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2006年10月 2日 (月)

RSCMチプトマングンクスモ病院

St.Carolus、Husada病院の時代 10月2日
Rscm
チキニ病院に勝るとも劣らないコンペティターがCMRS Cipta Mangunkusumaである。よき時代の病院でチキニ病院より若干遅れの1919年創立で中央市民病院(Centrale Burgerlijke Ziekeninrichting:CBZ)と呼ばれ貧民や罪人すら治療した。設立の3年ほどは妊婦に対しては7.5ギルダーを支給していたと言う。その時代のオランダ系病院としては後一つSt.Carolus病院が近くにある。又当時の他の病院としては軍の病院としてA.Rahman Saleh通りのGatot Subroto病院、中国人のJang Seng Ie(現Husada病院)があった。
CBZはStoviaと呼ばれたA.Rahman Saleh通りのジャワ医学生の学校として機能、病院はオラニエ大通り(ディポネゴロ通り)とPostweg(Salemba通り)の角に作られ最初のその場所は現在インドネシア大学の薬学部となっている。
病院はその後も拡張され、日本占領事は“医科大學”病院の名前で、しかしインドネシア人のAsikin医師を院長として運営されたが薬剤・器具不足で中には十分な治療も出来ずアイスクリームを与えて死なしたと言う程、日本人医師のレベルは低かったという出版物もある。1949年のオランダの第二次侵攻のときオランダがこの病院をテークオーバーしようとした時インドネシア人医師やスタッフ1,000人は勤めを拒否したそうで、そのオランダに対する抵抗から国家英雄のナショナリストのリーダーのチプトマングンクスモの名前が冠されている。現在の病院の景観はTempo Duluに入れます。

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