サンセットクルーズはRp389,000、クリスマス 宝探しの昼夜ビュッフェがRp350,000である。Aaancol_kemayoran_026
所がここに行く道はローダン通りでいつも左側に住宅コンプレックスでもあるのかと通り越していたところの奥であった。2002年に建設し本年グランドオープンしたばかりである。泊まれるのはメンバーのようだから近くのバタビアホテルを利用すれば、バタビア・ナイトを飛行場から30分で楽しめる事になる。
正式にはBatavia Sunda Kelapa Marina、Jl.Baruna RayaNO.9,Tel:691-5599である。

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2009年12月22日 (火)

航空手荷物のサイズ検査

12月から航空手荷物のサイズの制限が厳格実施されると聞いていた。念の為記録していたサイズは、縦、横、奥行きが55cm、40cm、25cm、合計では115cm重量は10kgである。破棄させられる可能性もあると思って準備しながら出掛けたが、スカルノ・ハッタでも香港でも何もなかった。ジャカルタではtotalの重量も測らずに、チェックリボン迄掛けてくれた。香港でも肩掛けバックを出して二つの機内手荷物にして見せたが、特に何もなかった。周りを見ても何か注意を受けているものも見かけず、なんとなく皆が自粛しているのだなと感じるのみであった。あとでインターネットを見ると厳格適用だと脅しているのは日本の航空会社の特に国内のようだ。上記制限はJALの国際線である。他の航空会社を見ると、元々この制限はありむしろ他国の方が小さい。
CX では  56x36x23 でエコノミー7kg
ML では  56x36x23 で5kg
GA では3辺の和が115で7kg
SQ では同上、但しカリーバックは55x40x20である。
破棄することもないが、預けとなるので普通重量制限を超えるので超過料金がかかると
言う事である。 序に又香港空港の問題を書くと、前回止まっていたtravelator動く歩道は今回は二つが同じ方向に、こちらに向かって逆行していたのには驚いた。

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2009年12月20日 (日)

忘れられていた本人ブントモ

11月10日は1945年スラバヤに上陸する英国軍と独立か死かと戦った日で英雄の日とされ、毎年国家英雄他が叙勲され大統領がカリバタ英雄墓地に献花する。その戦いに先頭に立って戦ったのがブントモこと、Sutomo である。今年であれから64年強、国家英雄の最初の叙勲が1959年故、それからも50年、ブントモが亡くなってからも30年弱、毎年ブントモを思い起こしながら国家英雄に叙勲するのを長く忘れていたのだ。以前からリストを作りながら不思議がっていたのであるが、昨日本屋のグラメデディアで「国家英雄143」と言うのを見てやっと2008年に国家英雄になっていた事を知った。
国家英雄は国家官房Setnegの所管であるが、完ぺきなリストもない。小生が作ったのが148か149人である。一人不明者がある。生年・没年、叙勲年など本により色々ある。他に目を引く(納得を含め)のは、タンマラカ、アダムマリク、チエン夫人か、スハルト自身はまだである。スカルノの右腕だった人は多くはいない。


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2009年12月18日 (金)

Tugu クロンチョンモリツコの故郷は?

クロンチョンの原曲はマイダイケルの中で生まれたKroncong Moritskoと言われる。一行で書くとこのようになろうか 多分間違いかもしれない。クロンチョンの大家である庵原さんからメールをいただいた。Aagreja_tugu_nov06_025
クロンチョン発祥の地トゥグ村の村主はクイーコ家であるが、3代目のサムエル氏も亡くなり、「息子Guidが街から帰って継いだらしく中央に汚染された演奏だった」ようで、嘆いておられる。「トゥグ村でMoritskoの由来を知る人はなくMorescoムーア人の歌」と混同されているとのことである。ポルトガルの歌曲のファドがクロンチョンの上流にあるが、氏はクイーコ家が保存するファドにも
通暁しており又Kg.Moritskoは「Kroncongではなく父祖の歌を」とサミュエルが吟じたテープを大切に保存しているそうである。氏は現在蒐集の膨大な音源を整理しておられるが、出来上がり公にされる事を祈念してやまない。氏に断りもなくいくつもの要点を借用した。

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2009年12月17日 (木)

Tugu Panturaとは 北海岸物語

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北のVOC Cafeの裏、チリウン河沿いに記念碑がある。昔造船所があったところでチリウン河の対岸がバタビア城であった。そちらはパール砦であったが、ここから大砲が向けられていたこの地にはバンタン国のこの地の領主ウイジャヤカルタの領地で彼も砦を築き、又対抗上許したイギリスもここに砦を築いていた。ウイジャヤカルタ王の宮殿そのものはそこより数百メートル南の現在のジャラン・コピの辺りにあった。1996年に高速が建設された同時期にこの地のreclamation(干拓工事)とBulwarks(防波堤)建設が行われたがそれを記念したモニュメントである。物の本にはTugu Panturaと名図けられているがPanturaとはPartai Utaraの造語で北海岸の意味になる。
恨まれることもないと思うに何故かひどい落書きが施されており、碑文も写真に撮ったが判読できなかった。

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2009年12月16日 (水)

バチカン大使館の不思議

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モナスの周辺地は政府機関しか立地出来ないルールがある中、実際には米国大使館とバチカン大使館が所在している。昔は日本大使館もあったのであるから、あの条例が出来る前の特権になっているのであろう。
看板にはAPOSTOLIC NUNCIATURE Kedutaan Besar Takhta Suciラテン語は調べてないが聖地大使館とある。
イスラム大国にカトリックのバチカン大使館がそれもモナスにあるとはすごいが、バチカンはバチカンで国民800人ながら世界179ケ国に大使館を保有するという。これもすごいことである。
ムルデカ東のPLN本社の隣であり、厳重なコンクリートと鉄の建物自体は何の変哲もない。バチカン市国はローマ市内にあるカトリック教皇庁で世界最小の主権国家である。デズニーランドに満たない面積に800人強の市民が住むがパスポートはなくまた職員も入れると3,000人強になるが居住権が国籍みたいなものであるものの国外(イタリヤ・スイス等)に住んで通勤するものも多い。元の国籍は保持しているのが普通である。イタリア王国との和解で国家として認め警察軍や多くの点で協力するこの関係を作ったのは独裁者と言われたムッソリニーの1929年の功績らしい。

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2009年12月14日 (月)

国立博物館の無頓着

2け月振りに行ってみた。前回は博物館の奥の[建築]の部がリノベーションだったが今回もまだ終わってなく閉まっていた。
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陶磁器の部は大分前にリノベーションして、その記念のプレートが飾ってある。それによると当時の大企業からの献金で出来たようで顔ぶれはTiratamas Majutama、Texmaco、Tri Polyta、Merrill Lynchで、文部観光大臣のProf.Dr.Ing.Wardiman Djojonegoroが1997年4月24日に署名したものであった。良き時代の最後の時期である。相当な金なのだろうが、出来栄えはこの程度である。
左側の棟は前回も閉まっていたが今回も閉まっていた。こちらもリノベーションを待っているのであろうか。
何かの案内に閉館がいやに早く書いてあったが実際は16時或いは17時のようで、又入場料はRp750のはずであるが、余りに安いので誰も払おうとせず又受け取りの係もいない。本はないかと尋ねると3人が寄ってきてそれぞれ自分のロッカーから出してくる。2階は宝飾品の部で昔は別の料金が必要であり厳重に警護されていたが。この日はだれも居なかった。昔有名な盗賊Kusni Kasdutに宝石類を盗まれたことが忘れられている。ちゃんと館長(Dra. Retno Sulistianingsih Sitowati, MM)はいるが、インドネシアらしい大らかさが良い所であろうか。

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2009年12月13日 (日)

バタヴィア東倉庫も現存する。

急ぎ修正する必要がある。現在の海洋博物館が17世紀の西倉庫とすれば、
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バタビア城の東にも東倉庫があったが、これが現存する事が解ったのである。だいたいの位置は解っていたので何度もそこにアクセスしたがそこは軍が保有する土地になっており、また大きなトラックや重機が密集し、通れる空き地は水没していた為、もうないものと諦めていたのである。(ついこの間の9月1日のブログ「小麦倉庫 Gudang Gandum(Graanpakhuizen)の現在」)  先週、毎週ゴルフに行く時に通る高速の上から何気なく眺めていたときにこの倉庫が目に飛び込んできた。斜めに位置する残像からこれはひょっとすると東倉庫かもしれないと、金曜日抜け出して又見に行って来た。しかしそこに行く道は大渋滞であきらめざるを得ず、結局は又高速から写真を撮っただけで、戻ってきたがHeuken氏の写真と同じ作りであることから、これこそ東倉庫だと確信している。彼によると東倉庫は4連棟であったが古い方の2連棟は1995年の高速建設で壊され、現在は1棟のみが残っている。破壊された方が1639年建築であったのでこれが現存最古の倉庫であったが、現在は海洋博物館を最古とした。

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2009年12月11日 (金)

11月度投資環境関連ニュース


11月
* 投資・拡張の資本財原料の輸入税免除措置 高架は限定的か」
* Pertamina、来年の資本増強計画42億ドル、2017年までに1百万バーレル。
* 大阪ガス、石油資源開発、ジャパンエナジー石油開発、LNGジャパン、サンガサンガ・コールベッドメタン(CMB、炭層メタンガス)鉱区(東カリマンタン)共同落札。
* 日野、30億円でトラック工場建設か 25,000台/年。
* 汚職撲滅委収賄捏造問題:捏造加担容疑の国家警察掲示局長が解任される。
* スンダ海峡大橋いよいよ着手か、新公共事業相100日計画に入る。
* 電力不足問題で閣議。政府は電力不足問題に30兆ルピアの資金準備の方針
* イスラムのMUI、ハリウッド映画禁止を訴え “2012年”。
* 国内エイズ感染者が増加、2004年の2,684人から17,699人に増えたと保健省。
* 今年の自動車販売は45万-48万台と業者協会予測。来年は55万台との見込みも。
* 首都要所で排ガス検査開始。検査合格証がないと駐車できない場所もできる。

10月
* 無印良品、首都プラザ・インドネシア・エクステンションにオープン。国内初。
* 収賄容疑の汚職撲滅委副委員長2人逮捕となる。容疑捏造の疑い
* 民主、民族覚醒、福祉正義、開発統一、国民信託(PAN)の5党が第2次ユドヨノ政権サポート
* 2期目のSBYが大統領就任。
* 土地建物税率0.5%から0.3%に引き下げ:新地方税法。土地建物税の徴収権は地方政府に移管
* 今年の経済成長率4-4.5%:国家開発企画庁長官。中銀も0.5%引き上げ、本年4.5%、来年5.5%
* 首都空港に続く鉄道建設計画、アジア開銀の資金支援待ちと運輸省鉄道総局長
* 首都同時爆弾テロの自爆テロ調達員兄弟を銃殺。バリ爆弾テロから7年。002年のバリ・テロからは累計466人を逮捕、うち14人は 銃殺と国家警察。
* ジャカルタ日本祭開幕、11日まで。モナス広場で

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2009年12月10日 (木)

バタビア北の見張りポスト

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旧パッサールイカンがまだ海と隔たっていた時代の写真である。最初は造船所の方からスンダクラパのLookoutTowerを望んでいる写真だと思ったが、解説でこれはパッサールイカン側から現在の海洋博物館Bahari)を望んでいる事が解った。この当時はこの博物館はWestzijdse Pakhuisen(西倉庫)と呼ばれたバタビアで一番古い倉庫であった。建てられたのは1652年、特にスパイス用の倉庫であった。Aalingkar_batavia_jun_609_034
現在までこの倉庫が耐えられた
のは17世紀、18世紀に何度も修理されたからで、さらに海洋博物館になったのはやはりアリサディキン市長時代の1977年である。この壁がバタビア城壁都市の北壁でそれにくっついているのが見張りポストである。


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2009年12月 9日 (水)

全国宮殿とスカルノ墓所

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宮殿と言えばIstana MerdekaであるがIstanaと付いた宮殿は全国各地にある。いくつかあげると
Istana Negara:State Palace:Istana Merdekaの裏手

Istana Wakil Presiden副大統領府
Istana Bogor:ボゴール宮殿
Istana Cipanas:チパナス宮殿
Istana Tampaksiring:バリのタンパクシリン宮殿 以下は各地の土侯国の宮殿の例である。
Istana Maimun :メダンのスルタン宮殿
Istana Pagaruyung:ミナンカバウの元宮殿、現在博物館
Istana Siak:リアウのシャク宮殿
Istana Palembang Darussalam:パレンバング
Istana Amantubillah Mempawah:西カリマンタン
Istana Alwatzkubillah:西カリマンタン
Istana Luwu:中央スラウエシ
Istana Walio:東南スラウエシのブトン
Istana Saoraja:南スラウエシのボネ
Istana Balla Lompoa:Gowa
ジョグジャにあるのは特にIstanaとはいわないようであるがGedung Agungである。又ジョグジャカルタ候やジャワのスルタンはKratonやPuroである。
Kraton Ngayogyakarta Hadiningrat:ジョクジャカルタ
Kraton Surakarta Hadiningrat:スラカルタのススフナン
Puro Mangkunegaran:スラカルタのマンクネガラ
Kraton Kasepuhan:チレボン
Kraton Sumenep :マドゥラ
写真はボゴールのIstana Batu Tulisで、スカルノの個人の別荘である。この門前に伝説のバトゥトゥリスがあり、多くの人の祈祷が続いている聖跡である。ここを家族ともどもスカルノの墓所として願ったが叶わなかった。

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2009年12月 8日 (火)

スカルノの霊柩馬車

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プラサスティ公園に飾ってあるスカルノ・ハッタの棺については既に記したが同じ葬儀用の設備として霊柩車も飾ってある。これもてっきりスカルノさんのものかと思ったが、そうではないらしい。ここは公園になる1977年までは
霊園であったのであるが、多くのオランダ人はファタヒラーの病院(現在のBI博物館)で亡くなったようで、そこからは小舟にのぜられ、クルクット河を上流しここKebon Jahe Koberまで運ばれて来たが、その近い地点のTanah Bang 1からはこの霊柩車が使われた。2匹から4匹の馬が引いたが亡くなった人のステータスで馬の数が多かったそうである。そういう時代背景は19世紀の様であるが、それにしてもこの霊柩馬車は新しく見えたのでスカルノと結びついたのである。

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2009年12月 7日 (月)

消えゆくかアールデコ住宅

ジャカルタには珍しいアールデコの住宅を発見した。似たようなものはあるかもしれないが、これはほんものらしい。ジャカルタはモナスノ東のムルデカチムールのイマニュエル教会の道を隔てた隣である。Kantor Notaris Sidharta.Gautamaである。ここはホテル・ボロブドールから宗教省やカントール・ポスのうっそうとした木々を見ながら急ぎ右折するので気が付かない。更にムルデカ・チムールに面した玄関の幅は数メートルで両サイドに屋台が並んで車がやっと1台入れる幅である。この事務所はもうすでに廃墟となっており、両サイドの屋台も印紙屋とか代筆屋などもいたのであろうがもう誰もいない。Aa2009_1101_142215dsc08840
小生は昔ここに現地パートナーと来たことがある。土地売買だったか多分ジョイントベンチャー設立だったのであろう。うっすらとした記憶である。入口付近に看板が残っておりそれにはProf.Mr.Dr. S. Gautama & Associatesとなっておりその下に Teugeh LongdongとかKomala Lurmanauなどメンバーが14人も集まっていた。1階建で大きな建物ではないので忙しい風景であったろう。
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アールデコと言うのは右端の出窓形式が曲線を描いたその1点のみであるが写真では見え憎い。横のPejambon通りからの写真にはかろうじて屋根当たりの曲線が見える。この土地建物はイマニュエル教会のものであったが、両者を分けるPejanbon通りが2車線に分かれた時にだいぶ土地を供出され現在の姿になったようである。Kantor Notarisはこの小さな建物の正面を使い裏はMaramis家が使っていた時代もある。
Gautamaさんは多分2000年を超えてここにいたはずであるが、いまはどうされていることやら、気になることである。

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2009年12月 6日 (日)

改正付加価値税法 と 改訂 個人所得税源泉徴収ガイド

インドマルコ社では最近改訂を見た以下の法令の翻訳書を販売している。
一つは
2009年法律第42号の 改訂付加価値税法で本文と逐条注解で全41頁 Rp400,000である。
あと一つは
2009年改訂従業員等所得税源泉徴収計算ガイドで全43頁+邦訳申告書7頁で Rp450,000である。
日本からでも日本国内円送金で入手できるので申し込みを待っています。
連絡はTEL061-21-570-9768、FAX 同ー9769
E-Mail k2433@attglobal.net、或いは risa@indomalco.com(兼松)までどうぞ

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2009年12月 4日 (金)

スタン・タクディル・アリシャバナの一生

「インドネシアを変えた100人」の一人である。彼は単に新しい文化(Poedjangga Baru)を創刊したばかりでなく、彼はインドネシア語を近代語に変えた民族の文化の基礎とした人である。「Tata BahasaBaruBahasa Indonesia」は全ての学校の教材となった。日本時代、日本軍が作ったインドネシア語協会で研究に没頭400,000語に及ぶ言葉の蒐集を行った。1908年2月11日タパヌリのナタール生まれであるが父はArbiのスルタンと任じられたジャワのアリシャバナのラーデンである。指が4本しかなかったためTakdir運命と呼ばれた。17歳にしてオランダ語の作品「農夫の手紙」を書いている。出版社 Pandji Pustakaに勤める傍ら1929年から1941年までに多くの小説を残している。バンドンで高等教育、その後バタビアでBalai Pustakaで職を得ている。Bandungと故郷との行き来の中から着想した「Layar terkembang帆を上げて」(1937年)は有名である。1933年には「新しい文芸運動」をArmijn PaneやAmir Hamzah、Husein Djajaningrat、Maria Ulfah Santoso、Sumanang、Purwadamintaなど約20名で新しい文芸運動を起こしている。彼にとって文化とは科学、技術、宗教の総合したものであった。その後も各大学での教育活動、文筆活動は枚挙にいとまがない。1980年には日本でも紹介された「Kalah dan Menang敗北と勝利」を発表している。これは日本占領期を冷ややかに見つめた彼自身の目で綴ったものである。彼は長くUniv.Nasionalの学長であった。彼は1995(94?)年7月17日に86歳で亡くなった。UIやペナンのSains Univの名誉博士号、日本の瑞光重光章を与えられている。


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2009年12月 2日 (水)

ここにもあるガジャ・マダ像

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ムルデカチムールの昔のフンプス・ビルの並びに小さなガジャ・マダの像が立っている。この敷地に建つ2階建ての建物自体がGedung Gajah Madaと大書されている。軍事警察関連の建物のようだ。PUSPOMADつまりPusat Polisi Militer Angkatan Darat陸軍憲兵本部かもしれない。中に入って写真を取ろうとしたら誰何されたので逃げ出したことがある。むやみに近づかないことだ。ガジャ・マダ像はこの写真の左側隅にあるが見えにくい。Gedung Gajah MadaはスラバヤにもあるがそちらはKOAMATIM東部艦隊司令官の建物のようだ。

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2009年12月 1日 (火)

Tirtamas Comexindoとは

2009年のGlobe Asiaで過ってのインドネシア若き星Hashim Djojohadikusumoが10位で入っている。兄のPrabowo自身も大統領選挙では金は豊富であったが弟の後ろだてがあったからでもあろうか。
彼はスハルト失脚後、IBRAから自分の殆どの企業を抑えられスイスに逃亡していたのであるが、いつどこで入手したのか大金を掴んで帰って来た。1956年生まれ父や祖父も輝ける銀行家・経済学者であるSumitoro 及び Margono Djojohadikusumoである。彼のTirtamas グループ(或いはEra Persadaグループ)の最盛期にはセメントチビノン(元小野田、元Holcim)、ペトロケミカル、発電、パームオイル、銀行はNiagaを筆頭にPelita,Industri,Papan Sejahteraなど数行もっていた。持ち株会社はTirtamas Comexindoである。 NiagaはJulius Tahijaから取得したばかりで1997年の金融危機に遭遇した。彼が復帰したのは保有のカザフスタン石油鉱区を中国のCITICに売却、11億ドル掴んだ後である。Prabowoが持っていた元ボブハッサンの製紙会社Kiani Kertasの負債1兆ルピアを完済しシェア5割を入手、又Nation Petroleumを設立パプアのオイル・ガス鉱区を抑えた。
又過っての彼のツバン・ペトロケミカル・プロジェクトの30%を持っているがいまだ始動を抑えられている。
Comexindoなどベトナムやロシアにも同じ名前がある。秘密防衛たるメディア回避策でこの程度しか解からない。

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2009年11月30日 (月)

アンチョールがFree Fall

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アンチョール・ドリームランドは来年動き出す。保有のPT Pembangunan Jaya Ancolの社長Budi Karya Sumadi氏は来年計画している社債の使途について大投資を行うことを発表した。投資規模は5,200億ルピア、特にゲーム機器の設置とアミューズメント・ショーが目玉のようだ。
ドリームランド・ジャヤ・アンチョールは三つのテーマパークを持っている、すなわちドゥニア・ファンタジー(DUFAN)、Gelanggang Samudera oceanarium及びAtlantis Water Adventure water parkである。
来年他のセグメントを加えたいとして、それはドイツから輸入するFree Fallを含んでいる。またBalada Kera(動物人形のオペレッタ劇場)も伝統文化を加えたコンセプトに衣替えする。
同社は売上が年間, 7,800億規模であるが内この観光部門で8割を占めの残りがリアルエステートである。

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2009年11月28日 (土)

消えたノスタルジー:チキニのトリオ

前回帰国の1日前、チキニの日本料理店 菊川に寄った。会社を出たのが9時過ぎでなんとなく足が向いたのであるが、閉店直前ながら日本人の3人の昔話が長引いいており小生も夕食にあり付けた。Aa2009_1127_193927dsc09007
この菊川の前を出て高架鉄道の前を右に曲がるとそこににぎやかなローカルのレストランがある。この前ここに来てみたが、実はここに昔古いレストランがあったはずだとおもったからであるが、又そのあとここに付いて書いた書きものに出会った。コンパスの記事で西先輩が翻訳したものでそれでこれが確かに向かいのレストランのArt&Curioである事がわかった。 この記事ではトリオという名前の店もあったような事が書いてあり、昨日再度訪れてみたのであるが、それは又の名前で同じものである。多分隣で骨董品店を兼営していたのだろう。昔行った時の記憶では竹で編んだ壁で仕切った内装で食べたのは堅いステーキを鉄皿にカルトッフェルプレーで淵取りがしてあったと思う。その書きものの一部を引用すると
「1970年代、このレストランの客は野天の庭に置かれたテーブルで食事ができた。テーブルの上には、ろうそくや小さいランプのほの暗い灯りと、小さい花瓶に挿された一輪のばらが置かれていた。「ほとんど完璧なキャンドルライト・ディナー。ときどき電車の轟音付きだったわね。」チキニの鉄道線路からあまり遠くないレストランの昔をかの女は述懐する。
レストラン部分とは別に、その建物のもう一方の端にはアンチークや絵画の商品が飾られていた。残念なのはあの雰囲気がもう褪せてしまったこと。ほの暗いランプや従業員の制服はまだ同じでも、建物のテラスと庭は竹壁と石膏ボードで隔てられてしまった。四角いテーブルと四つの椅子は、丸テーブルと5~6脚の椅子に変わっている。」
ちょっと小Aa2009_1127_193608dsc09001
生が昔行ったのは上の引用文の述懐いしている80年台だったかも知れない。それから又20年以上たった今その店は人手に渡りナシ・ウドゥックの店になっている。内装に竹製の壁は今も残っているがもう昔のノスタルジ-は沸かない。聞いてみるとそこはもう売りに出されているが土地の名義が古すぎて昔のオランダ人の名前から変わってないようで上手く行ってないとのことだ。このローカル・レストランの名前ももう長くはないのではないかとさびしい気がした。この高架鉄道がなせるわざかもしれない。多くを泣かせるジャカルタの交通行政の一つである。写真はイドゥルハドハの日、なぜか休みであった。

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2009年11月26日 (木)

いつも曇りの香港 国連しつけ憲章

今日、日本を飛び立った日は最高の快晴で飛行機は成田を飛び立つとすぐ機首を横須賀方面に回し江の島、伊豆半島を超え、日本のメガロポリス上空を南下した。海岸線迄ビッシリの住宅群、紀伊半島の鬱蒼たる山脈のうねりを見ながら四国を横切り最後気が付いたら開聞岳がくっきりと見えていた。Aa2009_1126_124506dsc08993_2
逆光であったが反対側なら富士山もきっときれいに撮れただろう。何度も香港には行ったがこのようなルートを取ることが解ったのは今日が初めてである。香港に近づくと2-3層の薄い雲が」多いところどころ太陽が差し込んでいる中写真をとるひまもなく着陸した。香港空港は最初の印象が悪かったので、63番ゲートから28番ゲートまで途中3ケ所の動く歩道の壊れた箇所にはやっぱりと呆れながらであったが言いところは着陸して直ぐブリッジに付いたり離陸も離陸ポイントがブリッジからほんの少しのまだ見えるポイントという近さである。
日本からの乗客に中近東系のおっさんが離陸直前まで携帯でしゃべり、着陸するまで早口のキンキラ声でしゃべっていたが3度ほど振り返り注意したが甲斐はない。文化の違いだろうか、国連で他人の邪魔をしないというしつけ憲章を提唱する事が必要なじだいである。

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2009年11月25日 (水)

ジャカルタの鼠小僧

国立博物館の歴史を訪ねていると1963年に悪名高い盗賊Kusni Kasdutに、宝石類が盗難にあった事件に出会った。どうもその時代民衆の喝采も浴びていたようで調べてみると彼は確かにロビンフッドとも呼ばれ盗んだ金品は貧しい人々に配ったとそうだ。若い時は独立の闘士であり、またカトリックの洗礼を受けている。別の話だと国立博物館に押し入ったのは1961年5月31日で盗んだ宝石は11個とある。結局は逮捕され他の事件と合わせて死刑となり80年に銃殺処刑された。Aa047
間違いを恐れず想定するに60年台に別の事件で有名なのはKebun Sirih通りの金持ちのアラブ人殺し事件があるが、彼はこの際逮捕されたのではなかろうか。彼の右腕はチキニの現在Sofian Hotel裏のAnak Ali でKusniはジープの中からこのアラブ人を射ち殺したあと、警察のと銃撃戦となりAliは打たれて死んだとあるからである。

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2009年11月23日 (月)

カルマに生きるSiti Murdaya

ご主人のMurdaya Poo氏と一緒にインドネシア富豪の上位におられる方で、お二人でBercaグループの一大産業グループを分担しておられるようだ。Aaccm_cikiniaug09dsc08015_10
チキニにその本社と思わせる建物があるが今日は古い方を掲げよう。
Berca グループはCenter Cipta Murdaya Group (CCM)とも言われ、1969年に設立し今は靴、ガーメント、木材、家具、パームオイル、、林業、不動産、IT関連で40社を擁している。 彼女Siti Hartati Murdaya 63歳は自身スハルト時代からMPRの議員でもり政治活動に影響力をもっているが、ご主人Murdaya  Widyawimarta Poo 69歳が2004年で国会議員になった時は夫人が経営に専念した。
アチェ・ニアス、ジョグジャと続く地震に現地に赴いて復旧活動を支援してきた。インドネシア仏教教会ワルビのパトロンである。西スマトラ地震では医薬品、救急車2台を送り緊急キッチンも設営した。少し地震が続き大変であるが、これも輪廻転生、因果報応のカルマに生きるとして淡々としている。その中でビジネスの芽を拾う事は忘れてないようだ。5月にはボロブドール巡礼イベントを企画し国内外から多くの観光客を呼び寄せ成功している。長く現大統領を支持してきたが夫はメガ陣営であった為彼女の助言でSBY派となったようだ。
Bercaグループは仏教の教えで過大に走らず慎重に経営に徹しているようだ。

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2009年11月22日 (日)

Koko dan Cici 2009ビューティコンテスト

19日に決まった西ジャカルタの美男美女というコンテストである。ジャカルタのこの手のコンテストでは昔からAbang dan Nona というのがあったがその町内版コンテストである。西ジャカルタは中国人の町なので、Koko_cici_2009_toni_1
これは中国人が対象のようで32名がノミネートされて、ちゃんとファウジーボオ市長をゲストにハヤムウルックのリンデテヴェス・トレードセンターで行われた。王冠はAlvin Tjandra と Vina Candraに輝いたが二人は西ジャカルタの観光促進の任務を負うこととなる。クトゥルナンがこれだけ前面に出てくるとは時代は変わったものである。

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2009年11月21日 (土)

Kembang通りのTerang Bulan

インドネシア・クロンチョンの父イスマイル・マルズキの胸像はチキニのタマン・イスマイル・マルズキ(TIM)にあるが、この辺りはイスマイルの育った故郷である。Aakembang_jikt_nov_048
出生地はこのTIMの裏側を流れているチリウン河の少し下流のクヴィタン地区のグヌン・アグン書店へ下る通りKembang通りである。クヴィタン・モスクから40mのNO.IV/97であるが今は他人が住んでいる。
1921年5月11日生まれであるので今年88歳であるが健在である。彼はここで生まれたが3ケ月で母が逝き、兄3人も一人を残して早世した為さみしい子供であった。このモスクの隣にマドラサー(イスラム学校)がありここの校長に多くを学び1931年には早くもSarinahという曲を作っている。ナショナリズムにも目覚めGugur Bungaや、Indonesia Tanah Pusakaも生まれている。マレーシア国歌と同じメロディーであるため今でも物議を醸すこともあるTerang Bulan to言う映画も1930年台制作されイスマイル自身映画で歌っている。
Rayuan Pulau Kelapaという曲は1944年の作品でインドネシアだけでなく各国から称賛を浴びスカルノはWijayakusumak勲章を与えた。彼は今までに300曲以上の曲を作っている。2004年にはべたウイ文化協会は国民英雄に推した。Terang Bulanはこの辺りが源流だと思っていたがマレーシアにはマレーシアの歴史の正当性がある。それは2009年 09月4日のexblogインドネシア語の中庭ノートに詳しい。


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2009年11月19日 (木)

残酷なファタヒラー広場

ファタヒラー広場はここに現在のジャカルタ歴史記念館が1710年の建立になるのでそこから300年である。
ジャカルタ歴史記念館は元々シティホール、オランダ語でシュタットフイスとして建てられ市民の住民登録や出産・結婚・死亡、それに民事他刑事の裁判も行われていたが 圧倒的にその特色は刑務所と処刑である。刑務所はこの建物の左右のウイングの男女刑務所や地下牢、後ろの建物も刑務所があったという。当時は処刑の為には自白が必要であったので拷問室もあったが、正面玄関の下に水牢があり、今も水がたまっており玄関の左右から覗きこむことが出来る。
死刑は見せしめの為ファタヒラー広場で行われ、責任者が玄関の2階ロビーから検閲したらしい。Aafatahilah_kejam_m1y3109_076
現在もある時
出かけた時、子供を餌食とする出し物をやっていた。写真の正面に体にゴロゴロ巻きされうつむいているのが
子供で周りには音劇団の人々が騒ぎ立て見世物にしていた。通った時はもう終了していたのでにらみながらこの集りの真ん中を突っ切るのが精いっぱいの抗議であった。


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2009年11月18日 (水)

マレーシア空港とクアラルンプル飛行場

仕事の都合で予定の帰国のチケットを捨て、延長後の今日シングルチケットで帰国した。片道チケットは非常に高いという事は聞いていたが、それはJALだけに当たり、MAもGAも300ドル台であった。これでMAの場合は
JKT-KLとKL-NRTで2回の食事とワインやビールを提供してくれる。Aa2009_1117_230049dsc08991
マレーシア空港は降りたところが乗り継ぎのゲートと偶然であろうがあまりの便利さに驚いた。時間があったのでショッピングに出かけたがCターミナルまでのトレーンで2分、シンプルで解りやすい作りである。、又リチェックもゲートで行うだけで、長い行列に並ばねばならない香港より時間が読める。インドネシア語でしゃべることも出来、制服のごっつい婦人警備人が優しく案内してくれる。ジャカルタから隣の席に来た若い女性に降りた後何度も偶然会い笑顔がほんのりさせる。
Anthon Bergのリキュール・チョコレートを買った後、ゲートに戻りリチェックで携帯を検査機に通すように言われたのが唯一不審な点であったが、これも日本行きになると乗客がガタンと下がり時間があるからだろう。

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2009年11月17日 (火)

直近企業ニュース

11/09 3番手の携帯大手Exelcomindo、2010年収入増12%アップ、顧客数33mil目標
11/11イ原油生産、2014年までに現在の960,000バーレルより1.2百万バーレルへ25%アップ
11/11 Antam ニューモント株購入を延期へ
11/11新日鉄、プルタミナ子会社Latinusa社買収へ、三井物産、日鉄商事とともに
11/11国産品使用義務、国営企業に30%~50%の義務化
11/12 小売りのPT Mitra Adiperkasa (MAP)、Rp 5,000 億のsukuk社債発行、金利は3年物で11%、5年物で13%
11/12 BPMigas: Cepu オイル鉱区-2012年までに165,000バーレルの生産目途
11/12 プルタミナも2010年14億ドルの投資で原油生産を11%増量
11/12 Aneka TambangのNewmont株購入は延期
11/12 グリーンスパン、紙パ会社PT.Riau Andalanを妨害へ 50人規模
11/12 国内セメント生産、10月は昨年日22%アップの3.8百万トン

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2009年11月16日 (月)

知らしむべからず

付加価値税の掛らない物品の一つに、地球からそのまま採取されて、加工されてないものがある。それはそれで意味は十分わかるものであるが、新しい付加価値税法では長々と例示をあげている。以下の通りであるが、それこそ逆に辞書にも無いものがおおく却ってわからない。
Asbesアスベスト、batu tulisスレート、batu setengah permata半玉石、batu kapurライムストーン、 batu apung軽石、batu permata宝石、bentonitベントナイト、domomitドモマイト、 felspar長石、garam batu 岩塩grafit 黒鉛andesit安山岩、gips 石膏、kalsit 方解石、kaolin カオリン、leusit レサイト、magnesit マグネサイト、mika 雲母、marmer 大理石、nitrat 硝酸、opsidien オプシヂエン、oker 黄土、pasir砂、kerikil小石、kuarsaクオルツ parlitパルライト、fosfatフォスパット、talk 滑石、tanah serap土壌、 tanah diatome、 tanah liat粘土、tawasカリ明礬、 trasトラス(セメント)、 yarosifヤロサイフ、 zeolitゼオライト、 basal玄武岩、 trakkitトラカイト
他にもシャーリア法典からのMAUSAWAMAH(リース)という言葉など、外国から言葉を駆りまくっている。難しい言葉を使いたがるのもインドネシアのお上の癖である。

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2009年11月12日 (木)

スノパチからスリヨ通り

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スノパチ薬局のあるスノパチ通りを下るとスリヨ通りである。鳥元に行く時よく通るが昔はウイジャヤ通りへまっすぐ抜けたが今はウォルターモンギシディ通りで右折させられる。この通りも多くのサロンやレストなど華やいできたが一方通行で交通量も多い道である。このスリヨというのは最初の東ジャワ州長官であった人の名前である。
1898年東ジャワのMagetan生まれ、HISを卒業後、MagelangのOsviaで学び、Ngawiで民政官を務め更にマディウンやスカブミ、ジャカルタで警察関係に携わり、日本占領時は県知事や理事官を務めた。独立後直ぐ東ジャワ州長官になりこの時、イギリスのスラバヤ上陸を迎える。独立か死かとスラバヤを死の海としたこのスラバヤの戦いを戦い抜いた。最後はDPAのメンバーであった時代に業務でNgawiに出張した折、共産党の暴徒に遮られ殺された。1948年50歳であった。1964年独立擁護英雄に叙せられた。というのが略歴である。

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