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2006年2月の投稿

2006年2月26日 (日)

ジャラン アンタラ

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2月27日
ジャカルタのど真ん中に日常の喧騒から取り残された一角がある。その代わりに確実にその通りは衰退をたどっている。それがジャラン アンタラである。ジャランポス側からのパッサールバルーへのチリウン川に掛かる橋をわたりすぐ左に向かう一方通行の道がそこである。ジャランジュアンダの方向にチリウン川に沿った500メートル程度であるが、そこはバタビア時代からビジネス街として賑わった通りで今古いビルが朽ち滅びさっている。車は殆ど通らずビルを訪れる人も少ない。 
ビル自体はそれほど古いわけでなく1900年代の初期と思われる。中でも有名なのはAntaraビル(Jl.No.57)である。日本の占領期は日本の「同盟」通信社が使用していたということで1945年の8月17日のインドネシアの独立宣言の世界に向かっての放送はここから流れた。独立後はインドネシア国営通信社「Antara」の事務所となり現在はフォトーギャラリーだそうだ。通りの名前もそれに倣っているいるが以前はPostweg Noord(北郵便局通り)と呼ばれていたという。
そういえばここで有名なのはインド 料理でCopper Chimney Restaurant(電話396 5719でJl.Antara No.5)がある。
生憎ぶらついた日は暑い日でよどんだチリウン川の悪臭が漂っていたが、建物に掛かるほど鬱蒼たる並木で薄暗く、昔ならべチャ引き風の男達が昼寝にまどろんでいた。
うっかりギャラリーに寄るのもインド料理屋でビールを飲むのも忘れたので又行かねばならない。(写真をどうぞ)

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2006年2月22日 (水)

シリワンギの由来

2月22日
ジャカルタの歴史に出てくるパジャジャランのシリワンギ王についてのその名前の由来がある。
1357年パジャジャランのスンダ王国とマジャパヒット王国との間でブバットと言う村でブバット戦争が起こった。この戦争はマジャパヒットのハヤム ウルック王が王妃を探す為の欲望から始まったものである。候補を探す中にスンダ王のマハラジャ リンガブアナの皇女であるディア ピタロカ皇女があり、二人は結婚の為に親族一同とブバットで会うべく日が定められた。ハヤムウルックの宰相ガジャマダは、スンダ王国もマジャパヒットに隷属させることを画策した。その欺きに激怒したスンダのパナケン司令官とガジャマダの軍が対決したのがブバットの戦争であるが、この戦争でスンダ王マハラジャ リンガブアナ一族郎党は討ち死にし、人民は王を比類のない敬愛と尊敬の念で追想した。名前はかぐわしい香りとして王の名前をワンギー王(香り王)と呼んだ。幸いに残された9歳王子の時代はワンギースター王と呼ばれる時代でその間、マジャパヒット王はスンダ王家側に多くの悲しみと傷を残したブバットの戦いの事件に許しを乞うた。スンダ王家は既にマジャパヒットの子孫との婚姻を禁止していた。その後スンダ王国は二人の皇子により二つに分かれた:一つはガルー王国でチアミスに都をおき、他の一つはパクアン(ボゴール)を首都とするパジャジャランである。両家は一方の王がデマグの侵略でマジャパヒットの落人となった皇女を娶る話で断絶したが更にその皇子が両国の王の辞任により1482年に両国を統一した。スリ バドゥガ マハラジャはスンダ王国を二度と二つに分けることなく統治したので彼はワンギ王とワンギースター王の直系として人々は彼をよくシリワンギ王と呼んだ。これはボゴール市のホームペイジにでてくる話である。シリワンギの名前は精鋭シリワンギ師団と言う名前が最も有名でその他、教育機関等にも残っている。

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2006年2月11日 (土)

チタルム川

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2月11日 チタルム川
この川こそ5世紀のTarumanegara国の源流である。バンドン西のチマヒ辺りの山岳地の水がいくつものWadukを作り最大はジャティルフールでここでは現在水力発電が行われている。この水力発電は日本の協力によるもので、ここ以外にも上流に他に1ケ所の発電ダムがある。ジャティルフールから流れ出す水量は豊富で灌漑用水も引かれている。この用水はカラワン、チカラン、ブカシ、ジャカルタと現在工業地帯となった地帯を東へ東へ延々50kmはあろうか、通り抜けジャカルタに入るとKali Malangと名前が付されている。チタルム川自体はカラワン市を抜けて独立宣言前夜スカルノ拉致で有名なレンガスデンクロックの西から西進しCikarang岬から海に出る。
カラワンとチカラン、ブカシの間は北から多くの中小河川があり、海沿いの大水田地帯の中灌漑、用水が縦横にある。5世紀のプルナワンルマン王の灌漑(トゥグで発見された石碑の文による21日間で11kmの運河を作ったというゴーマティの名前)は発見できなかった。
Kali Malangは前回のCiliwungで出てきたものとは未だつながってないが同名である。

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2006年2月 1日 (水)

ジャヤカルタよりバタビヤへ

1月31日
1527年のファタヒラーによるポルトガル艦船を打ち払い、このスンダクラパ港をジャヤカルタ(勝利の町)とした日をジャカルタ生誕の日とされたまでの歴史は先にふれたがその後のバタビアとジャカルタ特別市までの歴史を見ると;
この地を含むスンダを治めたパジャジャランもバンテン国により1579年滅び、その後1595年にオランダが現れることとなる。オランダは1603年ポルトガルを人を追放した後商館を建設、バンテン港から拡大良港を狙うイギリスも、1619年にバンテン王国と結びバタビアを攻撃したがVOCの4代目総督クーン軍に逆に敗北した。オランダはスンダクラパに城壁を築き、ジャヤカルタが訛ったジャガトラの町をBataviaと改称した。
バタビアとはオランダ先住民のラテン読みの民族名から取ったものである。
以降バタビアから始めてインドネシア全土がオランダの植民地化されていく時代であるがバンテン王国も1843年まで存続し、或いはインドネシア人とバタビアとの各種闘争の歴史となる。隣のジャワはマジャパヒットからデマグへ、その後のマタラム王国もVOCにその継承者争いに介入されながら1755年まで存続したが以後ジョグジャカルタとスラカルタの2王家に分裂しオランダに保護領とされながらも現在に続いている。
時代は下がって日本軍占領時代にはバタビアをジャカルタ特別市としジャカルタの名前を採用した。

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