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2006年10月の投稿

2006年10月31日 (火)

クロンチョンとトゥグー 10月31日


10月も終りとなるがここ10日以上レバランに甘えて休んでいるのかジャカルタポストのウエブサイトが消えたままである。共和国の方も20日が最後で動きがなく此方は昨日からやっと動き出した。
10月の上旬にクロンチョンのニュースがいくつかあった。ジャカルタポストに二つの論文、一つはVictor Ganap氏の論文“「Krontjong Toegoe」:バタビア時代のポルトガル船員の音楽の遺産”であり、一つはAnissa S.Febrina氏の論評「Tugu の歴史遺産、ファーミリービジネスを維持できるか」である。日本では「クロンチョン歴史物語」と題したデジパックが発売(\3.150)されている。クロンチョンが癒しで見直されているというのであろうか。
トゥグーと言うのはジャカルタのタンジュンプリオク港に近いカンポンの名前でクロンチョンが生まれた所で昔ポルトガル(系)人が幽閉された所からPortugueseの中のからとられたという説と、5世紀のタルマネガラ王国時代の石碑(Tugu)が発見された所であるからとも言われる。

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2006年10月30日 (月)

Hasanuddin通りは小さい

SiSingamangaraja通りに面した検察庁の所在地は何故かSultan Hasanuddinである。この通りはブロックMのバスターミナルに行く小さな道で検察庁の向こう側で地理的には余り関係はない。
ハサヌディンはゴア(マカッサル)王15世の12番目の息子であるが聡明で軍司令官を任され父親の遺言で12番目でありながら16代ゴア王を継いだ。生まれは1631年、王となったのは1553年であるので22歳である。マカッサルは香料貿易の要港であり、オランダは早くからこの独占を望み抗争は続いていたが1666年バタビアのスペールマン艦隊を派遣した。オランダの謀略で敵対するブギス族も敵に回し多くのゴア兵や民衆の犠牲を見て1669年に降伏、王を退位した。インドネシアとオランダとの闘争史ではマタラムのスルタンアグンに次ぐ戦いであった。1973年独立闘争英雄に叙せられた。墓はマカッサルのスングミナサの王族の墓地にある。
同じ名前でチレボン王の息子でドゥマークのファラテハン将軍と共にポルトガルのバンタンを攻め初代バンテン王となったハサヌディンもいる。

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2006年10月29日 (日)

毎日通るSi SingamangarajaXII通り

スディルマン通りからブロックMに向かう道は毎日のように使うが道の名前を知っている人はすくないのではなかろういか 知っていても奇妙な名前で意味は知らないだろうがこれはバタック王と言われた英雄の名前である。この通りで大きな建物は検察庁であるがこの住所はHasanuddinであり、Plaza Blok-M はBalungan、Hotel Losariは既にPanglima Polimとなる。ASEAN事務局とAl-Azharが辛うじてSi singamangarajaである。
Si Singamangaraja 12世は北スマトラ タパヌリ・バカラの王でありイマムでもある。バタックを率いオランダと30年に及ぶ抵抗戦を展開した。
19世紀中葉過ぎはパドリ戦争でスマトラはアチェとバタックを残してオランダに征服されていた。アチェ戦争が起こるやオランダはバタックの土地に部隊を派遣してきたので若干19歳でタパヌリの王であったシンガマンガラジャは1976年バタックの各地の王を糾合しアチェのスルタンとの共同戦線に立ち上がった。1878-82年代は優勢に保ったが、オランダの派遣軍強化で彼は身を隠すことにした。
1883年クラカタウの大爆発で空は掻き曇っていた。オランダは彼に2,000グルデンの懸賞金をかけたがバタック人でオランダに走るものは居なかった。1903年のアチェ戦争に勝利したオランダはバタビアから更に軍を増強、王妃や皇太后、小さな王子たちを逮捕した。
1907年になってオランダはシンガマンガラジャの居所を突き止め、シンガマンガラジャは最後の血の一滴まで戦う戦闘の中戦死した、皇子二人も従い、皇女を膝に乗せての戦死であった。このバタックに勝利してオランダは初めてインドネシアの全土を占領できたことになる。
彼の30年の長期に渉る抵抗の戦いで彼は独立闘争の英雄(Pahlawan Perjuangan Kemerdekaan)に叙せられた。

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2006年10月28日 (土)

Sumpah Pemuda青年の誓い78年記念

Kramatrayagedung
今日土曜7時からジャカルタ クラマットラヤ106番地にある青年の誓い記念館で青年の誓いの78年の記念行事が行われているはずである。1928年10月28日、スカルノの国民党主導で全国の青年団体を招き第2回青年会議を行い、青年の誓いを発表した日である。
記念式には90人の国旗掲揚団 (Paskibra), Marsudirini財団のメンバーやいくつかのジャカルタのSMA生徒と青年の誓い記念館のスタッフが参加する。
普通ならこの行事には小学校、中学校、高校から大学生まで参加するのであるが、今年はレバランであるので、少なめのようである。行事には各種クイズや競争、弁論、詩の朗読がある。この建物は質素な平屋建ての建物で普通通り過ぎてわからない。昔なんとはなく取っていた写真を「Museum」にアップロードしておく。青年の誓いの原文は下記の通りで
Kami poetra dan poetri Indonesia mengakoe bertoempah darah jang satoe, tanah Indonesia.
Kami poetra dan poetri Indonesia mengakoe berbangsa jang satoe, bangsa Indonesia.
Kami poetra dan poetri Indonesia mendjoendjoeng bahasa persatoean, bahasa Indonesia.
第一は「我々インドネシア青年男女はインドネシア国というただ一つの祖国を持つことを確認します」と言う風に「一つの国家、ひとつの民族、一つの言語」を承認するというものである。この会議でスプラプトマンが後に国歌となる「インドネシアラヤ」を発表し、ムハマッド ヤミンは青年の誓いの詩を作っている。

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2006年10月27日 (金)

Panglima Polim通りは人物名

ブロッグMとコスモやマッサージがあるウイジャヤセンターを結ぶ道路がPanglima Polim通りである。この間の東側の主として住宅地の縦や横の道も同じPanglima PolimであるがNo.が付いておりNo.1からNo.15まである。パンリマポリムと読むこの通りはPanglimaが司令官と言う意味であることを昔辞書で知って、それ以来普通名詞だと思っていたが、インドネシア英雄列伝に名前を発見し以下のようなアチェの英雄であることを知った。
Panglima Polim(1891年~1941年)の正式名はTeuke Panglima Polim Seri Muda Perkasa Daud、アチェ生まれのスルタンの皇子。アチェ戦争の最後の段階で部隊を率い活躍したが1903年アチェ軍司令の女傑チュッ・ニャ・ディンと共に捕らえられ牢獄に繋がれた。彼は独立闘争の英雄(Pahlawan Perjuangan Kemerdekaan)として叙せられた。
アチェ戦争は1873年から侵攻するオランダとの戦いとして始まったが束の間の勝利も74年の再侵略で王宮を奪われながら80年台になるとイスラム指導者チックディティロが聖戦を叫び第二次アチェ戦争に突入、テウクウマールなど新興領主層も立ち上がりゲリラ戦を続けた。積極展開するオランダに1903年に一時降伏したが最終終了は1912年であった。

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2006年10月26日 (木)

Prasasti Tugu トゥグー村の古代石碑

以前にMoch.Mansyurをたずねてジャカルタ観光局に言った話をしたがそこの応接室に写真等の額が飾られている。その一つにToguの説明があったので写真を撮ってきた(File:tempo doeloe)説明文には:
5世紀、ジャカルタの地は時のタルマ王国にとって重要な港湾都市であった。トゥグー地区のバトゥトゥンブ村で発見された石碑はプルナワルマン王が二つの河、一つはブカシ地区のCahndrabhagaとチャクンのGomatiとを王宮を経由する運河でつないだ事跡を伝えている。
このトゥグの石碑はジャカルタと周りの地区が洪水の心配の土地であったことを示している。二つの河の運河はその問題を解決するものであった。 21日間で完工したというゴマティ河の運河はその当時にジャカルタ地区の人々がゴトンロヨンの相互補助の精神が高かったことを示している。
トゥグのほかに6ケ所の石碑がジャカルタを取り囲んである。それらはCiaruteun, Kebonkopi、Muara Cianten, Pasir Awi, Jambu 及びCidanghiagである。

注の注:これらは全てタルマネガラ時代のもので内3つはボゴールのCiampea(Batu Tulis)にある。Batu Tulisといえばスメダンにシリワンギ時代の伝説の石碑もある。21日間で11kmの運河を作ったということであるが現在の地図にはそれらしきものは見当たらない。

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Sudirman銅像三体 

Sudirman015
タムリン通りを引き継ぎクバヨランまでの通りはスデイルマン通りでその北端にスデルマン像が建てられている。スデルマン像で小生の知っている所はこの他にサハルジョ通りのバライ スデルマンとメダンムルデカウタラ通りの内務省横の陸軍参謀本部がある。この3体をMy Foto「Musium&Tug」に入れておこう。スデルマン(1915年~1950年)は中部ジャワ バニュマス生まれ、インドネシア国軍の父といわれる。
スラカルタのムハマディア高等師範学校中退後チラチャップのムハマディア原住民学校の教師をしていた。日本占領時に郷土防衛義勇軍(ペタ)に入隊し大団長であり仲間から畏敬される存在であった。 1945年独立宣言後インドネシア共和国国軍の前身人民治安軍で師団長を歴任後すぐの12月には最高司令官に選出される。
オランダの第二次侵攻で首都ジャカルタが陥落された後も、折からの病身に鞭打ち駕籠に乗せられ指揮を取った。ボロの司令官服に身を纏い、バナナなどで空腹を癒し、雨の中、すべる足元をゆっくり進む姿は壮絶であった。 ゲリラ戦の展開、スハルト部隊のジョクジャ攻撃等と国際的支援の声で停戦協定ルム=ロイエン協定がなり、49年7月首都に入城できたが翌1950年34歳の若さで肺結核で亡くなった。
人民治安軍では旧植民地軍系軍人との対立を解消、政治への不関与、徹底抗戦を貫き人民の為の国軍を編成した。人民治安軍(TKR)が創設された日は1945年10月5日であり、これが国軍の日とされ現在まで毎年祝賀式が挙げられている。TKRにはペタ派と植民地軍(KNIL)派のほか各種雑多な武装集団ラスカルラクヤットが馳せ参じた。当初政府は反日ブリタール事件のリーダー、スプリヤディを任命したが、死亡した噂とともに現れず、名誉将校ハメンクブオノ侯他古参将軍は、直前にイギリス軍をアンバラワで破った第5師団長スディルマンを最高司令官に選出したものである

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2006年10月24日 (火)

市来・吉住・スカルノ・青松寺

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小雨けぶる日青松寺に行って見た。そこにはインドネシア独立戦争に散じた市来龍夫と吉住留五郎両氏の功績を讃えるため、スカルノ大統領が立てた記念碑があることを知ったからである。神谷町のNHK放送博物館或いは愛宕MORIタワーを目指していくと愛宕下通りに大きな山門が目に入る。記念石碑を探したが、何処にも見当たらず檀・信徒以外は入れない裏庭から裏の墓地公園まで入り込み、最後は宅配の人が社務所を呼び出している時に聞きだしやっと所在が判った。最初に探した所であるが、その時は判らなかった所である。山門を出て直ぐ右に回り、階段を上がり精進料理「醍醐」の入り口前を左に行きすぐ約20メートルの左手にあった。その通り道はNHK博物館の方に右に右に行くので左側は見過ごしてしまう。竹や木が覆い、変哲も無い石碑にやっと判読できた。
「市来龍夫君と 吉住留五郎君へ
「独立は一民族のものならず 全人類のものなり
「1958年8月15日
「東京にて スカルノ
インドネシア語でスカルノ大統領の直筆と署名入りで“Kepada sdr. Ichiki Tatsuo dan sdr. Yoshizumi Tomegoro. Kemerdekaan bukanlah milik sesuatu bangsa saja, tetapi milik semua manusiaとある。石碑の裏側には南方徴用作家でもあった富沢有為男氏の追悼が記されている。
「市来 龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生
「吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生
「両君は共に青春、恋を抱いてジャワに渡航力学 よくイ語の慈蕾を極め、相次いでイン「ドネシアで現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄追放の厄に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘、転戦のの「ち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダンペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎石となって散ず

大槻氏の「インドネシア専科」によると:両氏は若くしてインドネシアに渡り、1936年ごろ年齢30歳と25歳、ジャワの日蘭商業新聞で知り合うもオランダ植民政府は危険分子とし日本に追放した(再入国ビザをださない)。日本軍の進駐時、陸軍宣伝班、海軍武官府に勤務しつつ独立への民族運動を支援した。独立宣言後市来氏は『陸軍歩兵操典』をイ訳し、吉住氏は『インドネシア独立戦争の戦略戦術』で生まれた直後の国軍を指導した。アブドゥル・ラフマン市来の墓はダンピットにある【日本人の墓 NO.1】、アリフ吉住の墓はブリタルの英雄墓地にある。

夫々がジャワの社会で慕われていたことが判る。市来氏の散華は以下の読み物に詳しい。
参考読み物:http://www1.kamakuranet.ne.jp/murudeka/
http://nikkei-indonesia.com/search.pl?submit=search
写真は「ジャカルタinJapan」に。

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2006年10月23日 (月)

イスラム政党はNOか

先のLSIの調査では、インドネシアではイスラム政党は総選挙で勝利することはない結果を示していると報告されている。
イスラムの学者の故Nurcholish Madjidは1970年代に“IslamはYes, Islam Party NO!”と言い多くの議論を生んだことがあった。トルコやチュニジア、アルジェリア、ナイジェリアはイスラム政党を禁止しているが軍部で押さえつけている部分もあり、インドネシアのモデルにはならない。
1945年の建国時の憲法論争でも2000年と2002年の憲法改正でもインドネシアをイスラム国家とするか世俗的国家とするかの論争は唯一神の崇拝を重んじる文言をいれて、世俗主義が勝利した。イスラム政党は今、疑われない地方地域でシャリアで治める方法を取り、1州と20地域で成功した。
政治において宗教を軽んずることは、非常に危険でポソやマルクでそれは示された。イスラム政党はイスラムを掲げてキャンペーンをし続けるだろう。選挙に勝たなくとも議席を取るのには十分である10-20%はとれる。彼らには国の改善の為のビジョンは無く政党は商品である。
ヌルホリスの名誉のために彼の言葉を再点検してみると、問うべきはイスラム国家やシャリア社会とするべきかではなく、イスラム政党の存在はインドネシアの将来にとって利益があるか或いは有害であろうかということである。
とジャカルタポストは述べている。この論者は有害だと言っているのであろうか。
個人よりイスラム共同体ウンマを第一義とするイスラムでは政治は宗教と不可分であろうが地理的共同体でなく自分達だけの心の共同体を追求するのが良いと思う。その世俗的寛容さがイスラムの歴史で世界に迎えられ広がった理由でもあったはずだ。

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神保町と蘭領印度史

古本街など何十年もなるのに縁がなく行ったことがなかった。一度は闇雲に神田辺りを歩いてみたが果たせず、今度はインターネットで調べた本屋を訪ねて見ることにした。古本街は神田神保町にあり、なまじ神田など冠しているのでJR神田駅周辺を探したのであるが、この一帯広域に神田が冠された名前があり、逆に単に神田のみの町名は無いことがわかった。(東神田、西神田町以外)
これは昔この辺りは神田区と言う区名で1947年に隣の麹区と合して千代田区となった由で、理由の一端が判った。神田神保町にある本屋さんは160店もあるそうで世界一の本の町ということであるので覚えておくと良い。
小生が買ったのは昭和17年発行 定価1円70銭の「蘭領印度史」でオランダ人のエイクマン、スターペル両氏の共著の村上直次郎博士と原徹郎氏の共訳本であった。


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2006年10月21日 (土)

真実は日本でなくドイツに学べ

ジャカルタポストがインドネシアの過去の歴史の真実を今こそ知らしめるべきと主張している。この社説を紹介しよう。インドネシアでは特に政界のねじれの影に多くの人権侵害の事実が隠されている。2004年メガワティの時代に真実調停委員会が設置されたが2年経っても政府も国民も人権侵害の過去を暴くことに消極的である。
スハルトの時代は軍によるアチェGAMに対する残虐事件や東チモール の虐殺事件等数え切れない。1998年のトリサクティでの学生銃撃事件や1998年動乱もあったが政府は一度もそのような組織的虐殺から市民を守れなかったことに対し犠牲者に謝罪したことはない。
ドイツはこの点で良きモデルである。ドイツ政府はヨーロッパとユダヤの人々に謝罪しこのナチの謀略は子供達が2度と同じミステークを犯さないよう教科書にも記載されている。1970年にブラント首相はワルソーのゲットモニュメントに臥して謝罪した。この懺悔でドイツはヨーロッパの和解に大きく進歩した。
一方、大陸の反対側では、日本と隣国との間の関係には歴史の重荷が背をわされている。日本の第二次世界大戦時の暴虐はドイツのそれに劣らず残酷であった。悪名高い731部隊の不快きわまるバクテリアの人体実験でその後生きたまま解剖した事件もあった。又アジアの何万人もの慰安婦の悲しい運命や南京でのレープと略奪事件もある。日本のリーダーは1995年まで社会党の村山首相が日本の戦時の過去の謝罪を発表するまで謝罪することは無かった。しかし日本の謝罪は隣国からは誠実と見られることはなかった。 小泉純一郎首相など数名のリーダーは最も厳しい戦争犯罪と宣告された者の遺骨も含んでいることで批判を呼ぶ靖国神社訪問を続けている。中国の李肇星外務大臣はこれに対しもしドイツがヒットラーやナチス関連する所を訪問したとしたらヨーロッパどう思うであろうかと言った。
又日本の教科書問題もある。そこでは第二次世界大戦の日本の暴虐を軽視し、慰安婦については触れられていない。これが2005年に中国や韓国で反日暴動のきっかけであった。日本は国連安全保障理事会の席を狙ったが二つの隣人により反対された。 一方ドイツの方は敵国であったフランスにより支持された。
日本のケースは本当の和解は、完全な行動により真実をのべ過去の誤りに対する後悔を誠実に表現することによってのみ達せられることを示している。
―省略―
政府はドイツから学び過去の見苦しい事実を明らかにすべきだ。我々は1965年9月30日事件によりなくなった500,000人以上の死者に責任を負っている。
歴史学者George Santayana は言ったではないか“過去を思い出せない者には追体験させるべきだ”と。

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2006年10月20日 (金)

タムリンThamrin通りと銅像

Photo
Muhammad Husni Thamrin(1894-1941)
10月12日のジャカルタ南北線の道路名でガジャマダの続きのタムリン通りの人物名を紹介しよう。
ジャカルタ サワーブサール生まれの穏健民族主義者。 ブタウイの高級公務員の子供として、オランダ学校等で学ぶ。1919年にはオランダが搾取から懐柔の倫理政策に転換するやすぐにバタビアの市議員となる。更には1931年、バタビア協会代表として国民参議院議員に任命される。高まる民族運動でオランダはスカルノ他相次いで逮捕した中、穏健派民族主義を懐柔しようとしたが、タムリンは1935年ブディウトモと共同し大インドネシア党(PARINDORA)を結成、更に1939年には民族運動を統合するGAPIを結成し、紅白旗メラ・プティ、インドネシア国歌のインドネシア・ラヤ、バハサインドネシアの使用を要求した。
1941年には日本との協調を疑われ逮捕されるに至った。逮捕の5日後(1941年1月11日)に急死したが毒殺であるといわれる。
サレンバラヤのパッサールクナリの裏辺りにある記念館の前庭には彼の銅像が立っており、子供達が遊んでいた。この記念館は彼が1929年にオランダ人から購入し民族運動ための集会場所として提供したものである。写真はMuseumと「ジャカルタに生きる」に入れておこう。

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2006年10月19日 (木)

インドネシアのムスリムの心情

イスラム政党の生きる道 10月19日
最近インドネシアの調査研究所(LSI)が行った調査によると1,000人強の回答者のうち50名程度しかイスラム政党に投票しないそうである。 インドネシアの国民は未だPANやPSKよりゴルカール、PDP-Pのような非宗教政党を選ぶ方が多く、43%を占めている。前者は5%に過ぎない。 それはインドネシアの大多数のムスリムには民主主義がイスラム教とパンチャシラと矛盾しない多元性を持つことを示している。この調査では82%が民主主義を信じ、5%が他の意見である。ムスリムの主流は公共の領域はイスラムのシャリアによって規制されるべきではないとする。政治評論家と回教徒学者 Bachtiar Effendy はイスラム政党が今だシャリアで律する国家を論じているが、それは1960年代に終わった話であると片付ける。
「何も LSI の調査を待つこともなく、過去の歴史でイスラムの政党が一度も選挙に勝ったことがなかった」と有名なアメリカの人類学者クリフォード・ギアツの著作を引用して言った。 国民信託党のSayuti Asyathriはイスラム政党が生き残るためにはいっそう多元的にならなくてはならないと言う。 「結局、すべてのパーティーは多元論者でなければならない。」
しかしながら世界最大のムスリム人口を持つインドネシアでは急進、過激派のシンパも多い。政治的な外見上の弱点にもかかわらず、世論調査は宗教的な急進主義と極端論主義が静かにインドネシア人の心を掴んでいる事実も見出した。 調査はインドネシアのムスリムのかなり多くがアルカイダに関連あるJamaah Islamiyahの暴力アプローチを認めている。調査によれば、9パーセントがバリ爆撃を「イスラム教を守る聖戦」として正当化した(但し80.7%が反対)
加えるに、回答者の17.4パーセントがJamaah Islamiyah をサポートし、16.1パーセントがインドネシアのムジャヒディン(MMI)を、7.2パーセントが Hizbut Tahrirそ支持した。後2者はシャリア運動をするイスラムの強硬路線である。

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2006年10月18日 (水)

インドネシアは非常任理事国に、日本は終わり 

国連安全保障理事会(UNSC)は月曜、インドネシアが2007年―2008年の非常任理事国に選出されたことを発表した。
アジア地区の相手候補はネパールと韓国であったが韓国は先月辞退していた為 158票(総会は191ケ国)を得た。UNSCは常任5ケ国と非常任10ケ国からなり、非常任は任期2年で、5ケ国づつ任期をづらしている。今回非常任理事国入りするのはインドネシアのほか、ベルギー、イタリヤ、南アフリカ、グアテマラ(未確定)で、2006年末でこれらにバトンタッチするのはアルゼンチン、ギリシア、タンザニア、デンマーク、日本である。
(2005-2007年任期の5ケ国はガーナ、カタール、コンゴ、スロバキア、ペルー)
インドネシアもイスラム過激派を押えていければ、国連に大いに貢献できると思う。北朝鮮にも中近東にも一定のリスペクトを受けており、大いに期待したい。
日本も過去の対国連、対インドネシアへの協力が霧散しないよう日本の独自性を発揮していってもらいたいものだ。

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2006年10月17日 (火)

プラウスリブがジャカルタ特別州の6番目の市に

公開的討論も無くジャカルタ議会はプラウスリブをジャカルタ特別州の第6番目の市とすることを議決した。
千の島と言うが実際は105の島で2万人が住んでいるそうである。
今までは北ジャカルタ市に属する県(Regency)であったと言う。但しDKIの市(Kotamadya: Municipality)には自治権はない。
ジャカルタ特別州の行政に関しては法律No.34/1999で定められているが、来年の州知事の任期満了が近づいており、住民の直接選挙と市の自治に関して改定が待たれている。(ジャカルタポスト)


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2006年10月16日 (月)

Gaja Madaと Hayam Wuruk 

Gaja_mada_di_taman_mini
Gaja MadaとHayam Wuruk通りが出たので、この伝記を見てみよう。
Gaja Madaはマジャパヒット王Hayam Wuruk時代(1350年~1389年)に王国を最盛期に導いた宰相(1330年~1364年)である。シンガサリ王朝がジャヤカトワンに滅ぼされた後、最後の王カルタネガラの女婿ウイジャヤが仇を取って建国したのがマジャパヒット王朝(1293年~1520年)であり、ガジャマダはこの初代から3代の王に仕えたことになる。建国当初の2代目の王の親衛隊長時代に反乱軍を押え(1319年)頭角を表した。
宰相になったときヌサンタラの諸島を征服する誓いをたてた「パラパの誓い」は有名でこれは1357年にスンダのパジャジャラン王朝を滅ぼした時に成就したことになる。
1389年に3代目のハヤムウルック王が死亡した後この栄光のヒンズージャワ王朝は長い衰退期に入り1520年に北のデマグ イスラム国家に滅ぼされる。
現在のインドネシア領域の領有の主張はマジャパヒット王朝の領土を精神的なベースにされている。 
パラパの名の意味は不明との事であるが現在ではインドネシアの通信衛星に命名されている。
ガジャマダの名前はジョクジャカルタにあるインドネシアのNO.2の大学名にも残されている。又ガジャマダの像はクバヨランの国家警察庁の庭とタマンミニのテレコムニカシ博物館の前庭に立っている。写真をMusiumにアップロードする。


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2006年10月15日 (日)

モスコーと姉妹都市、日本とは?

市川ーメダンも姉妹都市
TEMPO誌の報ずる所では、ジャカルタ市はモスコーと姉妹都市を結ぶこととなったようだ。来月ユドヨノ大統領が訪ロする際、スチヨソ市長も同行しモスコー市長に会う予定となっている。目的は貿易であり相互に物産センターを設置する。ジャカルタはメラティダムに建設する予定である。
これによりジャカルタの姉妹都市のソウル、バンコク、アムステルダム等のロングリストに追加される。

注:この報道では東京以下、北京、マニラ、ロス、ロッテルダム、イスタンブル、パリ、ベルリン、シドニーの記載はない。合計で13都市であろうか、アムスはロッテの間違いか?
ちなみに東京はNY、パリ、ローマ、ベルリン、モスコー、北京、ソウル、サンパウロ、シドニーカイロ、ジャカルタの11都市である。又他の日本との姉妹都市としてはスラバヤー大阪・高知、ジョクジャー京都、メダンー市川、カラワンー石川県志賀町、山形ーパプア等がある。市川市は戦時中、市川の師団がメダンに進駐していた、そのときの
帰還兵の力があったそうであるが市川市の公報にはその旨の記載はない。

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2006年10月14日 (土)

KH. Moch.Manshur .=. KH. Mas Mansyurは同一人物か

Pahlwan Kesiangan
ガジャマダ通りの西側に南北に走る通りのMoch. Mansyur通りは、南進してその先のチデンからスディルマンに出てくるMas Mansyurとよく似た名前である。Mas Mansyurはジャカルタ南のビンタロにも同じ名前の通りあり、又学校の教科書やどんな本にでも出てくる有名な民族運動の英雄であるがMoch. Mansyurの人物像は不明である。ジャカルタ市の観光局の課長のところまで言って尋ねたのであるが、後で調べて連絡するといいながら連絡はない。
運ちゃんのコメントを使い“Mas Mansyur はPahlawan Nasional国家英雄であるがMoch. MansyurはPahlwan Kesianganだ”と言ったら大笑いになった。Kesianganとは朝寝坊して遅れた意味があるので英雄の締め切りに遅れてなりそこなった英雄という意味である。その後、各種掲示板で質問しても未だ判らない。
後日談:2007年3月5日ブログ参照、JPの記事に彼の名前を見つけた。コタのPekojanで独立闘争に尽力した人であった。

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2006年10月13日 (金)

Baramuli バラムリ氏が英雄墓地に

元最高諮問会議DPA(2002年憲法改正で廃止となった)の議長であったバラムリ氏(Arnold Achmad Baramuli )が逝去された。ハビビ時代には日本及び韓国担当の実業家特使として或いは日イ合同経済委員会のイ側団長であったので名前は知られているが、ゴルカールの重鎮であり、DPA議長をバックにハビビ大統領選出にバリゲート事件等暗躍したニュースの方で有名である。アンタラ通信の報道ではカリバタの英雄墓地に葬られたとのことで、もう廃止されたと思っていた英雄叙勲は未だ生きていることを知った次第である。
自宅はImam Bonjol 51で10日、博士でもある夫人がアルクオーランで読経し最後のお別れをした。
氏はスラウエシ ピンランで1930年出生、インドネシア大学法学部卒業後1957-1959年シンガポールで防諜学コースを学んだ。29歳の若さで北スラウエシで知事となった。1981-1982には.国家防衛庁(Lemhanas)での研修も治め1986年サンフランシスコのリンカーン大の名誉博士を得ている。
繊維原料、小麦粉、化学品、木材等幅広い事業のPolekoグループの監査会長で、此方も金融危機でつまずいた。
1963年頃は内務省アドバイサー、70年代は商業・農業省協議会や日イ委員会副会長、Kadinの農業委員長、その間DPR議員を1997年まで務めた。(1978年はMPRメンバー)、又KADINでは1982年から1994年まで副会頭、1998年DPR議長となる。

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ムニール殺害事件の再調査

11日、アメリカ大使は人権運動家のムニール氏の殺害事件で一人も刑を受けるものが無いこととなったことに対し遺憾の意を示した。この事件は2004年9月同氏がアムステルダムに向かったガルーダ機内で毒薬を盛られた事件である。同機内に乗り込んだ元ガルーダパイロットに対し最高裁はさる4日、2審判決の14年禁固を覆し無罪としていた。

記者会見において、この声明は政府に更なる正義公正を求めるもので、更なる調査を続け関与者の処罰を求めている。
一方ASEM会議で各国に非難を受けたユドヨノ大統領は国警察に対しこの事件を扱ったプロセスに対し調査のやり直しを指示した。

ムニール氏は東チムール独立前の騒乱人権侵害(1999年)に国軍が関与したことを論証した人で、当時の国軍司令官はウイーラントである。(その前の1998年スハルト退陣の前に、多くの学生、活動家が失踪したがこの失踪者のために委員会(コントラス)を共同設立して活動していた人でもある。)
ムニール氏殺害事件はBINの長官でメガワテの盟友であった辺泥プリヨノが黒幕と言われている。
最高裁が金でまみれていては誰もインドネシアを信じまい。民主主義もまだまだである。

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2006年10月12日 (木)

ジャカルタの南北線の英雄名

北のコタ地区から人物名の道路を探し、南に下ってみよう。
コタの真ん中をチリウン河が東西に分ける如く流れているがその川岸の道路で西側のコタ行き道路がGaja Mada通りで東側のコタからの下り線がHayam Wuruk通りである。
これはコタからハーモニー迄で、モナスのアルジュナ彫像があるサークルからはジャカルタのメーンロードM.H. Thamrin通りが始まる。これはカリ マラン(運河)に沿う鉄道のドゥクウ駅(現在はスディルマン駅)迄でそこにスディルマン将軍の銅像が立っている所から南に下るのがタムリンと並ぶジャカルタのメーンロードJend.Sudirman通りである。
これはクバヨランの入り口に立っている通称ピザマンといわれる大彫像迄でそこでSisingamangaraja通りにつながる。これはブロックM迄でそこからはPanglima Polim通りとなる。さらにダルマワンサからFatmawati通りと人物名の通りが見事に繋がってジャカルタの南端といえる外環高速まで続いている。
これらは全てインドネシアの英雄であるが、Gaja MadaとHayam Wurukがセットであることを除けば時代も場所も異なってなんら繋がりはない。

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2006年10月11日 (水)

北の核実験

金正一の狙いは何であろうか 自己の体制のみを考える男は何をするか判らない。暴力を厭わない権力者の周りには暴力団が権力を狙って集まってくる。軍を押えるには敵の米国を負かすしかない。ブッシュが辞めるまで待つことが出来なかったのであろうか。欺かれた中国の強硬な抗議も計算のうちかもしれない。日本も結局は、ブッシュの米国が先制攻撃が出来なくなった今、北が核実験しても止める手段もなく虚無感が漂う。日本独自の制裁措置はブッシュへの敵視政策が日本への敵視に向かい、その中で米国にハシゴをはずされる事もあるかも知れない。北のこの一連のカードは未だ有効である。

中国が制裁に反対してきた今までの姿勢は本当は日本が知るべきであったと思い起こすことガある。それはABCD包囲網がハワイに進撃させた歴史があるからである。しかしそれは既に侵略を開始しており、戦争状態であったとも言える。
今回は中ロも制裁措置にNoではないので国際制裁が発動される動きである。そうなったときどうなるのか。 大人の中国が安倍首相を迎え中韓日の協力の前に北は敗北するのか。本当は世界的核廃絶の中で北朝鮮の核廃棄が論ぜられ交渉していくことが必要であろう。勇ましい話は自分が出来るかを考えてからにして欲しい。
インパールで腐臭兵士の道、被爆者の声、パトリオット配置でも自分の町では反対、日本には核実験できる場所もないだろう。

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65年9月30年クーデターで倒れた10人

G30S/PKIクーデターに倒れた将軍・兵士は「革命英雄Pahlawan Revolusi」と言われ合計10人で内4人は首都高速下の道路に冠されているが残り6人もこの高速道路に繋がる道に名前が残っている。これをタンジュンプリオク港から環状幹線を左回りしながら見ていくと、先ずチェンパカマスでパッサール スネンからクラパ ガディンに向かう道路でAhmad Yani通りまでのスプラプト(Letjen.Suprapto)通りがある。次にジャティネガラまで下るとブカシに向かう方にスギオノ(Soegiono)通りがある。更にチャワンで南のチリリタンから北に上りパンジャイタン通りにつながる線がストヨ(Mayjen.Sutoyo)通りである。
ここチャワンからGatot Subroto通りに向かうと左手のTNI空軍本部の先からGatot Subroto通りと分かれる形で左にそれてパッサールサンタ方面に向かうのがテンデアン(Tendean)通りである。次はGatot Subroto通りの端のスリッピの高速下をタナバンからチデンに向かうKSトゥブン(Tubun)通りである。
最後がS.Parman通りでモールスリッピの辺りの陸橋でタナバンに向かうカタムソ(Katamuso)通りである。

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2006年10月 9日 (月)

マルタディナタ通りR. Edy Martadinata

西祥郎氏の「アンチョール橋の美女」を今日読んでタンジュンプリオク港が開港したオランダ時代の話が出ていたが港から都心にはこの通りを通りドリームランドの入り口から左折し今のグヌンサハリ通りが使われていたが、マルタデイナタ通り(勿論この名前ではないが)は淋しい通りだったとある。
今でも特にコタ駅の裏側辺りは幅の小さい道で昔車両が転落大火災を起こした事があった。この道路の名前になったマルタディナタ海軍大将も不運な事故で亡くなっている。
彼は、1921年バンドン生まれ、HISとAMS終了後スラバヤの航海専門学校(Zeavaart School)を卒業。独立後BKR-海軍を組織し率いた。主権回復後はスラバヤ地区の海軍参謀長でAndi Aziz*とオランダ植民地軍兵のスラウエシ反乱では鎮圧に従事、9月30日事件でも同様鎮圧に当った。1966年はパキスタン大使に任ぜられた。同年10月ジャワの山中にヘリコプター事故で死亡。国家英雄が贈られた。
*Andi Aziz:APRAと同じくインドネシア共和国への合体に反対する動きの中の一つでオランダの支援を得てマカッサルに東インドネシアを画策していた。Andiは捕らえられ処刑、裏にスモーキルの南共和国(RMS)があり、その動きはスモーキルが1963年逮捕され処刑されるまで続いた。

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2006年10月 8日 (日)

首相の中韓訪問

中国も韓国も最大な歓迎をもって迎えるそうだが、それにしても慌しいスケジュールで顔見世だけで終わるのであろうか まぁそう言わないで友達にしてくれとにじり寄る図であろうか 首相と個人との使い分けを覚えたが、これで国家の困窮の時、どのような決断が出来るのであろうか 個人があり、その顔と行動で国民は首相にしたもので使い分けは子供のような理屈である、
共産党の党首の理路整然とした問い詰めにしどろもどろとなった首相であるが、この様をいつか中韓の前に見せていつかまた激怒を買うだろう。
中韓は日本の技術が欲しいはずだとか言う人がいるが何処にそれほどの技術をもっているのか 国内の民心統一の為国民に外に顔を向かせる必要があり、日本を迎えるとか言う人もいる。裏の裏を読む人は余りそれを口外しないもので、裏のないハッキリした外交をやって欲しいものだ。偉大な中国の指導者を信じよう。

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インドネシアの神秘主義に挑むイスラム

気が付かなかったがジャカルタ・ハーモニーのバスウエー中央駅の近くに大きな樹齢100年以上のバンヤン(banyan、菩提樹)の木があるそうで、市当局はこの木を保護しながら駅建設をしたそうである。
これに対しイスラムの青年グループUnited Islam Youthが市当局の神秘主義を保護する姿勢に抗議してこの木の枝を切り取る暴挙に出た。ステイヨソ市長は彼らを環境法違反で警察に通告したため警察はその木を攻撃する者たちに対し非常線を張っている。 
インドネシアのイスラムの穏健さはこの神秘主義的精神的支柱があるからで、いまや過激派がこの破壊に出てきたのである。バ-ミヤンを破壊したアフガンの心の狭いタリバンを思い起こさせる話である。

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2006年10月 7日 (土)

モナスに鐘を設置

モナスに鐘を設置 10月7日
という記事がジャカルタ新聞にあるようだ。JP誌の報じるところでは、ジャカルタ市公園局の発表では市は12月にモナスに「世界平和ゴング」をインストールするとの事である。この鐘は直径3メートルで金で出来ており(メッキのことか)「インドネシア世界平和委員会」からの寄贈で、インドネシアの州の統一を象徴するものと言う。
12月のインストールのときには鐘が鳴らされる予定であるが、それは1回きりで以後ならされることはない、それが象徴であるからと公園局長Sarwo Handayani は水曜日語った。

場所はモナスの東の部分と言うので、ガンビール側で、ひっそり立っていた日本からの寄贈のカルティニ像も元気が出るかも知れない。

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浦安国際センターの活動

バテックとインドネシア料理の国際交流
浦安市には約3,000人程度の外国人がいるようですが内インドネシアは少数派の15人、最大はやはり中国人1,011人ついで韓国643人 フイリピンがなんと3位354人 米国343人、タイは64人、隣の市川市は全体で8,700人、千葉市16,900人東京は352,000人なので市全体でも少ない方ながら国際センター、交流協会他民間の交流ボランティア活動は活発だ。今月の国際センターの行事は何故かインドネシアの2件で、同センターの広報通り以下に紹介しよう。
【多文化交流クッキング インドネシア】
市内在住のインドネシアの方、インドネシア滞在経験の長い方をお招きし、インドネシアの家庭料理を通じて文化に触れます。

日時:10月21日(土) 11:00~14:00
場所:新浦安駅前マーレ2階 国際センター
定員:10名(先着順)
申込:10月16日(月)9:00~ 306-5181
費用:1000円(材料費、当日集金)

【織物文化からインドネシアを知る】
現地での伝統織物文化を残すためにどのような取り組みがなされているかお話を聞きます。無料。

日時:10月22日(日) 13:30~15:00
場所:新浦安駅前マーレ2階 国際センター
定員:30名
申込:10月16日(月)9:00~ 306-5181
講師:小橋正敏氏(東京学館浦安高校教諭)
新浦安 : 浦安市国際センター 期間 : 2006年10月21日(土) ~ 2006年10月22日(日)


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2006年10月 6日 (金)

ロンゴワルシトRanggawarsitaとマックスハーフェラール

ロンゴワルシト(1803年~1873年)スラカルタの宮廷に使えた詩人で放浪と苦行で天啓(ワフユ)を得たという。彼は宮廷詩人プジャンガとして、遠くパジャジャラン王国時代の宮廷詩人プラパンチャが編んだ「ナーガラクリターガマ」に比肩する伝承編纂と作品を残した。オランダはこの当代随一の知識人の知識を聞き出し「ジャワ学」を完成した。オランダのアカデミズムはロンゴワルシトの神秘主義を暴く結果になったが、逆に後のインドネシアのナショナリストのオランダ攻撃の知識の源泉ともなった。
一方で1860年に発表されたオランダのミュルタトーリの文学作品「マックスハーフェラール」はオランダの圧制に拉ぐ、サイジャとアディンダの二人の若い悲恋の物語で万人の涙を誘った。此方も後のナショナリストの力の源泉になったのではないかと思われる。どちらも西欧の進んだ文化がインドネシアの将来を約したものと言えよう。


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2006年10月 5日 (木)

Bungawan Soloの作者グサンさん

ブンガワンソロと松田とし
ジャカルタ新聞によるとブンガワンソロの作曲家グサン・マルトハルトノ氏(1917年生まれ)は10月1日89歳の誕生日を迎えたそうである。 ブンガワンソロのヒットと小生の誕生年は同じなので89年にはならないが相当なものである。今の日本にいる日本人で知っている人はごく一部になっていよう。日本占領時に唄われ、日本兵の間で愛された歌で、作者不詳となっていたが、戦後になって、その作曲家が判明したとかで、懐かしむ元日本兵のグループ、グサン基金協会がソロ河畔にを記念公園を作った。今でもソロに住んで居られる筈。戦後松田トシや小林アキラが歌ったのを覚えているが松田トシのレコードに作者不詳とあったので作者不詳と言われたが、日本占領軍は同氏の歌劇団を巡回させ民衆や兵隊の慰安に使ったそうであるから元日本兵にはわかっていた話である。
小生が僅かにあるカセットを見ると、同氏の作品にはBungawan Soloのほかに、Sapu tangan(ハンカチ)、Jempatan Merah(赤い橋)がある。  
原曲と松田トシ訳詩を下に掲げる。
Bengawan Solo riwayat mu ini Sedari dulu jadi perhatian insani
  Musim kemarau tak seberapa air mu Di musim hujan air meluap sampai jauh
  Mata air mu dari Solo terkurung gunung seribu
  Air mengari sampai jauh akhirnya ke laut Itu perahu riwayat mu dulu
  Kaum pedangang selalu naik itu peruhu
ブンガワン・ソロ 果てしなき 清き流れに 今日も祈らん
  ブンガワン・ソロ 夢多き 幸の日たたえ 共に歌わん
  聖なる河よ 我が心の母 祈りの歌のせ 流れ絶えず
  花は咲き 花は散れど 愛の誓いは 永遠に変わらじ 
原詩からだいぶ離れているが。。松田トシさんも大正・昭和のロマンをたたえた美しい人だった。かな

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2006年10月 4日 (水)

バグース アンティーク

バグースタイム
千葉県のインドネシアでGoogleしたところ近くにインドネシアの家具、雑貨を扱う店があり出かけてみた。市川の妙典にあり、楽天に出店している。丁度夕方でカンガルー便で出荷するところで、家具類で十数点あったので、かなり売れている印象だ。家具はバリ製品が主であるが雑貨はインドネシアに限ってはいない。
(有) 市川市妙典3-4-6 電話047-399-7775

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Tiga Serangkai  3人組対4人組

SetiabudiとDewantara 10月4日
英雄伝チプトマングンクスモで登場した東インドネシア党を設立した仲間Douwes DekkerとSuwardi SuryaningratはTiga Serangkai3っつの束(3人組?)といわれる。
ダウウエス・デッカーは印欧系で自身の借用したミュルタトゥリと言う同名のおじは「マックスハーフェラール」の作者である。後にタムリンと協働し、独立に尽くし名前もSetiabudiと改名した波乱の人である。スワルディ スリャニングラトは後にキハジャール デワントロと改名し民族主義教育機関のタマンシスワを設立、一生を捧げた。この3人組と混同するのが4人組Empat Serangkaiであるが、此方は日本占領時重用されたSoekarno、Mohammad Hatta、 Ki Hajar Dewantara及びMas Mansurである。どちらにもデワントロ(ジャワ語では時にaはoの発音、次のRanggawarsitaを見てください)は顔を出しているので混同する。全員が英雄列伝に列している。

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2006年10月 3日 (火)

英雄伝 Cipto Mangunkusumo

チプトマングンクスモ(1886年~1943年)
中部ジャワのアンバラワ生まれ、1905年ジャカルタのSTOVIAを卒業。 ブディウトモに加入したが、地方エリート化に失望1912年にDouwes DekkerとSuwardi Suryaningratと共に初めての政党で且つ全国組織であり何よりも独立を求めた東インドネシア党を結成し初期の民族運動に炎となった。1913年スワルディの筆禍事件で共にジャワからオランダに追放、翌年帰国するも1920年、ソロを追放されバンドンに移された。
スカルノの最大の師であり、国民党結成へ駆り立てた。1927年に各地の共産党の蜂起の嫌疑からバンダナイラに追放更に13年後マカッサルに移され最後はスカブミに移された。1943年病没。1964年国民運動英雄に叙された。

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バタビア古モスク訪問のJakartatrail

Langgar Tinggi モスク
先日紹介したJakartatrailの次なるエベントを紹介しよう
日時:10月14日 14時から19時
訪問モスク:先にこのブログでも触れたPekojanの古モスクを訪問、最後はBuka Puasa Bersamとなるようだ。ルートは下記:
集まる所Museum Bank Mandiri(コタ駅前); Gd. Javasche Bank; Jl. Bank; Eskomppto Bank; Chartered Bank; Pasar Pagi Lama; Mesjid Pengukiran [Al Anshor]; Rumah Betawi; Mesjid Raudoh; Mesjid Zawiyah; Rumah Orang Arab; Mesjid Pekojan [An Nawier]; Jembatan Kambing; Rumah Gaya Moor; Mesjid Langgar Tinggi; Kembali ke Museum Bank Mandiri
会費:Rp100,000.-
照会先:Rinie: 021.7044.7220, Udjo: 0818.0807.3636, Rasti: 0888.816.1577.
Posted at 04:39 pm by KPSBI-HISTORIA

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2006年10月 2日 (月)

ジャカルタの名門病院リスト

ジャカルタ市の病院一覧
ジャカルタ特別州のオフイシアルサイトにジャカルタの病院がリストがあったが、偶々チプトマングンクスモ病院とチキニ病院を話題にし更にその中にセントカルロス病院、フサダ病院、ガトットスブロト病院も登場したが、これらは何故かDKIのこのリストの上位に記載があった。序に日本人が利用する所を入れ使えるようにした積りですが、未だ漏れがあればご勘弁を!

病院名 所在地 電話番号
R.S Cipto Mangunkusumo Jl. Diponegoro No.17 021-330808
R.S Fatmawati    Jl. R.S Fatmawati        021-7501524
R.S Cikini       Jl. Raden Saleh No. 40 021-336961, 3107792
R.S Budi Kemuliaan    Jl. Budi Kemuliaan No. 25 021-3844728
R.S St. Carolus    Jl. Salemba No. 41 021-3904441
R.S Husada           Jl. Mangga Besar No. 137 021-6290108
R.S Angkatan Laut    Jl. Bendungan Hilir 021-5703081
R.S Halim          Jl. Lanuma Halim Perdana Kusuma1-8091716
R.S P.A.D Gatot Subroto  Jl. Abdurachman Saleh No. 22-24A 021-371008, 3840484
R.S.P Pertamina    Jl. Kyai Maja Kebayoran Baru 021-7200290, 7219214
R.S MMC           Jl. H. R. Rasuna Said Kuningan Kav. C21 021- 5203435

Jakarta Kyoei Medical Center Wisma Kyoei Prince 6F Jl.Jend.Sudirman Kav T5724330 F5724331
AEA International Clinic (SOS Medika) Jl.Puri Sakti 10, Cipete T:7505973 F:7506002
日本人会医療相談室(Medikaloka Clinic) Gedung Irama, Jl. Rasuna Said Kav.X-1 T:526-5127(JJC専用)5261118 F:5261119
RS Medistra    Jl.Gatot Subroto Kav.59 T:5210200
RS Pondok Indah Jl.Metro Duta, Pondok Indah T7500157 F:7502324
MSC たけのこ診療所    Hotel Inter-Continental MidPlaza,、Jl.Sudirman T:573-5690 F:573-5591

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RSCMチプトマングンクスモ病院

St.Carolus、Husada病院の時代 10月2日
Rscm
チキニ病院に勝るとも劣らないコンペティターがCMRS Cipta Mangunkusumaである。よき時代の病院でチキニ病院より若干遅れの1919年創立で中央市民病院(Centrale Burgerlijke Ziekeninrichting:CBZ)と呼ばれ貧民や罪人すら治療した。設立の3年ほどは妊婦に対しては7.5ギルダーを支給していたと言う。その時代のオランダ系病院としては後一つSt.Carolus病院が近くにある。又当時の他の病院としては軍の病院としてA.Rahman Saleh通りのGatot Subroto病院、中国人のJang Seng Ie(現Husada病院)があった。
CBZはStoviaと呼ばれたA.Rahman Saleh通りのジャワ医学生の学校として機能、病院はオラニエ大通り(ディポネゴロ通り)とPostweg(Salemba通り)の角に作られ最初のその場所は現在インドネシア大学の薬学部となっている。
病院はその後も拡張され、日本占領事は“医科大學”病院の名前で、しかしインドネシア人のAsikin医師を院長として運営されたが薬剤・器具不足で中には十分な治療も出来ずアイスクリームを与えて死なしたと言う程、日本人医師のレベルは低かったという出版物もある。1949年のオランダの第二次侵攻のときオランダがこの病院をテークオーバーしようとした時インドネシア人医師やスタッフ1,000人は勤めを拒否したそうで、そのオランダに対する抵抗から国家英雄のナショナリストのリーダーのチプトマングンクスモの名前が冠されている。現在の病院の景観はTempo Duluに入れます。

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2006年10月 1日 (日)

Kartini、ナショナリズムの燭光

Kartini_007
悲運のカルティニ 10月1日
カルティニの像も発見したので此処でカルテニを土屋健治先生の「カルティニの風景」を土台に紹介しよう。
カルティニの本名はラーデンアジェン カルティニ1879年ジェパラで生まれる 側女の子供もいれ11人きょうだい、側女の娘、カルディナ、ルクミナととともに3姉妹と言われる。
ジャワの貴族の父がジュパラ県知事となり広大な屋敷に住む。オランダ人がバタビアでオランダの生活をする時代でインドネシア人の国民意識も薄れた平和な時代であった。
ジャワの貴族の娘は初潮を迎えるとピンギタン(婚前閉居)といわれる結婚まで邸宅内で生活させられる。後に内省深い書簡を残す土台となったのか 彼女はこれをkurungan 檻と言っている。
オランダ書籍を読み更け完璧なオランダ語と聡明さは殖民政府にも知られ、1898年19歳のときスマランで行われたウイルヘルミナ女王の戴冠祝賀会に招かれ以降、自由の身になったが、オランダ人のペンパルを求め書簡を書き綴った。
オランダ語は主語を省略できないところから日記風書簡は「私 Ik」から始まり、主体的な描写や主張となる。ペンパルの一人アベンダノン夫人が1911年それを編集、「暗黒をこえて光明へ」として出版ベストセラーに。アベンダノンの意図は植民地の闇を西洋の光が救う。時にオランダは植民政策に倫理政策を導入した矢先でありオランダのよき伝道の崇拝者として扱うものであった。 彼女はオランダ人とジャワ人を等距離において観察、批判した。
24歳のとき父の説得に負けレンバン県知事と結婚、5つの約束をさせたが、夫は使用人に手を付け、彼女は死ぬまで同衾を拒み続けた。
女性の地位向上を念じ始めた女子寄宿舎学校もインドネシア側の問題で挫折、次なる願いのバタビアでの医学の勉強も父の反対で挫折、最大の留学の夢はオランダ国会まで動き実現寸前のところで事もあろうかアベンダノンの助言で辞退に追い込まれる。 アベンダノンは彼女が反オランダの国民運動に進むことを危惧したのであろうか。1904年、結婚1年25歳で最初の出産の産褥で亡くなる。悲運の女性であるがインドネシアにとって最初のナショナリズムの光であった。1964年民族運動の英雄の称号をあたえられる。誕生日は4月21日はカルティニの日として祝われる

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