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2006年5月の投稿

2006年5月29日 (月)

中部ジャワ地震に哀悼を捧ぐ

中部ジャワ地震へ深く哀悼を捧げたい。5月29日
土曜の早暁、地震はメラピ火山の活動で警戒中のジョグジャカルタ地方を襲った。当初は200人の死者の報道であったが大災害の常なる通りその日のうちに2,000人規模へ28日には3,000人から4,000人規模、29日夕刻には5,100人となった。震源地はジョグジャカルタ南37km、その地のBantul県の死者が3,500人規模、中部ジャワのKlaten県で900人規模でこの2ケ所に集中している。アチェの津波の時は最終22万人(9.4万人が行方不明)と言う途方もない数字になって行ったが、今回はこれはないだろう。それよりこの地震はプレートの移動が原因で火山性地震でないと言われ、むしろこの地震で火山活動が一層激しくなることに警報が発せられている。
種族や宗教の対立やテロ活動に時たま襲う大災害に因果関係を思うのかJP誌社説は今こそインドネシア人の団結を呼びかけていた。大統領はジョグジャに出向いて現地に大統領府を設置して陣頭指揮しているようであるが、留守を預かる副大統領は批判をしながら庇ってみせる。
鳥ウイルスの死者も止まる所を知らず37人となったという。6月上旬にはジャカルタに向かう小生は、いまさら首都圏での地震に対する麻痺状況も思い起こしぞっとする。
4月に小生が住んでいたアパートが隣に拡張し又30階建てのアパートを建設中であったが、小生がいた1ケ月間になんと5階も積み上げた。窓や部屋の壁は全てレンガ状ブロックの積み木である。 日系ゼネコンのビルは大丈夫と言われて来た事を信じよう。

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2006年5月28日 (日)

タマン プラサスティ

Taman Prasasti博物館 5月28日

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プラサスティ博物館はMillennium Sirih JakartaホテルからAbdul Muisをハーモニーに向かって行き、左手に折れる Tanah-Bang No.9通りを Tanah Bang 5から4、3、2、1と数え、最後のTanah Bang 1の奥(電話:61 21 315 4094)にある。
隣はジャカルタ中央区役所の大きなビルがある。地区名はKebon Jaheと言う人もいるが地図にはPetojoとあり、やはりプラサスティ博物館の表示はなかった。

1992年発行のジャカルタ案内書では The Cenotaph and Epitaph Museumと呼ばれている。
ここは1795年より、外国人のクリスチャンの墓地として使用されていた所であるが、このオープンエアーの博物館の入り口として使用されている建物は1844年に建設されている。19世紀のバタビヤは流行病で多くの人が死に、バタビヤ白身が死の街或いは猖獗の土地と言われた様相を呈していた。近くを流れるクルクット運河よりボートで連日死体が運ばれて来たと言う。特にバタビヤ湾がイギリスに封鎖され、捕まり、船上で死んでいった数百のオランダ船員もここに埋葬された。
又現在のワヤン博物館である元New Dutch Churchの墓地が取り壊されたときもその墓はここに移送された。目印にHK(Holandsche kerk)と彫られている。
現在この1.2ヘクタールの博物館は勿論埋葬地としては閉鎖されているが当時は5ヘクタールあり、1975年整地された時、4,600の遺体は1,200に合葬等され余った土地でとなりの区役所やKONIの建物が建てられたのであろう。博物館としての落成式は1977年アリ サディキン市長により行われた。
Dalam_prasasti
Kapiten_jas

墓、若しくは碑文で有名な物は
ジャカルタ総督、J.H.R. Kohler, A.V. Michiels
ラッフルズ郷夫人、 Olivia Marlane Raffles
悲劇の反逆児、 Pieter Erberveld
オランダの歴史家、Dr. Dtutterheim、J.L.Brandes
伝説のキャプテン Jas Jeremias Van R Riemsdijk
STOVIAの教育者、Dr.F. Roll
支那のダンサー、Miss Riboet及びスカルノ、ハッタの棺等があった。

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2006年5月26日 (金)

嗚呼 フィラテリ ジャカルタ

オランダ時代の郵便局 フィラテリ ジャカルタ 5月26日
Filateli_dlm_hujan

ジャカルタのパッサールバルの前、ジャランポス(通り)にグドゥングクスニアン(芸術劇場)と並んだアートデコ調の美しい白亜の建物がある。これはフイラテリジャカルタと言われる建物で謂わばジャカルタ切手収集館(FILATELI,<=Philately)である。実際はインドネシアの郵政株式会社(PT. POS)の切手収集ディヴィジョンで古切手の販売やオークションを行っている。
この建物は1913年に建立されたもので当時の中央郵便局で現在の中央郵便局はこの裏手のブロックに大きなビルを誇っている。郵便の歴史は古代からあり、中国では唐の時代に各地に駅を設けこれを馬で伝えたということでこれが駅伝の語源であるという通り、各国でも王家や政府の地方への伝達から始まったものである。これが公衆のものになるのはずっと後、英国では14世紀、日本では江戸時代の飛脚である。インドネシアではオランダの東インド会社(VOC)の本社とのやりとりから始まり、民間に開かれてもオランダ人中心の制度で、香辛料の秘密や種の密輸出を防ぐ為VOCが開封し市役所に展示されたという。郵便局の建物は当初はパッサールイカンからバンテン広場へ更にジャランポスへ、又最初のジャランポスの郵便局は1853年で1913年に取り壊しこのFILATELI JAKARTAがその跡に建てられたものである。
切手の歴史から言うと郵便料は前払い制で切手が発明されたのは郵便先進国英国で1840年である。従い王家を同じくしたオランダはインドネシアで切手を導入したのが1864年というから日本より早い。日本は前島密の時代の1871年頃である。
Filateli_jakarta_depan
Filateli_jakarta

アートデコとはマイアミの建築様式で直線の美しさを出す為左右対称の建物でパステルカラーで彩られている建物である。今は周りを切手商や賞状屋などが汚いキオスクで占拠しており、歴史的施設として登録はされても処遇はされてないようだ。


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2006年5月25日 (木)

地下鉄乗り継ぎ要領でこんなに価格差

メトロと都営の乗り継ぎ案内 5月25日
この10日間の間に目黒方面に4回、霞ヶ関や赤坂見附方面に2回出かけることがあった。東京メトロの地下鉄と都営地下鉄に乗り継ぐことがあり、都営の方が若干料金が高く、乗り継ぎの割引も70円のみであるので出来ればメトロだけで行ければ一番安いと言うことが判った。会社が元々違うのであるから乗り継ぎは不利である。初乗りでメトロは160円、都営170円(JRでは120円、のところがあり?)
最近のメトロネットワークの路線図は少し見やすくなったが昔(2年前)のマップでは例えば溜池と赤坂と議事堂が地図上ひっ付いて接続状況が判らず、ために乗り換えルートがわからず不満であったが、昨日新路線図を入手できた。それより便利なのはホームペイジにある東京の乗り継ぎ案内http://www.tokyo-subway.net/japan/である。料金の安い順や時間の短い順でルートを教えてくれる。先日の霞が関(東京) - 日比谷 – 目黒を検索してみるとやはり霞が関から丸の内線の見附そこから銀座線で山王、そこから南北線で目黒とメトロだけを使うと190のみであった。実際は300円で従いメトロで160円、都営が210円でマイナス割引70円だったのであろか。実際購入チケットは190円であったが、都営線でストップを食らい追加精算分110円が余計に取られた。
小生の自宅の最寄の地下鉄は路線第5号の東西線でこれは今度出来る13号線を除き全12路線の地下鉄と接続している(これは唯一だそうでこれを使う千葉県民も鼻高々としてよいだろう)従い選択指は相当数であるが、妙典ー日本橋ー山王ー目黒で270円(52分)、妙典ー大手町ー目黒 370円(51分)、妙典ー日本橋ー銀座ー山手で目黒 390円(51分)、妙典ー日本橋ー渋谷ー目黒 420円と幅がある。他に58分くらいかければ飯田橋から一発乗換えで270円コースもある。

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2006年5月24日 (水)

メトロと都営はどう違う

メトロと都営ではメトロの勝ち 5月24日

先日霞が関から目黒まで地下鉄を乗り継いでいったがメトロと都営を乗り継いだので僅か9駅で300円取られる結果となった。どうも都営のほうが料金が高いようで、その時の珍しい復古趣味の精算切符を貰ってきたのでお見せしよう。
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都営は地方の地方自治体がやっているように都の交通局が運営しているもので、メトロは一応民営(未上場)の株式会社である。メトロは200億強の黒字であるが、都営は100億の赤字で札幌から福岡まで他の地方自治体でやっている地下鉄は福岡を除いて全て赤字らしい。サービスも羽田に行くのに日本橋の乗換えなど未だエスカレーターがなく大きな荷物を持って階段を乗り降りせねばならない。速く民営化ならないものか 

メトロと都営を更に比較すると
メトロ:8路線(銀座、丸の内、日比谷、東西、千代田、有楽町、半蔵門、南北各線)、168駅、2,515車両、都営は4路線(浅草、三田、新宿、大江戸)101駅、1,034車両と言うからおよそ半分の規模である。多分1日平均800万人強が利用しているというのでジャカルタ人に薀蓄を語ってみたらどうだろう。

沿革を辿るとメトロは一寸前の営団で2004年に、大昔の1925年に発足した当時の東京地下鉄株式会社と言う名前に英断復古したもので、最初は1927年浅草-上野間の現在の銀座線の一部が運転開始、その後1939年に銀座線全線開通、1953年から59年に丸の内線、次に64年に日比谷線、69年東西線、78年千代田線、その後半蔵門、有楽町、南北線が続いている。
都営では1960年に同じ発祥の地浅草を基盤とした浅草線が開通したがこれを正式には1号線と呼び、既に或る銀座線が3号、丸の内線を4号、日比谷線を2号と番号を付したようである。ちなみに横浜には1号線と3号線はあるが2号線はない。現在和光から池袋に開通している新線が来年には渋谷まで伸び13号線と呼ばれるのでメトロと都営がごちゃ混ぜの合計 13路線のナンバリングであることが判った。

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2006年5月19日 (金)

役所の仕事 日本、イ国に100倍差で圧勝

イ国大使館の認証と日本外務省の認証:日本の圧勝 5月19日
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外務省に認証を取りに行く。到着後5秒で認証済み書類を受領、料金は不要。帰りに霞ヶ関のトイレを拝借、さすが外務省御用達のトイレだけあり、初夏の小川のせせらぎが流れてくる。今日の夕刻の友人との飲み会もあり愉快な気持ちになってきた。霞が関から目黒までは地下鉄路線図を見ても溜池山王でも接続しているか不明であったので日比谷に一駅戻り都営三田線で行くこととしたがメトロと都営(どう違う?)の乗り継ぎの為300円也と高い。
イ国大使館に認証をお願いしたところコピーが2部要るとのこと、コピー屋を探しに五反田の近くまで雨の中を行く羽目になった。なぜ事前に電話しなかったかと悔やむ。電話番号を探すのだって役所はどちらかと言うと隠している。民間は電話照会でも大歓迎だが役所は外部からの電話はない方がよいし、探し当てても繋がらない、Extensionの長い説明がある。それでもExtension番号を教えてくれれば良いがこの点日本の外務省はWEBで電話番号表示あり(ネシアはなし)、オペレーターが出て応対しextensionを教えてくれる(ネシアはインドマルコの資料で探しあて電話してただ待つのみ)で日本の勝ちである。

大使館は目黒からも五反田からもほぼ同じ距離にあり、目黒からは下り坂、五反田からは上り坂、又、東京駅からの山手線では五反田まで160円、目黒までだと190円である。折角30円多い目黒から下り坂で来る方を選んだのにコピーがないばかりにコピーをやってくれる店を探してついに五反田駅近くまで下って来てやっとファミリーマートを見つけ又避けたはずの坂道を登って大使館に戻った。大使館の受付はどうにかクリヤーしたが2営業日後且つ2,500円掛かるとの事でがっくり。コピーくらいこの料金の中でやってくれと担当の長谷川某に噛み付いてやった。ここで又日本対比をやると日本外務省はコピー要求なしで勝ち点1、日本は費用がただで勝ち点2、待ち日数は日本は翌日、インドネシアは翌々日で勝ち点3、入り口のアイデンティティチェックで東京は顔パス、ネシアはクレジットカードでは問題あるので今日はJJCのメンバーカードを出したが何か要求するので日本がさらに1点追加、と言うか、既述の電話を含めサービス精神もカウントするとやっぱりRPの価値と同じでインドネシア1点とすれば日本が100点である。

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外務省にはトイレがない

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日本外務省の認証手続き:外務省にはトイレがない 5月18日

インドネシアの許認可手続きで本社の文書に対しインドネシア大使館の認証を要求するケースが出てきた。昔はBKPMへの申請に英文定款が要求され、更に英文に翻訳されたものが正確である旨の言明書を付けさせられそれにインドネシア大使館の認証を要求されたのであるが、最近又そのような要求をするケースと係官が出てきた。そのためにはその文書の地方法務局の公証人文書にしたものをインドネシア大使館が直接認証してくれずその前にそのカウンターパートである霞が関の外務省の認証を要求する。そういうわけで外務省に行ったものである。外務省に電話する。 代表は3580-3311、意外とすぐかかり後は録音案内嬢の指示に従いダイヤルを押すと、要は領事移住部証明班に行くこと、身分を示すパスポート等を持参、代理も可能であるが良く説明できることだけの条件を確認し出かけたが、そこでやっぱり委任状を求められたのには参ってしまった。半分怒りで何とか持参した資料を見せながら切り抜けることが出来たが。。。録音案内嬢は明確に委任状は要らないといっていたが後から考えると業務の場合と言っておりこれは社内の業務であって社外の者の業務ではないのだろうと想像した。認証はここでもすぐには出来ず明日との事で又明日出かけねばならない。
大使館は正面や右などにも入り口があるが正面に回された。そこのチェックは殆どなにもなく行き先を告げる程度であるが、正面の玄関には入れず構内の端を大きく左に回り左側の側面に旅券課とかいくつかに分かれたブース的事務所があり外からは一歩はいるだけでそこに着く。本館内には一歩も入れずに入り口で処理するこのシステムは外部のテロ攻撃等には有効に思われたがブース的事務所(3~4人のスタッフが捌いていた)であるのでトイレがなくトイレは何処だと聞くと地下鉄霞ヶ関だとあしらわれた。

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2006年5月18日 (木)

以外に楽なVISA取り

東京のインドネシア大使館でのマルチビザ取得 5月15日
目黒のインドネシア大使館にマルチビザを取りに行く。入り口で身分証明を要求されるので有効期限が切れたSIP(?運転免許証)を出したがチェックされず許可された。
昔は現地法務局の許可書がいるようであったが実際は何も言われなかった。インスタント写真もその場で取れるし全て1部で良い。
マルチの場合は現地スポンサー会社からマルチでの招待状があることと日本の会社の指名書(推薦状)が必要である。小生の場合は妻の推薦状で済ました。 昔は申請の窓口が日本人だったので日本語で通ったが今回は受理されなくその場で日本語の推薦状に手書きで英文を添えてやった。 
マルチなのに航空チケット提示を要求されたがVISA受領のときに持ってくると言って通した。 今日受領時 JALホームペイジで購入した購入確認メールのコピーを持って行ったが向うは要求もしなかった。
受領は2営業日の9:00から11:30( 申請時も同じ)である。午後は不可で業者だけのようである。受領は午後でも言いかと電話で聞いたところ、先ず聞かれたのは目的地、目的、出発時であった。簡単にYES・NOで答えられるように聞いたのであるがお役人の非能率の表れである。(電話は3442-4201 Ext.418)
お役所はどこもそこで決めたルールが必ずあり、一発で成功することは稀である。一般の企業(KDDIなどは除く)や商店並みにならなければ民間の足を引っ張るだけであると思いは暗くなった。
料金は11,500円で去年と変わらない。あの汚職ニュースは小生にはどこで起こったのかなと不思議であるが多分、業者或いはインドネシア人が餌食になっていたのであろうか。

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2006年5月17日 (水)

ジャカルタでパスポート延長

パスポートはジャカルタで 4月12日
料金的には日本の方が多分安く又安く入手できる道もあるが、ジャカルタも便利である。それはひとえに車があるかどうかである。仰々しく警護が厳しい大使館ではあるが車でそこまで行き飛び降りて、運ちゃんに20メートル程先のがら隙のアミューズメントコンプレックスの駐車場を利用させるのである。運ちゃんがHPを持つことは今は必須であり、これがあるとお互い駐車場の心配がない。
現在のジャカルタ領事館のパスポート延期手続きの手数料は10年物でRp1,333,000である。昔から領事館に居住届けを出しておればフリーパスであるが(KITAPの提出も不要)。但し日本からの場合は戸籍抄本を持っていくことが必要である。
1週間ほどで本人が取りにいくと今はICチップ組み込みのパスポートが与えられる。
申請も受領も行ってみて自分の前に待っている人はなく、すぐ応対してくれる係りの優しい日本女性だけである。


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2006年5月15日 (月)

自分だけの渋滞脱出法

「drivingknowhowjakarta.doc」をダウンロード

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ルバン ブアヤの7将軍

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ルバン ブアヤの7将軍 5月15日

1965年9月30日事件で殺害された7人の将官のメモリアル像がある所はLubang Buayaメモリアル公園と言われジオラマで展示された博物館もある。
場所はハリム空港の裏の南側 ポンドクグデ地区に位置する。ボゴール高速道路をタマンミニで降りて最初の出口で左に取って真っ直ぐに行った先の道路名はJl.Pancasila Sakti(聖なるパンチャシラ)である。博物館は月曜が休館で9時から夕刻5時までオープンしている。像は彫刻の第一人者Edhi Sunarsoが主導、国軍の手によるもので大きく羽ばたくガルーダの下に共産党を糾弾するヤニ将軍以下7人の将官の立像が佇立している。

Jenderal Ahmad Yani
Letjen. M.T.Haryono
Letjen. S.Parman
Letjen. Suprapto
Mayjen. Donaldo Isaacus Panjaitan(同上)
Mayjen. Sutoyo Siswomiharjo
Kapten Piere Tendean(同上)

この将官位は全員殺害時の位から1等級昇官された。 正式には上記将官名の後ろにanumertaと付ける。
大将1人、中将3人、少将2名(進級前はBrijen 准将)大尉1名(進級前はLetnan Satu中尉)故、6人が将軍である。.

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2006年5月13日 (土)

日本軍戦没兵士30人の碑

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昭和42年3月上陸 日本軍戦没兵士の碑 5月10日

これは1996年8月頃の話である。
ジャカルタの数ある博物館の中で、余り知られていない博物館の一つ、Museum Prasastiを訪ねてみた。ここはキリスト教のオランダ人を中心とした人たちのお墓、碑文を集めた博物館であるが、そのなかに異質なものとして日本車が上陸した最初の戦いで戦没した兵士の碑文が置き場もなく投げ捨てられている。
案内人の話では最近ボゴール辺りの開発で邪魔になった模様で、持っていく先も、引き取り手もなくやむなくここで持ってきた様である。
碑文には「昭和17年3月3・4日於當地付近戦死者」とあり陸軍少佐 伊藤今朝長以下30名の戦没兵士の名前が彫られた石で、長さ1メートル、幅60cm、厚さは25cm位であったろうか。
区割りの通路との段差で傾き 斜めに置かれた様は、重い石をここまで運ぶのがやっとで、将に投げ捨てられた様に見える。
昭和17年3月3日と言えば、日本軍がジャワ占領のため、西ジャワのバンテン湾、東ジャワのタラカン?及びバンドンの北、エレタンの浜より一斉に上陸した日の翌々日である。
確かエレタンからスバンを通って、バンドンに向かう国道で日本の短期勝利を決めた戦いがあり、3月9日にはカリジャティ飛行場で降伏文書に調印式が行われた。
多分その戦いで戦死した兵士の為の碑文であろうか。又スバン戦は私が仮に名付けた物である。
しかし、案内人のボゴールからと言う通り、当時バンテン湾からの主力の部隊の進撃で、ボゴール方面に移動した豪州軍もあり、チャンティン渓谷のガルグの丘で日本軍の支隊との戦闘があったようであるからその兵士達かも知れない。両戦闘で勝利した日本車はレンバン方面からとチアンジュール方面からとバンドンに向かうのである。日本大使館に連絡したところ日本人縁の墓地に移す話があったので見に行ってみよう。

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