« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2006年9月の投稿

2006年9月30日 (土)

スカルノハッタ新鉄道線、全国鉄道ネットワーク建設へ

Manggarai - Soekarno Hatt 9月30日
国営鉄道会社(Kereta Api Indonesia)と国営空港整備会社(Angkasa Pura II)はコンソシアムを組んでスカルノハッタ国債空港とジャカルタをつなぐ新鉄道線を建設予定である。
南ジャカルタのマンガライから中央ジャカルタのタナバン、西ジャカルタのカリデレスを通り空港までの絵を描いているが、これだけの土地収用の可能性は難しいはずであるがコンソーシアムでは必要とする多くの土地はAngkasa Puraが既に所有しているとしている。発表のニュースにはプロジェクト総額7,000億、2009年完成、10kmの数字があるが小生には絵空事の一部にしか見えないが。。。

一方政府は全国の鉄道網の建設も計画しておりそれにはジャワ・スマトラでの拡張、カリマンタン、スラウエシ、パプアの新線建設である。この所要資金は11.6兆が予定されているが、この金額は国の財力をはるかに越えている。スマトラでは石炭輸送をサポートすることも狙いとされ、ジャワでは大ジャカルタのネットワーク拡大、カリマンタンでは主要都市を結ぶ500kmのネットワークが含まれている。カリマンタンと東インドネシアのプロジェクトは民間入札を予定している。鉄道建設/経営の民間開放にはPT.KAIの独占とされている1992年の鉄道法の改正が必要となる。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

銀座のインドネシア料理 Balihai

東京交通会館 9月30日
ジャカルタ人の日本日記も9月を飛ばしてしまいそうなので此方に戻ったこともあり何か書かなければならないが。。見つかったレストラン情報程度しかない。
銀座の端の西銀座、銀座INSの2階にBali Haiと言う名前のオリエンタル キュイジーヌとあるのでインドネシアだけでなくタイやベトナムも含むが、入り口の石の彫像や内部の装飾はバリ風である。ここは夜は知らないが昼は30種類のビュッフェが1,260円で提供されるので、インドネシア料理店などに行ってがっかりするようなことはない。
年中無休でティータイムもある。(TEL:3564-1971 URL:balihai.jp)ここは豊橋出身の甲羅グループで全国100店舗以上で展開するブランド数も14ある内の一つである。写真は「Jakarta In Japan」に挿入した。
この日は有楽町の交通会館にある全国各県の食品物産展示販売「村から町から館」や同じ会館にある県別の物産館(北海道、秋田、富山、滋賀、和歌山)をめぐってみるのが主目的であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月29日 (金)

チキニ ホスピタル RS. PGI Cikini

Museum_nasional_sejalah_nov06_052
Raden Saleh Hospital 9月29日
ラーデンサレーのマンションを再度見ようと訪ねてみたが所在する病院の裏の方に行く道が見つからずギブアップしたことがある。今日考えると訪ねた病院はチプト マングンクスモ病院でこれはデポネゴロ通りの先のクラマットラヤ通りのインドネシア大学寄りで、訪ねるべきは隣のラーデンサレー通りのチキニ病院であった。どちらも由緒あるオランダ時代の名残があったので間違ってしまった。
チキニ病院はバタビアに赴任したde Graaf伝道師の妻のAdriana Josinaの働きで実現したもので、デポックで教会の医療サービスに携わってきた彼女は1895年一時帰国の際にエマ女王に嘆願、10万ギルダーの寄贈を得て建設したといわれている。1897年にラーデンサレーキャッスルが建てられ1年後クイーン エマ病院(Koningin Emma Ziekenhuis)として発足した。(購入したとされている)
今日まで貧しい民衆まで手を差し伸べる24時間体制の病院を貫いてきたがその経営は苦しいものがあるようだ。彼女は更にウイルヘルミナの援助も得て奉仕したが1931年に亡くなった。
日本占領時は当時の名前通りチキニ病院として兵士専用の病院となったが独立後、保健省―インドネシアキリスト教会団体が経営するRS.PGI(Persatuan Greja Indonesia)Cikiniとなったものである。病院の裏側にラーデンサレー(1811-1880)のマンションや教会などがある。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年9月28日 (木)

Batavia コタツアー案内Jakartatrail

Komunitas-Historai 9月28日
1月2日に昔のコタツアーについて書いたが、今あるグループが企画している。先日はカリブサール(オランダ時代はGroote Kanal,)、近辺のJembatan Kota Intan bridge (1628年建設)、old Bank Mandiri building、Fatahillah Museum,のナイトツアーをやったようで又10月にも企画している。 次回の企画はジャティネガラのジャヤカルタ王国の伝説を訪ねてということのようである。
詳細はブログhttp://www.kpsbi-historia.blogdrive.comを参照願いたいが、10月6日開催で会費10万ルピアで50人で締め切られる。申し込み・照会はRinie:021.7044.7220、Udjo:0818-0807-3636 にどうぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月27日 (水)

Langgar Tinggi、Pekojanの古いモスク群

Ar-Roudhohモスク
ホテルバタビアのカリブサールの裏側は古い移民達が植民したPekojan地区で長い年月を経た古いモスクが生き残っている。この地区のAngke運河との間の住宅と倉庫郡の中に種族を異にしたイスラム移民が引き続き住んで来た。市の文化・博物館局によればPekojan地区のモスクがMuhamadiyahムハマディアの創設者Ahmad Dahlanアーマド・ダーランと Islam Syarikat イスラム同盟の創設者 HOS Tjokroaminoto チョクロアミノトのような、何人かの有名なイスラムの学者を育てた。彼らは Jamiatul Kheir 、1901年に Shahab 兄弟によって Pekojan で設立されたイスラムの教育機関のメンバーであった。

最も古いモスク、 Ar-Roudhohは貿易のために ベンガルからバタビアまで来たインドの回教徒によって17世紀の初めに築かれた。 人口急増で中東とインド建築文化の入り混ざったスタイルの家が建ちこみ、結果一段大きなモスクAl Anshor が立てられた。
建物自体は朽ちて来ているが、両方共今だ地域住民に使われている。

1740年の中国人大虐殺の後のバタビアでは、中国人グループによって起こされた Tanah Abang地区での暴動が続き、結果インド人の回教徒は貿易取引で増加する役割を果たした。
それで、1748年には共同体は、 Kampung Baru モスクとして知られてる、もう1つのモスクを作り今でもイドリフイトゥリには多くの人が毎年集まるそうである。

最も特有なものとして、1760年に Banten Fatahillah 軍の指揮官ダーランによって建てられたAn - Nawier モスクがある。 彼の墓はまだモスクの裏庭にある。
このモスクは典型的なドーム形のモスクと異なり、トスカナの円柱と四隅のミナレット(タワー)を持つオランダのエリート住宅のようである。 そのLの形をした意匠もモスクとしては特異である。

又最も新しいモスクLanggar Tinggiは中国とポルトガルの建築様式の混合である。
Langgar Tinggi は川の横に位置するため洪水を警戒し高い建物になっているが同時に宗教的な機能をも高めている。市の歴史財産として指定されているにも拘らず一階はコンピュータの店とアラブの香水店の地元の企業家によって賃貸に出されている。 指定された建物であっても自らの維持資金は自ら工面させられているのである。

Pekojan 地区は今でも西ジャワからの住民の流入が続いており、その経済活動はジャカルタの古い持代の移民共同体の物語に取って代わろうとしている。
以上はJP誌の記事の要点を借用したもので、写真もTempo Duluに借用した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月26日 (火)

スナヤンゴルフクラブ 

ジャカルタ市のど真ん中にあるゴルフ場はスナヤンである。郵便番号が10270(TEL:571-0181)であるのでグローラと言う町名でジャカルタ中央区になる。35年程度の歴史のようで1999年にはクラブハウスを大改築しビジターOKのメンバークラブとなり、最近は上級入りを狙ってキャディガールを置いている。 人数的には男キャディーが200人、女キャディが34人だそうであるが、韓国人などは皆、女を選び、又この国の将軍達は傘持ちや揉み揉み係りを引き連れて大集団で回っている。
市の公務員にはシルバー特別料金があるが、現在特別な割引はなく、14時以降のスタートには割引をする、下記の通りのテーブルである。
月曜:198,000、14時以降 176,000
火曜-木曜:242,000 14時以降 176,000
金曜:297,000 14時以降 242,000
土日祝日:495,000 14時以降396,000
以上何れにもキャデーフイーは25,000で含まれている。メンバーシップは15年期間もので1億ルピアと結構高い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月25日 (月)

マイバーのカウンターダンサ

ラマダンとファラテハン9月23日
明日よりラマダンに入るがラマダン期間は遊興施設は営業が制限されデスコ、マッサージなどはこの間営業禁止で1ケ月店を閉めさせられている。カラオケ、ライブハウスの類は営業時間(アルコールの提供)が8時半からと制限され又ラマダン入りの前日・当日と中間及びラマダン明けのレバランは営業禁止である。アルコールの提供については今回触れられていないので居酒屋を含め飲食店は、アルコール提供が認められたとしているが静かにのむべけりのようだ。
本来こういう店で働いている従業員もレバラン手当てを貰う権利があるのであるが店側がその間の乗り切り資金に往生しており多くがレバラン手当てを貰えていないようだ。
1ケ月にも渉る市民の生活の権利を一片の条例で踏みにじることが出来る専制・封建政治が行われるのがイスラム社会である。
昔は地区によって或いは店によってこっそりでも出来たが今はイスラム急進組織の襲撃を恐れ徹底されている。ブロックMの裏側のファラテハン通りの外人(Orang bule)のデスコ街もひっそりとしている。チャンピオンはレストランを兼ねておりレストランとして営業できるが、昔のラファイエット、ペンタゴン(今はマイバーに改名)、トップガン、オスカーは健在で普通なら明け方まで騒ぐ店であるが車一台も駐車していない。
入場料、テーブルチャージ、CCなど一切無く28,000ルピアぽっきりのビンタンビールをラッパ飲みするざっくばらんさがケチ外人に受けているデスコ街で、何日か前に撮ったカウンターの上で水着ガールが踊っていた写真をマイフェアレデーに入れました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月22日 (金)

国家英雄 ニ・アゲン・セラン  

Nyi_ajeng_serang
クニンガンのニ・アゲン・セランの名前が冠されたビルを紹介したがこの名前はインドネシアの国家英雄に叙せられている人の名前である。
ニ・アゲン・セラン(1752年~1828年)
バンテン州セラン生まれ、オランダに反抗したハメンクブオノ一世に仕えた貴族ナタプラジャの息女である。1825年ジャワでディポネゴロ戦争が始まったとき、彼女は既に73歳の高齢であったが、孫を引き連れてデポネゴロ軍にはせ参じた。マングブミと共にディポネゴロ軍団の顧問であった。年老いていたのでいつも輿に乗っての参加であったが、戦半ばで病没。1974年に国家英雄となる。Nyiはスンダ語のニャイで夫人に付ける敬称

| | コメント (0) | トラックバック (0)

共産党アレルギーかスハルト擁護か

9月20日、インドネシア検事総長は共産党を壊滅させた1965年のクーデターの評価について新しい解釈を学校の教科書に記載した文部省当局者と歴史家の犯罪調査を始めた。

学童達はスハルト時代の32年間は、当時将軍であったスハルトが1965年9月30日の共産主義者のクーデターを失敗させ、その首謀インドネシア共産党(PKI)そのものを壊滅することに成功したとするキャンペーンで、そう学んで来た。
2004年の新しい解釈のバージョンは、1998年5月のスハルト失脚の後でもあり、あの事件の裏に正確には何が起こったかを確定されねばならないし、今後その論議が行われるべしとしたものであった。
それに伴い、昨年出てきた歴史教科書の著者は、6人のトップの将官が殺され井戸に捨てられたクーデターではPKIの果たした役割を消去っている。
最大百万人の人々が陸軍と反共産主義の市民軍によって PKI とその支援者が大量殺人で粛清されたといわれている。 何人かのスハルト批判家はこの事件は軍の中での権力争いの結果であったと言う。

Bambang Sudibyo 文部大臣は月曜日に政府は今までのカリキュラムを使用しないことに決めた。彼は同時に検事総長に2004年のバージョンに関して歴史家と他の当局者の責任を調査するように依頼した。
検事総長のオフィスの報道官は、歴史教科書の調査は進行中であるが、それは「人々の間の不安」を起こしていると言って、ことを確認した。
2004年のカリキュラムでは1965年の事件をどのグループにも帰することを止めた。そして歴史家はインドネシア人が将来ともいつか確実に何が起きたか知ることはありそうもないと言う。
Juwono Sudarsono 博士、前の文部大臣はスハルトの失脚後の歴史カリキュラムの最初の修正を支持しており、2004年のカリキュラムでPKI を免責してしまって既にあまりにも時間が立っており、この調査には非常に心配だといった。以上ジャカルタポスト

理解するのが難しいニュースである。 2004年の新解釈を破棄することはPKIの首謀とする旧解釈に帰ることを意味するが、これはスハルトの裁判中止と共にスハルト擁護の動きなのであろうか

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月21日 (木)

ついに探したカルテニの像

昔ディポネゴロ通りのバペナスの前に立っていたカルティニの像がなくなって、その行方を捜していたのであるが、この像は日本からの寄贈であり、この移転についてはジャカルタの日本大使館が対応していたニュースが記憶にあり、探すのに埒があかないので大使館に聞いてみることにした。文化担当の現地職員がそれはモナスにあると答えてくれたので、あんなに何度も足を運んだモナスにあるのは不審であったが、再度行ってみた。モナスはアクセスが難しくそれでも観光馬車引き等に聞いて、ガンビル駅側にあることを突き止めそちらに向かった。この南西の入り口も駐車禁止なので車は一旦ガンビル駅の駐車場にいれてそこから歩くこと10分もして始めてカルティニ像にたどり着いた。
此処はモナスのガンビル駅側の一番モナスの塔から離れた所で、カルティニ像の直ぐ横の電線が垂れ下がっていた。これでは誰も判らないし見に来ないはずである。

初めて見るカルティニ像はイブイブしいが、二人の女学生(多分)に前後をかしずかれた芸術作品であった。基盤に「インドネシアとの友好善隣のシンボルとしてこの像を贈る。-1963年―アジア善隣運動 日本本部」とあった。
移転についてスティヨソ市長と日本大使が署名している移転文書的なものも飾ってあったが、何か場所を貸してやるという猛々しさと一方では卑屈さが感じられた。
寿司屋の大将に話したところ、彼も憤慨し、いい移転先のアイデアをくれた。それはタムリン大通りの日本大使館の前庭である。(尚以前にカルティニ像はバライ カルティニ公会堂にあると記憶違いしていたが像は1963年よりディポネゴロ通りにあり、デポネゴロ像を設置する(2基めであるが。。)ためにその居場所を追われたものであった。


| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年9月20日 (水)

ダーンモゴットと青年道場

Daan_mogot_001
元士官学校が婦女子刑務所に 9月20日
ジャカルタとタンゲランをつなぐ幹線は高速が出来る前はダーンモゴット通りしかなかったが、この通りはジャボタベク地区で一番長い通りである。昔はでこぼこの砂煙の道であったが今はかなり拡張され途中長い陸橋もあるので、日曜日は快適とも言えるが平日はやはり渋滞が大変である。大昔にこの通り沿いに何か軍の施設があるなと記憶に残っていたのであるが、あるときこのダーンモゴットと言う人の事跡を読み、ふと思い当る節があった。
ダーンモゴットと言う人はこの通りの名前ほど知られていないが、インドネシア国軍の最初の士官学校を作った人である。
1942年日本軍が上陸したとき、一人バンドンのオランダ軍司令官本部にオランダの降伏を勧告するため乗り込んだことで有名な柳川中尉が1943年にタンゲラン青年道場を開き、インドネシア青年を訓練した。
青年道場で訓縁を受けたダーンモゴット少佐は1945年11月この青年道場の跡地に士官学校を作り初代の校長となったが、46年1月セルポンの日本軍の弾薬庫に弾薬譲り渡し交渉に行き撃たれて死亡している。
昔の記憶していた場所こそがその士官学校に違いないと思われ、先日日曜日にそこを探しに出かけた所、ダーンモゴット通りのタンゲラン寄りの所に大きな前庭を持つ古い大きな校舎風の建物を探し出すことが出来た。今では何と婦女子専用刑務所のようである。
看板が出ていたので電話で確認したところおぼろげながらも日本の名前が出たのでそうに違いないと確信する。但し校舎とかはその時のものではないと思われるが。。
序に現在の施設の名前をフルネームで書くとPusat Kegiatan Belajar Masyarakat BKBM) “Anggrek” (Daan Mogot No.28C 5523441)とあと、Lembaga Permasyarakataan Anak dan Wanitaと出ていた。現代では刑務所なる言葉はご法度で社会復帰訓練所と言う意味のLPKを使わなければならない。念の為。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月19日 (火)

ニ・アゲン・セラン ビル


ラスナのインドネシア映画センターの裏に大きな10階建てのビルがある。ここは静かな裏通りで警察署もあり、安全なところである。パッサールフェスティバルにカレフールがあったころは賑やかであったが今はこの建物で何か行事が無い限りひっそりしたものである。いつも見る建物であるが、よく見るとチャンとニックネームでGedung Nyi Ageng Serangと名前が付いておりジャカルタ市の色々な施設が入居している。
目玉はジャカルタ市の文化・博物館局(Dinas Kebudayan Permuseuman)、地域図書館(Perpustakaan Umum)、公会堂(Auditorium)、ベタウイ文化局、WIC(婦人国際クラブ)である。図書館は貸し出しできないのが玉に瑕であるが、蔵書数、閲覧設備は充実しており、しゃれた喫茶店風の2階ぶち抜きである。ここは女性の職場みたいで小生など相手の歓迎の態度に気をよくして甘えてしまった。個室持ちの秘書官(Rati TEL:5263223)が案内してくれてこれまた個室持ちの女性課長(Linda TEL:5263228 Kasie Jibang Permuseuman)が応対してくれ、観光関係図書をお土産に6冊も頂いた。
6階にはLatihan Tari(ダンス練習所)があり、ここの責任者にも紹介してもらった。(Bapak Yusp TEL:5263231)帰りにビルの横を見ると今月末までベタウィ文化祭2006をやっている幟があったが聞きそびれたのでRatiさんに聞いてみると良い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月18日 (月)

ホテルFormule 1 オープン 

今はなきメンテン プラザ
メンテンのメンテンプラザが改築中であったが、なんとホテルに生まれ変わっている。
ここはヤン・ダルマディグループが開発したモールで、最初は一寸ブルブラにいい所であったが、インドネシア人の流行追い(マジョリティに所属したいという浮動性)についてゆけず閉鎖、ホテルに生まれ変わったと言う訳である。その間大手ではマーク&スペンサーが入居したり、イタリヤレストカフェのマリオプラザや現地系清潔ラーメン(ビールも無い)があったり、ISOを取ったブルシセハットのマッサージがあったが全て討ち死にした。
1-2階は同じくスターバックコーヒーやイタリヤレストがありSpa&Massageも入居予定となっていたが今後いかに。店の盛衰は今スティヨソ知事の交通政策・道路政策欠如による渋滞などにより大きく影響を受けているようだ。
Formula 1はフランスAccor系のホテルで既に世界的には多数経営しているがインドネシアは此処が最初のホテルでビジネスホテルである。Accor系はSofitel、Grand Mercure、Mercure、Novotel、All Season、Ibisである。料金はRp239,000ネットと格安なだけに作りはいまひとつであるが、ダブルベッドである。但しシャワーのみ、冷蔵庫なし、朝食なしである。(TEL:3921-8007、FAX:314-3677、HP:081808888111、住所:HOS. Cokroaminoto No.79,、Menteng、Jakarta)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月15日 (金)

インドネシア映画センター ウスマル イスマイル

Levi Gunardiのピアノリサイタル 9月15日
いつも会社への通勤の途上ラスナフェスティバルの横のしゃれた建物があり、映画関連の建物とは判っていたのであるが、中に入ってみることにした。中はガランドウで入って来る人はエレベーターで上に上がる。何があるかと聞いてみたのであるが事務所だという。
多分映画製作会社等が入居している映画関係ビルのようである。しかしこのビルにはUsmar Ismailと言う名前がついており、インドネシア映画センターとなっているので公的な施設であり、インドネシア映画の歴史パネルなどがあるはずであるが聞いてもないと言うしそれ以上の興味も無かったのでロビーにあったポスターの写真を撮った。その中に来週のイベントとして19日 フランツリストのピアノ曲のリサイタルが出ていたので興味がある人は行ってみると良い。ガランドウのロビーの奥に扉があり開けてみると小さな映画館であった。多分此処でリサイタルも行われるのであろう。
ウスマル イスマイルは多分インドネシアの有名な演出家と思われる。
映画のポスターは往時の名画で一度見てみたいような題がついていた。
「Cinta dalam sepoton Roti」(一切れのパンの愛)Perfilman_pasungan006

「Perempuan dalam Pasungan」(桎梏に繋がれた女)
後で調べた所この施設は正式にはPusat Perfilman Haji Usmar Ismail, 略称PPHUIで4階にSinematek Indonesia(地下にインドネシアの映画フイルムの保存施設を持つ)を含む各映画団体(製作会社協会、芸術家協会、映画館業協会等)の事務所が、5階には映画関係の図書室があり、シナリオ、ポスター、スチール写真があるとのことである。此処はジャカルタ市が保有する設備であるが、財政難の為一般企業も入居しており、例のジャカルタモノレール社も此処であった。 写真はアルバム「ジャカルタに生きる」に入れる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月14日 (木)

スタンシャフリルのジャカルタの家 

Danau_shahril_028
英雄叙勲は大統領決定書で出されているが客観的基準はないようだ。従いスタンシャフリルもシャフルディン・プラウィラネガラも国民英雄となっていることが不思議だと書いたが、一部の国民が不満で迎え入れなかったということだけでマイナスになることはない。その時代に生きた一人の人間の全身全霊を込め、私利私欲無く国家に尽くし、そして晩節を全う出来た生き様こそ価値があるのである。 小生の基準から行くとスハルトは英雄になることは難しくなろ。
しかしチエン夫人は確か英雄として大統領自身が決めたはずで大統領の夫がならないのもおかしくなる。
ティエン夫人の名前のスラウエシにあるようだ。

「スタンサフリル追想」と言う本の中でスタンシャフリルがジャカルタに住んでいた家が登場するが、それは当時のジャワ通り、現在はチョクロアミノト通りである。ちゃんとNo.61とまで書いてあったので早速探しに出かけた。
渋滞の中道路番号を読みながら探し当て写真を撮ったが、今は誰も住んでいない茅屋である。インドネシア最初の総選挙で国民の支持が得られず惨敗、立身出世主義の輩にはざまられ、体質的に合わなかったスカルノの無定見な投獄処置と折からの病気で外国で逝ったスタンシャフリルの悲運の人生を表すようであった。 但しこの家が本当かどうかは確認できていない。写真はJakarta Tempo Duluに入れておこう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月12日 (火)

スンダ(バンドン)名物のスラビを食べる

Surabi_003_1
ハリムでのゴルフの後、友人は急ぎマイホームに帰る。取り残された独り者はのんびり次なる行事を模索するが、帰りの道はどれも渋滞道路で大変である。ハリム空港裏に抜ける道を取ったところ大渋滞で動けず、引き返しタマンミニに向かう方も渋滞なのでルバング ブアヤからポンドク グデに抜けジャティワリンギンの真っ直ぐにチャワンに出る道を取ることにした。チャワンに近ずくとクリスチアン系大学やイスラム系大学があるが、その先にポンドク風炭火焼の店があり、店員の後姿のあでやかさが目に留まり寄って見た。店の前にバンブーで作りバンブーで葺いた小屋がけで煌々と炭火を焚き、陶器製の鍋で饅頭風食べ物を供している。これはジャカルタには珍しいバンドン名物のスラビと言うクレープとも饅頭とも言える食べ物である。
小麦粉と米粉とココナッツを練ったものを焼くのであるが小生はその豪華版でチーズ、鶏肉、オンチョム(テンペ)、マヨネーズを入れたものを食してみた。饅頭の厚い皮が焦げて芳しく又餅の食感があり美味であった。これで4,500ルピア、砂糖だけのものとか、ミルク、チョコレート、卵、など種々種類は多いがRp1,000~Rp3,000程度である。これでは炭火のコストも取れないのではないかと他人事ながら心配した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月11日 (月)

ブロックMで深夜 PSKをラジア

7月の投稿漏れニュース 
7月27日深夜、クバヨラン地区の商売女(PSK:Pekerja Seks Komersial)の一斉取締りが有ったようである。
彼らはブロックMのターミナルから、ファラテハン通りやマハカム通りと最後はメラワイ通りの彼女らが出没する場所を手入れしたが明け方までにたった9人を拘禁したに過ぎなかったと報じられている。このラジアはこの1週間クバヨラン地区の公務員(Pamong Praja)が行っているものでどうも事前にこの話が漏れていたようである。
Pamong Prajaが警察なのか不明であるが、深夜ブロックMから帰る場合はメラワイ通りは危ない。 日本人と見れば、KITASやパスポートの提示が求められるからである。商売女より金払いが良いからでもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

消費者無視のバクリーが国内富豪第6位に

前経済担当調整大臣で去年の内閣改造で公共福祉担当調整大臣にランク落ちしたアブリザールバクリー氏は最近のフォーブスの長者番付によると国内第6位にランクされている。
氏は措いてもバクリーグループは重工、エネルギー、通信、バイオ、不動産と幅広い活動を展開しているが、何かときな臭い話の中にいる。古くはマンディリ銀への不良債権切捨て問題もあったが公共福祉担当になってもガス泥流事件で地域住民を地獄に突き落とした。ラスナエピセントラムの50ヘクタールの土地など何時入手したのであろうか。
小生は何故かバクリー系とつき合わされ苦労している。インターネットのradnetでも、アパートの電話もバクリー系で、奴らは直ぐブロックする。今回は3回の週末をブロックされたままブログの投稿も出来ない状況に追い込まれた。クレームの電話をしても電話会社の癖に繋がらずどうしようもない。幸いradnetとはおさらば出来たがアパートは簡単にはおさらばできない。管理サービス、保守・警備サービスどれをとっても末端まで利権・権利意識が蔓延している。販売済みアパートの共有敷地に新たに勝手に追加アパートを建てるなど商道徳も地に落ちた。これがインドネシアの元経済団体KADIN総裁であった氏が率いるグループの実態である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 9日 (土)

サトリアマンダラ 軍事博物館

Waspada_perbawisata_003_1
Waspada Perbawisesa 博物館

サトリアマンダラにはインドネシアの歴史をジオラマ化した展示がある。昔入手した案内書には73ケのジオラマがあったが、あれから10年も経ってしまったので新しくジオラマが追加されたかどうか見るために出かけてみた。73番目のジオラマは1973年のスハルトが始めての大統領選挙で選出されたときのものである。
しかし行った日は丁度日曜だったので着いたときは既に閉館しており確認はできなかった。
ある資料ではここはJl.Gatot Subrotoのレストランスクエアー或いはBKPMの横で Tel:5251795、営業時間 月曜日を除く毎日 9:00-15:00 と出ていたが多分日曜は14:30であろう。この軍事博物館はデウィ夫人がスカルノ大統領と夜を共にし或いはデウィ詣でに来る日本の実業家を迎えた宮殿で当時は夫人の弟で自殺を遂げたヤスオ(?)さんの名前をつけたヤソウ宮殿と呼ばれた所である。裏側の庭には海戦シュミレーションや昔の飛行機、戦車類の展示、大統領専用車ドッジなどの展示スペースがある。昔に比べ展示飛行機が多くなったようで未だ建設中でもあった。 よく見るとこの横に5~6階建てのビルがあり屋上部分にMuseum
Waspada Perbawisata(取敢えず最高権力の国防とでも訳しておく)と看板が出ているビルがある。近寄って覗くと人がおり、開けてくれたので中に入ると此処もジオラマが約30位ある。此処はイスラム兵を中心に据えた独立戦での戦時ジオラマで別館の軍事博物館であるそうだ。本館のジオラマはその人の話では新しく追加されたものはないようだったので来た目的はかなったが、折角の新しいこの博物館のパンフなどは置いてないので新しい情報はすくない。
この宮殿は前庭も広く、今は駐車場になっているが全体が公園的であったが訪れる人は少ない。昔は奥に古風なレストランがあり、それがいつの間にかスカルノの長男グントール氏が演出するインドネシアの舞踊と劇を演ずるマナリレストランとなり、それが又いつの間にか屋外バーベキューレストになり、それば更にボリュームアップのデスコになり、今は寂れたビリヤード屋となっていた。インドネシア人に掛かると何もかも寂れてしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 6日 (水)

ベタウィ文化のオンデル2

今なぜかオンデルオンデルが攻撃の的になっているようだ。ジャカルタの誕生日6月22日前後から独立記念日前後のお祭りの中で必ずジャカルタの代表としてベタウイがそしてその文化のオンデルオンデル人形が飾られるからであろう。
今やジャカルタは現代の西洋的ポップな文化のなかにありジャカルタ知事すらこの人形は醜いと発言する始末である。伝統文化も時と共に変化しなければ捨てられるだけだと言い放つ。 確かにいまやジャカルタは多くの民族が集まっており一人先住者的ベタウイが代表するものではないだろうが。。
この人形は竹と紙で作った3メートルもある人形で中に人間が入って踊る。言われは子供達の厄払いである。オンデルオンデルと言うから二人組で男女であるが写真の通り醜いのは醜い。代わりに可愛い踊り子の方をMy Fotoに入れておこう。
但し最近ブログ編集に時間が掛かるのでいつになるか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 4日 (月)

メンテンの広場 タマン スロパティ 

Soeropati_002
スロパティ? スノパティ?
ジャカルタの市中にある緑地として有名なのはモナス十字形広場についでメンテンのスロパティ公園(Taman Suropati)がある。このメンテンはBurgemeester Bishopplein.と呼ばれた時代の古い建物に散りばめられ、このスロパティ公園の周りにも既にこのブログに登場したバペナスのビルやその他パウルス教会、各国の大使公邸などに取り巻かれている。ジャカルタ知事邸もその一つであったが小生が確認したのはアメリカ大使、同公使、オランダ公使、インド大使公邸である。アメリカの公邸は流石に頑丈な目隠し用の高い塀に囲まれているが広い敷地と豪壮な作りの建物が隙間から見え圧倒される。
スロパティ公園には真ん中に小さな噴水といくつかのASEAN芸術家の手によるアバンギャルドな彫刻作品が飾られてている。これはASEAN東南アジア諸国同盟が結成されてその6ケ国の芸術家の作品で平和と調和、兄弟愛を歌い上げたものとされている。
今でもこの公園はインドネシア画家による油絵等が売られるようになった。
この名前の由来はオランダと戦った英雄の名前であるが、似た名前でスノパティと言うのもあるので気をつけなければならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 1日 (金)

メンテンの公園 タマン コドック

Kodok_006
歴史あるサッカー場を取り壊してグリーンパークにする話を取り上げたが、グリーンパークなら仕方がないと反対者が受け入れやすくする口実だと邪推したことが半分当っていた。話はこうである。ジャカルタポスト誌に蛙公園の記事があったのでこれを訊ねて見たのである。スロパティ公園の直ぐ近くにあり、公園は鉄柱の塀で囲まれて乗り越えねばはいれない、公園の役に立ってないとクレームした記事であった。スロパティ公園で聞けば直ぐ判ると思ったが誰も知らない。ふと見ると公園の周りの道の一角に出てくる一方通行の横道があるのが目に付き、此処を探そうとT.Umar通りからM.Yamin通りに出て迂回して近づくよううろうろしているうちにそこに公園を見つけた。確かに鉄柱の塀が胸辺りの高さなので小生には乗り越えられない。周りを3/4周して鍵がはずされた入り口があり、中に入ることが出来た。中は樹木と歩道が配置された程度で一人の青年が本を読んでいた。公園の真ん中に蛙の彫刻がおいてありこれが公園の名前の由来であった。
うろうろしたので方角が判らず付近を歩いてみるとこの公園はなんと例のサッカー場の直ぐ横にあったのである。この辺りには公園が無いからグリーンパークにしようと言うその横にちゃんとあったのである。この公園もサッカー場と同じく古くオランダ時代からのものである。


メンテンの公園 ダナウ レンバン 8月30日
都心のこんなところにと驚く大きな池がある。ここは1977年に整備されて公園となったが元々自然の湧き水と雨水で池となったもので直径は200メートルもあろうか
池で釣り糸をたらしている若者が二人、キオスクの親父の話では今までに5kgと8kgの大物を釣ったことがあるそうである。池の周りには何組ものアベックが寝そべっていたが可愛い子は居なかった。
1977年に突然池が出来たわけでなくこれも親父の話である。メンテンは1910年代に街づくりが始まったもので、その当時の地図など見るとちゃんとこの池は存在している。

スロパティ公園からも歩いて5分程度、チキニとHIをつなぐGresik用水路の道(Moh.Amin)から入り込んだJl.Lembangにあるが、この辺りは高級住宅地であり、ここを離れて用水路を越えてTeuk Umarに向かうとその道には樹高20メートルの太い椰子が50本ほど並んで植えられて車の通行も殆ど無い更に閑静な場所となる。地図をみると道路名はSuwiryoで元の名前はJl.Palem(棕櫚)とある。その道路から右折れする道の一つがチェンダナでスハルト氏の自邸である。
高級住宅地からチョクロアミノト通りの雑踏を30分のほど歩いてみたが、その間に
ふら付く浮浪者3人ほど出くわした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »