« チリンチンの漁船は出漁できず  | トップページ | インドネシアの携帯電話状況  »

2007年1月 8日 (月)

Suryo Pranoto通りの先の幽霊ホテル 

コタに行くときモナスを越えマジャパヒット通りからガジャマダ通りに繋がるところの交差点でトマン方面から出てきたSuryo Pranoto通りがある。これは更にこの交差点でIr.H. Juanda通りにバトンタッチしイスティクラルモスク辺りまで伸びている。Suryo氏に関しては下に事跡を記したが写真は余り関係ないホテルを掲げておこう。
June_expo_011
これはガジャマダ通りに向かうとき右手のジュアンダ通りに立っている。遠くから見ると何か謂れがありそうであるが、今度行ったとき探検しよう。潰れているようであるが拡大すると人がいるのに気が付いた。
Suryo Pranoto(1871年~1959年)と言っても余り知られていないがタマンシスワの創設者であるデワントロの弟でストライキ王とも言われる。ジョグジャのパクアラム三世の孫に当る。
スルヤプラノトはツバンの植民政府の事務所で働いていたが上のオランダ人がインドネシア人の雇員を侮蔑したので平手打ちを食らわし辞め、1914年アディダルマと言う組織を作り労働者の為の協同組合や基礎教育の学校を作った。1922年ジョグジャの質屋の労働者のストライキから砂糖工場のストライキまで多くのストライキを指揮した。何度もオランダにより刑務所送りとされ又日本軍占領時は日本との協力を拒否した。デワントロは1959年4月、スルヤプラノトは同年10月に死去し兄弟とも同年11月民族運動英雄とされた。

|

« チリンチンの漁船は出漁できず  | トップページ | インドネシアの携帯電話状況  »

インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: Suryo Pranoto通りの先の幽霊ホテル :

« チリンチンの漁船は出漁できず  | トップページ | インドネシアの携帯電話状況  »