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2007年1月の投稿

2007年1月31日 (水)

スンダ文化祭 Seren Taun Guru Bumi

明日からボゴールでスンダ文化の豪華ショウが始まる。ジャカルタポスト誌はこれをエクストラバガンザ (19 世紀米国で流行した奇抜なコミックオペラの類)と読んだがどのようなものであろうか
新聞では4日間の祭りで1万人の村人が参加し大筋は7つの泉からの聖水汲み、ケーキの献上、バッファローパレードとアンクロンによる伝統音楽演奏だそうで、多くの芸人や文化人が招待されている。最後の日の日曜日はスンダの舞踊と音楽の競演となるようだ。
この祭りは正式にはSeren Taun Guru Bumi(地の恵みに感謝を捧げる儀式)と言う毎年行われる祭りである。
場所はPasir EurihのSindang Barang史蹟村で、これが最大の観光アトラクションで祭りのあと、この村はパジャジャラン王国の歴史の生きた博物館にになると組織委員長は語っている。行ってみたい気がするが、高速の渋滞も予想される。

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2007年1月29日 (月)

Speelmanスペールマン総督もバタビアで没す

昨日出たスペールマン提督は1629年生まれで最初歴史に出てくるのは1660年頃であるので30歳台でVOCの艦隊を預かって、マカッサルのハサヌディン制圧に向かっている。当時のマカッサルはゴア国で領主ハッサン・ウディンはモルッカの暴動を応援しVOCのモルッカ貿易の脅威となっていた為、モルッカ暴動を鎮圧した後スペールマンを送り制圧したものである。そのボンガヤ条約でマカッサルはVOCの保護領となり他の英・葡商館を閉鎖せしめた。ハッサンウディンはこれより先、アルーパラッカの領土を併合しアルーパラッカの祖父と父を殺していたので以降ジャワの戦争でスペールマンの良き味方となった。1674年トルナージャヤが叛旗を翻すやスペールマンはVOC本部の宥和(静観)政策に逆らい、アマンクラット1世と叉其の死後2世と見返り条件をだし応援に出兵した。1978年には彼自身が事務総長となり、会社を動かしパラッカの応援をでて一大攻勢にで幾多の困難お末トルナージャヤを捉えることが出来た。このときの条約ではスマラン割譲とインドラマユの河口を国境とした。1681年総督になったあとバンテン国で内乱が発生、ハジ王の救援依頼に応じその父アゲンを捕らえた。スペールマンはこの1684年バンテンとの条約で貿易独占権を得たが彼自身は調印幾ばくもなく没した。こうしてみるとオランダの植民領土獲得に彼の果たした功績は大きい。艦隊司令官から事務総長になり総督に出世するコースはクーンと同じでVOCの初期のパターンである。

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タクTack少佐VOCのエリート隊長

Prasasti_front_yard_half
タク少佐の墓名碑がプラサスティ公園にあるというので見に行ってきた。彼はマタラムとバンテンの戦乱に次ぐ戦乱の中散ったVOCのエリート軍人である。彼が生きた1649年~1686年はトルナージャヤの反乱、バンテンのサルタンアゲンとの戦闘、スロパティの反乱が相次ぎジャワ島全島が戦火に巻き込まれた。トルノージョヨはマカッサルの海賊の応援も得て一時マタラムの王宮を占領、王冠を手中にしたが、ブギ人の応援のVOCの軍隊に本拠地クディリを落とされ逮捕され逃亡していたマタラム王の剣で刺され死亡した。このときの王冠を取り返したVOCの隊長がタク少佐で王冠をアマンクラット2世に返すとき一寸自分も被って見せた為ジャワ人に忌み嫌われていた。彼の最後はスロパティの反乱の戦闘中にスロパティの兵士が投げた剣で倒れた。この剣はKyai Preredと言う神聖な剣といわれる。彼はオランダバタビア一の商人で息子がJan Van Hoorn総督であるPieter Janszoon Van Hoornの娘を娶り、スペールマン総督・司令官の右腕であったと見られる。このPieter Janse Van Hoornとタク少佐の墓がプラサスティ公園の前庭の塀に埋め込まれている。

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2007年1月27日 (土)

明日バスウエー4路線が開通

ジャカルタのバスウエーが明日4路線増えて7路線となる。ジャカルタのバスウエーは2004年にコタとブロックMを結ぶ南北線(1号線 Koridor I)でスタートし3年になる。昨年は2路線が営業開始した。これがハーモニーの中継駅で東線と西線が繋がった。東線(KoridorII)はプロガドゥング・・・ハーモニー・・・クビタンであり、西線(Koridor III)はカリデレス・・・ハーモニー・・・パッサールバルーである。今回の4路線は下記の通りである。乗り換えは難しそうだ。
Koridor IV:Pulogadung・・・Dukuh、距離11.85 km、15駅
Koridor V :Kampung Melayu・・・Ancol、距離13.5 km、15駅
Koridor VI :Ragunan・・・Kuningan  距離13.30 km、18駅
Koridor VII :Kampung Rambutan・・・Kampung Melayu、距離12.80 km、14駅

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2007年1月26日 (金)

ASEANセンターのインドネシア経済投資環境視察ミッション 

日本アセアンセンターで、下記要領にて、目下注目のバタム・ビンタン経済特区 (SEZ)とインドネシアの金型・部品産業をテーマとした経済・投資環境視察ミッションを派遣する事業を行う案内がありました。バタム・ビンタンでジャカルタではないのが残念ですが久し振りの
投資ミッションです。内容は下記です。
期 間:
A.2007年3月19日(月)~3月25日(日)全日程参加
B.2007年3月21日(水)~3月25日(日)ジャカルタのみ

訪問先:
A.バタム島、ビンタン島、ジャカルタ
B. ジャカルタ

参加費:
A.200,000円(成田発着)214,000円(関空発着)
B.182,000円(成田発着)196,000円(関空発着)
中部・福岡発着、相部屋、アップグレード等はお問い合わせください。詳細は、こちらです。
http://www.asean.or.jp/invest/event/img/imission07.pdf

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ダンドゥット SMSのダウンロード

大ヒットしたリア アメリア Ria AmelliaのSMSと言うダンドゥットが小生の検索で引っかかった。歌詞は以下の通りで如何にも意味のない簡単な繰り返し調のものである。まさに iseng-iseng (do for fun, without any serious purpose just to amuse)である。

Bang sms siapa ini bang ...
Bang pesannya pake sayang sayang
Bang nampaknya dari pacar abang
Bang hati ini mulai tak senang

Bang tolong jawab tanyaku abang
Bang nanti hape ini ku buang
Bang ayo dong jujur saja abang
Bang kalo masih sayang ...

Kalau bersilat lidah memang abang rajanya
Tlah nyata abang salah masih saja berkilah

Orang salah kirimlah
Orang iseng iseng² lah
Orang salah kirimlah
Orang iseng iseng² lah
Mulai dari sekarang hape aku yang pegang
この頁はインドネシア人のサイトで他にもポップスや写真が沢山ありますので仲間になってください。
ブログに入れておきます。http://fiandigital.multiply.com/music

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2007年1月25日 (木)

BatujayaとCibuayaの遺跡

BatujayaとCibuayaは隣り合った地区で独立宣言前夜スカルノが拉致されたカラワンのデンガスデンクロッックからCilincin方向へ流れるチタルム河沿いにある。ここらあたりは青々として水田が何処までも続き遠くに椰子の森が見えるのどかな土地である。この一帯で有名な出土品が二つ発見された。一つはBatujayaの一つの遺跡Candi Blandanganから出てきた3体ほどの仏像が描かれている土像であり、後一つはCibudayaで発見されたVishnu像2体である。
Batujayaの方は1984年に、丁度Cibuayaで調査していたインドネシア大学の学者達にある農夫からの情報から遺跡であることがわかったものである。UIのHasan Djafar教授によるとここは1870年に発見されたトゥグの石碑が描いたタルマネガラ国のコンプレックスで、仏教の神社として使われたようなレンガの造りや土盛り的遺跡が30ケ所5km2に渉ってある。ここは地図の直線目測ではジャカルタの東端チリンチンから25km又ここから海までは20km程度であるので、トゥグの石碑が刻んでいるタルマネガラのプルナワルマン王が二つの河を王宮を経由する11km(22km説あり)の運河でつないだ事跡の現場であるとUIのHasan教授は推定している。又415年に中国の法顕(Fa-Hien)がこの辺りに上陸しバラモン僧を見かけたことを彼の仏国記に記していることから仏教が普及する前はここはヒンドゥ教であったことを意味し、プルナワルマン王の時代は二つの宗教が混在していた時代となる。発見された石像は黒い玄武岩で、この地には無くインドから輸入されたものと見られている。タルマネガラは既に国際貿易国家であった。
尚、BatujayaのTempleはCandi Jiwaとも呼ぶようである。又Cibuayaには3つのヒンドゥテンプルがある。いくつかは公開されているはずであるが殆どは埋め戻されたはずである。10年ほど前に行った時は付近に観光客用の憩いの場所もあった。今回は行けなかったのでデンガスデンクロック付近の水田風景を飾っておく。

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Jl.Juandaもポピュラーな道路名

コタに入る所の幽霊ホテルのところからパッサールバルーの方角に運河に沿う道路がジュアンダ通りである。ジュアンダと言う名前はジャカルタ以外ではスラバヤの飛行場の名前であり、バンドンでも幹線でこの名前がある。どこかでその土地と繋がりがあるのであろうが、一般にインドネシアでは関係なくとも、関係ない所に名付けられていることが多い。
Juanda氏とは、本名はIr.H. Djuanda Kartawijayaで1911年タシックマラヤ生まれ、ITBでIr(技師、工学士)の学位を得る。バンドンでムハマディアの中学校長を務める。 インドネシアの内閣で最大の17回入閣を果たしている。(シャフリル、シャリフディン、ハッタ、ナッシール、スウィルヨ、ウイロポ内閣 主として運輸大臣)1947年はレンヴイル協定の交渉団員、1949年はハーグ円卓会議にも参加。1957年にはスカルノ寄りの無党派である事が功を奏し首相になり、1959年スカルノが1945年憲法復帰で内閣を組閣したときは首相代理となったが1963年急死した。1959年のスマトラとスラウエシにPRRI/Permestaの反乱が起こったとき、スカルノは日本訪問中で第一首相として、軍の協力を得てこの反乱を抑えた。没後民族運動英雄に叙された。

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2007年1月22日 (月)

Dengasdengklokも歴史遺産

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Sedanaでのゴルフの帰りに序だからデンガスデンクロックに寄ってみた。1945年8月17日の独立宣言をめぐって急進青年とスカルノ・ハッタとの意見の不一致があり、急進派がスカルノ・ハッタをここデンガスデンクロックに拉致した事件の場所である。カラワン県の北に位置するこの街までの道路は一応両並木があったり、そこそこ飛ばしていける道である。市場が立つ街の中央はごみごみしているが、ここは中国人のクトゥルナンも多い。スカルノ・ハッタを隔離した家の持ち主はDjiaw Kie Siongと言う中国人で、現在はその孫が住んでいる。玄関を入ると祭壇的なものがあり、写真類が飾ってあり、ゲストブックも用意されている。更に奥は居住空間であるが遠くに裏庭が見通せるゆったりした居間であるが、どうもこれは匿った家そのものでなくデュプリケートのようである。10年ほど前にも訪れた時は、土間のある小屋みたいであった。今は記念公園が出来、又大きなモニュメントが一寸離れた所にあるがどちらも未だ完全に完成していないようであった。何処もそうであるが歴史歴史と無理をしており、お金が付いてこないようである。

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2007年1月20日 (土)

JALジャカルタ便にタイガール

最近JALの感性が相当落ちて来た。企業が倒産寸前ともなると考えることが前向きでなく、やさしいことしか出来ない。経費節減、削減、カットとマイナスばかりである。JALの成田-ジャカルタ便で
後ろの方でタイ語のおしゃべりが続いたいたので、一寸おしゃべりに加わったが、やはり同じ搭乗員でも日本人とは何か口実をつけて給料が安い為不満の捌け口がおしゃべりであることがわかった。
それにしてもジャカルタ線にタイガールとは何処からの発想であろうか。普通海外に向かうゲストは搭乗するやそこに行く先の国の女性が居たら、思わずうれしくなるものだ。長い飛行時間への不安な気持ちも吹き飛ぶことをJALの連中は知らないのであろうか
日本にインドネシアパブも殆どなくなったこととあわせ、何故インドネシアガールは日本で働いていないのであろうか 日本側の問題なのか、インドネシア側の問題なのか小生は知らない。JALの人よ、答えてください。政府もEPAなど経済に傾かないで、パートナーと言う以上、モノでなく心の通う協定にして欲しいものである。少なくともE(conomic)は止めたらどうだろうか Economicの代わりにEqual、Eternal、EverlastingやEmploymentだけでもいい、いくらでもある。

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スハルト・トミーに民事公訴

豪州のメディアがスハルト若しくはトミーに対するジャカルタでの民事訴訟を報じている。
「既に8年が過ぎた今インドネシアの政府は32年間鉄の支配を行った85歳のスハルトに対し新しい動きに出た。昨年8月ジャカルタの高等裁判所はスハルトの病気を云々し検事総長が7つの財団を通した5億ドル以上の横領に対する訴追を取り消したことを承認した。しかし今、検察庁はスハルトとその息子のHutomo Mandala Putra、44才を国庫からくすねた金の一部でも取り返すべく行政裁判所に民事訴追を行うようである。
検事総長のAbdul Rahman Salehは彼の事務所は未だどの程度とりかえせるか決めてないが大金であることは否定しなかった。米国等の人権保護団体はスハルトの訴追取り消しを非難している。
スハルトはヤヤサンの資産は貧困者の為に既に費消したと主張している。
検察庁はトミーは英国のタックスヘーブンのGuernseyの二つの銀行に金を隠しているとして調査中である。トミーは判事殺害で15年の刑の1/3の刑期を終えただけで恩赦で11月に出所しておりバリでのマリーンリゾート開発で多忙である。」
民事はスハルトが死んでも相続者に訴訟が継続するのであろうか

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2007年1月18日 (木)

ジャカルタのバードフルは危機的状況か

インドネシアの鳥インフルが愈々危機的状況を醸し出してきた。
テンポ誌は全国444県・市で223が鳥インフル・ウイルスに冒されていると報じた。
これは農業賞の鳥フル・管理キャンペーンの広報官メメッド氏が語ったもので。この数字は急速に増えている。州で言えば3つの州、マルク、北マルク、ゴロンタロだけがウイルスフリーである。これらの犯された州は二つのカテゴリーに分けられる。ハイリスクとローリスクである。農業省では14のハイリスク州に対しては48百万服のワクチンを用意している。又33の州に19万個のテストキットを配った。
ジャカルタとタンゲランは鳥インフルの震源地であるとアイルランガ大学のニドム教授は想定する。この想定はバイオ情報計算シミュレーションで計算されたもの。この専門家はジャカルタの住民の70%がウイルスに罹っているという。

ジャカルタでバードフルー対策で指定された二つの病院は今週懸念のある患者でごった返している。
ジャカルタのプルサハバタン病院は9人の患者で隔離棟は満室である。もっと増えればSulianti Sarosoに移送する予定だと院長は語った。9人中7人はブカシから来た人たちである。
18歳の青年が母親が木曜日にバードフルで死んだ後バードフルに罹っていることが確認された。
その父親も罹災していたが強いウイルスではなかった。未だ人から人への罹災とは確認できていないが
何百と言う裏庭で鳥を飼っていることが問題である。と。
怖い話が二つあったので紹介したが。。。

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2007年1月17日 (水)

運輸省の建物は旧KPM本社 

Depperhubungan
モナスの東側の道路にも多くの古いオランダ時代の建物が建っている。KOSTRADの横の運輸省もそうである。ここの住所をオランダ時代風にいうとKoningsplein-Oost No.5, Batavia- Weltvreden となる。この建物は1918年にAIA Bureauが設計・建設したオランダのKPM社の本社ビルである。KPM社とはKoninklijke Paketvaat Maatschappij 王立海運会社である、オランダでは古くて大きな海運会社であったがバタビアの会社・施設は1957年頃のインドネシアのオランダ資産国有化時代に接収された。オランダは国際海運ピーク時にはネドロイドと言う大手があったがこれもP&Oに合併され、P&Oも今はない。 国際海運業界でKPMを探る手当てもなくなったが、未だインドネシアではこのほかにもマカッサルなどに遺産を残している。

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キアイYusuf Hasyim のご逝去

14日夜、KH Yusuf Hasyim氏がなくなった。78歳であった。NU創始者のKH Hasyim Asy’ariの息子で氏は一族の地Jombangのプサントレン学舎(Ponpus)のTebu Irengを守ってきた。氏はスラバヤのストモ病院(RSUD Dr Soetomo)で肺の手術を受けたが甲斐なかったようだ。
12月末Jombangで危険な状態に陥り1月2日にこの病院に移送されたが病態は悪く、食べ物を吐く状態が続いていた。
1日前副大統領のJusuf KallaはICU病室に見舞うことが出来たが人工呼吸器を掛けたYusuf氏に挨拶するだけだった。NUの現在の総裁のKH Hasyim Muzadiは、常にNUとインドネシアの為戦ってきた氏の死はNUにとってもインドネシア民族にとっても大きな損失であると語った。
Gus Dur元大統領の父Wahid HasyimもHasyim Asy’ariの息子である。


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2007年1月16日 (火)

ジャカルタは広い? 狭い? 

ここ1年ジャカルタに行くたび、街を車であちこち歩いたがそろそろ行くとこの種も尽きてきた。昔友人がジャカルタは小さいねと合図ちを促されたことがあるのを思い出して一寸調べてみたら次のような数字である。序に人口も付記する。
ジャカルタDKI 661.52km2 9,720(2000年)
東京都    2,187km2  12,678千人(2006年)
東京23区   621km2   8,469千人(2005年)
大阪市     477km2   7,431千人
ニューヨーク市 785km2   8,214千人
東京と言っても東京都であれば山奥の村もあるので、これと比較すると東京が面積で圧倒的に大きい。東京は東京市とは言わないがジャカルタは特別州であるが、一般にジャカルタ市とも言われるのでこの比較は酷である。人口も東京は12百万という数字しか頭になかったが、此方も23区で比較するのが適切である。 そうするとジャカルタは面積も人口も東京23区の5%強アップで「一寸ジャカルタの方が大きい」と言うのが正しい反応であったはずである。東京都に相当するのはジャボタベックかもしれないが此方は人口など驚くなかれ24百万程度に跳ね上がる。
東京は例えば江戸川区と杉並区の端から端で約25km、ジャカルタは北プルイットから南のポンドクチャべで27kmで東京は略正方形、ジャカルタは縦長の逆円錐形である。
ジャカルタは南北を横切ることは殆ど皆無であるが、東西を横切ることはよくあり、このブカシの端からタンゲランの入り口までは高速で数分で行けるのでジャカルタが実感で小さく感じるのであろう。

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2007年1月15日 (月)

渡辺貞夫とPeter GonthaのJava Jazz

渡辺貞夫が"Children Are the Future",と言うコンサートをジャカルタで行う。これはユニセフ協賛で3月2日にジャカルタ・コンベンション・ホールで行われる子供コンサートであるとアンタラ社が伝えた。
貞夫氏は先日ジャカルタに来てコンサート会場を視察、インドネシアの有名な音楽家Dwiki Dharmawan and Elfa Secioria.と準備を打ち合わせた。このコンサートは世界中から何百という子供達が参加し3月2-4日に行われるjava Jazz Festival 2006の一部であるとPT Java jazz Festival Production,の代表Peter F. Gontha氏は語った。 
ピーターゴンタと言えばスハルトの次男のバンバンがスカウトした盟友であった。彼はジャズプレーヤーで彼のJazz Pub “Jams”で演奏していたが、バンバンが消え去った後のチャンドラ・アスリでもインドビジョンでも旨くやったことで勇名である。今年はKool & The Gang, Brand New Heavies, Lee Ritenour, Bob James, Dave Koz, Patti Austin, Mezzoforte, Take 6, Incognito, Gerald Albright, dan Jonathan Butler dipastikan hadir.が参加予定有名どころで全体出演者1,000名、聴衆80,000人を予定しているそうである。
昔、桐島レストランのある地下にブルーノートと言うジャズカフェがあり、渡辺貞夫のコンサートを見に行ったことやBlok-MのJamzで演奏する日本のジャズグループに一寸お手伝いをしたことを思い出した。

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2007年1月14日 (日)

立て替えられていく歴史遺産

Siriwangi
Stovia_1
Scan10055


Stoviaの正門前には昔から古いオランダ風住宅が二つ並んでいた。10年前にはもう人は住んでなかった気がするが、いずれこれは破壊されるだろうと思っていたが、昨年11月ごろここを通った時に見違えるようなスマートな建物に変わっていた。シリワンギ師団の地域事務所となったようだが、人けはなく、由緒ある独立戦争の強力師団用の記念館の如しであった。隣には破壊中のたてものがあった。昔取った写真と共にブログにアップロードした3枚組である。

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2007年1月13日 (土)

マラリとTri Sutrisno 政治の季節

1974年1月15日事件(Malapetaka 15 Januari マラリ)の男Hariman Siregar はこの15日にマラリ第2版として「権限委託を取り消すパレード」と称したデモを行う計画だ。
マラリ事件と言えば田中角栄首相が来イしたときの反日暴動で、底流にはスハルトの強権・癒着政治への反発とNo.2 の権力の座をめぐる作られた惨劇(11名死亡)であるが、その前のバンコックでの日本製品排斥デモもあり、日本の進出の象徴であるトヨタ・アストラが襲撃され、田中首相は会談もままならず軍に守られ帰国した。

10日のGKIR(大インドネシア覚醒運動)が主催した「2007年の希望と挑戦」と題した討論会に参加した後、彼は次のように語っている。「このデモはホテルインドネシア前に10:00に開始する。何故1月15日なのかと言うと我々Indemo(インドネシア民主モニター)はindodemoの設立記念日で、Malariはオルデバルに対する抗議であり、我々現在の政府に対しいつでも権限の委託を取り消しすることが出来ることを思い出させるためである。何人集まるかは知らないが強制ではないので来たくない人は来なくていい。マラリの時は我々は400人だったが、道路にでて大衆が集まった。」
この討論会にはフランスセダやアブドゥルラマンが参加したが。主催のGKIRの頭首は元副大統領のTry Sutrisnoであり、ユドヨノ・カラの実績を批判している。 かれはこれはEarly Warningとして政府の自覚を促すものだとしている。ウイラント元司令官も新党を結成し、メガワティも改めて党首として選出され、本年は愈愈政治の季節となる。15日には反日の断片もないことを確信する。

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2007年1月12日 (金)

ジャカルタの車両数と渋滞

ジャカルタの車両数が4輪車で259万台と報道されていたので、東京と比較してみた。
東京は区部でなく東京都全体の数字で都庁の発表では自動車463万台(自家用乗用車数は約300万台、2004年)と出ている。東京都での一人当たり自動車台数は0.4台(1995年)という別の資料もあるので略マッチする。ジャカルタだと人口9.7百万として0.26台でこれはニューーヨーク並みとなる。
但し東京は30以上の市町村を含む都全体であることを考えると、ジャカルタも既に相当なものである。これが最大の渋滞の理由となる。
インドネシア全国の自動車販売台数を過去平均26万台とすれば販売台数の10年以上がジャカルタに集中していることとなるが、多分20年使用しているとすると5割がジャカルタだと逆算される。
尚東京都の道路延長は23,224km(1996年)、人員輸送の電車地下鉄の比率は75%(JR、私鉄、地下鉄で略25%ずつ、人口は増加中であるが自動車総数は頭打ち、一人当たり台数はパリ、ベルリン並みニューヨークは0.26台)である。

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2007年1月11日 (木)

単車の乗り入れ禁止と子供の勉強義務

スティヨソの単車の首都での使用制限が報じられている。幹線道路のピーク時間でのバイク乗り入れ禁止案で、自動車の有料制と共に検討にはいった。ヘッドライト点灯や決められた通りでの左側通行は既に実施済みで、周知徹底期間もなく左側通行は既にチケットも切っている。現場での簡易裁判スポットも設けられ次々と罰金を払わされているのを見ると金集め工場としか見えない。
所定の道路とはJl. Gatot Subroto、Jl. Warung Buncit、Jl. S. Parman、Jl. Perintis Kemerdekaan、Jl. Yos Sudarso、Jl. R. Suprapto、Jl. DI Panjaitan、Jl. Pramuka 、Jl. Mayjen Sutoyoである。他に市外ではブカシJl. A YaniとデポックのJl. Raya Margondaが決められている。
市はバイクをバスウエーを使うよう誘導しようとしているがバスウエー料金は現在Rp3,500 をRp5,000に引き上げようとしている。
首都の車両数は2005年で総数7.23百万、内64%、4.64百万台が2輪車である。又インドマルコの時事通信によると市では小中高校生の19-21時の勉強の義務付けも検討中である。まあ何でもやってみることだ。何でもやれることが羨ましい。
道路について云えば、橋を一つ掛けるとか塀を一つ壊すだけで道が出来る所が沢山ある。貧乏人や子供にウムを言わさずやれる権力でジャマをしている有力者のブロックもこじ開けて欲しい。

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2007年1月10日 (水)

ジャカルタ南北線の渋滞の理由

ジャカルタは今バイクの交通規制とか新たに導入されようとしている。渋滞解決策については別途論ずることは簡単に出来るが、DKIから聞きに来ることは未だない。道路に付された英雄名を今度はスデルマン以外の南北線で拾ってみよう。
エス.パルマン/ガトットスブロト/ハルヨノのジャカルタ中心を横切る高速の通りを南北に横切る通りでスディルマン通り以外の通りを見ていくと、先ず①このガトットスブロトとスディルマンとで黄金の三角形といわれる形を構成するのがRasuna Said通りでクニンガンを通って来てこのマンパンでガトットスブロト通りと接しその南側はマンパンプラパタン通りにバトンを渡す。
②パンチョランの通称7UPの大彫像のサークルの北側にProf.Supomo通りがあるがこれは北のマンガライから始まったProf.Dr.Saharjo通りの流れでテベット辺りからガトットスブロト通りまでを 担当しそこからの南側の道はパッサールミング通りとなる。
又③チャワンの一寸手前で北側を通称OTISTA通り(Otto Iskandar Dinata)と南側をDewi Sartika通りというのがある。
④エスパルマンの方に目をやると、スリッピから南に下っていくグローラ通りがジャカルタ一長いその名もパンジャン通りと合流しTeuk Nyak Arif通りとなりクバヨランラマからポンドクインダー迄をSultan Iskandar Muda通りと名前を変えて繋がっていく通りがある。以上少し複雑であるが、全て人物名のこの①から④のたった4本の線が全てであり、それしかないからメーンのスディルマン通りが渋滞するはずである。今はスデルマンが3in1で保護されて他の道路のほうがより渋滞しているが。。

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2007年1月 9日 (火)

インドネシアの携帯電話状況 

インドネシアの携帯電話の普及が今年は80百万個になると報じられている。2006年で64百万、多分2005年は48百万個くらいあったと思う。プリペイドカードが9割ぐらいを占めるが有効プリペイドカード数+契約数であれば実態の数字になるが。。
昨年3Gサービスが開始され又プロバイダーもPT Bakrie Telecom, PT Mobile-8, and two other operators, Natrindo and Hutchinsonが参入した。3Gを導入したのはTelkomsel (12月現在950,000少し眉唾?)、Excelcomindo XL( 130,000 )、Indosat(11月に開始したばかり)で、今後インターネット接続が可能になるのであろうか。携帯電話全体だとTelkomsel が35百万、Indosatが16百万個である。
80百万ということは普及率は33%、日本は90%であるが、世界は広く、アジアでも香港で123%、シンガポール105%等高い数字を示している。しかし3Gの世界では日本は世界一を誇っている。

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2007年1月 8日 (月)

Suryo Pranoto通りの先の幽霊ホテル 

コタに行くときモナスを越えマジャパヒット通りからガジャマダ通りに繋がるところの交差点でトマン方面から出てきたSuryo Pranoto通りがある。これは更にこの交差点でIr.H. Juanda通りにバトンタッチしイスティクラルモスク辺りまで伸びている。Suryo氏に関しては下に事跡を記したが写真は余り関係ないホテルを掲げておこう。
June_expo_011
これはガジャマダ通りに向かうとき右手のジュアンダ通りに立っている。遠くから見ると何か謂れがありそうであるが、今度行ったとき探検しよう。潰れているようであるが拡大すると人がいるのに気が付いた。
Suryo Pranoto(1871年~1959年)と言っても余り知られていないがタマンシスワの創設者であるデワントロの弟でストライキ王とも言われる。ジョグジャのパクアラム三世の孫に当る。
スルヤプラノトはツバンの植民政府の事務所で働いていたが上のオランダ人がインドネシア人の雇員を侮蔑したので平手打ちを食らわし辞め、1914年アディダルマと言う組織を作り労働者の為の協同組合や基礎教育の学校を作った。1922年ジョグジャの質屋の労働者のストライキから砂糖工場のストライキまで多くのストライキを指揮した。何度もオランダにより刑務所送りとされ又日本軍占領時は日本との協力を拒否した。デワントロは1959年4月、スルヤプラノトは同年10月に死去し兄弟とも同年11月民族運動英雄とされた。

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2007年1月 7日 (日)

チリンチンの漁船は出漁できず 

この所、ジャカルタでは強風と高波でチリンチンやアンケの漁師が船を海に出すことが出来なく頭を抱えているそうだ。既に1週間、あと2週間ほど鎮まる気配はなく、家族の生計の糧を得る為、海岸でのエビ探しをしている。
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いつぞやここを通った時もびっしり河口に漁船が繋がっているのを見た。このときの写真をアップロードしておこう。
近くの道路沿いは生魚を並べた屋台がこれまたびっしり列をなしていた。ここで買えば安いだろうが流石に運ちゃんも買う気は起こらなかった。彼らに幸せが来るのはいつのことだろうか

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2007年1月 6日 (土)

外国人VISAの抜き打ち検査

1月5日のTempo誌のウエブサイトで中央ジャカルタ区で外国人の滞在VISAの抜き打ち検査をやっていたことが報じられていた。多分年末のことだろうと思う。この運動はしゃれてSipora(外国人監視システム)となずけられ、1週間で447人が引っかかったそうだ。
これら外国人は一時滞在登録証(SKPPS)がない、或いは期限が切れていたようである。中央ジャカルタだけで約5,000人の外国人が滞在しており、一応外国投資家に悪イメージが出ないよう注意していると責任者(Suku Dinas Kependudukan dan Catatan Sipil)は語っていた。
現在の居住届けの規則はジャカルタ首都特別州知事規定No.16/2005であるが、区と州から夫々外国人一時滞在者滞在地証明書(SKTT)(KIP)を取得しなければならないことになっているようだ。

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Kimia Farmaの本社は由緒ある建物

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昨年4月17日フリーメイソンの記事で昔のロッジが「1834年には現在のBudi Utomo通りのFarma Kimia会社のビルに合体されこれも現在に残っている。」と書いたがこれはJP誌が出典であったと思う。
何時だった車でぶらぶらしているときこの瀟洒な建物を見つけた。場所はブディ ウトモではなくベテラン通りであった。正しくはKimia Farma社でJl.Veteran No.9である。会社は1916年に設立されたオランダの製薬会社をインドネシアが国有化したもので、Kalbe Farma社と並ぶ大手である。
本社ビルと書いたが多分迎賓館的に使用されているのであろうが、真新しい建物であるので、移転・再建・リノベを繰り返したのかもしれない。正面にライオンの像が2頭で迎えているがドアーにも特にフリーメイソンの名残はない。少し自信のない話であるが、実際に取った写真を飾っておきましょう。

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2007年1月 5日 (金)

Abdulrahman Wahid-Hasimu-Asyhariの3代NU総裁

暇なのでいつもの様にジャカルタの地図を見る。この前のガジャマダを更に少し南になぞるとカルフールの横に出てくる道路がある。これはKH. Hasyim Asyhari通りである。この通りを西に取るとKH Tapa通りと名前を変えタンゲランまで続くDaan Mogot通りに繋がっている。
KH. Hasyim Asyhariの事跡をたどると、プサントレンをやっていた父Asyariの11人兄弟の3番目の息子としてDemakで1875年生まれる。系図を見るとスルタンの初代スナンギリ(1441年)より10代目で父と祖父からジョンバンのプサントレンで学び、メッカに留学し教師(グル)を勤める。1892年に7年間のメッカから帰国し20世紀、ジャワで最大のTebu Irengプサントレンを開校。更に1926年. Nadhlatul Ulamaの創設者の一人となる。日本占領時は天皇を拝むことを拒否したので逮捕され刑務所に入れられた。(とある)1942年、日本軍が政治的な、ミアイを解散させ大同団結させたマシュミ党に当時のイスラム長老としてハシムアシュハリが総裁として押されて就任(これは教科書では省かれている)1947年脳出血の為死亡1964年、民族運動英雄に叙せられる。彼の子供はタムリン通りの交差通りのキアイ ワヒッド ハシムであり、第4代大統領アブドゥルラフマン ワヒッド(Gus Dur)は孫である。

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2007年初詣は明治神宮1月4日

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初詣は毎年明治神宮に決めている。明治神宮は参拝客日本一の300万強と言うので3ガ日を避け4日にしたので混雑もなく日本晴れのもとのんびり出来た初詣であった。明治神宮は名前の通り明治天皇を祭神とし、崩御の後建設されたので大正時代の創建である。神殿等戦災で焼け落ちた為建物は戦後である。
お賽銭箱も覗き込むことが出来たが、お札はなく精々100円コインがコロコロ転がっていた所から一般人の懐具合が推し量れる。小生もお賽銭500円、財布用お守り300円、記念お土産キーホールダー350円で合計1,050円であった。特設食いしん坊広場は相当広く、さまざまの屋台が出ている。昨年は気が付かなかったが出口側の方は、ジャカルタ・ショッピングモールのフードコート風で周りを色々な屋台が取り囲み真ん中は長テーブルが敷き詰められ、びっしり黒い衣服の大集団が食事と酒を楽しんでいた。我々も鮎の串焼き600円、あわびの串焼き500円、烏賊の照り焼き400円、カルビたれ600円などを暖かい日差しの下で楽しんだことであった。

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2007年1月 3日 (水)

Sukarjo Wiryopranoto 聞きなれない道路名 

12月15日のブログ、ザイヌル・アリフイン通りと12月19日のサマンフディ通りの間の通りはSukarjo Wiryopranoto通りと言う。 ガジャマダ通りのプラザ ガジャマダの横に西の方から入ってきたザイヌルアリフイン通りはSukarjo Wiryopranoto通りからサマディフディ通りへ、そしてクマヨランへと東西に走る道を作る。 
Sukarjo Wiryopranoto氏は余り書物にも登場しない人物であるが、調べたところは下記の通りである。
1903年チラチャップ生まれ、1923年法学校卒業、1933年弁護士として国民参議会の議員となる。1936年パリンドラのメンバーとなり政治活動を強めた。日本占領期はアジアラヤという新聞を代表し又雑誌Mimbar Indonesia(論壇インドネシア)を発刊し ジャーナリストとして戦った。 主権回復後は特にバチカン大使やイタリヤ・中国の特務大使などを務め、1962年は国連の人権団体のインドネシア代表となり、又西イリアン闘争においても活躍した。同年、ニューヨークで亡くなったがその年、民族運動英雄(Pahlawan Pergerakan Nasional)に叙せられた。

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2007年1月 2日 (火)

12月のニュース トピックスと2006年災害記録

1月に入って今度は航空機墜落事故で90人の死亡のニュースが飛び込んできたが、昨年のニュースを整理しておこう。先ず12月は;
*本年のGDP5.5%、インフレ:6.5%へ(昨年は17%)、来年はGDP 6.1%、インフレ6%程度
*本年の輸出 1,000億台乗せか、貿易収支も300億ドル
*政策金利、1ヶ月もの金利10%を切る。
*総人口の49%に当たる1.09億人が貧困層/貧困層予備軍、と世銀。
*和平のアチェで州知事選、元GAM幹部が当選
*バリ爆弾テロ等の精神的指導者バアシル師に最高裁、無罪判決
*アチェ大洪水で190名以上死亡か、ジャワJepara沖フェリー転覆650名?乗船、400名?以上死亡か

英ガーディアン誌がインドネシアの2006年災害メモを特集していたがこれにによると以下。
- Dec. 29, 2006: 乗客640名載せたフェリーが暴風でジャワ海に沈没、未だ400名以上が行方不明
- Dec. 23, 2006: スマトラ北部で大洪水で100名以上死亡、40万以上が避難
- June 19, 2006: スラウエシ南で大雨の鉄砲水で300名以上死亡
- May 27, 2006: 中部ジャワでマグネチュードA 6.3の地震で5,800人が死亡。
- May 2006: メラピ山噴火で火砕流連続発生、15,000村で避難
- May 2006: シドアルジョ・ガス田から泥流で10,000人が避難1,000エーカーの土地が失われる。
- Jan. 4, 2006: 中部ジャワで土砂崩れで200名以上が死亡
とこらが以下が記載漏れであった。以下も100名以上の死者を出したものであるが、これでも記載漏れが心配なほど多い。
10/17 鳥フル:感染死者世界最多記録42名を更新しつつ、55名までに増加。
7/20 ジャワ南岸地震・津波被害:死者547人に、行方不明者323人。
4/27 ジャヤウィジャヤ(パプア)でコレラ発生。すでに188人の死亡が確認されている。
1/7 今度はジュンブル(東ジャワ)での土砂崩れで死者数136人。9500人が避難。

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2007年1月 1日 (月)

ジャカルタの大晦日の歌手達

元旦も1日お笑い番組など見ながら暮れてゆく。バンコクでは又爆弾テロが起こったがインドネシアでもポソで爆発物が仕掛けられた事件があったらしい。 それでもジャカルタは無事2007年を迎えたようだ。大晦日のジャカルタの賑わいはアンチョールとタマンミニが最大だ。アンチョールはカウントダウン時花火があげられる。今年の出演アーティストはUngu Band、 Radja Band、 Samson Band、 Audy 、eurius、Saint Loco、Gama、Sunrise、Ari Laso、Utopia Band、Ada Band、Chisye、Pinkan、 Mambo、Ello、Pass Band、Netral、J. Rocks、Jikustikの名前が見られた。タマンミニではRhoma Irama とSoneta grupその他 Siti、Eka Bima、Maya 、Yuli 等の女性歌手で賑わった。そうだ。.アンチョールなど夕方から列をなした渋滞がタムリン通りまで及ぼすほどで、アンチョールに入っても身動きが出来ない。多分数ケ月前の予約で前日より園内のホテルに泊り込むしかないのではないだろうか

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