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2006年6月の投稿

2006年6月30日 (金)

デモに弱いバスウエー

デモでバスウエー乱入 6月30日
昨日、モナス、博物館前でデモがあり、市内の婦人団体や都市貧民連盟から1,000ほどを動員し政府、国民福祉・貧困撲滅大臣事務所に早急な対策を要求し、路上をポスターやのぼりで行進した。道路は一挙に大渋滞を引き起こし、怒った単車や自動車がバスウエーに侵入しバスも
数珠繋ぎとなった。バスウエーシステムもこれには対抗できない訳で、最近5ケ月で3人の死亡事故を引き起こしているこのシステムに溜飲を下げる話であった。今後もデモ作戦にこれが
取られることが予想されるが、市当局も対抗上仕切りブロックの敷設やブロックの高さを高くするかもしれない。ジャカルタの町は至る所、ブロックばかりである。

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2006年6月29日 (木)

ピアノコンサート

インドネシア ピアノ コンサート
6月29日 19:30よりエラスムスフイスで行われる
出演はスダルノ氏と福士美和子女子である。
ドビュッシー、シューベルト、ドボルザークの曲から。

今日の話であるから無理なら7月8日にもグランド フェスティバルがあるので 7690470まで問い合わせると良い。

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2006年6月27日 (火)

スハルトの遺産

Taman_mini_056_1
プルナ バクティ プルティウイ博物館の案内 6月26日
博物館内のお土産屋で買った案内書によると下記のことが判った。
このミュージアムはティエン夫人の発案で1987年から5年かけて建設、1993年に一般に開放した。敷地面積19ヘクタール、同名の財団ヤヤサンの役員には5人の子供夫婦が発起人に名を連ねている。
入り口のある建物はStruggle Hallと言い1,215平米の2階建ての輪切りトウモロコシ型の建物で中央部分は丸い尖塔で明り取り兼ねているがそこに10メートル前後の自然大木にびっしりラマヤナのエピソードの彫刻を施されたものが立っている。ホールの壁面全体にスハルトの闘争の歴史が同じく彫刻されたレリーフが取り巻く。2階の部分はトウモロコシの実の部分のホールの周囲だけである。
このホールを抜けるとメインビルディングでホールと同じ高さの円形状でその十数倍の広さ(18,605平米)である。同じく中央部分は尖塔状となっているが此方は7階建てとなっているようだ。この中央の尖塔を囲むように小さめの尖塔兼明り取りが9個並んであり、この2階の屋根の平面部分にびっしりモザイクがしつらえてある。
このメインビルに何万点という贈り物が展示してあるが、案内書には40点ほどの紹介で日本人では渡辺美智雄の名前を見つけられた。
最初のホールに相対するが如くその奥に同じサイズの2階建てホールがあり、こちらは指導者に求められる8つの要素を表す大きな8つのWayang Kuritを展示、2階は家族の写真館のようである。指導者に求められる8つの要素とはMakutha Ramaに言う宇宙の8要素で月曜から日曜までと星とのことである。
この二つの縦のホールより少し小ぶりホール(567平米)がメインの左右横に引っ付いているが、これには一つは勲章類のスペッシャルホール、後一つは図書館となっている。
駆逐艦と思われるインドネシア海軍の艦艇はKRI Harimauと称し、スハルトが地区司令官であったときの西イリアン解放のTRIKORA作戦でアルー海域で活躍したものを海軍が寄贈したものとある。
その他大統領と夫人が愛用した自家用車(キャディラックやオールズモビル等)4台の展示館、レストラン、クリニック、バラ園、オーキッドガーデン、魚釣り池、遊園地、シャトルサービスまであるにはあるようだ。

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2006年6月26日 (月)

ジャカルタの大気汚染

青空が無くなったジャカルタ 6月25日
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日曜日寝室に差し込む朝の太陽で飛び起きた。早速朝のジョギングで外に出てみて、そういえばジャカルタの空気が異常に煙っているのに気が付いた。前回は雨季ジャカルタだったからかも知れない。クニンガンにあるアパートの屋上からモナス方面を眺めてみると林立するビルの影がスモッグで向うに行くほど白く霞んでいく。視界4kmと言うところか。世界の空で一番汚染されているのは北京だという。多分世界の工場を任ずる共産党工場が吐き出す石炭火力の煙だと想像がつくがジャカルタは工場の煙より、ポンコツバスの排ガスであろう。或いは自動車より2輪車の方が汚染物質を含むというので2輪車の急角度の販売のせいでいまやジャカルタが世界の大気汚染度トップクラスであることは間違いないであろう。禁煙条例やバス専用レーンでは追いつかないだろう。渋滞をなくしたり歩道の整備の方が効果がある。バスレーンでは駅まで或いは駅から歩く必要があり、歩くのを敬遠するインドネシア人には合わない。往復乗って街を見物する人だけが利用している。

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2006年6月23日 (金)

スハルト王の財宝

PURNA BHAKTI PERTIWI スハルト王の財宝館 6月22日 
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タマンミニの外側に巨大な博物館が独立してあり、その敷地に絵画博物館もあったので入って見たのであるが、その巨大さと荘厳さに圧倒された。要領の得ない守衛に聞き出した所、これはスハルト元大統領が各国の元首や訪問ゲスト達が持ってきた寄贈品 (Cenderamata )を展示してあるもので、入り口にMUSEUM PURNA BHAKTI PERTIWI と大きな看板塔があるが、広大な敷地には池あり、滝あり、バラ公園あり、池のそばにはスハルトが指揮したイリアン開放戦のときのインドネシア海軍の艦艇実物もある、タマンミニとは別の公園になっており、言わばスハルト公園である。
メーンの建物には木彫り、彫像、陶磁器等広さ2万平米の館内のあちこちに展示してあり、ワンセットで家一戸分ぐらい場所をとる大きなものが多く将にソロモンの財宝を見るが如くであった。建物自体が芸術品で入り口、壁、屋根フロアーまでモザイク等の装飾が施されている。全体がボロブドールを思わせる中央に丸い尖塔のある建物でそれに4つの同じ尖塔建物が付属している。ある部分は7階あるそうである。そういうことも艦艇があったことも後で知ったことで急ぎ足であったからかも知れないが巨象を触るがごときであった。ただ目的とした絵画館の看板は未だあるが、既に閉鎖したとの事である。

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2006年6月22日 (木)

外人狩りに切手博物館に逃れる

タマン ミニに切手博物館を見に、外人狩りを避けて 6月21日
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5月26日にフイラテリジャカルタについて書いた時、本物の切手博物館がタマンミニにあると書いたが実際は見学したことはないので今日思い立ち出かけてみた。
平日はタマンミニインドネシアはガラガラで車でひと周り出来るので独りもんの壮年者には最高である。切手博物館は入場料2,000ルピアであるが入って丸い回廊上の内部は顔を動かすことなく見渡せるほどの小さいものでその壁に切手の拡大写真が貼ってあり家庭団欒のジオラマなど関係の無いものも場所をとっているのでナンと言うことも無く終わってしまった。冷たい大理石のフロアーに寝そべって遊ぶ子供達の写真などを撮って記念とした。

平日のオフイス脱出はお役人と会いたくないからである。この6月はジャカルタ市南区で外人狩りキャンペーンをやっている。DKI市役所から編成したチームで各事務所、レストラン等を訪問しそこにいる外人の滞在許可、労働許可、その他届出関係のドキュメントをチェックするというもので、出張していると言えば地方旅行の公的許可まで求めたり、後で取り調べに出頭を求めたり大変である。まぁ近づかないのに越したことは無い。

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2006年6月18日 (日)

インドネシアのスープ

ソト マドゥラSoto_madura_004
 6月18日
インドネシアのスープは香辛料の宝庫の国だけあって本当に旨い。全国の各州、各市がその地名を冠して競い合っている。スープと言う言葉もソプ、ソト、チョトと三つがあるが、殆どはローカルのものはソトと称する。全40種類のラインアップをインドマルコ社の月刊誌で紹介した中、Soto Maduraを紹介する。これはシリーズ最後のアイテムで町中探しながら諦めていた所、会社のすぐ横の道に並んでいる屋台の中で発見した。 当然のことである。インドネシア料理と言うのは屋台で味あうもので、綺麗なレストランは殆どないしあっても美味しくない。
< Soto Madura >
これもSantan(ココナッツ搾り)を使わない澄んだスープで醤油味、肉としては鶏を使う。ソーウン、もやし、キャベツ、セロリーの刻み葉が入っている。味付けには白胡椒、パラ、にんにく、揚げ玉葱、味の素を使う。

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2006年6月17日 (土)

マンガライ駅

Stasion_manggarai_001
マンガライ駅とパッサール ルンプト
マンガライの水門があるマンガライはその一体の地名となっているが、元はヌサテンガラの地名で、オランダ時代、ここはヌサテンガラから集められて奴隷の市場があったそうである。この奴隷は家庭の下働きする男で日本が占領した当時の下男と言う今は死語となったJongosである。奴隷市場は現在パサラヤがある場所にあったそうだ。又水門の建設と相前後してマンガライ駅が建設された。この地は牧草の生産地で今でもその市場の名前 Pasar Rumputがこの地の市場の名前で残っている。古くからの大木の並木道のある一体は昔の住宅地の名残をとどめ今は埃とごミで荒んでいる。

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2006年6月15日 (木)

ヤニ将軍道路・記念館・銅像

高速道路名の英雄事跡 6月16日
4月29日の「高速道路の国家英雄」で道路名になっている英雄を上げたが内2人の革命英雄についてその事跡を紹介しよう。残りはインドマルコ社に寄稿で出しているので月刊誌を購入されて見てください。
<Letnan Jendral Anumerta S.Parman>
出身は中部ジャワ ウオノソボで1918年生まれ。9月30日事件で殺害され、「革命英雄」(Pahlawan Revolusi)としてカリバタ英雄墓地に眠る。
若い時は医者を志したが日本占領により、日本で憲兵隊の教育を受けることとなった。独立後はジョグジャカルタの警察軍地区司令参謀、ジャカルタ首長軍参謀を歴任APRAの反乱*を鎮圧した。
50年アメリカの軍事警察学校に派遣されたあと、ロンドン駐在武官、帰国後は陸軍大臣・陸軍司令官のAisten I を勤めた。スカルノ末期の共産党の動きに反対した結果1965年9月30日(G30S/PKI)共産党反乱軍に殺害「わにの穴」(Lubang Buaya)に埋められた。
*APRA(Angkatan Perang Ratu Adil):1946年11月にオランダ軍の大尉であるWeterlingが率いるRatu Adil軍が南スラウエシで起こした虐殺事件で後にインドネシアの正式独立後の1950年バンドンでも新生国家に対する反逆的事件を起こしたが新国軍により成敗、Westerlingは国外逃亡した。
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<Jenderal Anumerta Ahmad Yani>
1922年6月19日プルヲレジョ生まれ(スハルトの1年下)。SMA2年中退であるが義勇軍に入る他、独立後は米国司令・参謀連合カレッジで学んだ。中部ジャワ反乱ではBanteng Raider*を組織し活躍、1958年のスマトラ・スラウエシを拠点とするインドネシア革命政府の反乱*を鎮圧でも活躍し陸軍参謀長に任じられた。
共産党により彼も10月1日黎明に拉致され殺害されLubang Buayaに埋められた。革命英雄である。
彼の自宅はジャカルタ ラトゥハリハリ通りに当時のまま残され、前庭にはヤニ将軍の立像が立っている。
*西部ジャワのダルルイスラムと呼応するテガールで起こった反乱。こちらは1954年には制圧された。
*PRRI(Pemerintah Revolusioner RI):分離派Ahmad Husein中尉が中心にSyafruddinを首相としてスマトラに建国宣言、インドネシア国軍は陸・海・空を合体した8月17日オペーレーションをヤニ大佐に命じ、これを鎮圧した。
*Permesta(Perjuangan Rakyat  Semesta):これもメナドに起こった分離独立運動、これも1958年8月鎮圧された。

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集団強盗

最悪化した治安状況 6月15日
最近の事件簿を見るとその凶悪性、日常性、集団性が感じられその悪化した社会に外国の魔の手も入ってきている。日本人が関連した事件はカメラで散歩中の強盗被害やパンク強盗、タクシー強盗があるがこれらは集団で囲まれて発生している。又国際級ホテルでも起こったクレジットカード スキミング被害がある。3~4月の一般の部をサンプル紹介する。(事件の素材はJJC会員向け記事より、省略の為用語変更等あり)
o従業員500名反乱で台湾幹部5人を監禁、 o刑務所で4名脱獄、
oガルーダ機トイレ内幼児強姦未遂(ドイツ人)、
o幼児売買取引所摘発 生後2ケ月で130万ルピア、 
o病院で入院中の社長婦人誘拐、o偽医薬品工場摘発、 
o元州警察本部長宅に集団強盗、 o催眠術強盗団(マレー系)、
oアパート賭博場摘発、 o売春婦宿(中国人40名他)摘発、 
o空港税関職員が大掛かり密輸、 
o痺れ薬を使った強姦・強盗(トルコ系)、
o銀行から金を引き出した直後の拳銃射殺強奪事件、
o小学校から性産業目的で女児6名人さらい、
o麻薬栽培地摘発、 o別件で麻薬工場も摘発 (国際麻薬組織か)
大統領もパンク強盗仕掛けの釘で被害、ジャカルタの強盗は月間3~40件、住宅に集団で押し入るもの多く、且つ被害総額が異常に大きいのも特色だ。

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2006年6月13日 (火)

マンガライの水門

マンガライの洪水防止ダム(水門)
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ジャカルタは低地である。北海岸では海抜マイナス1メートルの所もある。又ジャカルタに流れる大小13の川はタルマネガラの時代からこの地を毎年、洪水にした。
この地に入植したオランダも洪水には悩まされたが、これを制御したのはやっと20世紀の初めでそれがこのマンガライの水門である。南から流れてきたチリウン川はここで当時の住宅地ウェルトフレーデンの方に向かうがこの流れを西に流す役目である。
西に分離された川を地図で追うと、まずこの運河はKali MalangとなずけられこれはスティアブディのWaduk辺りから北上するものと更にカレットテンシンまで向かうものに分かれる。北上するものはタムリンの裏側からタナバンやチデンを通りKali Besarとなる。この間をKali Krukutと言い、ジャカルタが瘴癘を極めた昔、カリブサール辺りから毎日墓場に死体を運んだことで名前が残っている。Kali Krukutはカレットテンシンの辺りで上流からながれ込む川もKali Krukutといいこれは北にたどればクマン、チランダック、マトワゴルフ場からチリウンの上流まで行く。
カレットテンシンまできたKali Malangは 大きなBanjir Kanal(なぜか洪水運河となずけられている)の名前でトマンまで一気に北上、アンケでKali Angkeと合流したりKali Muaraとなってジャワ海に注ぐこととなる。
この水門はおよそ100年になるが殆ど修理を加えることなく役目を果たしている。このコンクリートの柱などはイギリス製でイギリスから運ばれたと言う。他にオランダが築いた水門としてはこの下流のKaret、上流ボゴールのKatulampa、それに多分イステクラルの水門がある。このオランダの遺産は市の保護史跡として指定されている。現在も毎年洪水はつき物であるが、これは上流の乱開発と下流の人口増の結果である。

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2006年6月11日 (日)

ジャカルタの像 英雄?農夫の像

ジャカルタの英雄の像 6月11日
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インドネシアの英雄で道路に名前を残す中で銅像となって立っているのも多い。スデルマン然り、ディポネゴロ然りである。
英雄全般で言えば英雄の像(Patung pahlawan)と言う名前の像もあるが、多くの人は、はてな?と思うだろう。これはMenteng Prapatanの Hotel (Hyatt)Aryadutaの前の像であると言えば思い出すだろう。 戦場に息子を送る母親が食事を与えている親子の像である。この像はむしろ農夫の像(Patung Pak Tani)と言う俗称で知られている。
一人の農夫に若い美しい奥さんが連れ添っている姿に見えるからである。
像の下の基盤のPlaque に“英雄を尊ぶ国家は偉大である”と記されているそうだが、車の流れでそこに行き視認するのは至難の技である。
この英雄の像はスカルノがロシアを訪問したとき、同じモチーフのMatveiの像に感銘を受けその彫刻家を招いて作ったといわれる。1963年に設置

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2006年6月 8日 (木)

都営日本橋の無能エレベーター

地下鉄日本橋のエレベーターをぶっ潰せ 6月7日
5月24日のブログ日記で、「羽田に行くとき東西線日本橋で都営浅草に乗り換えるとき荷物を持って階段を上がったり降りたり」と文句を付けたが、それは無能エレベーターを使ったからだと言うことが判った。表示してある行き先と違うところに連れて行かれ、却って遠回り、避けたはずの階段を強いられた。
今度は都営から東西線に乗り継ぐとき東西線日本橋の改札の目の前に東西線ホーム行きエレベーターがあり、これ幸いと乗ると降りたところはホームでなく東西線まで150メートルの表示が目に入った。結局又東西線を探し階段を荷物を持って降りる羽目になった。何の為のエレベーターだろうか。 一度羽田に行くときに失敗し、この学習を生かすことなく羽田からの帰りに又都営の悪巧みに引っかかってしまったことになる。

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2006年6月 6日 (火)

空港手荷物のパソコン検査

福岡空港でも手荷物検査でパソコン検査 6月6日
テロのせいで各地の空港での航空荷物検査は厳しいものがある。テロのジャカルタ・バリと雑踏成田を何度も往復した今までで、パソコンが検査で引っかかることはなかったが昨日の福岡空港ではパソコンの起動までさせられた。その後怒りは缶ビールを飲むにつれ激しくなり、心臓が破裂寸まで行きそうになり逆に慌てた。検査機のパソコンのデータに与える影響が判らずこれを確かめたく、荷物に入れていたパソコンを出した方が良いかどうか尋ねた訳であるが、そうしろと言うのでそうしたが、多分それは単独で検査機に通せと言ったのであろうか、とにかく拒否したところ起動させられたわけである。この時は自分自身もひっかかり、デジカメ、携帯、バンドは当然別にしていたのであるが、コインと小型胸ポケットボールペンが反応したようである。ジャカルタ辺りでは検査は3段階:預け貨物用検査、手荷物検査、搭乗前検査である。預け貨物検査では主として爆発物等禁止品が引っかかるが金属そのもののチェックは無いのでこちらには包丁でも問題ないがライターでも不可である。その後の手荷物ではそれに加え金属探知機で金属類、特にナイフ等をチェックする。スマートに検査を通りたいと思ってもこれらの仕組みは余り教えてくれない。相当な高度技術があることとそれを又破る犯罪を怖れるからかとも善意に解することもあるが、そうではない。X線とCTを掛ける爆発物検査では未現像フイルムデータが殺られるようで、パソコンデータは大丈夫かと聞いても決して100%大丈夫だとはいわない所から、 関わる全ての当事者(それは当局であり、或いは大企業である)が知識が薄く且つ自信が無いからである。 そう言えば、なんでも買ったとき製造者のマニュアルに記載したその商品の危険の警告を見る時、こんなに危険を保証できない日本の製造企業に悲しくなる。
この検査ラインは優先ラインの表示があったが何が優先なのか判らなかった。

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2006年6月 2日 (金)

東京のインドネシア レストラン スデルハナ

東京のインドネシア料理店 スデルハナ
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目黒のインドネシア大使館にVISAを取りに行くとき、目黒から高速2号線高架下を曲がるところにインドネシア家庭料理店と銘打った店「セデルハナ」がある。看板によるとここの女将(?)の母がメナド出身と言うことで既にかれこれ50年(看板には40年とある)営業をしていることになる。
この入居している4階建てのビルを見ると、小生も目黒辺りに住みたいと思ってしまう。先ず3階の花山幸子フラダンス教室に通い、汗を流せるものなら流した後、1回の高松湯と言う銭湯に入りその後セデルハナでビールとナシチャンプール程度のスデルハナな晩酌が出来そうだからである。営業時間等は各自確認頂きたいがセデルハナは3473-0354である。
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大使館からの帰りに逆に五反田駅に向かうべく大使館の裏の道を取るとそこは都会の喧騒の中静かなたたずまいの高級住宅地であり、偶々皇后陛下のお住まいであった元正田邸の跡地の公園に出会う。今は果樹と花壇の「ねむの木の庭」と名付けられている。更に五反田駅を目指して道をたどると最後はこの高台からだらだら降りる桜とつつじで整備されている坂道で下の五反田駅前の道に着く。

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2006年6月 1日 (木)

輝く日本 「菊川」

流れる川のレストラン「菊川」、6月1日
Kikugawa
このブログをスタートした最初の日記に出てくるジャカルタの日本食レストラン「菊川」について今日のジャカルタポストにTiarma Siboro氏が JP誌が用意した「輝く日本」と言うコラムで 「流れる川のレストラン菊川」を執筆しているのでこれを以下に紹介しょう。小生も北のカラオケに行くついでにと言うと何だがよく利用する。余りにも安すぎて気の毒になるほど良心的である。文中の「さらさ」は日系の運輸会社グループが発行するフリーペーパーで数ヶ月前に数回に渡って寄稿文を掲載していた。
ooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooo
インドネシアで一番古い日本のレストラン菊川は中央ジャカルタのチキニにある。オーナーの菊池輝武氏はこの4月21日にそのうぶ声の設立36周年を迎えた。サラサと言うグルメ雑誌に紹介された菊池ストーリーによると彼はこのレストランを作るアイデアが浮かんだのは1960年でこの夢の実現を1963年に着手した。
その当時、インドネシアには日本の会社が急速に成長し始めておりこれらの会社に働いている日本人の多くは友達と外食する場所の必要性に飢えていた。
「中華料理やヨーロッパのレストランは多くあったが日本レストランはゼロであった」と菊池氏は語った。
彼は1969年の4月21日に彼のレストランをオープンした。佐賀県に1918年に生まれた彼のインドネシアへの最初の訪問は1942年3月-軍の将校としてであった。この駐在のときに、彼は北スラウエシのメナド生まれのアメリカ人(訳者注:メナドのインドネシア人のはず)と会った。二人は恋に落ちて、家庭を持つことに決めた。
「4月21日は私には忘れ難い日である。それは私がレストランをオーピンした日である。 それは又私の妻の誕生日でもありインドネシアの国家英雄となった女性運動家のカルティニの誕生日でもあるのです」、と菊池氏は言った。丁度東京でもオープンしたインドネシア料理のレストランの名前「ブンガワンソロ」に思いつきこのレストランにも「Gawa}を入れることにしたと言う。ブンガワンソロとは日本で歌われた一番有名なインドネシアの歌でありジャワの河の名前である。「Gawa」 は同じく日本語での川と「 kiku 」は菊であると彼は言った。
「Kikugawa」 が菊の川を意味するように - 私は河が流れるが如くこのレストランを運営することができることを希望しました。 ここの日本人の間で今非常に人気が高いのも、それは初期の難しい時代があったればこそです。 最初にオープンしたとき、私達はお客に出すパンを探すのも難しかった。」、と彼が思い出しながら語った。 最も贔屓にしてくれたお客はデウィ スカルノプトゥリー、建国の父スカルノの奥さんであった。それにつれ菊池の家族とスカルノの家族は親密な関係になって行った。1965年に崩壊したクーデターの時代の政治的に混乱した中で、菊池と彼のワイフはデウィが娘を出産するときのに助けた。菊池の家族もデウィもそのとき一時的に日本に戻った。
スカルノの家族との菊池の関係は前大統領のメガワティ スカルノプトリの時代も継続した。 メガワティの一人友人は、彼女が政治的に伸びていた時代に既にこのレストランで何度も菊川の料理の味を楽しんでいたと語った。
今日、「菊川」の人気は日本の社会の域を超えている。 レストランへ訪れる誰もが1960年代にそうであったような伝統的な音楽と内部装飾で迎えられる。 以上

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ジャカルタの塔 モナス

ジャカルタの塔 先ずはモナス 6月1日
Monas_terang

ジャカルタは塔と像の町である。町の至る所に立っているが最大はジャカルタのシンボルモナスである。Monumen Nasional(National Monument)の省略でここは独立広場(Medan Merdeka)とも言われる。日本の敗戦直後、独立の熱気に集まった何十万の群集の反日暴動化寸前にスカルノが演説し鎮めたことで世界に独立国としてのメッセージを送ったことは有名である。現在はこの一帯は憩いの広場的に自由出入りできなくなってしまったが80年代までは多くの屋台が取り巻き、レストランや映画館キャバレーや日本のカラオケまであり、連日終夜まで市民で賑わっていた。又ジャカルタの発祥記念日には物産展(博覧会)が催わされたが、これは現在はクマヨラン飛行場後のジャカルタ博覧会場(PRJ)に移った。オランダ植民地時代はKoningspleinと称された。
この広場の中心にこのモナスが立っている。 この塔にはエレベーターもあり頂上の下の展望館からはジャカルタが一望の下に見渡すことが出来る。ここに行くには地下道がある。塔の基盤は独立記念館となっており、独立にいたる歴史ジオラマが飾ってあり、又独立宣言文の原文が残され厚いガラス越しに、又録音されたスカルノの宣言文読み上げの声を聞きながら覗くことが出来る。いつもは見物人でごった返しているが采配人に握らせるとVIP待遇してくれたがそれも数年前の話であるので現在は知らない。変わらないのがインドネシアだ。 この塔はスカルノの発案で1959に開始1961年に第一次オープン後、追加の建設を経て1975年に完成した。
Linggaをイメージしたのか スカルノの最後のerectionとからかう人がいる。独立宣言文の日付は05年となっているが、これは日本の紀元2605年の5年で宣言文が日本の前田海軍武官官邸で、立会いの下作られた証拠となっており、インドネシア政府はこれを隠すのに躍起である。 日付は8月17日でこの1945と8と17はこの塔の設計に織り込まれている。1945は塔を取り巻くフェンスの棒の数、8は博物館の高さ、テラスまでの高さが17メートルと言う具合である。

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