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2006年6月13日 (火)

マンガライの水門

マンガライの洪水防止ダム(水門)
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ジャカルタは低地である。北海岸では海抜マイナス1メートルの所もある。又ジャカルタに流れる大小13の川はタルマネガラの時代からこの地を毎年、洪水にした。
この地に入植したオランダも洪水には悩まされたが、これを制御したのはやっと20世紀の初めでそれがこのマンガライの水門である。南から流れてきたチリウン川はここで当時の住宅地ウェルトフレーデンの方に向かうがこの流れを西に流す役目である。
西に分離された川を地図で追うと、まずこの運河はKali MalangとなずけられこれはスティアブディのWaduk辺りから北上するものと更にカレットテンシンまで向かうものに分かれる。北上するものはタムリンの裏側からタナバンやチデンを通りKali Besarとなる。この間をKali Krukutと言い、ジャカルタが瘴癘を極めた昔、カリブサール辺りから毎日墓場に死体を運んだことで名前が残っている。Kali Krukutはカレットテンシンの辺りで上流からながれ込む川もKali Krukutといいこれは北にたどればクマン、チランダック、マトワゴルフ場からチリウンの上流まで行く。
カレットテンシンまできたKali Malangは 大きなBanjir Kanal(なぜか洪水運河となずけられている)の名前でトマンまで一気に北上、アンケでKali Angkeと合流したりKali Muaraとなってジャワ海に注ぐこととなる。
この水門はおよそ100年になるが殆ど修理を加えることなく役目を果たしている。このコンクリートの柱などはイギリス製でイギリスから運ばれたと言う。他にオランダが築いた水門としてはこの下流のKaret、上流ボゴールのKatulampa、それに多分イステクラルの水門がある。このオランダの遺産は市の保護史跡として指定されている。現在も毎年洪水はつき物であるが、これは上流の乱開発と下流の人口増の結果である。

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