« 嗚呼 フィラテリ ジャカルタ | トップページ | 中部ジャワ地震に哀悼を捧ぐ »

2006年5月28日 (日)

タマン プラサスティ

Taman Prasasti博物館 5月28日

Photo_6

プラサスティ博物館はMillennium Sirih JakartaホテルからAbdul Muisをハーモニーに向かって行き、左手に折れる Tanah-Bang No.9通りを Tanah Bang 5から4、3、2、1と数え、最後のTanah Bang 1の奥(電話:61 21 315 4094)にある。
隣はジャカルタ中央区役所の大きなビルがある。地区名はKebon Jaheと言う人もいるが地図にはPetojoとあり、やはりプラサスティ博物館の表示はなかった。

1992年発行のジャカルタ案内書では The Cenotaph and Epitaph Museumと呼ばれている。
ここは1795年より、外国人のクリスチャンの墓地として使用されていた所であるが、このオープンエアーの博物館の入り口として使用されている建物は1844年に建設されている。19世紀のバタビヤは流行病で多くの人が死に、バタビヤ白身が死の街或いは猖獗の土地と言われた様相を呈していた。近くを流れるクルクット運河よりボートで連日死体が運ばれて来たと言う。特にバタビヤ湾がイギリスに封鎖され、捕まり、船上で死んでいった数百のオランダ船員もここに埋葬された。
又現在のワヤン博物館である元New Dutch Churchの墓地が取り壊されたときもその墓はここに移送された。目印にHK(Holandsche kerk)と彫られている。
現在この1.2ヘクタールの博物館は勿論埋葬地としては閉鎖されているが当時は5ヘクタールあり、1975年整地された時、4,600の遺体は1,200に合葬等され余った土地でとなりの区役所やKONIの建物が建てられたのであろう。博物館としての落成式は1977年アリ サディキン市長により行われた。
Dalam_prasasti
Kapiten_jas

墓、若しくは碑文で有名な物は
ジャカルタ総督、J.H.R. Kohler, A.V. Michiels
ラッフルズ郷夫人、 Olivia Marlane Raffles
悲劇の反逆児、 Pieter Erberveld
オランダの歴史家、Dr. Dtutterheim、J.L.Brandes
伝説のキャプテン Jas Jeremias Van R Riemsdijk
STOVIAの教育者、Dr.F. Roll
支那のダンサー、Miss Riboet及びスカルノ、ハッタの棺等があった。

|

« 嗚呼 フィラテリ ジャカルタ | トップページ | 中部ジャワ地震に哀悼を捧ぐ »

インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事

コメント

綴りはTanah Abangに修正

投稿: 西見 | 2023年4月25日 (火) 13時09分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: タマン プラサスティ:

« 嗚呼 フィラテリ ジャカルタ | トップページ | 中部ジャワ地震に哀悼を捧ぐ »