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2006年11月の投稿

2006年11月29日 (水)

ジャカルタ歴史博物館Museum jakartaとヘルメスの像

Museum_nasional_sejalah_nov06_028
先日ジャカルタ歴史博物館に行ったら裏庭にヘルメスの像が飾ってあった。ヘルメスの像については3月11日のブログに解説を試みたが、本物は国立博物館かこの歴史博物館にあるはずだと書いたが
歴史博物館であったのだ。これは本物かと入り口の係りに聞いたところAsli本物と言ったので、これが、オランダ植民政府がハーモニーの橋の欄干に飾ったヘルメスの像と言うことになる。
しかしまじかで見るこの像には古さを感じさせない。これもレプリカかもしれないが、元々はギリシャのオリンピア考古学博物館にあるのが本物なのでどちらでもいいことになる。
この像の写真を「Musium」に入れました。

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2006年11月28日 (火)

3 in 1レビュー/タバコ規制

スチヨソ知事がバスレーンで早くも責任回避かと勘違いしたニュースがあったが、それは3in1政策であった。 課金制度の導入を提案しているようであるが、その前に警察の法律施行力の欠乏を批判している。警察は規則違反の車があっても見逃しているし又駐車違反やバス停車違反も取り締まらない違反切符でキッチリ処理すべきだということか。
この政策は1993年に6時から10時までスデイルマンとタムリンで実施され、2004年にガトットスブロト、シシンガマンガラジャ、ガジャマダ通りにも又夕方5~8時にも拡大された。コタの販売下落を理由の抗議で4:30~7:30に変更された。
スチヨソはジャカルタ交通局は警察と規則の改定について協力するよう会議を持ったことを明らかにした。

政府はタバコ喫煙に関する法律の強化を準備中。成立すると公的場所での全てのタバコの広告やスポンサーシップの禁止 特にタバコ課金を65%に増やしその10%をタバコ疾病対策費にまわす。既に220議員の賛同を得ているという。特に10歳以下の年少者の喫煙が1999年から2003年に掛けて9倍と増えており、法律ではWHOの憲章に従い最低年齢を18歳に設定する。タバコ税はインドネシアでは35%であるがタイ、マレーシア、シンガポール、豪州では75%~85%だそうである。
タバコ産業連盟ではタバコ産業に従事している労働者を5百万、間接的にタバコ産業からの職を得ているものが20百万居るとしており、反対を表明している。

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ジャティネガラの闘争記念碑 Monumen Jatinegara

Jikei_nov06_020
ボゴールからの帰りはジャティネガラを経由することにした。平日は渋滞で敬遠したいジャティネガラであるが、オランダ時代や独立戦争時の建物などが残っている。一回りするだけでジャティネガラ駅、中国商家、オランダ系学校、青年隊司令所、闘争記念碑、オランダ教会Koinoniaなどを写真に収めることが出来た。闘争記念碑は独立真際でのこの地域でのオランダとの戦いの勝利を記念するものらしく、一人の兵士と子供が立っている像である。教会を三角の頂点として三つの道が通っているところで通りの名前はマトラマン通り、西ジャティネガラ通り、ウリップスモハルジョ通りで写真を撮るタイミングが難しいが丁度その日はまん前をバスウエーが建設中であったので、バスウエーに立って写真をとる事が出来た。

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2006年11月27日 (月)

ボゴールのバトゥトゥリス Batu Turis 11月26日

Bogor_nov06_026
運ちゃんにバトゥトリスへいえば、彼らはジャカルタのバトゥトゥリスに案内する。
そこはホテルアリアの北、Pecenongan通りの西側であるがそこが何故バトゥトゥリスなのか未だしらない。バトゥトリスの意味は文字を刻まれた古代石の意味であるがバトゥトリスと言えばボゴールの西のチアンペアの石にいくつか穴があけられた遺跡の出た場所が有名である。他にもボゴールには地名として二つある。一つはBatu Amparの方であり、後一つの方が本命である。ジャカルターボゴールの高速をおりて、東のCiawi方面に向かうPajajaran通りを取り、10分ほどで右手 SukasariからSriwangi通りを過ぎるとBatu Tulis通りである。
Sukasari通りはボゴール名物の食料品マーケットでジャカルタのBナンバーの車で大渋滞であるが
そこを過ぎると親切なバイクの兄さんに何を思ったか声をかけられ教えてくれた。100メートル先の右手らしい。そこは住宅地の一角で小さな小屋が立てられ10名ほどが中に入って何かドクン(呪い士)のまじないを受けている風で静かであった。庭先に頭大の石が積まれたお墓風記念碑があったがこれがバトトゥリスらしい。イスラムの伝説によれば、:
15世紀の終わりにこの地のシリワンギ王国はボゴールに都を移し、パジャジャラン国を作った。最後に残ったシリワンギの王とその一族はムスリムの侵略者に捕まり、イスラムへの改宗を薦められたが800人が拒否した為彼らはアッラーの怒りに触れ石となって一帯に投げ捨てられた。これがその石が集められたところらしい。シリワンギの遺跡遺物はバンドンの東のスメダンに博物館がある。
写真を「Museum」に入れておこう。

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11月のニュースから 11月25日

今週末からユドヨノ大統領が日本訪問、予定では日本とのEPAを締結するはず。
これからの日本にとって益々重要性が高まるトップの国であることを肝に銘じ政治家は振舞って欲しいものである。ここで11月の投資家必携ニュースを纏めると:
*2006年国民総生産1500ドルを突破見通し(大統領)
*株価続伸 1600台、1700台の大台乗せ
*ガルーダ航空、バリ便のジャカルタ経由検討。大阪~バリ便増便計画。
*GMインドネシア、生産再開を検討中。
*ラジオ・TVのデジタル放送、来年より導入開始:情報相
*来年、公務員昇給、最低ラインでも今年の108万ルピア/月から170万ルピア/月に
*世銀のイ経済成長見通し:今年は5.5%で変わりなし、来年は6.2%。
*身分証に引き続き宗教欄:住民管理法案審議で政府と国会合意。
*米ブッシュ大統領が来イ。種々協力発表、デモもあく抜けに
*投資のための所得税便宜措置見直し。衣料、製紙・パルプ、化学原料、陶磁器製品、非鉄基礎金属、電動
モーター・ジェネレーター・トランスフォーマー、重機、船舶修理など15産業、および特定地域における9工業
に措置供与へ
*税務検査実施率1.2%から5%へ引き上げ計画:租税総局長。
*北スマトラ、南スラウェシ、バンテンに経済特区:BKPM長官が示唆。

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2006年11月24日 (金)

バタビヤで逝った総督 Governor General of

シオン教会の紹介の続きであるが、この教会は必ずしもポルトガル人だけの或いはMardijkersだけの教会ではないような気がする。と言うのはこの教会には以下の二人のオランダ総督の墓があるからである。
Reyniersz総督は11月14日に紹介した任期途中死亡した総督のなかにちゃんとあるので間違いがないが、二人目のZwaardecroon総督は確かに1725年まで総督であったので、総督を辞めた後も3年ほど当地に滞在されたということである。病気であったのかも知れないが、あの時代でもバタビアは去りがたい物があったのであろう。
26 Apr 1650 - 19 May 1653 Carel Reyniersz (b. 1604 - d. 1653)
13 Nov 1718 - 8 Jul 1725 Henricus Zwaardecroon (b. 1667 - d. 1728)


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2006年11月23日 (木)

バタビアのポルトガル教会 Sion 

Greja_simon
以下はサイトで拾ったバタビアのポルトガル教会の説明である。「シオン教会のオリジナルの名前は「De Nieuwe Portugeesche Buitenkerk」あるいは「壁の外の新しいポルトガル教会」である。 教会は バタビア城の壁のすぐ外に建てられた。
それはカトリック教徒からプロテスタントに改宗したポルトガルの奴隷のためにプロテスタントの教会のメンバーであったVOC の商人の資金で建てられた。 これらの奴隷は改宗することによって、自由となり Mardijkers と呼ばれた(Mardijk が自由を意味するサンスクリットの Mardhikka から来る)
1692年この教会の建設がGOとなった時ロッテルダムの商人でもある Ewout Verhagen 氏が図面を引いた。定礎式は1693年10月19日に行われ2年後に完成、1695年10月の日曜日にTheodorus Zas 師によって最初の説教がもたれた。
教会の敷地は6,725平方メートルで教会の大きさは24 x 32メートルのレンガ造りのしっくいで塗られ、床は花崗岩、骨組みでエボニー材、屋根は高品質の瓦で葺かれている。土台は「dolken」と呼ばれる10,000本の棒の上に置かれている。 建物は1,000人の信者のお祈りを収容できる。
教会のアドレスは: Jalan Pangeran Jayakarta No.1 、でジャカルタ コタステーションの裏手に当る。」

この教会はTuguの最初の教会より新しく、その名前には新しいということと壁の外側であることの説明があるので、内側にもその以前に教会があったことになる。それがPortugeesche Binnenkerk(内側のポルトガル教会)となる。続きは3月26日へ

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Tugu村とクロンチョンの起源 11月22日

以下はあるインドネシア人の調査論文の一部である。「マラッカはオランダの艦隊が取って代わった1641年まで、1511年からポルトガル軍のコントロール下にあった。彼らは殆どがベンガルとコロマンデル出身の傭兵で彼らはバタビアに奴隷として連れてこられた。
これより先、第3代総督クーンにより、1620年代にバンダ諸島を征服、この地から追い出されたポルトガルのゴアの船員グループもバタビアにいた。彼らは ローマカトリック教からのオランダの改革教会への改宗をする事で、奴隷制度から解放されて、そして 自由の身(mardijkers と呼ぶ)となった。
Tugu村はこのBatavia時代の mardijkers に起源したと考えられる。 しかしながら、調査により、この社会は、バンダネイラから避難してきたゴア船員グループを起源とすることが判った。ゴア船員は彼らの軍艦がバタビア湾に沈められたとき、当座の村を設営した。
バタビアのポルトガル教会(Portugeesche Binnenkerk)の介入により、1661年、オランダはバンダネイラからの家族と共に彼らをこのTugu 村に送り、解放した。
彼らがToegoe社会の最初の第1世代を形成した。 彼らはポルトガルのCristao語を話し、8世紀当時のポルトガルであるルジタニアに入ってきたムーア人起源のポルトガルのダンス音楽であるMopresco(注:Moresco)を財産とした。モレスコ ダンスはかってはポルトガルのエリートの娯楽でありその音楽はリスボンやコアンブラではFado(運命の歌)として知られる人気のある音楽であった。」
このモレスコ音楽がクロンチョンの起源でもある。」

この論文ではTugu村のポルトガル系はマラッカからの囚人奴隷でなくマルクからの囚人奴隷であると言っているようであるが、ある資料によるとバタビアの人口で一番多いのはMardijkersである時代もあり、Tuguだけに住まわされたのはその極一部であったと思われる。バタビアのポルトガル教会シオン教会は1695年完成でDe Nieuwe Portugeesche Buitenkerkと呼ばれるので別物であろう。

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2006年11月21日 (火)

ブッシュ大統領来イ


ブッシュ大統領来イで揺れたインドネシアであったが何事もなく終わり結果は実り多かったのではないだろうか
ボゴール宮殿での6時間の予定をこなし同日夜10時40分に大統領を乗せたヘリコプターSikorsky Black Hawk "Marine One"はジャカルタのハリム空港に到着し専用機"Air Force One".でホノルルに向かった。
送ったのはマリパンゲスツ商業大臣のみ、最後にマリとライス国務長官も入れブッシュ夫婦は記念写真となった。
ボゴール宮殿では市民リーダー9名との対話で教育分野での人材向上、保健、技術、経済について討議した。9人は夫々の分野の専門家だそうだが、例えば経済ではMuhammad Ikhsan、技術ではBPPTのRidwan Djamaluddin、教育はArif Rachman 、アチェYusny Saby等である。
米国側もライス国務長官や米国大使Lynn Pascoe、安全保障担当Steve Hadley、大統領顧問Dan Bartlett他、インドネシア側はユドヨノ他Hassan Wirajuda外相、Widodo AS政治国防調整大臣、Aburizal Bakrie国民福祉調整大臣、Boediono経済調整大臣、Yusril Ihza Mahendra官房、保健大臣教育大臣、科学技術担当大臣他が同席したがカラ副大統領の姿は見えなかった。
会談では150百万ドルの"Indonesia Education Initiative".の供与、バイオ燃料政策の協力、津波早期警戒システムを含めた防災対策、鳥インフルエンザ対策協力などの二国間の課題のほか、イラクの3段階解決、北朝鮮の核問題、中東・パレスチナ問題など幅広く意見交換され今後の2国間関係の強化を謳った。
ブッシュは又インドネシアのデモについてアメリカ政府の政策に反対するデモはいつものことでありインドネシアが民主国家であるとの証拠であると語った。民主主義程度で褒められるようなことは速く卒業して欲しいものである。

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2006年11月20日 (月)

観光都市化に本腰 Cafe Batavia

Museum_nasional_sejalah_nov06_026
ジャカルタはあちこちで町の化粧直しが始まっている。ジャランサバン(Jl.Agus Salim)も道全体を掘り起こしている。ラスナエピセントラムに行く道は暑さ15cmほどの数メートル規模のコンクリート盤を敷く形に見えたが、最近は道路の工事法が変わったのだろうか。バスウエーもモノレールも本来、線で工事されるところ点の工事で中々進まないし、この間化粧直ししたところを又掘り起こしたりしている。全体の整合性が感じられない。コタのファタヒラー一帯の道路工事も本格的である。此方も掘り起こして厚いコンクリート ブロックを幾何模様に置いていく工法である。ここの道路は綺麗になるだろうが、ここまでたどり着くには渋滞が大変である。古い建物群をどう使うかも問題である。
観光用のレストランやスーベニールショップにしたとしてもお客が少なくてどうにもならない。
ジャカルタ博物館が併設したレストランは既に閉鎖に追い込まれているし、一人カフェバタビアが24時間営業で頑張っている。但し日本人向きのメニューは少ないし値段が高すぎる。
カフェバタビア横の掘り起こし中の道路、カフェの内部、同写真で飾り立てられたトイレの写真を「ジャカルタに生きる」に入れました。

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ジャカルタ歴史博物館の古代石碑  11月19日

Prasasti Tugu Batu tulis 11月19日
トゥグの村で発見されたと石碑Prasasti Tuguはオリジナルは国立博物館に、レプリカはファタヒラーのジャカルタ歴史博物館にある。国立博物館には多くの石碑があったが所在の確認は出来なかった。ジャカルタ歴史博物館にも多くの石碑Prasastiがありメモしてきたのでここに記録しておく。
Prasasti Tugu,
Prasasti Cianten
Prasasti Kebon Kopi I
Prasasti Cidanghiang
Prasasti Pasirawi
Prasasti Jambu
Prasasti Ciaruteun=Batu tulis バトゥトゥリスとは文字が書かれた石と理解せばこのPrasastiは全てバトゥトゥリスになるが固有名詞としてはCiauteunのことになる。

レプリカであるからかも知れないが、空調設備も不要で子供達が上に靴のまま上がって遊んでいたが、石碑と言うのはレプリカも作りやすく、保存も簡単で本当にインドネシア向きだと思ったことだった。いくつかの写真は{Tempo Doloe}に入れている。


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トゥグの教会Gereja Tugu 11月18日

Cilincin_nov06_025
タマラ王国の石碑が出たというトゥグという所に行ってみた。タンジュンプリオク港、チャクン倉庫・工業地帯、ヌサンタラ保税地域に囲まれた中にあり、非常に判りずらい。高速をタンジュンプリオクで降りチリンチンへ3kmでそこからチャクンに南に下る道Cacingを1.5km辺りに右側に入る道があるが、判りずらいので行き過ぎてUターンするほうが良い。左に入るTugu Rayaを300m程度行くと左手にある。帰りはクラパガディン経由で帰ったのでクラパガディンから北上する手もある。
この教会は一度1676年に建てられて、それが1740年の暴動で焼け落ちた為1744年頃、この地の所有者のJulius Vinckの浄財で、Mardjikersの為に建設されたそうで、現在では鐘の塔とか
洗礼フロント、建物柱梁はオリジナルである。
Mardikersとは自由な男たちの意味で1620年代のクーン総督によるバンダ諸島から追放されて来たポルトガルのゴアの船員グループを起源とするようであるが、マラッカ陥落で連れてこられた囚人とする説が主流である。
彼らはカトリックからキリスト教に改宗する条件で、自由に開放されてこの地に住まわされたポルトガル系囚人・奴隷である。教会の写真は許可がいるといわれたので離れて隠れて取ったものを「Tempo Doeloe」に入れておく。

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2006年11月17日 (金)

ジャカルタに水上交通網(Waterway)を設置

一寸昔話題になった水上交通の話が実現するようだ。と言うのはDKIの2007年の予算にこの工事費が78億ルピア計上されているからである。
先ずはジャカルタでは一番幅が広い運河の、マンガライからカレットまでの4.8kmにウオーターウエイを設置する。この運河を5つの乗り場でバスウエーやモノレール或いは将来の地下鉄に繋ぐという。乗り場の予定地はマンガライのダムからパッサール ルンプット、ラスナサイド、タムリン・スデイルマン、マスマンシュールである。
この運河に沿って鉄道が走っており、又両サイドに道路があるので利便性はあるかもしれないが、これもジャカルタ人が歩くことを厭わない或いは安全な街にならない限り一時的なアトラクションに終わるだろう。 バクリーのラスナエピセントラムにウオーターウエイの話があったがこれと繋がるわけだ。しかし河底を見せる乾季はどうするのだろうか

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Manufacturing Indonesia 2006

本年もManufacturing Indonesiaと題した博覧会が開かれる。1,000社以上が商品分類で150以上に渉って展示するもので、クマヨランのジャカルタ国際エクスポ(PRJ)会場で12月6日から12月9日までである。これは本年で17回目となる国際製造機械・設備・原材料・サービスの展示会で下記の6つの分野別展示会を同時開催される。
20th Machine Tool Indonesia 2006
14th Environment Technology Indonesia 2006
12th Chemical Instruiment Laboratory Indonesia 2006
9th Automation Technology Indonesia 2006
6th Vehcle Manufacturing & Automotive Technology Indonesia 2006
8th Material Handling  Indonesia 2006
6日及び7日は招待客のみであり、アクセスの要領等詳細は、主催者たるPT.PAMERINDO BUANA ABADI社に照会下さい。Deutsche Bank Bldg.Jl.Iman Bonjol No.80 TEL:62-21-3162001 FAX:62-21-316-1981でウェブサイトもある。www.pamerindo.com

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2006年11月15日 (水)

オランダ総督歴代記と時代風景

オランダが、1610年から1943年までの332年の間に派遣した総督は、途中フランス・イギリスが1代ずつあるが全部で70人いる。その中で総督のままこの地でなくなった方は以下の通りでその方々の年齢と任官期間を書いてみた。
目に付くのはバタビアが100年を過ぎる1700年代に多数の人が、続々と亡くなっており、バタビアの地が猖獗を極めた時代風景を暗示する。当時のバタビアはチリウン川が泥洲で排水悪く、市のあちこちの大きな沼沢は蚊の住処となり、悪臭を放ち、悪性の熱病がは流行り、日々数十の犠牲者が墓地に運ばれていたと言う。1808年に赴任したダーンデルスは住宅地をウェルトフレーデン(現在のモナスとバンテン広場辺り)に移し、バタビヤ市を囲む城壁等を破壊し、排水掘削を行ったため、1844年を最後に任期途中で死亡した総督はなくなった。
30 Sep 1627 - 21 Sep 1629 Jan Pieterszoon Coen (2回目) (1587 - 1629).42、2
26 Apr 1650 - 19 May 1653 Carel Reyniersz (1604 - 1653) 49、3
19 May 1653 - 4 Jan 1678 Joan Maetsuyker (1606 - 1678) 72、25
4 Jan 1678 - 25 Nov 1681 Rijcklof van Goens (1619 - 1682) 63、4
25 Nov 1681 - 11 Jan 1684 Cornelis Speelman (1628 - 1684) 56、2
30 Oct 1709 - 17 Nov 1713 Abraham van Riebeeck (1653 - 1713) 60、4
17 Nov 1713 - 12 Nov 1718 Christoffel van Swoll (1663 - 1718) 55、5
8 Jul 1725 - 1 Jun 1729 Matthaeus de Haan (1663 - 1729) 56、4
28 May 1732 - 10 Mar 1735 Dirk van Cloon (1688 - 1735) 47、3
11 Mar 1735 - 3 May 1737 Abraham Patras (1671 - 1737) 66、2
28 May 1743 - 1 Nov 1750 Gustaaf Willem baron van Imhoff (1705 - 1750) 45、7
1 Nov 1750 - 15 May 1761 Jacob Mossel (acting to 1752) (1720 - 1761) 41、11
15 May 1761 - 28 Dec 1775 Petrus Albertus van der Parra (1714 - 1775) 61、14
28 Dec 1775 - 3 Oct 1777 Jeremias van Riemsdijk (1712 - 1777) 65、2
4 Oct 1777 - 1 Sep 1780 Reinier de Klerk (1710 - 1780) 70、3
16 Aug 1796 - 22 Aug 1801 Peter Gerhardus van Overstraten (1755 - 1801) 46、5
29 Feb 1836 - 30 May 1840 Dominique Jacques de Eerens (1781 - 1840) 59、4
6 Jan 1841 - 2 Aug 1844 Pieter Merkus (1787 - 1844) 57、3

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2006年11月14日 (火)

綺羅星の国家英雄138名??

今年の11月10日の英雄の日には、ユドヨノ大統領以下政府の重鎮がカリバタの英雄墓地に参じ恒例の参拝を行った。特に参加した人の中で名前を挙げるとJusuf Kalla副大統領、国民協議会議長Hidayat Nurwahid、国防治安調整大臣Widodo AS、社会福祉調整大臣Aburizal Bakrie、内閣官房 Sudi Silalahi、国防大臣Juwono Sudarsono、社会大臣Bakhtiar Chamsyah、 国営企業担当大臣Sugiharto、検事総長Abdul Rahman Saleh、 最高裁長官 Bagir Manan、国軍司令官Djoko Suyanto、陸軍参謀長Djoko Susanto、海軍参謀長Slamet Soebijanto、警察長官Sutanto閣下で、個別の墓に参ったのはAdam Malik, Ali Sastriamodjojo、Mayjen Sutojo Siswomihardjo、S. Parman、MT Hardjono、RD Suprapto、A. Yani、Sudharmono、AH Nasution、Umar Wirahadikusuma、AA Baramuliと報道されている。又今年英雄に叙勲されたのは以下の9名で、ある資料ではこれで138名と言う。
Alm. Pangeran Mangkubumi/Sultan Hamengku Buwono I (1717 – 1792)
Alm. K.H. Noer Alie (1914 – 1992)
Alm. R.M. Tirto Adhi Soerjo (1875 – 1918)
Alm. H. Pajonga Daeng Ngalie Karaeng Polongbangkeng (1901 – 1958)
Alm. Opu Daeng Risadju (1880 – 1964)
Alm. Andi Sultan Daeng Radja (1894 – 1963)
Alm. Izaak Huru Doko (1918 – 1985)
Alm. DR. Mr. H. Teuku Muhammadd Hasan (1906 – 1997)
Alm. K.H. Muhammad Isa Anshary
今年の英雄は余り有名ではなく道路名に既になっているのはNoer Ali(ブカシからジャカルタに向かうカリマラン沿いの道)ぐらいである。これらはRIのWebsiteに出ているが最後の人の生年・死亡年の記載は忘れたのであろうか 大体に138名などと言うリストはオフイシアルでなく、一般に本になって売っているものもオフイシアルではない。従い本に出ているBung Tomoはリストにはないし、上記ニュースに出ているBaramuli氏やSudarmono氏もリストにはない。しかしティエン スハルト夫人は本にはないがリストに出ている。と言う具合で自分達の英雄ともあろう偉人に対し注意が足りない扱いである。

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2006年11月13日 (月)

訪れる人は無いSTOVIA 民族覚醒博物館

Stovia
Museum Kebankitan Nasional
ドクターストモが学び、ブディウトモの発祥の地となったSTOVIAに行ってみた。
Stoviaとはインドネシア大学医学部の前身ともなるが歴史は古くオランダ植民政府が1851年に設立したもので1901にSTOVIAと改称された医師養成学校である。原住民にとって医師は最高のポジションであり、ここに学ぶエリートの誇りは民族運動へと身を投じた。ストモの前に病院名になっているチプトマングンクスモ、ワヒディン スディロフソド医師がおり、彼らの影響下ブディウトモが結成された訳で、その日1908年5月20日を以って民族覚醒記念日とされ、現在この地は民族覚醒博物館(Museum Kebankitan Nasional)となっている。(No.26 Abdulrahman Saleh、TEL:384-7975) 入り口には誰もおらず、大きな中庭を長屋的な教室が囲んでいるが,訪問者もなく展示品も期待できないので一枚写真を取って[Museum}に収めた。1996年ごろのと見比べると化粧直しでより汚くなっている。

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Dr.のストモSutomoは英雄 11月12日

スラバヤ英雄の日のSutomoのことを11日に書いたがブントモの綴りはBung Tomoである。
ブンカルノやブンハッタと同じで同志の意味があるが現在は使われたのは皆無か
Sutomoと言う名前はあと一人おりこちらの方が英雄に列されている。Bung Tomoも英雄列伝に記載はあるが死亡日や叙勲日がハッキリしない。
こちらの方はドクターであり、ドクターストモは1888年東ジャワ生まれ1938年スラバヤでなくなり1961年に国民運動の英雄「Pahlawan Pergerakan Nasional」に」叙された。1911年にバタビアのドクター養成学校Stovia卒であるが、恩師ワヒディン師の指導を受け1908年には級友グナワンマングンクスモと語らいブディウトモと言う団体を結成した。ブデイウトモはジャワ語で「最高の英知」の意味でインドネシアが最初に目覚めた国民運動の組織といえる。1919年からのオランダ留学後1924年にスラバヤでインドネシアスタディ クラブ(ISC)を結成、学寮、学校、生協、銀行を設立し大きな影響を与えた。1931年ISCはPBI(インドネシア民族党)と改称、更に1935年にブディウトモと合併しParindra(大インドネシア党)を結成した。
パリンドラ自体は当初の非協調路線から後は協調路線に切り替えたが1955年政党法で解散させられた。パリンドラではタムリンの影響が大きかった。

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Indosatの携帯Matrix 11月11日


ジャカルタを1ケ月も留守にすると色々大変なことが起こる。よくあることはアパートの管理費や電話の払いが遅れるとアパートの管理事務所から電気水道をストップされ電話はブロックされる。今回は携帯と固定電話両方共ブロックされた。以前携帯がブロックされたときは支払った後も中々復活してくれず4~5日掛かったことがあったので今回は支払ったのが金曜日なのでその日のうちに復活してもらわなければとスタッフ任せにしないで自分でやってみた。スタッフ1には電話で交渉させたが中々繋がらず繋がっても機械声の案内でうろうろさせられている。スタッフ2には納付エビデンスをfaxさせ、自分は
メールを出そうと思いindosatのホーム頁Matrix-Centro.comを開き色々探した挙句メールを出すのに成功した。これが効を奏し、2時過ぎにIndosatから返答のメールを入手。
以下がその返事である。
Sehubungan dengan permasalahan Anda mengenai nomor xxxxxyang terblokir, maka dengan ini kami mohon maaf atas ketidaknyamanan yang Anda alami. Dapat kami informasikan bahwa saat ini status untuk GSM Matrix Anda sudah aktif. Silahkan Anda restart ponsel Anda selama tiga menit.
インドネシアのそれも国営企業からMohon Maafと謝られ、3分以内に復活できると
数字で答えられたのには感激した。 インドネシアを信用して本当によかったと感謝の返事をしたことだった。

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2006年11月10日 (金)

11月10日スラバヤ英雄の日のBungtomo 

今を去る61年前の今日は日本敗戦の後、進駐してきた第1陣の英印軍をインドネシア側がスラバヤで向かえ打った日であり、今でもこの日をスラバヤ英雄の日として記念している。スラバヤの町の中心には英雄の塔がそびえている。
「当初1945年10月25日にスラバヤに上陸した英印軍はインドネシア側に武器の提出を求めた。これを拒否したインドネシア側と10月28日から戦闘状態になった。その後一時停戦となっていたが11月10日、英印軍の一斉攻撃が行われ市街戦を指揮していたブントモことストモ(Sutomo1920 )の率いる部隊が「独立か死か」を呼号し日本軍から奪取した武器を使って勇敢に抵抗した。 この戦闘が各地に与えた影響は大きかったという。」(シマトパン氏のインドネシア独立の道:左藤正範氏訳より。)
戦闘中にはイギリスのマラビー准将が銃弾に倒れ死亡、連合軍司令官のマンセール中将が最後通牒を発し、市街戦となったもの。
ブントモは日本時代は新聞記者、青年団やパリンドラ(大インドネシア党)で活躍した。インドネシア大学卒1955年ハラハップ内閣の国務相を勤めた。
彼の名前をジャカルタの地図で探すと定かではないがKolonel Sutomoとしてジャゴラウイ高速とハリム空港に向かう道の間のKebon Palaにあった。

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2006年11月 9日 (木)

インドネシア・アセアン投資セミナーが目白押し

日本アセアンセンターからの案内では、EPA(経済連携協定)後の投資環境などに焦点をあてたインドネシア投資セミナーおよびカクテルレセプションを開催するとのことである。
主な講演者は、インドネシア投資調整庁ムハマド・ルトフィー長官、インドネシアみずほコーポレート銀行羽田野敦社長、ゴーベルグループ・インドネシア商工会議所副会頭ラフマット・ゴーベル氏で、
日時:11月29日(水)セミナー:午後2時~5時、レセプション:午後5時~6時半
場所:新高輪プリンスホテル 国際館パミール(セミナー・レセプションともに)
参加費:無料。だそうである。詳細は:
日本アセアンセンター 投資部、東京都中央区銀座4-10-3 セントラルビル
電話: 03-3546-2031 ファクス:03-3546-2676、メール: info_in@asean.or.jp
URL: http://www.asean.or.jp

多分これはBKPM東京事務所が開催するものと共催だと思われる。此方の方はEPAの署名もイベントにユドヨノ大統領の訪日(11月29日~12月1日)に併せ、開催するもので
東京事務所を強化する為、北島先輩とか藤島女史が赴任しており彼らの力で開催に漕ぎ着けたものであろう。
此方はここにコンタクトされたく
インドネシア投資調整庁東京事務所:住所 :東京都新宿区西新宿5-7-1 若月ビル3階
電話 :03-3320-7692、メール:bkpm521@bkpm-jpm.ocn

しかしアセアンセンターも最近は共催かもしれないが色々イベントがある。フイリピンやシンガポール投資セミナーを9月に実施した後、これから下記のセミナーが予定されている。

*「ASEANの食品2006」を開催中、(9月25日~12月27日、会場 日本アセアンセンター常設展示場)
*ASEAN食品関連投資促進セミナー
日時:2006年11月27日(月)会場:国際機関日本アセアンセンター 6F会議室
*「ラオス経済・投資環境視察ミッション」を派遣、期間12月18日~12月24日
参加費: 230,000円(成田発着)
*「カンボジア投資セミナー」
<名古屋>
日時:2006年11月15日(水)13:30~17:00(受付13:00)
場所:ホテルグランコート名古屋「ローズルーム」
<東京>
日時:2006年11月17日(金)13:30~17:00(受付13:00)
場所:ホテルニューオータニ「翔(しょう)の間」
*「タイ:政治改革後の経済・投資の方向性」セミナー
東京:日時:11月30日(木)14:00-17:00
会場:帝国ホテル東京 3階「富士の間」
大阪:日時:12月1日(金)14:00-17:00
会場:帝国ホテル大阪 3階「エンパイア」


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2006年11月 8日 (水)

赤坂さくら水産居酒屋とパブ

友人と一寸飲もうと言うときに迷うのは何処で飲むかである。いつも決めておれば問題ないが先日の赤坂見附編を紹介しよう。
赤坂見附は一ツ木通り、みすじ通り、田町通りと行きつ戻りつゆったり歩けるのがいい。最初は先ず居酒屋、二軒目の予算に回すため安めを探すとせば駅から1分の「さくら水産」(3560-5505)が良い。海鮮居酒屋と言うだけに マグロ刺身280円、ほっけ焼きもの280円、たこぶつ180円、カキフライ280円、アナゴ天ぷら380円と海産物が新鮮で安い。産地直送と言うし故郷の魚介類を食べたいならここに頼むことも出来る。何せここのパンフレットは会社の理念から衛生管理や飲み放題宴会2800円や物流の紹介やメニューまで20頁にも及ぶもので社長の積極経営が目に浮かぶ。現在は関東が多いが120店舗弱もある。2軒目はカラオケパブ「キャッシュ」(5563-2966)である。名前通り前金制(6,000円)である。台湾系美女で1時間で終わったのかどうか記憶にない。前々回に行ったのはクラブ夏だったか此方は艶麗な熟女の婦人で優雅であったが今は定かでない。

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2006年11月 7日 (火)

インドネシア求人・休職情報 

小生の友人が求人・休職専門サイトを立ち上げている。求職者のデータが既に5000人規模になった由、流石にインドネシアである。求人側も求人情報を掲示することが出来、これほど便利なものはない。このサイトはリクルートでなく。求人・求職者の出会いの場を提供するもので、欠員が出た場合、即座に閲覧も出来るし求人広告も打てる。最低1ケ月有効で$50と言うから超エコノミーでもある。
サイトは http://www.carikerja.net/faq.php です。 

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2006年11月 5日 (日)

Yudhoyono 対 Jusuf Kalla

ユドヨノ大統領とユスフカラ副大統領が対立していたUKP3R(改革・プログラム担当機関)の設置問題は4日、ナフダトゥールウラマの (PBNU)のハシム ムザディ会長によるとどうにか凍結された様である。これは副大統領ユスフカラがユドヨノ大統領と3日金曜日に大統領官邸で会って決定されたもので、ハシムはこれについて4日、デイポネゴロ通りの住まいでカラ副大統領と会った時に聞いた話であると説明し、その際副大統領はマルシラムシマンジュンタクが率いるその機関は既に凍結され、もう活動することもないと語った。ハシムはUKP3Rはカラ副大統領が言うように各閣僚の業務は明確でありそのような機関は確かに不必要で、これはシステムが混乱しておりユドヨノ大統領の指導性の弱さを表すものだと語った。

問題はインドネシアの内閣は法律上大統領が率いるシステムであるが実際は存立する政党の委任を代表するものとして割り当てられた閣僚議席若しくは議会の議席数に引っ張られる度合いが強い。
従い好むと好まわずに関らず全ての閣僚は大統領と政党と言う二人の司令官を持ち微妙である。
従い彼によればユドヨノ大統領はよりリスクのある内閣改造に消極的となりリシャッフルしないままそのような委員会を設け閣僚の権限をそぐなど一方的に傾きやすいと言う。

カラ副大統領は連立与党のゴルカールから送り出されたものである。カラ氏との相克は今までも何度も取りざたされており、既に次期大統領を狙っての動きが活発化したもので政情不安は今後益々目を放さない。

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2006年11月 4日 (土)

Fatmawati(1923年 ~1980年)

10月27日のブログのパンリマ ポリム通りを環状高速線まで下っていくのがFatmawati通りである。その先のチランダク地区にFatmawati病院があり、又その裏に通称病院裏と言う初心者向けゴルフ場がある。Cilandak Golf Clubで、昔、軍の爆薬庫が爆発したとき大きな爆弾が着弾してコースに大穴を開けたこともある。このFatmawatiはスカルノ大統領の第一夫人で、1938年にスカルノがベンクルーに流刑となったときにファトマワティとめぐり合い1943年に結婚したものである。独立宣言の紅白旗を手編みした逸話が残っているがこの独立期の大統領夫人で国母(Ibu Negara)と敬称される。
子供は5人、第5代大統領のMegawati Sukarnoputri(長女)を筆頭に Guntur(長男)、 Rachmawati(次女)、Sukmawati(三女)、Guruh (次男)の5人を設けた。
1954年スカルノの第2夫人とのいざこざから宮殿を去ることになったがスカルノの死後の1974年の宗教裁判で、スカルノの「正妻」という判決で名誉を回復し、更に1977年には、「独立の功労者」の称号を授与されている。1980年ハジの帰途急死した。
ちなみにスカルノの結婚歴をみると、ファトマワティと結婚した年齢は43歳でありそれ迄に二人ほど居る様である(師チョクロアミノト師の娘とか)が;
第2夫人は:ハルティニ
第3夫人は:ご存知 ラトナ サリ デヴィ(日本名:根本七保子)
第4夫人は:ハルヤティ
第5夫人は:ユリク サングルと続く。

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2006年11月 1日 (水)

ジャカルタの歴史の中のTUGU

ジャカルタ地区での最初の歴史的遺跡となるものはトゥグーの近くのカンプン バトゥトゥンブーで発見された有名なトゥグー石碑である。
トゥグーとは実際記念碑を意味するがこの大きな石は5世紀のタルマネガラ王国まで遡る。
これはジャワに影響を及ぼしたヒンドゥーの最初の考古学的記念物である。
他に同じような5世紀の大きな石に、プルナワルマンと呼ばれた王の名前が刻まれたものがいくつかあるが、彼はタルマネガラと呼ばれた西ジャワを統治したもので、又このタルマ国は525年以降4回ほど中国に使節を送っておりこの国の名前がTo-Lo-Moとして中国の古代記に残っている。
このタルマと言う名前はジャティルフールダムを経由してトゥグーの20km北のジャワ海に注ぐチタルム川の名前の起源のようである。
チタルムとは、その葉で藍又は青い染料を作るタルムの木の間を流れる水(チ)と言う意味だそうだ。
この最初の文字で表された遺跡以降、1513年にポルトガル船がボゴールのパクワンを都とするパジャジャラン王国の港であったスンダクラパの港に姿を現すまでジャカルタに残されたものは何も無い。ポルトガルは1522年スンダ王と対ドゥマーク軍事同盟とも言える条約を締結しPadraoと呼ばれる記念石碑を海岸に建てた。この両方共ジャカルタ歴史博物館にあるとのことである。

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中国ーインドネシア蜜月時代へ

最近インドネシアに対する中国の積極姿勢が目立つ。中国はASEANとの関係樹立15周年を記念してサミットを行い、インドネシアからはユドヨノ大統領が参加したが、
この15年に中国は南シナ海での安全保障を目指した東南アジア友好協力条約(TAC)を締結、ASEAN 各国の不安を取り除き、経済面では自由貿易を目指す中国 - ASEAN自由貿易地域(CAFTA)を設定し金融協力の面でも、中国はASEANのすべての加盟国と二国間スワップ協定(BSA)やアジアン ボンド イニシアティブで短期、長期の金融支援体制構築しつつある。
インドネシアとは既に投資誘致の合同委員会設立、エネルギー分野の協力合意6件、36億ドル、貿易額2倍の300億ドル計画、8億ドルソフトローン供与。。等がある。
中国はASEAN+3においてもヘゲモニーを手中にしつつある。日本もそれどころではないという気がする。

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