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2006年12月の投稿

2006年12月31日 (日)

クマヨランのBenyamin Suaebと鳥元

Benyamin Suaeb通りはクマヨランの真ん中の大通りであるが、ここの開発は1991年PRJがオープンした、新しいだけにこの通りの主はジャカルタ、クマヨラン生まれのブタウイで、70年代一世を風靡した俳優、歌手、エンターテイナーである。ミュージックアルバムは75、出演映画は53本ある。
伝統的なクロンチョンを謳い伝統的な楽器gambang、gendang、kecrek、gong、suling bambuと現代的エレキギターなどをミックスさせた。 売れた歌にはOndel-Ondel (1971)、Tukang Garem、Nyai Dasimah Biang Kerok、Dingin-dinginなどがある。映画ではベンジャミンシリーズ(寅さんシリーズ的)やSi Doel Anakシリーズが有名である。
79年に離婚したが同年復縁。1995年サッカーのあと心臓発作のため死去したがまだ56歳の若さだったのだ。ベンジャミンの名前を聞くと彼の振りと歌でみんなに愛された、今もバンドンの鳥元で活躍している友人を思い出す。Torigen_employee
写真は生き生きとした鳥元の従業員一同。この写真を来年に生かしたい。

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2006年12月30日 (土)

又々フェリー沈没 KM Senopati tenggeram

ジャワJepara沖で客船が沈没したニュースが流れた。乗員850人とかで年末でもあり、定員オーバーのはずである。KMとはKapal Motor(汽船)で名前はSenopatiということである。Senopatiはマタラム王国の建国者であるが伝説ではロロキドゥルと言う南海の女王に海の世界に連れられ夢のような日々を過ごし、マタラム王国の庇護を得たというので、時々海に引っ張られるのかもしれない。フェリーの沈没は今年に入っても数回ニュースを耳にしたが、其れほどインドネシアでは多い。定員オーバーの他に、老朽船の理由もあろうが、穏やかに見えるインドネシアの海も波が高く流れが速いことがあるのだ。10年前の転覆事故も思い出すことが出来る。それはサバン沖で起こったのであるが船の名前はKM Gurita(蛸)と言う名前で200名近くが死亡・行方不明で、船は日本の中古船だった。これも南海の大蛸に襲われる帆船の図とダブり記憶に残ったものだ。

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Kemayoranのアパート群と管制塔

2月19日のブログのグレジャ アヤムのあるKH.Samanhudi 通りをクマヨランのほうに向かうとその中心の通りのベンジャミン・スアエブ通りに行き当たる。北はアンチョール、南はクブン・コソンを繋ぐ片側4車線の広い道では、今もそうかも知れないが、一寸昔若者が単車を持ってきて集まりトレトレカンと呼ばれる危険なオートバイレースを繰り広げていた。Apartmen_kemayoran06_101
ここは今はアパート群が林立して、中には写真のような宮殿のような奇抜なものも多い。ここまで来るとここに住むのもいいだろうなと思わせる。
Kemayoran_nov06_090
元飛行場後であるので、昔の管制塔のようなものを見つけたが、手前は深く掘り下げられたジャカルタには珍しい青々とした深い湖を作っている。世界一高いジャカルタタワーの話もあってサイバーシティの構想であったが、チャイニーズビジネス・ディストリクトになっるのであろうか。

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2006年12月29日 (金)

総督ヤン・ピータースゾーン クーンJan Pieterszoon Coenの死

1619年、クーンがモルッカからオランダ艦隊16隻を率いてジャガトラに戻るや英国艦隊を放逐し落城寸前のバタビア城を救った。ジャガトラ市は破壊されバタビア城を明け渡す寸前の守備隊の幹部は処刑された。ここにオランダは最初の占領地を獲得、この町はバタビアと命名された。イギリスとの確執はバンダでの残虐事件(土人800人を逮捕バタビアで処断)や1623年彼の帰国後云い含めた後任の代でのアンボン事件(英人+日本人各10人を処刑)を引き起こした。
その間ジャワのマタラム国は伸張、第3代スルタン・アグンはマドゥラ、スラバヤを取り次に西ジャワを狙い出した頃、1627年クーンは2回目の赴任となった。1628年から1629年、マタラムはバタビアを2度攻撃したが、クーン総督の死守に合い成功しなかった。海上からの艦砲攻撃、食糧の欠乏、コレラの発生でマタラム軍は退却したが、クーン自身もコレラに感染し僅か数時間で死亡した。(若干42歳)コレラの発生は爆薬が尽きたオランダ軍が人糞を詰めて撃った為と憎しみをこめて言い伝えられている。Coen_di_wayang_museum_054
彼の墓碑が今のワヤン博物館にある。

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国家防衛の日1948年12月19日 

インドマルコ社のニュースで知ったことであるが、ユドヨノ大統領は12月19日を「国家防衛の日」に制定したそうである。12月18日オランダは突然、レンヴィル協定を破棄、交渉に及ばずとして翌19日未明、空からジョグジャカルタを攻撃、第二次侵攻(警察行動)を開始した。
オランダ支配の騒乱のジャカルタを避けジョグジャカルタを首都として移転していたスカルノ、ハッタ、シャハリルは逃げることなく直ちに拘束され、他の閣僚も逮捕されるか或いは夫々のカンプンに潜むこととなった。それはスマトラ・ブキティンギPayakumbuhに既にSjafruddin Prawiranegara.に臨時政府を作るよう命令をしていたからである。(此方が失敗した場合はニューデリのサラミスが担うこととなっていた)ハメンクブオノ9世はそのまま宮殿にとどまったがオランダはスカルノ以下をバンカに放逐した。当時は近くのカリウランで米国等3ケ国委員会が調停中で、強行派のファンモークの後、ベール弁務官が力で圧倒せんとしたものである。
病床に臥していたスディルマン将軍は更なるゲリラ戦を布告、明けて1月アジアの19ケ国はオランダを非難、ボイコットを行い、国連の停戦決議やアメリカも最終マーシャルプランによるオランダ援助停止を打ち出した。3月にはスハルトはオランダ支配のジョグジャを攻撃、5月 オランダはルム・ロイエン協定を結び国連の停戦韓国を受諾することとなった。
シャフルディンは後、スカルノの独裁を批判、軍中央と対立するプルメスタPermestaの動きのズルキフリ・ルビス将軍に擁立されスマトラで革命政府PRRIを宣言したが国軍の攻撃に降伏した。 その後5年の刑期を終えたあと、スハルト時代はパンチャシラ強制、汚職に批判の矛先を向け、ぺティシ50をリードし、後に国家英雄となっている。


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2006年12月28日 (木)

インドネシア検察庁 Jaksa Agung

Jaksa_agung
Jakasa Agungとは検事総長で検察庁はKejaksaan Agungである。10月30日のブログでシシンガマンガラジャ通りの検察庁の住所は実はハサヌディン通り(Sultan Hasanudin No.1)であると紹介したが、ハサヌディン通りは検察庁の前から今はバスターミナルへバスが密集しながら通る道で昔はファラテハン通りに抜ける秘密めいた道であった。後一つトルノジョヨ通りの国家警察庁からパサラヤデパートまでの道もハサヌディン通りと言うようで、ハサヌディン通りはあの辺りでばらばら寸断されたのかもしれない。行って見て堂々たる検察庁の建物を写真に収めた。正しくは最高検察庁でこの下に日本の高検Jaksaan Tinggi、地検Jaksaan Negaraがある。写真はカウンターパートの最高裁Mahkamah Agungと共に歴史遺産Tempo Duluに入れておこう。

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2006年12月27日 (水)

オランダVOC初期のの総督 Both ~ Coen

VOCが設立される前1601年にオランダが派遣した船隻総数は65に及び自由航海時代と言われた。この中に初代総督となるピーテルボットもいた。オランダ船隊同士の競争の弊害を除去する為、全ての会社がVOC(東インド会社)として統合されたが、特にバンダ諸島での土人やイギリスとの対立等諸問題から会社内の各地の商館、船隊、従業員、兵士の指揮命令を統一する為1609年にPieter Bothを初代総督に任じた総督制が始まった。 ボットはアンボイナに赴任しポルトガル・スペインを駆逐し、又ジャガトラの領主と協定を結ぶなど成功したが1613年帰国途中、乗船が難破しマウリチウスの陸に泳ぎ着いたが力尽きて死亡した。
ヤン・ピータースゾーン クーン(Jan Pieterszoon Coen)はオランダのバタビア330年の総督の内で最も偉大とされる総督である。旧総督府宮殿の財務省の前庭にはクーンの銅像が建っていたが日本軍が破壊した。1587年生まれの13歳でローマの商館で見習いを7年、商業と簿記と6ケ国語を習得、後に初代総督となるボットの腹心として1607年東インド(インドネシア)に渡り、1611年に一旦帰国後、1612年に2船の司令官として出発、後に貿易事務総長に任ぜられる。既にジャガトラに商館を得ていたが、ジャガトラの有望性に着目、バンタンからジャガトラに第2代総督ラインストと共に移動するがラインストは到着後その地で没した。1617年第3代総督レアルは英国との対立厳しいモルッカにおり、ジャガトラはクーンに全権を託した。1618年マタラム王国がバンテン王国と結びオランダの商館を破壊の挙にでたがクーンは、これを防衛、更に要塞を改造、1619年ここを拠点とする大決心をしたときに第4代総督に任ぜられた。総督になるや英国商館を焼き払い蘭英の戦端が開かれたのである。
クーンも後に、マタラムとの戦陣に没するが総督というトップが相次いでバタビアの土となっていく様はその前のオランダの無残な北極経由や喜望峰経由の到来の冒険で流した血を思うと植民の重みを感じる。


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2006年12月25日 (月)

OSCAR PubとJames Brown 12月26日

Oscarnov06_007
クリスマスもあけたのでブロックMのパブ オスカーに出かけて見ては如何だろう。 ここは1988年にオープンしたパブ兼レストランである。( Palatehan No.1 Blok M 電話(021)720-4707 )
ここの従業員はなかなか訓練されており接客態度が良く、丁度手ごろな気安さがある。
確か、8時くらいまではハッピーアワーをやっている。大昔はジェイポンガンの踊りなどをもやっていたが、今はなんと言ってもライブである。何組かのローカルバンドが担当しており、Top-40、ロックンロール、カンツリー等なんでもこなす。前のフロアーではダンスが出来るし飛び入りのカラオケも出来る。数年前、バンドに日本人が飛び入りで毎夜出演し喝采を浴びていた。
ホームペイジ(http://oscarpub.jakartablokm.com/index.html)を覗いたら、アメリカのソウルのゴッドファーザー ジェームス ブラウンがクリスマスの夜、死亡(73歳)したニュースが出ていた。ご冥福を祈ります。

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オランダ近代性が独立を育む 

19世紀中葉からのオランダの近代性が後の倫理政策を経てインドネシアに独立の気運を育んだとして、10月始めの当ブログで、ロンゴワルシトを介してタコ・ロールダ他オランダ学者によるジャワ学とオランダのミュルタトーリの文学作品「マックスハーフェラール」を挙げたが、他に以下を追加したい。
マックスハーフェラールに描かれた時代1848年~1850年はジャワは干害で飢餓地獄であったが、当時オランダ本国では憲法改正の時期にあり、元ジャワ布教師ファン・ホーエフェル議員一団は植民地原住民の擁護を政府に要求し戦った。 成果的には1854年の新統治法で総督の土人擁護義務が記載され、後の奴隷制度廃止や強制栽培制度の廃止へと繋がっていく。
少し下って1899年オランダ下院議員であったファン・デフェンテルは「名誉の負債」と題する一文を発表しオランダ本国が苦難の時代に植民地より受け取った莫大な利益は本国の植民地に対する負債と見るべきことを訴えた。これが1900年の倫理政策転換の導火となった。
クリスマスとは関係のない話で申し訳ない。

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2006年12月24日 (日)

スカルノハッタ空港でアイ・スキャンを導入?

もう直ぐ、外国人のスカルノハッタ空港のパスコントロールで長い列に並ばないでスキップすることが出来るようになるという。
ジャカルタポストによると、ジャカルタを頻繁に訪問する外国人は登録することによって別のパスコントロール ゲートを通ってこのアイリス走査システムで通関できることになる。このシステムはサファイアーサービスと呼ばれ国営空港会社PT.Angkasa Pura IIとオランダの Schiphol グループとの間の合弁会社APS社によって提供される。
「我々は2007年に3千人から4千人までサファイヤーメンバーを期待している。 これが達成できれば次はメダンとスラバヤ等他のローカルシティでも導入するとAPS 社は発表した。
登録するためには、申請人が空港で Saphire オフィスに行って、18ケ月以上の有効のパスポートとそして1年のメンバーシップに対して2百万ルピアを支払えば、20分程度で完了する。VISAはマルティプル ビジネスビザかKITASとリエントリーヴィサを持っていることが必要である。
現在ビザフリーはタイ、マレーシア、シンガポール、ブルネイ・ダルサラーム国、フィリピン、香港 SAR 、チリ、モロッコ、ペルーとベトナムに与えられている

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2006年12月23日 (土)

食品防腐剤等の過剰使用の警告

ジャカルタ・デポックの地区衛生局は最近地区内の特に44学校の所在付近の食品ベンダーの提供食品を検査した結果として、健康によくないformaldehyde、sodium benzoate、cyclamate、borax、rhodamin及び yellow methanil などが使われていることを発表した。
こう云う話はデポックだけでなくインドネシア共通であり、今までも騒がれてきた問題である。これは彼らがこう言った化学物質を使っているのではなく、材料である麺類、豆腐や肉団子、味付け・香辛料等に入っているのであろうから、全国的といえる。これらは防腐剤や染色が目的で、許容限度を越えた使用に警告している。
先日ゴルフ場の飲み物販売コーナーで色の着いたスポーツアクアが取り除かれているのがあったがこの商品は表示不完全を指摘された飲み物、ミゾンだったと思う。
フォルムアルデヒド(その水溶液がホルマリン)は日本でもシックハウス病でも有名であるが、たんぱく質を固めて腐敗し難くしたり、接着剤としての尿素樹脂として使われるものである。
疑えばビールにも焼酎にもあるかもしれないので、よく表示を見て、且つ飲みすぎない、偏らないことを自分に言い聞かせるだけだった。

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2006年12月22日 (金)

ジャヤウイカルタ ウイジャヤカルタ

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スンダクラパは1527年ファタヒラーにより陥落した後、バンテン国の治める所となったが、バンテンのスルタンはスルタンに従うJayawikarta(又はijayakarta)王(Pangeran)を送りこんだ。Jayawikarta は現在のKafe VOC(後の造船所)に王宮を作りまたイギリスのロッジもここに建設を認めた、オランダにはイギリスより先にチリウン川対岸(東側)に二つの倉庫Mauritiusと Nassauを認めていた。ここから大砲が王の居所に向けられていた。ジャヤカルタがバタビアとなる前夜の物語りの一部である。
ジャカルタの名前の起源はファタヒラーがスンダクラパをジャヤカルタと改名したことになっているが、このウイジャヤカルタ説もある。

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2006年12月21日 (木)

Gereja Paulus ナッサウ・チャーチもアヤム教会

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イマム・ボンジョール通りの端、ディポネゴロ通りのスロパティ公園の斜め前に美しい教会が
そびえている。この教会はオランダ植民時代の最後の時期に建てられたプロテスタント教会である。イマムボンジョール通りは当時ナッサウ通り(Nassau)と言う名前であるのでナッサウ教会と呼ばれた。スロパティ公園はBurgermeester Bisshoppleinと言う名前であった。完成は1936年、コタ・ステーションなど19世紀のジャワの有名な建物のデザインを担当したGhijsels技師
によるもので、カトリックの伝統的な十字形の建物でなく高くて細い尖塔、大きな角度の黒い屋根と白い壁で周囲を圧している。尖塔の先は十字架でなく雄鶏のように見え、これもアヤム教会とも呼ばれるそうだ。

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ジャカルタのヒンズー寺院 

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ジャカルタの町を普通に生活していてヒンズーの寺院を見ることは先ず無い。手元の本を捲ってみるとプルイットとジャティネガラにあるようであるが、つい最近、こちらより先に別のものを見つけた。
こちらもチリンチンの端であるので日本人がここに来ることは100%ないところである。そのときはトゥグの古代石碑の村を探す為、遠出した序にジャワ海のほうに出た所でカリバル地区の海沿いに立っていた。この辺りの海は穏やかなため、海上にまでスラムがはみ出して、生活ごみでむんむんとしている。
Cilincin_nov06_016
珍しく可愛い子供が教科書を手にヒンズー寺院の石垣に座っていたので、話してみたところ、この地区に住んではいないとのこと納得が行く。やせこけて臭そうな犬をよけながら寺院の写真を撮ってみたが名前はPura Segara とあった。バリヒンズーだろうか

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2006年12月20日 (水)

クリスマスシーズンにテロ警戒態勢

米国大使館はクリスマス・新年シーズンに欧米人を狙ったテロが起こる可能性あるとして在インドネシアの米国人に対しEメールでテロの警告を行った。 実際2000年にはクリスマスに複数の教会が爆弾テロにやられたことがある。2004年はミサは教会でなくオフイスビルやホテルで行うことが指導されたほどである。

今年は首都警察では管轄地内の1,406の教会と1691のモスクを今年のクリスマス警護を優先的に実施することにしている。警護の便ならしめる為鞄や包み類を礼拝の際に持ってこないことを要請。
このデータは管内の教会の数を意味するものではないものの教会の場合は殆どとなろう。それにしてもかなりの数である。モスクの方は本来ならもっとあるはずであろうが何故これだけが優先性を与えられたか不明、それにモスクは誰に襲われるのであろうか。
このシーズンに警察官28,000人のうちの2/3及びTNIやTramtib、消防・救急を動員する。インドネシアは世界最大のイスラム教徒人口を抱え、総人口約2億23百万人のうち、約87%が宗徒。クリスチアンは8%

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2006年12月19日 (火)

イスラエル政府のインドネシア語ウェブと国交関係

イスラエルがインドネシア語でのwebsiteを立ち上げたニュースがあった。イスラエルのシンガポール大使館が運営するものでムスリム国家のインドネシアやマレーシアにイスラエルの政治、経済、文化を伝え、理解を深めたいとしている。
インドネシアはマレーシアと共にイスラエルと外交関係にないが、同じイスラム国でもトルコ、エジプト、ヨルダンは外交関係を持っている。 インドネシア外務省次官Imron Cotanはムスリムに敵対しない限りウェブサイト自体は自由であるが、インドネシアがイスラエルを認める為にはパレスチナの独立国を設立する国連の決定に従うことが条件であるし、インドネシア社会では非常にセンシティブな問題でデモの嵐が吹き荒れるだろう述べた。
日本も国際的に孤立することが多いが、それは日本語しか出来ないことに起因するのだろうか

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グレジャ アヤムのあるKH.Samanhudi 通り

この通りの名前の人もインドネシアの英雄の一人である。「1868年にソロで生まれ。小学校中退でスラバヤに出てバティックの売り子をしながらイスラムの勉学に励む。当時オランダ政府は中国人の商売は援助したがインドネシア人の商売には圧力をかけた。1911年,彼はそれに対抗する為,ソロでイスラム商業同盟を創設した。
イスラム商業同盟は政党となり1912年にはイスラム同盟と改称した。この政党はチョクロアミノトの指導により大組織に発展、1916年スラバヤで総会を開いた時は会員は8万人であったがその後1918年までに200万人に増加した。1956年に亡くなり民族運動英雄に叙せられた。」 とある。

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2006年12月16日 (土)

愈々外国人の住宅購入が自由化されるか

ジャカルタポストによると外人のアパートメント等の不動産購入を認める大統領令が2007年に出る模様である。これはインドネシア商工会議所会頭Muhammad S. Hidayatが不動産業者協会(REI)の年次総会で語った話でユドヨノ大統領が彼と国土長官Joyo Winoto 及び不動産開発業のHendro Setyawanと会議を持ち基本的に同意したとのことである。元REIの会長でもあるヒダヤット市はマレーシアでは90年の権利で、シンガポールは6階以上のアパートと言う条件付ながら認められており、インドネシアも投資環境の向上のためにも70年程度の権利にすべきことを助言したそうであり、今後国土庁が中心となってREIとともに法案検討に入るそうである。 
現在は企業ならば住宅でも10年の使用権で購入でき又、一時外国人の不動産購入が認められたことがあるが、それは政府がそれ用に建設した物件に限られる等人騒がせな法令であった。今度は本物であることを期待したいが。。

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2006年12月15日 (金)

Zainul Arifinがガジャマダ・ハヤムウルックを突き切る

ガジャマダ・ハヤムウルック通りもいつも渋滞である。それは横に流す通りがないからであろう。そこからグヌン・サハリに行く道にマンガブサール通りがあるが東西に突き切るのはKH.ザイヌルアリフイン通りである。西からガジャマダ通りに来たザイヌル・アリフイン通りはSukarjo Wiryopranoto通りと名前を変えて突き切る。その先はKH. Samanhudi通りと又名前を変えグヌン・サハリまででそこからアンカサ通りで旧飛行場クマヨラン跡地に導く。このクマヨランの大再開発地の真ん中の南北に走る新しい道路はBenyamin Suaeb通りであるが、道が新しいだけにこの人は一番新しい人(1995年逝去)のようである。ここの辺りをこの間、通った時のリポートがグレジャ・アヤムとクマヨランゴルフ場の写真である。今日はザイヌル・アリフインの素顔を紹介すると:
北スマトラ、タパヌリ出身、小学校、プサントレンだけの学歴ながら日本占領時、マシュミの総務部長や日本軍が編成したイスラム青年をメンバーとした準軍事組織のヒズブラーの司令官になる。
独立宣言後ヒズブラーは国軍に編成され、ザエヌルアリフインは国軍司令部の秘書官となる、その後DPRSの議員を経てアリサストロアミジョヨ内閣の首相第二代理となる。65年民族運動英雄に叙せられる。

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2006年12月14日 (木)

Sutiyosoの大気環境管理賞 クマヨランゴルフ場

Kota_nov06_095
2006年の Asian Air Quality Management 賞はスチヨソDKI市長に決まった話がJPに出ていた。JKTの大気汚染は日増しに悪くなっており、彼がやったことといえば禁煙条例だけのような気がする。予算措置も要らない禁煙で賞が取れるのであるからなんとやさしいことか
環境の面で言えば今彼はジャカルタのあちこちでバスレーンなどを広げる為街路樹をなぎ倒しており、その埋め合わせか今度はクマヨラン ゴルフ場を市民の森にするという話をぶち上げている。元々ゴルフ場つきマンション計画が承認されていたのであるからいまさら取り消すのは酷すぎる。マンション建設は誰がやろうとしていたのか、10数棟が立ち上がったまま金融危機のあおりで今でも幽霊マンションとなっている。此方のほうをどうとかして欲しいものである。写真はJIExpo(PRJ)からゴルフ場(マンションの下にある)を望む。

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2006年12月13日 (水)

パッサルバルーのGreja Ayam 

Kota_nov06_103
パッサール・バルーのサマンフディ通りを通っているとき大きな教会があったので写真を取ってきた。この教会はGreja Ayam(鶏教会)と呼ばれるオランダ時代からのプロテスタントの教会である。入り口に腰掛けていた老人が入れ入れといわんばかりに大きく手を振って招き入れた。 この老人は教会が併設している養老院の老人のようでチップ狙いで門番を買って出ているのであろう。イスラムのモスクの場合は勝手に中に入って写真をとるものなら追い立てられるが。。
Greja Ayamの謂われは屋根のてっぺんの雄鶏の風見鶏であるが、これなら多くの教会がGreja Ayamになってしまう。其れほど教会と雄鶏は、風見鶏ともなるので関係が深い。雄鶏は最後の晩餐のときのペテロに対するキリストの言葉から来ている。「貴方は雄鶏が三度鳴く前に、私を知らないというだろう」、キリストの捕縛後、この予言通りペテロはキリストとともに行動していたことを否定してしまう。。信仰に躓きそうになる信者に対し、教会の上から雄鶏が警告を与えてくれるから、ということなのだとか。(最後の晩餐云々はニューヨークとアンティークというブログから借用させてもらいました) 
信仰の固いクリスチャンですら躓くことがあるということである。この教会は1913年ごろの建設で、説教壇のバイブルは1855年のものとのことである。 通りの前からの全景はtempo duluに入れました。


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2006年12月12日 (火)

ジャカルタモノレール政府保証めどでGO

ジャカルタのモノレールプロジェクトが実現する見通しが出てきた。政府保証を反対していた財務大臣も大統領の決定で保証書を発行させられることになる。保証はこのプロジェクトに融資するドバイ イスラミックの銀行宛に発行され金額は5億ドルである(プロジェクト総額6.5億)
このプロジェクトは2本のモノレール線からなり14.3kmの緑のラインはラスナサイドからガトットスブロトースデイルマンースナヤンープジョンポンガンを通りラスナサイドに戻ってくる16駅の線で、青ラインは東ジャカルタのカンプンムラユから西のロキシーまでの11駅の12.2kmの線である。ドバイイスラミック銀行は乗客数が1日160,000以下になった場合政府とジャカルタ市が50:50で5年に渉って22.5百万ドルの乗客不足を補うという条件であった。マレーシアの投資家も興味を示しているようだ。(以前に参加していたMTrans Holdingか否かは不明)
30年のBOTべースのプロジェクトのオペレーターはJM社(Jakarta Monorail)でその株主はインドネシア側はITCコンソーシアムで他にシンガポールのOmnico等があったが現在Omnicoは2%程度まで減じている。代わりにユスフカラ副大統領のBUKAKA社がメインコントラクトアーとして参加している。国営Adhi Karya社も株主で既に入札もなく両者夫々2億ドル内外の建設・土木工事の請負契約が出来ている。他に国営INKA、LEN社も株主。JMもスティヨソが入札なく指名したものでこの不透明さからSri Mulyani Indrawati財務大臣が反対を唱えていたものであるが。。
当初運転開始予定は2006年末だったもので2008年にずれ込み確実であるが、これは拡大バスレーン、計画段階の地下鉄や水上交通と合わせ、首都圏の公共交通システムの一角を担うものとされている。青ラインは東はブカシ、西はスカルノハッタ飛行場まで延長する構想である。
今ジャカルタはあちこちで道路工事をやっている。見た目は変わることは確実だ。

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2006年12月11日 (月)

ジャヤカルタの蘭英大海戦

マラッカ・モルッカに引き続き大航海時代の海戦の模様を伝えよう。幾多の苦闘の末オランダは1596年バンテンに現れるが追い払われる形で立ち去った。バンテンの属領となってジャヤカルタと名前を変えたスンダクラパにも、オランダは近ずくも、1610年に始めてオランダに木造の倉庫を建てる許可を与えるまで貿易は出来なかった。1613年オランダはその許可の条件を破り着々と石造りの要塞建設(1618年)に進んだ。ジャヤカルタ王子はオランダと対抗する為イギリスにも商館建設の許可を与えた。1618年の12月には危機は高まりジャヤカルタ王子の軍はオランダの要塞を包囲した。事務総長から総督になったヤン・ピータースゾーン・クーンはこれを破り、逆に対岸のジャヤカルタ王子と戦線を張るイギリス商館を焼き払った。怒ったイギリスは元アメリカ大陸バージニア総督であったトーマスデールが指揮するイギリス海軍15隻を派遣、要塞のオランダ商館を攻撃した。クーンはモルッカに停泊しているオランダ艦船を増援に連れてくるために脱出、その間イギリスとジャヤカルタ軍の宗主バンテンとの間に生じた不和を乗じてであった。4ケ月後クーンは14隻の艦船を引きつれ戻ってきてイギリス軍を追い払うことに成功した。
1610年代まで新興のオランダとイギリスは各地に商館作りで張り合い、海洋で出会うごとに砲火を交えるほどであったという。衰退しつつあるポルトガルからは1603年にバンテンを奪い、1605年にはアンボンからポルトガルを駆逐した。イギリスもオランダが行く所、平戸、バンテン、パンダ、ジャヤカルタに拠点を展開していた。

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2006年12月 9日 (土)

事件の爪あとPurtaminaとBringin

Pertaminadibakar

Museum_nasional_sejalah_nov06_050
街を回ると色んなものにぶち当たる。Candra Nayaもそうだが、コタのトンネル掘りの出土品もそうである。それはそれで記事になるがならないもの2題、写真のみ掲載するがブログの写真掲載はインドネシアでは時間がかかるので後回しになるかもしれない。一つはこの間火事を起こしたプルタミナ本社ビルの役員室辺り、確か悪事の証拠品を焼く為にとか騒がれていたがその後は聞かない。このようなことはよくあるほうで以前の中央銀行の火災も役員室辺りの上の方であった。後一つはハーモニー バス駅建築の際保存された神木ブリンギンである。イスラムのキチガイに攻撃され無残な姿をさらしている。多分息を吹き返すことは無いかも知れない。こっけいな話だ。

写真2枚どうにか時間内に滑り込ませた。土曜のバクリーの電話であるがネットも接続、大成功である。

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2006年12月 8日 (金)

地域防諜機関Komindaを設置か

政府はテロ対策として草の根諜報機関を設ける法案を国会に提出している。この法案はテロを口実にしているが、市民生活の中でスパイ活動を行い民主化運動などを抑えてきたスハルト時代の防諜を想起させる。当時の防諜専門機関はBakorstanas.であるがGusDur時代に廃止された。
草の根であるから地方の各レベルに設置されるがKominda(地域社会情報機関)と称され国家防諜機関(BIN)や軍・警察との共同ネットワークを形成する。
マルーフ内務相はインドネシアの防諜に関する法律はなく全て大統領令や政令によっておりKomindaは2003年の大臣令によるもので法律として成立させ大いに議論すべきだとし、又この機関は逮捕や拘束の権限は付与されていないと弁明している。
インドネシアは未だお上の顔を見ると振るえ上がる国である。みなが権限を持ちたがるし小さな権限でも持たせたら大きくなる。

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Karya II Hotelしかないが。。

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先日手にした本「運命の長女 メガワティ」の冒頭に作者が宿泊したという殆ど知られて無いホテル名があったので訪ねてみることにした。本の該当箇所を拾うと「その宿はジャカルタの中心地、チキニ病院の真向かいにある。チキニ病院は、かって芸術愛好家の初代大統領スカルノがこよなく愛した画家ラデン・サレの自宅だった。この24時間体制の救急病院には、救急車が騒々しいサイレン音とともに出入りする。病院前のラデン・サレ通りには屋台が並び。。バジャイと呼ばれる自動輪タクやバイクのエンジン音がけたたましく鳴り響き、バスが停まり発車するたびに黒い排気ガスで噎せ返っている。そこが宿であることを知る人は実に少ない。表にはドクトルギギ歯医者の看板が掲げられているだけだ。しかしその奥に足を踏み入れると、まるで隠れ家のように不思議な空間が広がっているのだ。初めてここを訪れた時は、余りの暗さに泣きたくなった。入り口には小さなレセプションが設けられその脇のソファで口ひげを生やした男達が。。テレビを見ている。。ところが翌朝目覚めると、そこは別世界であった。可憐な中庭がしつらえてあり、大きなマンゴーの木が屋根を突き抜けて空まで伸びているのである。。。この宿の主人は大陸からやってきた華人である。。。1966年に宿を建てたのである。。。」
作者は秋尾沙戸子さんである。共通点もあるが全く違う点もあり不思議であるがチキニ病院のまん前にある唯一のホテルはKarya II Hotel(Jl.Raden Saleh No.37 Telp:3192-5078)だけである。
写真は一番奥からレセプション(左手で見えない)の方に向け撮ったもので、レセプションの前の可憐な中庭と大きくはないがマンゴーの木があり籐イスのソファもある。表の通りからは奥まっており薄くらい所はここに違いないと思わせる。このホテルの隣は新しいビルが立っていたが近所の人に立つ前はホテルがあったか聞いたがそれはないと言う。あれば二つあることになる。創業者の写真が飾ってあったがレセプションの男はプリブミと言うところが腑に落ちない。それにしても誰が作家女史にこの宿を紹介したのだろう。

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2006年12月 7日 (木)

劣悪なBakrieの電話サービス

バクリーグループの経営する電話会社はEsiaと言うがこれについてついに大クレームの告発がジャカルタポストに載せられた。
告発投書には数件と問題事例を挙げていた。
1) 月間電話料リミットが設定され、この人の場合はRp750,000であるがこれを超えると自動的に
ストップされる。
2) アクティヴェートするためにはBakrie Telecomに行って最低50%を支払わねばならない。
3) この問題解決のため、増額又は保証金まで提案したが、3ケ月様子を見ると言って、もう4ケ月放置された。
4) カスタマーサービスに電話するといつもベルはなっているが取らない、英語をしゃべると切られる。お客に対するこんな応対があっていいのだろうか
5) 国際電話をするとたびたび接続が切れる。それも2~3秒で。 ラインが切れても奴らはその2~3秒に対しテーブルでチャージしやがる。これはインチキの詐欺行為だ
これらは考えられない商道徳、サービス精神の欠如である。
小生も家の電話はそうであるので、土日のダイヤルアップが接続できず困っていたところであった。
小生のブロッグの9月11日で消費者無視のバクリーとして事件簿に記載し鬱憤をはらしたので、小生は既に諦めている。

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2006年12月 6日 (水)

コタのトンネル工事とオランダ時代の出土品

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コタのマンディリ銀行博物館前で掘っているトンネルからオランダ時代と思われる遺物が続々発見され話題を呼んでいる。このトンネルはここ一帯の観光地化の為の歩行者用のトンネルで来年末に完成する予定である。出土品は枕木、杭、素焼きのパイプ、レンガ壁で市ではここにある構造物自体は取り除くしかないがここに歴史を伝える出土品の展示コーナーを作りたいとしている。
掘削に従事している労働者は多くの19世紀のコインや陶器も発見しており持ち帰っている。
一時はこの構造物はバタビア城の壁であると思われていたが市の調査では否定されている。オランダの地図によるとこの地にはビンネンホスピタルもあったようであるが、一方素焼きのパイプは18世紀のバンテン浄水システムのものと見られている。
ここにあった市の交通の要衡であった。コタージャティネガラ列車ルートは1960年代に埋められたが関連するものかもしれない。結局は判らずじまいになりそうであるが出土品の一部と思われる枕木、鉄路などがジャカルタ歴史博物館の裏庭に並べられていたので写真を撮ってきた。

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2006年12月 5日 (火)

マラッカへ!モルッカへ!大航海時代

昨日コーエーの大航海時代のOnlineゲームソフト(Gamecity.ne.jp)が小生のパソコンに飛び込んできた。黄金郷(エルトラード)を求めての大冒険(ラ・フロンテラ)を再現するゲームで大海原に風を受けて疾走する大帆船の艦隊群の激突が想像されて雄大な気分になる。
マラッカはパレンバン出身シャイレンドラ王朝の子孫が自ら関連するマジャパヒットの王位継承の難をのがれこの地で1400年ごろ建国したもので明との国交が地の利も得て東西交易の中心として育って行った。マラッカはクーデターにより王権を簒奪した異母兄の第5代時代にタイから侵略してきたアユタヤ朝の海軍を倒し、さらに第6代の全盛期を迎える。第8代が最後の王で宮廷陰謀が頻繁に行われる中に1509年沖合いにポルトがう船が現れたのである。ポルトガルはカリカットに到着後更に500km東のゴアを拠点としたが香辛料の集積地マラッカを望み1511年アフォンソ・ダルプケルケは18隻もの大帆船艦隊を引きつれマラッカを襲った。マラッカの城の攻略には相当てこずったが、華僑の助けを得て陥落せしめた。常に勝者に付く華僑の姿はこんな昔からあったのかと驚く。
ポルトガルは翌年にはアンボンに根拠地を築き、北マルク諸島やチモールにも進出、時に北マルクのテルナテ王国とチドーレ王国は対立していたが1521年マゼランの艦隊がチドーレに到着、両者の対立はポルトガルとスペインの対立となったが1529年協定成立した。16世紀の終わりからポルトガル本国の国力の衰えから、その主導を新興オランダとイギリスに譲っていく。オランダとイギリスとの大海戦は次回に譲るとして、地理的名称を整理しておく。

モルッカ諸島は北マルク諸島でハルマヘラとそれが抱くような小島、テルナテ、チドーレ島がある。アンボン(島)はセラム島の南西の島で同じく南の小島バンダ諸島と共に中央マルク諸島に属する。アンボン港はオランダ時代はアンボイナと呼称された。バンダ諸島の中心はバンダネイラ(島)である。北マルクが丁子、中央マルクがニクズク、チモールは白檀の特産地である。

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2006年12月 4日 (月)

アジアにおけるポルトガルの勢力伸張と没落

15世紀末からの大航海時代に先陣を切ってアジアに進出したのがポルトガルである。進出するやゴア-マラッカ-マカオ及び一部モルッカ諸島に香辛貿易の一本の糸を作り上げ、スペインとの抗争の後ほんの1世紀でオランダによりアジアから駆逐され、衰退していく。ブログのTuguの石碑やPadrao の石碑が出たので当時のポルトガルの歴史を覗いてみる:
カトリックのポルトガルの地は8世紀イスラムのアフリカのモーロ人に侵食され始め、数世紀に及ぶカトリック諸王国の国土回復運動「レコンキスタ」の後、1143年ポルトガル王国は独立を果たし最終的には1249年レコンキスタを完了、スペイン(独立1479年)より早かった。
1279年よりポルトガルは黄金時代を迎えエンリケ航海王子(1394~1460)の先見の明で海洋学等の学術技術の振興が大航海時代を生んだのである。
*1492:アメリカ大新大陸発見のスペインのコロンブスはポルトガルで航海術を学んでいる。
*1498年:ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰を迂回しカリカットへ。インド航路の開拓。
を経てポルトガルはインドのゴア(1510年)、マレーのマラッカ(1511年)、中国のマカオ(1557年)に、貿易の拠点を築いた。丁子ナツメグの産地の “香料諸島”といわれたモルッカ諸島にも進出、1521年東から太平洋にやってきたマゼラン艦隊のスペインとモルッカ争奪戦をやったが1529年のサラゴサ条約で協定しスペインは補償金と引き換えに香料諸島から撤退、フイリピンに向かうこととなる。ポルトガルは領土的野心なくマラッカを中心とする中継貿易だけで巨万の益を得たが、やがてこの地のイスラム商人はカトリックのマラッカを避け、アチェやバンテンが興隆するとともに、オランダのポルトガル締め出しの戦略に嵌って衰退していく。それが一本の糸に過ぎないという根拠であるが、アジアに残したポルトガルの言葉を考えると大きな影響を残したといえる。ポルトガルの人口は20世紀初頭の人口調査で500万人、大航海時代は100万人程度ゆえ大きく張り出した地域に進出できる人口のゆとりがなく、勢い現地人等の混成民族であることも衰退に拍車を掛けた。
本国は1580年に王族の姻戚関係でスペインに併合され(1640年再独立)、ついに1642年マラッカがオランダの手に落ちたのである。

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ポルトガルとのPadrao記念碑12月3日

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11月2日のブログでJakarta地区で発見された歴史の石碑はTUGUのPrasastiに次ぐものとしてこのPrasasti Padraoを紹介した。ポルトガルは1511年にマラッカを占領後、1513年更に胡椒を求めて当時胡椒、タマリンド、米他農産品等の輸出で賑やかだったパジャジャラン王国の海港スンダクラパ に現れた。ポルトガルはアンボンに勢力を伸ばす一方、この地にも商館・砦を設けることを提案、ヒンドゥのパジャジャラン王国側(首都はボゴール)はとみに脅威となってきたイスラムの諸国からの侵略に備え、ポルトガルの提案を受け入れた。この協定を記念するものとして作られたものがPrasasti Padraoで、スンダクラパの浜辺に建てられた。この石碑は1918年に少し内陸となったJln.Cengkeh(カリブサール辺り)で発見されオリジナルは国立博物館に、レプリカがジャカルタ歴史博物館にある。1522年8月21日、協定はポルトガルがチリウンの東側に防衛の為の築城しスンダ王国を保護する代わりに、胡椒を年間1,000袋提供するものという内容でパジャジャランのパスンダンの国王とポルトガル艦隊司令官アルフォンソ・デ・アルブケルケの代理が署名した。
石碑には球体の紋章の他DSPOR(ポルトガルの支配)やEspera Do Mundo(世界の希望)などが判読できる。本物の協定文書はポルトガルの博物館で収蔵されている。
ポルトガルがここに完全な勢力を扶植する前に、バンテンのスルタン王はファタヒラーをスンダクラパに派遣、1527年ファタヒラーはスンダクラパを陥落させ遅れてやってきたポルトガルの艦船も敗退、スンダクラパ占領に勝利した。

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ピアノバーのルビストロLe Bistroのステーキ 12月2日

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2年ほど昔だったか、ワヒッドハシム通りにあったイタリアレストランLe Bistroがタムリン通りのジャヤパブの敷地に移っている。昔の調度品からドア、鴨居から床材までそのまま、一寸間取りのレイアウトが違う程度でゆったりできるソファー席二つと20人収容可能なVIPルームが付いている。
この店は既に30年になるとのことでオーナーは30年前のスターであったRima Melatiさんで旦那さんもアーティストのこと。30年前の1976年のオープニングはアディサディキン市長、2005年12月の移転オープンはスティヨソ市長がオープニングを務めた。フランス大使やカルタサスミタ元調整大臣、ファッションモデル界の大御所ポッピーダルソノも駆けつけたという。隣はこれまた懐かしいジャヤパブで外人がカウンターで騒ぐような気さくな安い居酒屋である。ここはバリにも支店を持っており、提携しているようだ。TEL-3909249、サリパンパシフイックホテルの向かいである。エスカルゴやステーキ類が得意、ビールは29,000、グラスワインはRp65,000、毎晩midnightまで。

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2006年12月 1日 (金)

コタのChandra Naya 

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数年前のジャカルタ新聞に古い中華建物に覆いかぶさるように建てられつつあったアパートの写真があったが、この前、コタのガジャマダ通りを通ったときこれが未だそのままなるのを見つけた。この中華建物はオランダ時代に華人により建てられたクラブハウスでチャンドラ ナヤと言うそうである。独立後は華人の社会団体「新民会Sin Ming Hui」が元中国大使館に隣接するこの地で学校や診療所・スポーツ施設を作り華人の活動拠点となっていたそうである。ジャカルタ新聞の要点を借用しておくと:
*この施設を巣立った中にインドネシアの最初の国際的バトミントン選手となったタン・ユ・ホックがいる。又スカルノの長男のグントゥール氏はここで写真を学んだ。
*この団体は他にタルマネガラ大学やスンプルワラス病院を設立した。
*高層アパートを手がけたのはモデルングループだがその会長のサマディクン・ハルトノの横領罪が発覚、対外債務整理機関・銀行再建庁の手に渡った。
*タマンミニ公園に移転の話もあったが、この地に残したまま高層アパートを立てることで合意を見ていた。
以上は3~4年前の話で現在は銀行再建庁は既に解散しているので誰かに売却されたものと思われるが建築再開も取り壊しも困難だろうし行方が気になる話である。写真は「Tempo Dulu」に入れよう。

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