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2006年4月の投稿

2006年4月29日 (土)

ジャカルタの高速道路名と国家英雄

ジャカルタの高速道路名と国家英雄 4月29日

ジャカルタの地図を見るとき、中央の東西に走るガトットスブロト通りを中心にジャカルタ北部を囲むような環状高速線がある。この高速は下の旧幹線道路の上を走っておりこの幹線道路の殆どの道路名はインドネシアの英雄名が付けられ繋がっている。
初代正副大統領のスカルノ・ハッタは道路名にはなってないがスカルノの死亡後5年して独立宣言英雄とされ85年チェンカレンの国際飛行場の名前となっている。

そのスカルノハッタ飛行場からジャカルタに向かい市内に入ってくるとグロゴール、チプトラホテル・モール辺りから先ずエスパルマン(S. Parman)通りが始まる。この道路はスリッピ、国会議事堂の手前あたりからガトットスブロト(Gatot Subroto)通りとなり、これはテベット、パンチョランの所謂7upの塔まで、そこからチャワンまでをハルヨノ(Let.M.T.Haryono)通りが受け持つ。チャワンで南のボゴールと北のタンジュンプリオク港をつなぐ高速で北上することになるが、チャワンから更に北上するジャティネガラまでをディ・パンジャイタン(Mayjen. Di Panjaitan)通り、そこから更に北上してチェンパカプティ迄をアフマッド・ヤニ(Jend. Achmad Yani)通り、更にヨススダルソ(Laksa Yos Sudarso)通りがタンジュンプリオク港をつなぐ。タンジュンプリオク港辺りからアンチョールを抜けコタ、マンガドゥアの北裏側の海岸線はマルタディナタ(Laks. R.E.Martadinata)通りとなる。
そこからスカルノハッタ方面に向かうハーバートルロードの高速下の道路は複雑な為か英雄名の名前はなく、残念ながらこの部分で英雄名の道路の鎖は切れることになる。

以上7人中G.スブロト、ヨススダルソ、マルタディナタを除く4人が1965年の9月30日事件の革命英雄である。Lubang Buayaの犠牲者は7人であるが残りの3人もこの幹線の隣接道路に残されている。
英雄の事跡は次回以降としよう。

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2006年4月17日 (月)

インドネシアとフリーメイソン

インドネシアとフリーメイソン:4月17日
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デポネゴロ通り丁度スロパチ公園の前に立つデポネゴロの像の公園の反対側にあるのは現在はバペナスの役所となっている古い建物である。
ジャカルタにはオランダ占領期の初めよりフリーメイソン(リー)の活動があったというがここはその中で新しいロッジであった。「100 Jaren Mac」或いは「Freemasonry & Society in Indies & Indonesia」によると、フリメーソンリーの全盛期、早くも1764年にはバタビアのコタのstadtlogementと言うホテルでその集会は始まったという。その秘密性を守るため集会場所は時に変更されたがまもなくJacatraweg(現在のジャヤカルタ通り)に二つの施設が作られ更に1834年には現在のVeteran通りのKimia Farma会社のビルに合体されこれも現在に残っている。歴代のオランダ総督は当然メンバーであったがインドネシア人では最大の画家ラーデンサレーの名前が残っている。頭書のバペナスのビルは1934年にこの会のためのアールデコ調に建立されたものである。この地は当時のBurgermeester Bisshopplein Square近くの上流階級住宅地域Weltevredenであった。会は地域社会にも大きく貢献し1902年Raan de Riemer(タナバン)に学校を建設、その後この学校は現在のNational Galleryに移動しその名前をCapentier Alting Stichting(CAS)と変えて他の奨学資金制度や女子のための学校とともに社会に貢献した。
これらのフリーメイソンの活動は1961年に政府により禁止されて現在に至っている。
フリーメイソンは現在世界の多くの国で未だ活動しているが、共産圏や全体主義国家では禁止されているようである。

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2006年4月 2日 (日)

ジャカルタ歴史  バタビア誕生迄

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