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2006年7月の投稿

2006年7月31日 (月)

目に余るイスラムNUの押し付け

目に余るイスラムの押し付け
インドネシアの最大のイスラム団体であるNahdlatul Ulama (NU)、はムスリムがテレビでのゴシップショーを製作したり或いは視聴することを禁止する布告を出すようである。
これはスラバヤでの総会で討議する予定だと同東ジャワ支部長が語ったと報じられているが、今インドネシアでは11のテレビステーションで週40以上のゴシップショーがあり嘘の噂を作り出たりすることもあり更に発展している。これらはinfotainmentとも言われ、昼メロドラマ(Soap Opera)に次ぐ人気である。まぁ一度世界の先鋭派は自分の根城にじっとしないでお忍びで天国日本を見に来るが良い。

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2006年7月30日 (日)

イリアン開放とヨススダルソ通り

トリコラのアルー海戦
チャワンからタンジュンプリオク港に向かうときチェンパカプティからタンジュンプリオクまでの道路名はヨススダルソ通りでヨススダルソはイリアン開放戦の国家英雄である。正式にはLaksamana Muda Anumerta Yos Sudarsoと言うが彼は1925年中部ジャワサラティガ生まれた。スマランの航海専門学校卒業し独立宣言後すぐBKR-海軍に参加した。各種艦長を務め、1962年イリアン開放の戦時下、アルー海域でオランダの海空からの攻撃を受け乗船した魚雷艇Macan Tutulと共に沈んだ。
イリアン開放戦はスカルノが民衆を含む三者の戦いの司令部 (Trikora)の戦いとして発表、地区総司令官はスハルト少将でヨス・スダルソは海軍総司令官(後任はスドモ)であった。アルー海戦で生き残った魚雷艇ハリマオは現在タマンミニのスハルト公園に飾られている。

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2006年7月29日 (土)

インドネシアテレビ業界地図

テレビステーションの合併
インドネシア政府は国内テレビステーションの健全な発展と地域ステーションの育成を目的とした規則を導入する。通信大臣Sofian Djalilは現在の11は多すぎ5つで十分であり、合併により健全な国内TVステーションとなるのであれば多くの周波数を与える考えである。
現在のTVステーションは
Pt Rajawali Citra Televisi Indonesia (RCTI),
Pt Cipta Televisi Pendidikan Indonesia (TPI),
PT Global Informasi Bermutu (GlobalTV),
Pt Cakrawala Andalas Televisi (Antv),
PT Televisi Transformasi Indonesia (TransTV),
PT Lativi Media Karya (Lativi),
PT Duta Visual Nusantara (TV7),
Indosiar Visual Mandiri (Indosiar),
PT Media Televisi Indonesia (METRO TV),
Pt Surya Citra Televisi (SCTV),
Televisi Republik Indonesia (TVRI).
殆どの放送局は厳しい競争と停滞経済の中での企業の支出の抑制のため収入が落ち込んでいるそうだ。これらはnational stationであり地方にはローカルステーションが地方政府の無制限な認可発行で乱立している。ジャカルタでもSpacetoon、 Jak-TV、O-Channelがある。 スハルトファミリー系、サリム系、アラティフ系のステーションに世界のテレビ王が入って来ているのが業界地図か

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2006年7月28日 (金)

インドネシア27州の民族と祭り

dansa か penariか 
インドネシアの現代写真集として右に出るもののない地方行政専門家 川端氏のホームペイジをマイリストにアップしました。氏はインドネシアのそれこそアチェからメラウケ迄、点ではなく部落部落を訪問しながらそこの民族と風景と行事をカメラに収め私達に生き生きと伝えてくれる。その中のジョグジャの踊り子は小生の写真集dansa2に入れさせていただきましたので両方ご覧ください。
Dansaとしたがダンサーではなくこれは現代又は西洋のダンスを意味するのでやはりPenariの方が正しい。
Photo_1660

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2006年7月27日 (木)

ガトットスブロトとAKABRI

Gatot_subroto_1
ガトット スブロト通り
ガトットスブロト通りはジャカルタのどの地図でも真なかを東西に横切る通りとして見ることが出来る。既に紹介したSパルマンとパンチョランの塔までである。その名前になっているガトットスブロトはそれほどトップの人物ではないようだ。少し調べてみると次のようになる。

1907年中部ジャワ バニュマスで生まれ。  オランダのHIS、マゲランの軍事学校を卒業、オランダの植民地軍(KNIL)に入隊、日本占領時代はボゴールのペタ独立義勇軍の中団長に、独立宣言後は創設TKRに参じた。
1948年マディウンの共産党反乱事件後スラカルタの州知事となり治安を守った。
その後ディポネゴロ軍管区司令官に上ったが1952年の反乱に連座したこともあり辞任した。その3年後呼ばれて陸軍副参謀長となった。 インドネシア国軍士官学校の創設に尽力したとされる。
スハルトの上官で庇護者でもあったため、スデルマンに次ぐメーン道路の名前となったとも言われる。62年に死亡、1週間後独立英雄(Pahlawan Pembela Kemerdekaan)が贈られた。

アカブリ国軍士官学校創設時のいきさつは次の通りである。
インドネシア共和国軍事士官学校が設立される前に、それぞれの軍と警察軍は、すでに士官学校を持っていた。陸軍は、国立士官学校(AMN)を、海軍は、海軍士官学校(AAL)を、空軍は、空軍士官学校(AAU)を、インドネシア共和国警察は、警察大学を持っていた。これらを統合したインドネシア共和国軍の中に軍事アカデミーを設立しようとする考えは、最初陸軍副官ガトット・スブロト陸軍中将によって表明された。この考えは、その後国軍スタッフによって推進された。1965年に0.B.シャアフ少将が長をつとめる、軍事アカデミー設立委員会が設立された。この委員会は、審議の結果として1965年12月10日にインドネシア共和国軍事アカデミーの設立に関する大統領決定書を発表した。この決定書は、A.ガニ準将の率いる軍事アカデミー指導センターによって実現された。1968年1月29日にマグランで、防衛安全長官、M.M.カルタクスマが、軍事アカデミー(普通科)を公式に開校した。

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2006年7月25日 (火)

ミスユニバースで日イ活躍 FPIも

 
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ミスユニバース2006は23日ロスアンジェルスで行われたが、ご承知の通りプエトリコが$250,000の御木本クラウンを獲得し、準優勝は沖縄出身の知花くららさんでした。インドネシア代表のNadine Chandrawinataは未だキャッチしてないがドイツ系の美人故トップ20には入ったものと思われる。(トップ10は他にカナダ、トリニダド、USA、ボリビア、スイス、メキシコ、コロンビア、パラグアイの8ケ国で米大陸が7ケ国) 昨年はArtika Sari Deviがトップ15に入っっていた。
昨年から水着コンテストにもフルに参加し出したわけであるが昨年もイスラム団体のMUIなどが騒いでおり、今年は暴力団的FPIが本性あらわに動いている。FPIは昨日ヤヤサン プテリ インドネシアの会長である元教育相のワルディマン氏とナディンさんを猥褻罪で刑事告発したのだ。FPIは水着に弱く直ぐ猥褻罪を犯したくなるらしい。インドネシア プレーボーイ誌の創刊号~3号のモデルとエディターも告発しているので、世界の物笑いにならなければいいがと心配だ。

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2006年7月24日 (月)

パンチョランの塔が危ない

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ジャカルタ地震でパンチョランの塔が危ない 7月24日
デルガンタラ又はセブンアップの塔

パンチョランの旧空軍本部の前に立っているパンチョランの塔が倒れる危険があるようだ。デルガンタラの塔ともセブンアップの塔とも呼ばれる。マハーバラタの登場人物の空を飛べる力を持つガトットカチャらしいのが今にも空に飛び出そうとする姿勢を示して数字の7の字の塔の上に立つ像である。
64年にスタートしたが9月30日事件で中断したものの何とか建った。当時は多分ハリム国際空港への途中にあり灯台の役割も果たしたものである。スカルノハッタからブカシ方面への高速を建設するときこのパンチョランの塔の移転も議論されたようであるが、結論は現在の通り上り線と下り線の二つのフライオーバーの間に挟まれて立たされている。数年前から脚部に問題があり、傾いている話もあったようで最近の地震騒ぎで市では他のスデルマン像や歓迎の塔も含め検査・調査中である。

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2006年7月23日 (日)

今週のコンベンションホールと歴史博物館

モーターショーと古代土器を見る
今週末のお出かけイベント イン ジャカルタはジャカルタ コンベンション センターでのインドネシア国際モーターショーとジャカルタ歴史博物館での古代発掘物展である。前者は先週から7月30日までヒルトン横のJCC(3107117)でやっているし後者はチリウン川一円で発掘された文化遺物の展示でファタヒラーの旧シティーホールで今月一杯やっている。インドネシアの最先端と古代を取り合わせは如何でしょうか。10時開演?とあるが残念ながら日本からは見に行けない。

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2006年7月22日 (土)

インドネシアカラオケ スナックヒロカ”

四谷のインドネシアカラオケ 7月22日Photo_13

インドネシア時代の仲間と飲むときはよくこの店を使う。カラオケと書いたが貴族?出身のママが居るだけである。インドネシアの歌は相当備えているが最新ポップスはもう何年もないようだ。このようなインドネシアの歌を置いている店にはインドネシア尾根遺産の就労を認めてはどうだろう。EPA交渉などではなぜ介護だけを云々するのだろうか 
この店の名前はママの名前が三善浩子だからヒロカというのだろう。 本当は漢字で枇梠香(TEL:3353-8217)と書く。四谷二丁目の角で屋上に甘栗太郎の大きな看板塔があるビルの2階でる。昨日6時過ぎ、のんびりビールを飲んでいると、突然サイレンを鳴らしながら消防車が3台到着し慌しく放水の準備をし出した。どうもこのビルが火元らしい。半分逃げ腰ながら2階からカメラを向ける。火元から到着した消防車をカメラにとるなど妙なチャンスに恵まれたが、火事のほうは7階で殺虫剤を撒き過ぎで火災報知器が誤作動したためであった。


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2006年7月21日 (金)

チャンティックNo.1

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LEXYかファンビンビンか
はたまた菜々ちゃんか、可愛さNo.1の韓中日代表である。さしずめインドネシアではデシーかな。 Lexyは他の3人合わせても将来含めた活躍度合いは群を抜くのかも知れない。ジャカルタに関係ない人物と思うだろうが実は彼女がジャカルタに来るのである。
本名はファン ヒョスク、79年生まれだから大人である。デビュー曲は「青二才」で2003年その年、SBS TV、MBC TVのNo.1となった。 東京にも4月に来ている。メリーランド大学中退とある。ついでに身長は170cm、体重49kg、その他は上の名前を挙げた所から推定できるがセットでお送りしても良い。 
8月4日から6日までジャカルタのプラザ スマンギ、プリーインダー、クラパガディン3ケ所でライブの集いがある。詳細はカセット販売大手のDISC TARRA(584-7861)に問い合わせ願いたい。
LEXYが韓国No.1かどうかは知らない。 ソンユンアやオ・ヨンスにも目が移る。下はファンビンビンにした。
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2006年7月20日 (木)

ジャカルタのウエスタンバー

Goldenmine
ゴールドマインの金髪娘
ここはヒロさんのブログでも紹介されたので知っている人も多いと思うが小生が2回ほど行った時は日本人の姿は見えなくホテルのロビーなど多くのインドネシア人が憩っていた。Goldmineと言うバーはGolden Boutique HotelのRestoでもある。(TEL:7234-555)
先ずホテルは78部屋の4スター ホテルで一番安いのがDeluxというので頼みやすいがRp300,000++である。 
人気があるのがランデブーパッケージと言う奴で6時間の時間制限でRp175,000++である。
ホテルの2-3階はStudio21と言うカラオケがあり又ヘルスマッサージもあり、One-Stop Entertainment Hotelと豪語している。(Spaがあるといいが)
Goldmineは奥が長いカウンターになっており、フロアマネージャーは金髪娘であった。
何かの話の中でうっかり金髪を撫でてしまったが後で冷や汗物であった。彼女はウズべキスタン?出身だという。そうならその先祖はアジアの韃靼人かモンゴルでアジア人だから、ここインドネシアに居り、ハラスメントにならなかった訳である。金髪は先祖がシベリア流刑となったスエーデン人との混血だったのかも知れない。 それ以上のことは判らないので次回の楽しみにしよう。

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誰かカルティニをしらないか

インドネシア偉いさんにはどこかギャップが 7月20日

ジャワ島地震の18日現在、観測所は余震は54回を数えるが震度が3-4であるので津波の危険はなく自宅に戻ることを勧告している。
又中部ジャワ州知事はこれは未だ州段階で復興できるのでNational Desasterではないとしている。 
更に今回も政府の警戒警報が出ていなかったことでスマトラ地震の教訓が生かされなかったという。それも日本が事前に津波警報を出していたそうであるがインドネシアがそれを握りつぶしたという。 

小さな話であるがカステラや羊羹のお土産で喜ぶインドネシア人は100%いないし、中くらいの話であるが日本が寄贈したとか言うカルティニの像は何処に捨てたのであろうか。
外人の善行はお気に召さないのかも知れない。
このカルティニ像は昔バライ カルティニ(会館)にあったのであるが会館自体まだまだ十分使えるのにモダーン過ぎる会館に立て替えてしまいそこにカルティニの像は無いようだ。 色んな人に聞いてみたがスロパティ公園だと答える奴も居たりして、あちこち探したが判らない。最後は大使館にでも聞いてみるが。。だれかカルティニをしらないか!

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2006年7月19日 (水)

又々!スンダ海峡地震でジャカルタ震度3?

Bakornasに名誉挽回 7月19日
17日のジャワ島地震での被災者速報数字でインドネシアが半日遅れと断じたが一寸違うかな思い直しと19日夕現在の状況を調べていたらジャカルタで大きな体感地震があったとの報があり、これはジャカルタポストとDetik ComとAntaraでキャッチした。スンダ海峡で震度6.2でこれはタンゲランでもボゴールでも感じたらしい。アパートの女中を呼び出したらやっぱりラスナアパートも一寸の間だったが相当揺れたと女中が大声で巻くし立てた。ガスには注意するよういいつけ、又パソコンに向かっている。これは夕刻6時前なので日系では時事通信が報じた段階である。
ジャワ島地震の死亡者数はNHK TV、読売、時事とも525人、毎日は531人であるが、これはインドネシア政府のBakornasが19日13:00現在で発表した数字である。従いBakornasの数字がオフイシアル且つ一番先に発表されるものと言い換えたい。(名誉挽回である) Bakornasは死者525人、行方不明273名、外人は5人(オランダ、スエーデン、パキ、アラブ)との事である。
但し民間メデイアでは Detik Com 471人、Antara 450人、JP 341人、メデイアインドネシアは400名(未アップデート)のままであるし、政府では内務省 341名、保健省380名と報じ、肝心の国民福祉、国防省、社会省のwebsiteキャッチ不能状態であった。

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ジャカルタ貧困物語 将軍へ嘆願

ユドヨノ将軍に少年が嘆願状7月19日
日曜日恒例のインドネシアボーイスカウト ジャンボリーに招かれたユドヨノ将軍の膝元に一人の少年が飛び込んで嘆願状をわたした。
彼は12年生なので高校生3年に当るので大人とも言えるが周りのボディガードを潜り抜け大統領に近づくや「大統領、私の授業料を払うのを援助してください」と言い嘆願状を渡したという。ボディガードの反応如何では大名行列に飛び込んだ農夫同然、切り捨ての危険もあった訳で余りにも無謀な行動である。そう追い込んだのも、たった9万ルピアの月謝が払えなくなった貧しさにある。
ボーイスカウトの子女の家庭は裕福と見られるが、多分Uang Suapのパイプも細くなっているのであろうか 宵越しの金は持たないインドネシア人の生活態度にも問題があるが。。

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2006年7月18日 (火)

又ジャワ島地震で死者多数

天災か人災か エビートに聞く 7月18日
懸念していた地震が又起こった。 多くのなくなった方々のご冥福を祈りばかりである。たった今18日17時のテレビ東京の放送では死者327人行方不明160人だという。
最初の5人から時間を追うごとに増えて来た。政府Bakornas発表も政府系ANTARAもDetikも日本の読売、共同、時事通信の調査より半日ぐらいの遅れがあるようだ。どちらも流石と思う。Detikの今のヘッドラインはプレイボーイ第3号に又イスラム団体FPIが刑法違反で警察に訴えたニュースである。
あの程度でどうして猥褻な事を思い浮かべるのだろうかとこの男共が哀れみ見える。
アチェの大津波からニアス地震、中部ジャワ地震と連続しており、原因がプレートの動きだけに今後も心配である。その間に、火山爆発、鳥ウイルスでの止まらぬ死亡者数、連続して起こる洪水・鉄砲水・山崩れ、人災でもあるガス泥流で失われていく楽園にどうしてここまでと驚くばかりである。この間から鼻歌で大昔のEbietのBeria kepada Kawanを謳っていたのであるが、死者には厳しいがFPIやバアシルや汚職や政府高官の見栄と漁りにはこの歌を投げてやりくなる。
Balangkali disana ada jawabnya mengapa ditanahku jadi bencana, Mungkin TUHAN mulai bosan melihat tingkat kita yang selalu salah dan banggan dengan dosadosa..

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2006年7月17日 (月)

ジャカルタ モノレールとタマンラスナ

ジャカルタ モノレール 7月17日
ジャカルタ モノレール工事が停滞しているようである。ジャカルタポストはこの工事に従事している労務者の悲惨さをルポルタージュしている。時には残業で働かされるかと思うと1-2週間もストップして呼び出しが無いまま過ぎる、今は出ても仲間とゆっくり仕事をするだけである。果たしてこの工事は何時本格的に着手でき又何時まで働けるのか
給料の支払いも無く故郷の家族に送る金もない。。。と

このモノレール工事はジャカルタモノレールコンソーシアム(JMC)と言う民間のコンソーシアムが行っている。元々マレーシアが請け負っていたもので2006年には完成して居るべきものである。現在マレーシアも撤退し金融面で行き詰ったプロジェクトはドバイ銀行シンジケートが参加したが政府に包括的保証を求めている。
他の問題は鉄道車両購入の意見が異なった投資家の間に内部抗争がある。当初は日立の名前が出ていた。その後株主のシンガポールOmnicoは韓国製を押していたがインドネシア側の株主(ITC)がITCの株主であるブカカ(カラ副大統領)に任命することに決めたようでOmnicoは2%を残して撤退、従い今はインドネシア企業グループのITCが98%を保有している。

従い資金的には$650億が必要となっている模様。 先般ドバイイスラム銀行のCEOが来イしスティヨソ市長と共に政府と交渉している。ドバイ銀行側はこのプロジェクトだけでなくインドネシアのポーテンシャルに賭けており、7スターホテル、オペラハウス、海浜大リゾートの開発なども要求しているようである。何か心強さを感じさせる話である。

この工事が行われているラスナサイド通りは豪州大使館爆破事件の後の1年余に及ぶ大使館側の側道の閉鎖に続き、モノレール工事の為の工事資材の占拠で渋滞が日常化している。
このラスナサイド通りの工事で既に橋脚は十数本立ち上がっている。インドネシアのことだから粘り腰で完成まで持っていくことは間違いなかろう。
ラスナ通りのモノレールはなぜかここだけ工事が進んでおり、これは経済調整大臣のバクリーグループが推進する50haのラスナ エピセントラムと言う大都市開発と連動している。タマンラスナアパートも値上がりしつつある。

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ジャカルタ市長選挙 アイドルコンテスト

ジャカルタ市長選挙とアイドル コンテスト 7月17日
ジャカルタは最初の民主主義フェスティバルを準備している。来年の7月に市民が直接州知事を選挙するのである。
スハルト時代は知事は大統領が選んできたため必然軍人であった。アディサディキンが1977年に退任して以来軍人であり、現スティヨソは退役中将である。
スシロバンバンヨドヨノ大統領はこの国最初の本当の民主的に選ばれた大統領であり、その時の法改正で政党が推薦した中からの直接選挙が行われるようになったのである。後12ケ月を残して各政党は候補者選びの真最中である。例えば繁栄正義党では、選挙勝利を宣言し有名なアーティストRano Karnoやジャカルタ軍司令であったBibit Waluyo やAgus Wijoyoが候補者に上っている。さらに噂によると現国警副長官Adang Daradjatun も候補者になっている。
国民信託党はエコノミストのFaisal Basri を候補者にしたが彼は離党して今は闘争民主党の指名を期待して動いている。 前運輸大臣Agum Gumelar や環境大臣のSarwono Kusumaatmadja のビッグネームも踊っている。
この直接選挙で候補者の過去の実績や専門性に基づいた適確な人を選べるのか疑問でむしろ有名人コンテストになると思われる。この4月にチェカレン町長選挙では各部落長による多くの選挙違反が報告されている。最近の各地の地方選挙でもシステムが有効に働かなかったようである。
そこで最近行われたTVショー“インドネシア アイドル コンテスト”に多くを学ぶ必要がある。そこではオープンで出来るだけ多くの分野の視聴者が携帯電話でメッセージを送って参加した。何人かは結果に不満足を表明したがだれも誰がほんとのインドネシア アイドルであるかの疑問は出ていない。
もし公正なオープンな選挙を望むならこのようなインドネシア アイドル ショーの精神を学ぶ必要があるようだ。そうすれば、負けた候補者を含めて、結果に異議を唱える口実も持てないであろう。(JPより)

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2006年7月16日 (日)

ヤニ将軍の戦歴

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ヤニ将軍の戦歴 共和国革命政府PRRIの崩壊 7月16日
6月15日のブログに登場のヤニ将軍の戦績の一つをサトリアマンダラのジオラマから紹介しよう。

独立戦争中、バンテン部隊に合流していた陸軍の軍人達は、1956年11月にパダンにて同窓会を開いた。この同窓会より、アーマッド・フセイン中佐の率いるバンテン会が生まれた。
バンテン会が結成された後、束部スマトラではM.シンボロン大佐の率いるガジャ会、バルリアン中佐の率いる南部スマトラのガルーダ会、そして後に全面闘争(PERMESTA)を生んだヴェンチ・スムアル中佐の率いるマングニ会が中部スラウェシでも生まれた。開発を円滑にする理由で、そのような会は、地方政府の権力に代わり、外国とのバーター貿易を行った。貿易から得た利益のほとんどが、武器の購入に当てられた。
政府と軍の幹部は、その問題を話し合いによって解決しようとしたが、その話し合いの成果は、そのような会によって守られなかった。
1958年2月15日、バンテン会の会長、A.フセインは、インドネシア共和国革命政府(PRRI)を設立を宣言し、中央政府を認めなかった。PRRIは、シャフルーディン・プラウィラヌガラが率いていた。このような暴動を鎮圧する為に、軍は、合同の軍事作戦を実施した。この合同作戦の一つは、A.ヤニ大佐が率いた8月17日作戦であった。この作戦は、西部スマトラの地域をPRRIの支配から解放する事であった。

このジオラマは、8月17日作戦の一環として1958年の4月17日に行われたパダンの町の北側にあるパンタイ・メラの海岸へのAPRIの上陸の様子を描いている。

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2006年7月12日 (水)

ジャカルタのセレブ ローラ アマリア

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ローラ アマリアはジャカルタ生まれの29歳、2001年の日本が製作し、日本の兵士の靴にキスするインドネシアの婦人で論争を読んだ“ムルデカ(独立”に出演しているので日本人にも有名だ。彼女は早くも1988年11歳でインドネシアテレビ映画祭で“アルジュナが愛を探す”でノミニーになることがあった。その後ローラの名前は“ある踊り子の裸の死”という短編作家Seno Gumira Ajidarmaの作品からつくられた映画の踊り子として主演してから有名になった。PanteneシャンプーやスズキバレロのCMにも出演、日本人とのゴシップやポルノ反対派からの槍玉にも上がった。スンダとパレンバンの混血の少女の最新の映画は “Ca Bau Kan”というもので新進演出家Nia Dinataの演出によるものである。
一人のインドネシアの女性の母親探しの話で彼女の母親は1930年ごろcabankan(courtesan高級売春婦)であったが、成功した中国人のタバコ事業者との実らぬ悲恋の話のようだ。
好きなレストランはクマンのUlam Baliだそうである。
写真はKapanlagiより

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2006年7月11日 (火)

ジャカルタ クロンチョン イベント

クロンチョン 全国フェスティバル 2006-III
グドゥン クスニアン ジャカルタでクロンチョンフェスチバルが行われる。これは州政府がジャカルタ市479周年を記念して、文化施設・博物館局を通じてで行われる3回目のもので国民の関心を刺激しクロンチョン音楽への才能と質を高めるものとあるが、それ以上の説明はないので問い合わせたら良い。
場所:Gedung Kesenian Jakarta
日時:7月29日  20:20
場所:Jl. Gedung Kesenian Jakarta No. 1, Pasar Baru
電話:(62-21) 3808283, 3441892、08128324917

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2006年7月10日 (月)

ジャワ戦争とディポネゴロ

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前回ディポネゴロ像について書いたのでその人物を紹介しよう。
ジャワのディポネゴロ王子(1786-1855)
ジョグジャカルタのハメンクブオノ3世の死後、それを継いだのは弟王子であった。母の考えからディポネゴロは人里はなれた瞑想の世界に入った。この自己抑制の規律は殖民政府オランダへの闘争に駆り立てることになる。天から魔剣が彼の足元に下されたとも言われる。1821年は旱魃でその上コレラがジャワに蔓延、人々は極貧のきわみに居た。メラピ山も爆発、不吉な予兆であった。22年にはハメンクブオノ4世が死亡、人々は毒殺されたものと噂した。1825年、オランダがマタラムの聖跡を破壊する違法道路工事を行うや王子の怒りは頂点に達しオランダへの戦いに突入することになる。最初は貴族や宗教指導者多くの民衆がジャワの伝統と信仰を掲げた聖戦にはせ参じたが、オランダの画策にのる貴族社会の分裂もあり5年続いた戦いの中、貧困と病気で破れた。終結交渉に招かれたマゲランでオランダに欺かれ逮捕され市庁舎の獄に繋がれた。その後メナドからマカッサルに流され、その地で失意の中死亡、埋葬された。1825年から1830年迄の5年の戦いで20万のジャワ人が亡くなり、オランダ側も8,000人を失った。(“Jakarta Explorer”より)
この戦争は反植民オランダに対する民衆の戦いとして最初のものであった。
ディポネゴロ軍が拠って戦った中部ジャワのデクソ村は期せずして120年後1948年のオランダ第二次侵攻に首都ジョグジャを撤退した共和国軍の反抗の拠点ともなった。

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2006年7月 7日 (金)

ジャカルタ スナヤンのサウナ スパ

お気に入りの マイ プレイス
スナヤン ゴルフ場の裏手に当る所のパタル スナヤンで新しいサウナ プール付きマッサージが出来ている。My Place Spa & Cafeと言う名前であるが名前通りMy Placeとしてリラックス出来る素晴らしい空間を提供している。昔で言えばメンバー制の大型マンディクラブであるが、BRIセントラルパークにもあったこれらは金融危機後閉鎖されていたところであり、今、会費不要の形で流行ってきた。カレットテンシンからスタンダード チャータード寄りにあるFortuneと言う店もあるがMy Placeは群を抜く。マッサージはスタンダードでRp250,000と料金表にあり、その上段にEntrance料 Rp100,000とあるが、Rp250,000 にはエンタランス料を含んだパッケージとなっているので、エントランスを払えばマッサージは1時間半でRp150,000でやるやらないはお客の勝手で且つ時間無制限でサウナ他諸々の設備が利用できるシステムであることがわかる。 設備を利用しながら何度もここは極楽だね思ったものである。設備はガラス張りのサウナ及びスチームルーム、ワールプール・落とし湯付きの温泉、15x5メートルの深い青いプール、フイットネス用器械、酸素ルーム、オゾンテラピー、瞑想リラックスラウンジがありサウナからでも何処からでも大型プラズマテレビの画面を楽しむことが出来る。リラックス出来るのはこの贅を尽くした作りの他従業員のサービス・応対が良いことである。温泉場であちこち移動の度、乾かしたスリッパを用意し、歯を磨くならすぐ冷たいアクアを持ってくる、顔と名前はすぐ覚えてくれ、靴まで覚えて呉れて帰りには揃えて出してくれた。今週でジャカルタが終わりかと思うと後ろ髪引かれる思いである。
クラパガディン(453-3198)にもあり、グランドウイジャヤ(725-7669)にも出来つつある。
パタル スナヤン(579-40849)はプルマタ スナヤン店とも言う。

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2006年7月 5日 (水)

ジャカルタ住宅フェアー

テンダ スマンギ
いつの頃からできたのであろうか、昔はやったカンポン テンダ スマンギにEXPOが出来ており現在、9日まで住宅フェアーをやっていた。この一帯は金融危機のあとテントや仮小屋でレストラン村を作っていたのであるが、現在はオートショー、ノキアセンター、エレクトリックセンター、ボーリングなどが出来、レストラン村自体は縮小したものの立派な作りで出直している。住宅フェアーはジャカルタ近郊の中小住宅で数千万から3億ルピア程度のものが中心ゆえ従業員用である。或いはブカシ辺りは会社社宅としても面白いかもしれないが、余り用は無かったので売り子の写真を撮ってきた。

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2006年7月 3日 (月)

ジャカルタのスナヤン シティ

アグン ポドモロ グループ 
去る6月23日にスナヤンシティがソフトオープンしている。プラザスナヤンの前、スナヤンゴルフクラブの隣である。ここは昔池があり生簀の池の上にイカンバカールのレストランがあったり、隣にアパート風ホテルなどもあったところである。トップクラスであったプラザスナヤンがくすんで見えるほどこのスナヤンシティは近代的な堂々としたビルである。キーテナントはDebenhamsと言うデパートで高い天井に鮮やかな色彩の照明で区切っており初めて見る英国のデパートは印象的であった。未だ予定の200店以上の店舗の半分弱しか営業していないが見栄はりジャカルタンにファッショナブルなライフスタイルを提案している。
レストランも50店舗も出店しており、日本関係でも8店、本格和食は無いものの現地系の日本食レストラン経営者の確かな展望をもつ旺盛な事業欲に感心する。
経営はAgung Podomoro GroupのPT.Manggala Gelora Perkasa(TEL:723-7979)でTrihatma Kusuma Haliman以下12人のエクゼキュティブである。ホールディング会社はPT.Sunter Agungでスンターやクラパガデイングで力を付けいまや27のプロジェクトを数える。プラザスマンギ、パクブオノレジデンスなどもこのグループである

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2006年7月 1日 (土)

ジャカルタ モナスのディポネゴロ像

Diponegorao_monas
ディポネゴロの像 7月1日
ディポネゴロ通りのバペナスとスロパテイ公園の間にいつからかディポネゴロ像が立っている。多分飾り好きの道楽者スティヨソ市長がやったことと思うがモナスにもあったのであれを移動させたのであろうと思っていたが、本日近づき難くなったモナスに足を運びモナスにも昔通りディポネゴロ像が建っていたのを確認した。従いジャカルタに2ケ所はあることになる。そういえばスデルマンの像も、ガジャマダの像も2ケ所あり、まだまだ飾り立て過ぎが見つかるかもしれない。モナスのディポネゴロ像は1965年、イタリア人が作成したものをイタリアの実業家から寄贈を受けたものである。
ディポネゴロ通りの像もどちらも馬上で指揮を取るデポネゴロであるがデポネゴロ通りの方が反り返り過ぎのアクロバティックであるが両者余り見分けは付かなかった。
有名なラーデンサレーが描いたディポネゴロ逮捕時の絵が歴史博物館にある。

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