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2007年2月 8日 (木)

イマムボンジョールとデポネゴロImam Bonjol

デポネゴロについては何度かこのブログで出てきたが、デポネゴロ通りとつながったジャカルタ随一の誉れ高い道路がイマムボンジョール通りである。
イマム・ボンジョールは1772年西スマトラでイスラムの環境の中で生を受け、西スマトラの全てのウラマの教えを受けた。
長じてパドリとして畏怖され権威をもった。理想の国家としてボンジョル国を設立した為オランダから敵対されることとなった。ミナンカバウを中心とする西スマトラでは1780年台から宗教改革運動が始まっていたが、これはメッカから帰国したワッハーブ派の急進派のパドリ派と慣習化したアダット派の争いで1821年にアダット派の依頼でオランダが介入し戦争状態となった。オランダはパドリ派のゲリラ戦に悩まされ1824年、マサン協定で停戦に持ち込んだ他、ファンデンボッシュ総督の攻勢に1832年にパドリ派のイマムボンジョルが立てこもるボンジョル砦が陥落、イマムボンジョールは最終的には1937年オランダ側の甘言で欺かれ逮捕されチアンジュールに幽閉された。その後スラウエシはメナドに移され1864年その地で死亡した。
これによりオランダの西スマトラ征服がなり、オランダは過酷な強制栽培制度時代に移っていく。。
このパドリ戦争は同時期にジャワで起こったデポネゴロ戦争と共にインドネシアがオランダに歯向かった2大戦争として評価されている。デポネゴロも最終スラウエシで客死している。
イマムとはシーア派で言う場合宗教指導者であり且つウンマ共同体の長を言うが、インドネシアでは宗教指導者に対する称号的に使用される。イマムボンジョールはボンジョールが共同体でもあるのでシーア派的意味があったのであろう。

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コメント

初めまして、広沢勉と言います。
1962年1月にジャカルタに赴任した時、初めて見るイマンボンジョル通り(蘭印時代はオラニエブルバード)に感じ入ったことを覚えています。
当時のイマンボンジョルとタムリンとスディルマンとが交わったロータリーを写した写真をホームページに掲載しているので、ご一覧下さい。
また90年代の日本人会誌に載せた「蘭印の地の散策」も読んで頂ければ、幸甚です。

投稿: 広沢 勉 | 2007年2月10日 (土) 14時48分

有難う御座います。そちら様の下記ホームペイジ
を後ほどこのブログのMy Listに入れさせてください。
オレニエ(オレンジ通り)というのですね 日本占領時代は
明治通りでしたっけ
the-hiro@lapis.plala.or.jp
http://www16.plala.or.jp/bouekitousi/index.html

投稿: jakartan | 2007年2月12日 (月) 20時58分

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