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2006年8月の投稿

2006年8月31日 (木)

メンテンの公園 ダナウ レンバン

Danau_shahril_018
ジャカルタ都心の池と棕櫚の道
都心のこんなところにと驚く大きな池がある。ここは1977年に整備されて公園となったが元々自然の湧き水と雨水で池となったもので直径は200メートルもあろうか
池で釣り糸をたらしている若者が二人、キオスクの親父の話では今までに5kgと8kgの大物を釣ったことがあるそうである。池の周りには何組ものアベックが寝そべっていたが可愛い子は居なかった。
1977年に突然池が出来たわけでなくこれも親父の話である。メンテンは1910年代に街づくりが始まったもので、その当時の地図など見るとちゃんとこの池は存在している。

スロパティ公園からも歩いて5分程度、チキニとHIをつなぐGresik用水路の道(Moh.Yamin)から入り込んだJl.Lembangにあるが、この辺りは高級住宅地であり、ここを離れて用水路を越えてTeuk Umarに向かうとその道には樹高20メートルの太い椰子が50本ほど並んで植えられて車の通行も殆ど無い更に閑静な場所となる。地図をみると道路名はSuwiryoで元の名前はJl.Palem(棕櫚)とある。その道路から右折れする道の一つがチェンダナでスハルト氏の自邸である

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2006年8月29日 (火)

ファインアート・セラミック博物館

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Museum Seni Rupa dan Keramik 陶器絵画博物館
この博物館の建物は1866年~1870年に建てられオランダ植民地の裁判所であった。
日本占領時には兵営として利用、独立後も国軍が使用した。1973-76年はDKIの西ジャカルタ市庁舎となった後、1976年スハルトが博物館とした歴史がある。絵画部門ではインドネシアの近代絵画から現代絵画まで、Raden SalehからDede Eri Supriaまでの有名な画家の絵が鑑賞できる。陶器類(セラミック)部門は多くは明時代の陶器などアンティークからコンテンポラリーまであるが全体的に説明が少ないのがものたりない。正面の玄関ホール部分の1、2階が陶器の部門で後ろの縦に3棟が奥の回廊で二つの中庭を形成する如く繋がっている部分が絵画部門(保有点数450点)である。この絵画館は1976年アダムマリクの発案を当時のアリサディキンに出しスハルト大統領の儀典長であったヨープアベの協力でBalai Seni Rupaとして出発した。従いアダムマリクからの寄贈品も多く見かける。インドネシアの絵画の目覚めは19世紀の半ばにオランダの影響を受けたRaden Salehによるがそれまでは作者不詳の宗教・儀式的なものであった。Raden Salehはオランダに政府留学で10年滞在、ヨーロッパで一斉を風靡するほどに有名で名作はヨーロッパに残ってこの絵画館には「Bupati Lebak」など2点である。
19世紀にはいるとオランダの絵画学校がバリの設立されここを卒業したHofker等の時代を経て1950年有名なAffandi「Potret Diri」、Hendra Gunawan「Pengunsian」S.Sudjoyono「Tiga Wanita」Hendra Gunawan「Pengantin Revolusi」Basuki Abdullah「Wanita」などが輩出、1980年代以降もDede Eri Supria(Urbanisasi)等多くの画家がいるが専門過ぎるので他日、他人にお任せしよう。

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インドネシア サッカー(Sepak Bola)事情 

Copa Dji Sam Soe 2006 8月29日
取り壊されたメンテンスタディアムはジャカルタのプロチームプルシージャのホームグランドでその不甲斐なさにスティヨソ知事が取り壊しの決定を下したと言うことを新聞で読んでサッカーのずぶ素人ながら調べると其れほどではないことが判った。小生の周りでサーカーファンは殆ど居ないので推定もいれて書くとリガ インドネシアは3段階のDivision(全部で70チーム)があり一流チームはDivisi Utama(その下はDivisi Satu及びDua)でUtamaの中を更にインドネシアの東西(地理的ではない)に分けたGroup I、II(Ligina Wilayah I/II)が夫々14チームを抱えて戦う。実際はその下のDivisi Satuの上位も参加する。今年のインドネシアカップ(Copa Dji Sam Soe 2006)はタバコのジーサムスー(サンプルナ社)が昨年に引き続きスポンサーになっているようで現在上位ビッグ8が出揃った。プルシージャはGroup Iで2位(8勝7敗5引き分け)で当然ビッグ8入りを果たしている。
これらのチームは本拠地を夫々の大都市に構えておりちなみにこれらビッグ8を書くと;
Group Iは
Persija Jakarta・・・・・ プルシージャ・ジャカルタ
PSM Makassar・・・・・ PSM・マカッサル  
PSIS Semarang・・・・・ PSIS・スマラン
Persebaya Surabaya・・ プルセバヤ・スラバヤ
Group IIは
Persipura Jayapura・・・プルシプラ・ジャヤプラ
Arema Malang・・・・・ アレマ・マラン(前回優勝)
Persik Kediri・・・・・ プルシック・クディリ 
PSMS Medan・・・・・ PSMS・メダン
地域の中ではアセアンではタイがトップでインドネシアはそれに次ぐ位置を示している。 日本も安心できない来年のアジアカップ2007は財政の問題からインドネシア・タイを含む4ケ国での共同主催となる。

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2006年8月28日 (月)

ジャクサ通り祭り

ジャカルタは浮かれ祭りの真っ最中 8月28日
今一寸街をうろついたら至る所でお祭りにぶちあたる。何のお祭りですかなどと聞く気にもなれずただ傍観する程度。北はファタヒラーの歴史博物館の前庭でいくつものテントのバザーと屋台が並びステージではいいおじさん連中がダンドゥットをがなり立てている。バザーと屋台とダントゥットがどこの祭りでもある共通項である。
Soeropati_078
中央ジャカルタではジャクサ通りの祭り、此処は意外と若い女の子が多く出ていた。多分鼓笛隊パレードで友達も応援に出てきたのであろう。ここはヒッピー・パッカーの安宿街であるためか逆にここに棲むインドネシア人は外国人を普通に接してくれるので安心と気安さではここらあたりが一番の観光地かもしれない。バタビアホテルの横には昼間からディスコが開いていた。
一般人は入りがたい何かが感じられた。この辺りにたむろしているタバコ売りやタクシーの運ちゃんはボス!ボス!と呼びかけてくるので気分が悪い。
南ジャカルタに入るラスナ通りのアパートでも30ほどのバザーテントが敷設され夜遅くまで音楽を流していた。写真はジャカルタに生きる、マイフェアレデイに夫々3枚ほど入れる。

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ジャカルタ陶器・絵画博物館での絵画展示会

インドネシアの画家 8月27日Lukisan_elemen

コタのファタヒラー広場の絵画博物館で絵画展示会(30日迄)をやっている。元々絵画博物館であるので奇異に感じるが、展示作品はジャカルタで“elemen”グループに属する17人の画家の作品を、この博物館の30周年を記念して展示したものと思われる。17人は年齢的には41歳から68歳の油に乗り切った一流と思われるので、念のため名前を記録しておく。各氏とも海外での展示会に多く出品している。
Mulyadi W(1938, Award 2002) Titis Jabaruddin( 1940? Asean, Tokyo, Paris etc exhibit) Indros(1942 Fuku-oka Pameran) Hardiyono(1942) Muryotohartoyo(1942) Samboja (1945) Abdul Rahman(1946) Sri Warso Wahono(1948) Isnaeni MH(1948) Supriyadi(1950) Ambara Indrasto(1950) Subandiyo(1951) J.Bogi(1952) Syahnagra Ismail(1953) Sampurno W(1956) Dwidjo Widoyono(1958) Taufik.P(1965)
博物館はインドネシアの初期の華やかな発展を記念した形でRaden SalehとS. Sudjojonoの胸像が玄関ホールに立ち、 Affandi、Basuki Abdullah、Hendra Gunawanの巨星の作品が中にはレプリカかもしれないが飾られている。昔何かで見たDede Eri Supriaの1977年のUrbanisiasiが印象的であった。My Foto(Musium)に5枚ほど入れておく。

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2006年8月25日 (金)

史跡 メンテン スタディアムの取り壊し


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オランダ時代の1921年に作られた由緒あるメンテンスタディアムが取り壊し中である。ジャカルタのプロサッカーチームプルシージャのホームグラウンドであったが、インドネシアサッカー共々不振でスティヨソ知事が立腹、取り壊しを決定したそうで、一時は反対デモで揺れた。ただここでサッカーが行われたことは無く今はジャカルタ南のLebak Bulusでやっている。ここの黄金時代は1970年前後であるので、デモの中心は多分ノスタルジャーから来ているのではなかろうか。ここはメンテンショッピング大通りに面しており一等地であるが出取り壊し後はグリーンパークにするとの事でデモを抑えたが何れは商業使用となるだろう。インドネシアサッカー連盟の会長は汚職で獄中にあるとかで連盟の活動は低迷している。

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2006年8月24日 (木)

第4回K-ボール AAアジア大会

9月2日からジャカルタでこのアジア大会が開かれる。未だ予定とはなっていたが、選手選抜のニュースもあるので間違いないであろう。調べてみるとK-ボールとは軟式と同じゴム製で重さ・大きさは硬式と同じであるが、中が空洞であるため衝撃加速度・圧縮荷重値は硬式ボールの約1/3だそうである。又AAとは15歳以下の少年と言うことである。
参加国は日本、チャイニーズタイペイ、韓国、中国、フィリピン、タイ、シンガポール、香港、インドネシアで、インドネシアはA、B2チームあり合計10チームの総当り戦なので9月10日までとなる。少年達は2学期が始まっているのに大丈夫なのだろうか。


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2006年8月23日 (水)

スカルノ独立宣言読み上げ前のスピーチ

後藤乾一・山崎功氏の「スカルノ インドネシア建国の父と日本」で、つい2000年になってコーネル大学のケーヒン教授が始めて独立宣言読み上げの前にスカルノが行った演説が見つかったと紹介している。 公表されなかったのは日本の反動が心配だったというような推理になっているが、現在では独立宣言起草記念館の案内書に原文を読むことが出来る。
要点でいえば、「。。。ついに我々歴史において重要な瞬間が来た、日本の時代においても独立への努力は途絶えることは無く、日本に依存するように見えたかも知れないが自身の強さを信じ更に高めてきた。昨晩全国の指導者達と全会一致で独立宣言することを決定した。さあ私達のProklamasiを聞いてください。。。。」
大分端折ったが宣言読み上げの後にも続いているので全文の希望があればお伝えできる。

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2006年8月21日 (月)

サリナースクエアー・ラスナエピセントラム


ホテル・アパート建設ニュース2件 8月21日
* 国営デパート、サリーナデパート(PT Sarinah Persero―社長Ketut Arnaya)は44周年の記念レセプションで現在の立地スペースを利用してホテル等の建設計画を発表した。
ジャカルタではタムリン通りの敷地2.4haをサリナースクエアーと称しアパート、ホテル、デパートの複合コンプレックスに変更するとして着手は2007年、総工費2,000億ルピア、中・上級市民の囲い込みの居住ショッピングセンターの一つとなる。同時にバンドン、バリでもその敷地にホテル(バンドンではRegent Sari Pacific)を建設を始めるそうである。
* ニュースとしては遅いが、バクリーグループのラスナ エピセントラム計画の中では合計で11棟のアパート建設が発表されている。この11棟に入るのか否かは不明であるが既に2棟は半ば完成している。(36階建て、工費3,000億)その他に元々の17棟(内2棟はホテル)であるが、完成すればアパートの林立となる。
  エピセントラムは存命2年程度のグランドゴルフドライビングを破壊して既にマーケティングオフイスは建設し、其の為のバスレーン誘致や側道建設でモノレール建設の渋滞に輪をかけている。その気になればラスナ通りの裏側に新しい道の建設が可能であるがこれは金にならないので誰もやらない。

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2006年8月20日 (日)

前田精海軍武官府

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独立宣言起草記念館
独立記念日の翌日、一寸気になったので独立宣言記念公園と独立宣言起草記念館に行ってみた。気になったのは独立宣言文の年号である。どちらの場所も独立宣言文が銅版や大理石版に刻まれたものがあるがこの年号は本物と同じ年号つまり'05年(皇紀2,605年)であった。流石にこれを1945年に書きなおすごまかしは出来なかったのを確認してほっとしたものである。
記念公園は子供達が遊んでいたが、整備がなされていないようで痛みが激しく、且つ公園内に立つ大きなビルは開拓者の建物(Gedung Perints Kemerdekaan)と名付けられているが埃まみれで四周を金網で囲まれ本来の目的には使われていないようであった。

そこから2kmほど離れた元海軍武官府に回ってみたら3人の伝記展示行事をやっており、既に閉館の時間を過ぎていたが入れてもらえた。3人というのはDewantara、B.M.Diah及びSupomoのことであるが、時間が無いので内部の写真を数枚撮るだけでおわった。16日未明に急進青年派(スカルニ、シャイルルサレー等)に拉致された後、日本軍政官事務所の西村総務部長に独立を認めてもらう為交渉、西村部長は無条件降伏後の独立支援で天皇に類を及ぼすことを配慮しこれを断ったが持って行きようのない怒りに手を差し伸べたのが前田少将でその武官府の設備を提供したことになっている。中にスカルノとハッタとスバルジョの3人の銅像が並んで飾られているが、スバルジョは独立宣言をさせると言質を与え拉致事件を救った人である。中に飾ってあった前田少将がスカルノ達と談話する絵とスカルノが手書きした独立宣言文をタイプするジオラマ及び暗いが起草したときのテーブルのある部屋をMy Fotoに収める。

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ジャカルタの空から

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ジャカルタの空から 8月17日
ジャカルタの大気汚染は前にも記事にした。ジャカルタに飛ぶ今日は空中写真を楽しみにしていたが御覧の通りである。今日は何か特別の理由でもあるのではないかと弁護したいが海と空の間に巨大な汚染層が横たわりジャカルタ市は殆ど見えない。一番奥の汚染層の上の空は、綺麗な自然の美しい青色であるが、近くでも上から見ると曇っている。此処に1ケ月もいるかと思うと息が詰まってしまいそう。

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2006年8月17日 (木)

シャフリール・シャリフディン・シャフルディン

独立宣言から真の独立までに活躍するこの3人は正悪2面あり、名前も似ているので混同する。スタン・シャフリールは国民が不満で迎えたリンガルジャティ協定を署名、最初はシャフリールと同盟したアミール・シャリフデインは更に不利なオランダとの連合を認めるレンビル協定を署名した。シャフルディン・プラウィラネガラはオランダの第二次侵攻でスカルノ逮捕の空白をスマトラ臨時政府で埋めたが1958年にはスマトラにインドネシア共和国から分離独立するPRRIの首班となり、鎮圧された後66年まで投獄された。シャフリールは後にスカルノ批判で逮捕、亡命先で客死している。最も悲惨なのはシャリフデインで倒閣後は逆に先鋭化した人民民主戦線を率い、共産党ムソの反乱に同調しハッタと国軍に反旗を翻すも敗れて銃殺刑となる。色々あるがシャフリールもシャフルディンも国民英雄となっていることも不思議の一つであろう。多分にスハルトのスカルノ排除の中での出来事なのであろうか

シャフリール:1966年死亡、60歳、ライデン大、リン協定調印、客死、民族運動英雄
シャリフディン:1948,43?歳、ライデン大、レン協定、マディウン事件連座、銃殺
シャフルディン:1989,78歳、ジャカルタ法科大、臨時政府及び革命政府、国民英雄

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2006年8月16日 (水)

スカルノハッタ独立宣言記念像

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61年前の今日8月16日の未明、インドネシア初代正副大統領スカルノとハッタは独立宣言を急ぐ急進青年派にカラワンのレンガスデンクロックに拉致された。日本の敗戦で独立への道の再構築を探るスカルノに対しこの急進青年派の動きは17日の独立宣言に漕ぎ着けた。この間の事情は大槻重之氏のインドネシア専科C-5日本の占領の311から317に詳しくこれ以上の解説はない。
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独立宣言文は前田精海軍武官府で夜を徹して行われ、17日スカルノの自宅Pegangsaan Timur No 56の庭で読み上げられた。現在前田武官府は独立宣言原稿起草記念館(Jl. Imam Bonjol No.1)となり、スカルノ自宅一帯は独立宣言記念公園(道路はJl.Proklamasiと改称)となって、その広場にスカルノとハッタが独立宣言文を前に立っている像がある。スカルノの独立宣言の像は最初は既にシャハリール首相時代の1946年に建てられたが、1960年に壊され、又1972年ジャカルタ市長のアディサデキンが再建したが、1980年現在のスカルノとハッタの二人セットの像はスハルトの主張をいれて作り直されたものだそうだ。


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2006年8月15日 (火)

ジャカルタと福岡の手荷物検査

航空手荷物検査
我が故郷の福岡の空港は、残念ながらゲンの悪い飛行場である。前回は手荷物検査でパソコンの起動までさせられたが今回は小さな錫製のポケットウイスキーがやられ可愛い検査官が手を振って匂いを嗅いだ。これはジャカルタ出国時も、又ロンドンテロ直後の羽田でも言われなかったことである。羽田では二日酔いの為ペットボトルもあったがチャンと見せるだけで中身の確認まではなかった。将に前回のパソコンのときも同じで、福岡だけが異常に厳しいので此方の対応も驚くことになる。17日はジャカルタに戻るので荷造りも慎重にやっている。17日はインドネシア独立記念日なので少し気になる。
福岡空港の良い所も言っておかねばならない。それは3Fのレストランフロアーである。
雰囲気の良い店が並んでおり、ここなら市内に住む友人を呼び出しておけば一刻を楽しむことが出来ると感心しつつ、博多ラーメンを食べた後、福岡ちゃんぽんを出す「ロイヤル」のサンプルケースに折角だからと決心しハシゴしてしまった。
ジャカルタ空港も人が何か言いたがるほど悪い所ではない。小生はこの2年で、24回の出はいりをしたが、VISA検査も手荷物検査も一度も何も言われたことはない。 多分インドネシア人は人なつっこいので何か言うことがあってもそれには笑顔を返せばすむことであろう。

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2006年8月12日 (土)

シーラマジッド対アティーク Sheila vs Atiek

Sheilamajid
Sheila Madjid vs Atiek CB
ジャカルタポスト新聞に、マレーシアのNO.1歌手のSheila Madjidがこの12日にシンガポールで公演する機会に彼女を褒め称えた記事がある。
冒頭は 可愛そうなAtiek CB, もし彼女が彼女の余り知られていなかった歌「Antara Anyer dan Jakarta」が1980年代の代表する歌のひとつになることを予測できていたなら、彼女はマレーシアの未だ無名のシーラマジッドと言う歌手がこの歌を彼女のアルバムに入れるのを妨げようとしたに違いない」という書き出しで、それ以来この歌は永遠のヒットとなった。シーラマジッドは1965年生まれであり1985年デビュー、最初のアルバムが「Dimensi Baru]で新しいジャズ風で魅力あるボイスで爆発的な売れ行きであった。2作目の「Emosi」から 「SINARAN」やマレーシアを代表するミュージシャン、P.ラムリーの作品を現代に甦らせた作品集「レジェンダ LEGENDA」も彼女の代表アルバムである。又1996年にイギリスで「Ratu(女王)」というアルバムをリリース、日本でも5本のアルバムを出している。今回のコンサートは彼女の20年の歌の女王としての地位を確固とするものであるとの事である。一方Atiekの方は調べた所、アメリカ人と結婚しアメリカにわたり4年、アチェ津波の募金活動などアメリカの社会で頑張って居るようだ。二人とも85年から90年代それまでのダントゥット一色の音楽界を新しい現代風のポップクレアティブの時代を築いた仲である。他にAtiekは'Maafkanlah Aku'とか'Teman' やBenci Sendiriがある。その歌詞は次のようであるが今度カセットを見つけた時に訳してみよう。
tenggelam di gugusan malam
tak kulihat setitik pun cahya
aku mulai gelisah mulai merasa
terkepung rasa sepi

terkadang di antara kita
ada saja amarah bicara
lalu kita kecewa kita merasa
sesuatu telah terjadi

kasih aku menyesali
semua kesalahan ini
kasih maafkan diriku
semoga kau mau mengerti

terakhir aku bersamamu
kau tersenyum tapi tak bicara
aku mulai gelisah mulai terganggu
rasa benci sendiri

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2006年8月11日 (金)

富山大のインドネシア交流


富山大の人間発達科学部で設立した「インドネシア教育振興会」は今月26日27日市民プラザで 「国際理解・まるごとインドネシア」と銘打ったイベントを開催する。
インドネシアからはユネスコアジア文化センター(ACCU)に採択された大学生交流プログラムの一環としてバリ島、ジャカルタ島*で日本語を学ぶ学生を招待する。
東京で活躍するバリダンスグループ「スカール・リリー」のレッスンも行われる。
以上中日新聞記事の要点である。全国津々浦々でインドネシア出征予備軍の若人が活躍しているのだ。

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ジャカルタ河川浄化協定

ジャカルタの水源地汚染
ジャカルタ特別州はジャカルタに流れ込む河川の水源地を持つ西ジャワ州とバンテン州とその浄化についての協定を結んだ。3大川であるチタルム、チタルム、チサダネは主たる責任州を夫々ジャカルタ特別州、西ジャワ州、バンテン州と定め乾季、雨季を問わない水質の維持に責任を持つこととした。上流での工場排水、建設工事や住民の日常生活からの汚染でインデックスが30を超えている(限度は10である)
ジャカルタ湾の生物を死滅させている水銀、鉛、カドミウム,フェノール等重金属の汚染を減らす目的もある。これらの川は13河川であるが、小生の河川シリーズでは以下があるがカラワン地区は除いている。
Cisadane チサダネ
Kali Angke
Kali Pesanggrahan
Ciliwung チリウン
Kali Krukut
Kali Sunter
Kali Cipinang
Kali Cekeas
Kli Cakung
Kali Cileungsi
Kali Ci Karang
Citarum チタラム

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2006年8月 9日 (水)

スカルノ デヴイ夫人と北朝鮮 

朝鮮新報はデヴィ夫人とインタービューし、次のような発言を報じている。
「なぜ朝鮮だけが核やミサイルを持ってはならないのか.. 朝鮮は破壊的な国で、「ならず者」国家だからと言うなら、「ならず者」国家と言われるまで追い込んでしまったことに目を向けるべきだ。朝鮮側からしてみれば、朝鮮戦争停戦後50年以上も経済制裁を受けてきた。生きる道を閉ざされてきたも同然だ。その点について考えるべきで、ただ非難すべきではないと思う。..私が名誉会長を努める「金日成花金正日花普及後援会」を通じて朝鮮に120トンの精米を届けた。支援米の袋には「with LOVE デヴィ・スカルノ」と書いた。..日本はもっと朝鮮を尊敬すべきだ。..

又デヴイ夫人については以下の如く紹介している。
「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ 1959年、インドネシア共和国のスカルノ大統領と訪日中に出会い、同年11月にジャカルタで結婚。70年、スカルノ大統領が逝去。その後、パリに亡命。社交界の華として賛美され、“東洋の真珠”と称される。80年よりパリからインドネシアに戻り、実業家として、石油、ガスの分野でプラントを設立するなど、各事業を展開。91年、ニューヨークへ移住。環境問題や先住民の生活保護、コンサート・ピアニストとオペラ歌手への支援など、さまざまな活動に携わってきた。現在日本で数々のテレビ番組に出演。全国各地で国際的視野の形成、人生観の確立などをテーマに講演会などを行うなど、多岐にわたり活躍。主な著書に「パリからの手紙」(光文社)、「デヴィ・スカルノ自伝」(文芸春秋社)など。」

お互いに褒めあい労わりあうのが同士の仲の常道である。スカルノにとっては何時までも思い出されては迷惑がっているかも知れない。多分痛恨の悪夢の中、亡くなったのであろうからその心の中は誰もわからないはずだ。。

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2006年8月 8日 (火)

Flora and Fauna Indonesia Product Expo

ボロブドールホテル前のバンテン広場で毎年恒例となった花禽展(Flora and Fauna Exhibition)が開かれている。8月28日までだから未だいけるチャンスは十分ある。200スタンドとも500スタンドともいうので相当規模である。動物の方はtarantula(蜘蛛)、salamanders(サンショウウオ)迄爬虫類が多いというし、マンション住まいが殆どとなった駐在員各氏にとっては植木も縁がないという向きにはクマヨランのペカンラヤジャカルタ(PRJ)で行われているインドネシア 製品博覧会(PPI)が良いだろう。これも毎年行われている。今年は8月15日まで大統領が開所式辞を述べ、科学技術庁も参加している。

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東京タワーとインドネシア

メソニック39MTビル
ジャカルタのモナス タワーやデルガンタラタワーなど、My Blogで巡っているからではないが、何故か東京タワーに行きたくなって今日行って来た。大昔のイメージしか頭の中には残っていなかったが行ってみて見直しするものがあった。芝公園や神谷町の落ち着いた町並みの中、タワー自体も新しく堂々としており、外国人の比率も1-2割り占め、デート風のカプルも多く観光名所を維持している。大展望台が地上150メートル、その上の地上250メートルの特別展望台はエレベーターを乗り継ぐ必要があったがせいぜい15分程度の待ち時間で整然と運転されていた。Tokyo_tower_006

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神谷町からタワーに向かいながら、「この辺にあるかな」と探した所があったが行くほどにタワーの直ぐ近くの下のビルの壁に見慣れぬ記号やデザインで作られたステンドグラスが直ぐ目に付き、ここが探していたあのフリーメーソンのグランドロッジだと直ぐわかった。ジャカルタのフリーメイソンはこのブログでも紹介したし詳しくはインドマルコの月刊誌2006年5月号の寄稿をごらん頂ければ有難い。
後で地図を見るとこの一帯は何故かこのような宗教がらみの施設が多いことに驚いた。増上寺、八幡神社、オルバン教会、霊友会、金地院、幸稲荷...とイスラムを除く宗教が競っている。
フリーメイソンのロッジと隣あったビルは関係あるのかメソニック38MTビルとあり、ロッジ自体も多分メソニック39MTビルと名付けられている所から、勝手な推測であるが森ビルの一族がフリーメイソンと関係しているのか又この一帯をNo.39 (もっと多くあるはず)などと付せるほど多くのビルを所有することになった謂れがあるのであろう。
帰り道、オランダ大使館の横?にも立派なビルがありオランダヒルズ森タワーと言う名前だったが1Fに道路にオープンな立ち飲み焼き鳥屋があり、多くのサラリーマンが談笑していたが、この焼き鳥屋は バリー鳥と言う名前であった。インドネシアを探す気があればこの程度には行き当たる話であった。

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2006年8月 7日 (月)

阿佐ヶ谷の第5回バリ舞踊祭 

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阿佐ヶ谷の55回七夕祭り
阿佐ヶ谷バリ舞踊祭に行ってみた。国鉄 阿佐ヶ谷から北に辿って世尊院横を入って直ぐだったと思う。2分くらいか。駅に降りて3人に道を聞いたが誰も所在はわからず、手を振るだけで顔も見せず歩き続ける疲れた人もいたり、駅前の地図を見入るも、その名も無く困っていると若い娘が地図上を指し示してくれた。小生の手に持っていたバリ舞踊祭のビラで判ったのであろう。地図には神社の記号しか書いてない。神明宮は大きな木立に囲まれた古い大きな神社でその境内の参詣道を舞台に周りを取り囲んで多くの見物客が座り込みとても写真どころではなかった。バリ舞踊には何も知識も無いのとトッペンには面食いもお手上げ、ビールなどの屋台も今年は無かったので早々に七夕祭りの見物に移った。Aug_2006_012
七夕祭りは9日まで。パールセンター街は多くの浴衣がけの男女、家族でごった返しており、ビールもままならず結局家に帰るだけとなったが、娘がその間に17箱も終了させていたので家族団らんの夕食となった。

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2006年8月 6日 (日)

イスラム化する刑法改正案

ナフダトゥールウラマのTV干渉は延期
インドネシアの最大のムスリム組織のNahdlatul Ulama は、GossipやinfotainmentといわれるTVショーを「ハラム」として禁止する布告を出す予定であったが、先のスラバヤでの総会では発行を延期することになった。時間切れで成立しなかったが討議には後2週間掛かると強気の発言を続けているが、ジャカルタポストは批判の意見を紹介している。
クマンのブティックの会社で働くディタは 「私はこの布告がただ空しいだけで本当に意味がない。何をハラム:罪深いという範疇に入れるかは人間によってされることはできない。 布告は何を根拠にしているのだろうか? もしコーランに基づいているというのなら、それは抽象的な何かから取り出されたものだろう。 ある行から何かを翻訳することは多数の意味をもたらすので、他人を禁止するような結果になることはおかしい。この団体こそ自分自身に内省的に観察して、地震犠牲を助ける資金集めのような、多くの人々に役立つ活動をする方が組織にとっていいのではないか」
映画俳優で「遺産と夫への分割」などに出演したルーベン エリシャマは「何を持って罪深いというのだろう。それが間違っているか否かは個人の問題である。もし彼らが罪深いと考えるなら、それはただ彼らのためにそうだからである。 私にとって布告はまあ言わば冗談のようである。 世界中で多くの人が類似のショーを見ている。私にとって、Infotainmentとゴシップショーは些細なことである。このような番組を愛する視聴者はそこに賢明さを学んでいる」
JPは多くの人が拍手を持って迎えていると言うが未だインドネシアにはバランスが取れた多くの人が居ることも
事実だ。 批判をしたくても周りの干渉癖が恐ろしく此処までハッキリいえない人が多いだけである。 こういう干渉事を作るのはこれでゆすったり出来る機会を作っている訳である。真っ正直な仕事をする人が増えてこなければ本物ではない。
一方政府は刑法改正案を出してきたが、相当干渉的である。この他人事を見ていられない干渉癖が投資環境を悪くしている最大のものであるが、他国の事だからこれ以上干渉はすまい。

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2006年8月 4日 (金)

モナス・ムルデカ・ガンビル・イカダ

イカダ記念碑 8月4日
モナス(Monumen Nasional)が立っている所は歴史の変遷とともに色々な呼び方がされ今でもどう読んでいいか判らないほどである。
古くはこの地の最初の開発が19世紀初めのオランダが北のバタビア(城)から南に拡大していた時代で軍事訓練所とか王の広場コーニングスプレインと言われたがその時代から通称ガンビル広場とも言われてきた。日本占領時は一時イカダ(イカタン)広場ともよばれた。 現在もこの地区一帯のクルラハンの地名とがKel.Gambirであり東側の駅名がGambirであるので未だ使われる。つまり広場の名称はLapangan Gambir、 Lapangan Ikada、Lapangan Merdeka、Lapangan Monas、Medan Merdeka、Taman Monasなどとなるが公式地名はMedan Merdekaで一般にはMonasで片付けているのではないだろうか。
Ikada_monumen
  モナス広場の南側に若者がたむろして腰掛けていた記念碑があったので記念に写真を撮っていたが今日ひょんな資料からこれはMonumen Ikadaという名前であることがわかった。但し写真を撮ったときは記念碑周りを調べたが名前を記したものは無かったはずである。

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2006年8月 3日 (木)

バリのフォーシーズン リゾート 

ホテルのランキング 8月3日
バリのフォーシーズンホテルの二つがトラベル+レジャー誌の世界のトップテンにランキング入りしたと報じたが、本日図書館でふと手にした美野香氏の「最高のホテル・極上の部屋」では、この二つのホテルはそれなりに従業員一同が心をこめたサービスをしてこのアウォード獲得に工夫していることが書かれている。ホテルのランク付けは客観的なデータで決まるわけでなくこれらの世界的な雑誌社の読者アンケートでサービスを含めた人気度で決まっている訳である。フォーシーズンホテルは過去5(3?)年でこうしたアウォードの書状が5cmにもなるとの事である。但し一方の大手コンデナスト トラベラーのホテルランキング20には入っていないが此方の雑誌でもアイランド部門はトップはバリであった。これほどバリが世界に愛されているとは思いもしなかったが、この点インドネシアの政府トップもよく認識して欲しいものである。

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2006年8月 2日 (水)

今週末の コンベンションホールと阿佐ヶ谷


今週末のジャカルタ コンベンション センターはホールA、B、1~3でそれぞれ展示会をやっている。3種類のエクジビションが見られるので暇つぶしにはもってこいかもしれない。
ホールA :ジャカルタ シーフード エクスポ:日曜まで
ホールB :インドネシア不動産(住宅フェアー):日曜まで
ホール1~3:ジャカルタウエディングフェスティバル2006:土曜から

日本では阿佐ヶ谷バリ舞踊祭が土曜と日曜行われる。神明宮の掲題で
17時から20時まで80人の舞踊家や演奏家が競演する。入場無料。

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ディルガンタラとガルーダ

ガルーダ航空の誕生 8月2日
スカルノがディルガンタラの塔の建設を思いついた頭の中には独立戦争時代に航空機を調達した思い出があったであろう。それは又現在のガルーダ航空の誕生の話でもある。
1948年スカルノは飛行機を購入する為の資金集めにアチェを訪問した。ガルーダ社のホームペイジにはアチェからの独立支援の為の寄贈となっている。この飛行機はダコタ機種で名前はRI-OO1 セウラワ(Seulawah :金山の意味)ジャワとスマトラの連絡を円滑にし、オランダの空の封鎖を突破する事に使われた。オランダが、2回目の侵略を行った時、RI-001セウラワ機は、オーバーホールの為に国外にいた。 戻すことが出来なくなったので飛行機は、商業の目的に使うことになり、1949年1月29日にビルマのラングーンに本社を置く、インドネシア航空が正式に設立された。これがガルーダの正式設立日である。
民間人の為の飛行サービスを行う他に、ビルマ国内の防衛作戦の為の軍事飛行も行った。

獲得した利益は、新しいダコタ種の飛行機の購入(R1007とR1009)やインドやフィリピンに国費で留字していたインドネシア学生の経費、インドネシア共和国の代表機関の経費、政府と国連のインドネシア共和国の代表機関の間での無線通信を行う為の経費に当てられた。独立後はR1001とその乗務員は、インドネシア共和国空軍の元の基地へ帰還し、Rl-007は、ビルマの民衆に寄贈されたとの事である。
現在のガルーダの保有機は6機種52機、ちなみに日本航空は14機種277機であるそうだ。

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2006年8月 1日 (火)

バリ島が世界のNo.1アイランド

バリのホテルならこれ?
米国のTravel+Leisure誌の世界のベスト・アイランド・ランキングでバリ島が5年連続の1位を飾っている。また世界のベスト・ホテル・トップ100にバリの3ホテルが上位にランクインした。これらは
ホテル・フォーシーズン・リゾート・イン・サヤン(2位)
ジンバランのザ・フォーシーズン・ホテル(5位)
リッツカールトン・バリ・リゾート&スパ(7位)である。
http://www.travelandleisure.com/worldsbest/2006/results.cfm?cat=hotels
NO.1 はSingita Private Game Reserve, Sabi Sands, South Africaである。
このベスト100には残念ながら日本或いは日系は見あたらない。
ガダルカナルの教訓が生きてないのか、何故だろう。よく見るとドイツもないので質実剛健は駄目なのだろう。

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