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2006年1月の投稿

2006年1月16日 (月)

チリウン川

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1月16日 チリウン川
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ジャカルタ発祥の地はスンダクラパ港でチリウン川の河口である。世界の大都市が大河やその河口に立地することが多いのでジャカルタもそれに習うとこの川となる。この流れを地図で辿ってみよう。
プンチャック峠の先のジョグロス山1,800mに源を発しチパユンからボゴール市内を分断し真っ直ぐデポ(ック)に出てくる。既にジャカルタ市内を更にパサ-ルレボ、チリリタン、カリバタ、テベットの西で高速tollを越えカンプンムラユ、ジャテネガラの西からマンガライに出る。ここには流水管理ダムがあり、大きな運河Kali Malangに分離され、本流はさらに北上しプガンサアン、ラデンサレー、アルヤドゥタの裏からイスティクラルモスクの前へ、そこで又右左に分離させられ、左に分かれるのがジュアンダ通りからハ-モニーで右折ガジャマダ通りからコタを抜けマンガブサール辺りでそこまできていた本流と合流する。本流はイステクラルモスクで右に向かう大きめの運河となりジャランポスの方からパッサールバルを左手に見ながらグヌンサハリ大通りで左折、真っ直ぐアンチョールのほうに向かい途中マンガブサール通りで本流は左折、コタ駅の裏に向かい左に分離させられたKaliを受け入れパッサールイカンでKali Besarと合流する形でスンダクラパ港で海に出る。 この段階の本流のチリウン川は誰も知らない小川なのかも知れない。
マンガブサール通りで本流を分離したこのこちらもKali Ciliwungと呼ばれる運河でグヌサハリを真っ直ぐ北上マリーナで海に出る。
デポックに真っ直ぐ向かったと書いたが地図を拡大すると、この川はジュアンダ通りからグヌンサハリ通りの手が入った運河の部分以外はまさに東奔西走、北上南下で曲がりくねっている。川幅も殆ど数メートル程度の所もあり、それも外国人がこの川をこれがチリウン川かと感慨を持って佇めるような場所は少ない。多くは民家の裏側だったりしておる所からも判断して、昔から氾濫を繰り返しためにその地域の発展を遅らせた川の名残なのかも知れない。下流に行く程、昔は洗濯、水浴びが出来た川も、ついでの小用からごみ捨てに変わり、川の自分の名前に恥じないよう健闘している。アンチョールに出る方がKaliとつけられているので支流扱いにしたが本当はこちらが本流かも知れない。 Kali とは運河だと理解していたが運河の意味があってもこれはジャワ語で川の意味らしい。
運河と決め付けは出来ないことになる。

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2006年1月11日 (水)

ジャカルタ誕生 479周年

ジャカルタ市は本年、誕生479周年を迎える。これは1527年の事跡を頼りにしているがその前史をたどってみよう。
地域的には5世紀のタルマネガラ国まで遡ることが出来、ボゴール近くの川岸から発見された石碑(バトゥトゥリス)の碑文がプルナワルマン王AD450 の治政を讃えてタルマ国を歴史に刻んだ。 その後スリウィージャヤ帝国の一部となった後、14世紀にパジャジャラン王国が創設され、この王国はヒンズー国としてシリワンギ王の時代に隆盛を誇った。
隣のジャワのヒンズー国マジャパヒットも13世紀末から覇権を誇っていたが、12世紀から徐々に浸透してきたイスラム勢力(デマグ国等)がマジャパヒットを滅ぼしパジャジャランにも押し寄せてきた。
1511年にはポルトガルがマラッカを建設、パジャジャランのバンテン、スンダクラパ港に現れるようになった。イスラムの勢力拡大を怖れるパジャジャラン王のパンゲラン ジャヤカルタは1522年条約でポルトガルと手を握った。其のころイスラムのデマーグ国のファタヒラー(ファラテハン)はイスラム連合を組成し1526年バンテンを滅ぼし自らバンテン王となり翌1527年に、スンダクラパに応援に来たポルトガル艦船を撃追し、このスンダクラパ港をジャヤカルタ(勝利の町)と改称した。この日がジャカルタの誕生日であり、ジャカルタ市はこの6月22日の前後をから1ケ月間毎年ジャカルタフェアーを開催している。今年は6月17日から7月18日、アレナ ペカン ラヤ ジャカルタ(クマヨラン)で行われる予定である。

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2006年1月 8日 (日)

ジャカルタ市長

Surjadi Soedirdja将軍と書いたがどうも将軍ではなかったようである。
歴代市長では今も健在であるAdi Sadikinの後、Wiyogo、Surjadi、Sutiyoso
が知られていよう。
• H. Ali Sadikin, 退役海軍中将 (在任1966- 1977)
• Wiyogo Atmodarminto, 陸軍中将 (1987 - 1992)
• Surjadi Soedirdja ( 1992 - 1997 )
• Sutiyoso , 陸軍中将( 1997 - 2007 )
現在のスティヨソ閣下は自分の蓄財も取りざたされていたが、無駄なおしゃれがすきのようで物議を呼ぶ政策が目に付くが、青少年の就労への何か良いことをしたか覚えがない。
• バスウエーで渋滞化、市民をバカにする道路のブロック化、無計画に見えるモノレール
• スりーインワンで公務員優先帰宅への道
• スデイルマン像等の建設、カルティニ像の移転
• ス-パー等でのアルコール禁止、FPIと協働ラマダン中営業妨害

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2006年1月 3日 (火)

オランダ栄光モニュメント

オランダ時代の遺物の破壊については、実はインドネシア政府は保護条例を持っている。
その歴史は知らないが、知っているのはAPEC開催の前年の1993年の当時のジャカルタ市長 Surjadi Soedirdja将軍の条例である。インドネシアバブルの活気ある華やかの時代であったが、一寸遅かった感じである。惜しくてならないのは今でも名前が残っているHarmonie(1980年代初め?取り壊し)とConcordia(1960年代終わり取り壊し、現財務省新館)である。
小生が昔探し回った銅像はWaterlooplein(現Lapangan Banten)のCoen MonumentやMichiels Monumentは日本軍が破壊したたがウイルヘリミナ公園(現Istiqlal Grand Mosque)の美しいAcheen Monument(1961年取り壊し:オランダの北スマトラ施政宣言記念)はなぜか日本軍の破壊を免れた、或いはそういうものもあるということである。

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2006年1月 2日 (月)

バタビアのスタート

2001年ごろ当時の保健福祉相ハルヨノスヨノ系の国民啓蒙機関にWalibatuなるGOがあり、Kota Tourをやっていた。ファタヒラー広場の歴史博物館を皮切りに、アールデコ調の当時のインドネシアEXIMバンクに寄りそこから又北上し、チリウン河のカリブサールの在りし日の建物や跳ね橋を見ながら、打ち捨てられたドッグ地帯を通って昔のパッサールイカンの海洋博物館や見張楼をめぐって、カフェバタビアに戻るコースであった。このほかにもメンテンめぐりとか企画していたようであったが現在は活動をやめているようだ。

そういえばこのような遺産はむしろオランダ王家の栄光をしのぶノスタルジアーに過ぎなく、インドネシア国民はむしろ破壊したい気持ちになるのではと思われる。
オランダを放逐した日本軍もこれらの豪壮な建物群にたいそう驚いたものと思われるが、現在のセラミック記念館は軍司令部に使用されたとか大いに利便をえたが、クーンの銅像やミヒャエル(?)モニュメントは破壊したそうだ。
小生は昔、写真を見ながらその場所探したが、なぜ郷愁を呼ぶのかは知らない。

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