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2006年10月24日 (火)

市来・吉住・スカルノ・青松寺

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小雨けぶる日青松寺に行って見た。そこにはインドネシア独立戦争に散じた市来龍夫と吉住留五郎両氏の功績を讃えるため、スカルノ大統領が立てた記念碑があることを知ったからである。神谷町のNHK放送博物館或いは愛宕MORIタワーを目指していくと愛宕下通りに大きな山門が目に入る。記念石碑を探したが、何処にも見当たらず檀・信徒以外は入れない裏庭から裏の墓地公園まで入り込み、最後は宅配の人が社務所を呼び出している時に聞きだしやっと所在が判った。最初に探した所であるが、その時は判らなかった所である。山門を出て直ぐ右に回り、階段を上がり精進料理「醍醐」の入り口前を左に行きすぐ約20メートルの左手にあった。その通り道はNHK博物館の方に右に右に行くので左側は見過ごしてしまう。竹や木が覆い、変哲も無い石碑にやっと判読できた。
「市来龍夫君と 吉住留五郎君へ
「独立は一民族のものならず 全人類のものなり
「1958年8月15日
「東京にて スカルノ
インドネシア語でスカルノ大統領の直筆と署名入りで“Kepada sdr. Ichiki Tatsuo dan sdr. Yoshizumi Tomegoro. Kemerdekaan bukanlah milik sesuatu bangsa saja, tetapi milik semua manusiaとある。石碑の裏側には南方徴用作家でもあった富沢有為男氏の追悼が記されている。
「市来 龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生
「吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生
「両君は共に青春、恋を抱いてジャワに渡航力学 よくイ語の慈蕾を極め、相次いでイン「ドネシアで現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄追放の厄に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘、転戦のの「ち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダンペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎石となって散ず

大槻氏の「インドネシア専科」によると:両氏は若くしてインドネシアに渡り、1936年ごろ年齢30歳と25歳、ジャワの日蘭商業新聞で知り合うもオランダ植民政府は危険分子とし日本に追放した(再入国ビザをださない)。日本軍の進駐時、陸軍宣伝班、海軍武官府に勤務しつつ独立への民族運動を支援した。独立宣言後市来氏は『陸軍歩兵操典』をイ訳し、吉住氏は『インドネシア独立戦争の戦略戦術』で生まれた直後の国軍を指導した。アブドゥル・ラフマン市来の墓はダンピットにある【日本人の墓 NO.1】、アリフ吉住の墓はブリタルの英雄墓地にある。

夫々がジャワの社会で慕われていたことが判る。市来氏の散華は以下の読み物に詳しい。
参考読み物:http://www1.kamakuranet.ne.jp/murudeka/
http://nikkei-indonesia.com/search.pl?submit=search
写真は「ジャカルタinJapan」に。

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