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2006年7月10日 (月)

ジャワ戦争とディポネゴロ

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前回ディポネゴロ像について書いたのでその人物を紹介しよう。
ジャワのディポネゴロ王子(1786-1855)
ジョグジャカルタのハメンクブオノ3世の死後、それを継いだのは弟王子であった。母の考えからディポネゴロは人里はなれた瞑想の世界に入った。この自己抑制の規律は殖民政府オランダへの闘争に駆り立てることになる。天から魔剣が彼の足元に下されたとも言われる。1821年は旱魃でその上コレラがジャワに蔓延、人々は極貧のきわみに居た。メラピ山も爆発、不吉な予兆であった。22年にはハメンクブオノ4世が死亡、人々は毒殺されたものと噂した。1825年、オランダがマタラムの聖跡を破壊する違法道路工事を行うや王子の怒りは頂点に達しオランダへの戦いに突入することになる。最初は貴族や宗教指導者多くの民衆がジャワの伝統と信仰を掲げた聖戦にはせ参じたが、オランダの画策にのる貴族社会の分裂もあり5年続いた戦いの中、貧困と病気で破れた。終結交渉に招かれたマゲランでオランダに欺かれ逮捕され市庁舎の獄に繋がれた。その後メナドからマカッサルに流され、その地で失意の中死亡、埋葬された。1825年から1830年迄の5年の戦いで20万のジャワ人が亡くなり、オランダ側も8,000人を失った。(“Jakarta Explorer”より)
この戦争は反植民オランダに対する民衆の戦いとして最初のものであった。
ディポネゴロ軍が拠って戦った中部ジャワのデクソ村は期せずして120年後1948年のオランダ第二次侵攻に首都ジョグジャを撤退した共和国軍の反抗の拠点ともなった。

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