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2007年2月の投稿

2007年2月28日 (水)

ジャカルタ洪水のあと

Developping_1
ジャカルタ洪水のあと未だ色々取りざたニュースが多い。その後も雨が降り家を流されたニュースもあり、洪水で家をなくした市民はすごい数字ではないだろうか。毎回洪水の規模は大きくなり遷都論まで出ているがそれではジャカルタは救えない。
スティヨソ知事は川の上に張り出したような家の住人が71,000人おりこれらの人に代わりのアパート建設に6千億ルピア必要だがこれは政府がやるべきだと政府に要求している。彼らはジャカルタ住民の住民カードを持ってないからだと言う。
この洪水の原因は不法建設だという記事もある。日本人も殆ど日本の台風に比べあの程度であんな惨劇になるとはと驚いているように、異常な雨量より建設許可を与える市側に責任があると断じている。(IPS)。幹部連は人々の生活のために働くのでなく金持ちのために働く。水をキャッチする緑地帯がなくなっていく。LIPIの調査では1990年に218ケ所もあった湖沼が1/4に迄減少した。クラパガディン地区が代表で結果1メートルの水に3日間水攻めにあった。
テンポ誌の調査では1965年の20年計画ではグリーベルト地帯は市の37%とされていたが1985年には25%に減り2000年~2010年では13%迄に減らされている。
最終的には85人が死亡(内ジャカルタ57人)、430,000人が避難、ジャカルタでは市の面積の60%が最大4メートルの洪水にやられ 、19万人が医療・施薬を受け、780人が入院した。経済損失は10億ドルとも試算されている規模であった。
下痢、呼吸困難、熱、皮膚病が一般的に見られたが鼠の糞尿からきたバクテリヤ病も見られた。これは処置しないと死にいたる病気でデングー熱もはやってきた。 1,200平方キロの稲田がやられ、37万トンの米の減収で既に米価は30%の値上がり、市の道路の20%が損傷を受けている。
避難民は不公平な救助物資に怒り、又適切な警報システム或いは洪水対策の欠如に対し市に抗議、非難を浴びせている。ジャカルタポストは何故か不人気ながらスハルトの子飼いのスティヨソが10年も市長のままで前回の2002年の大洪水を市政に生かせなかったと噛み付いている。
スチヨソは大統領候補と噂されるステイョソは10億ルピアの寄付を宣言したが、最も必要とする貧しい人々には回らない。政府もカラ副大統領が東運河建設に3億ドルを表明したにすぎない。 東運河建設でも金持ちが保有している高くなった土地230ヘクタールを購入しなければならない。スティヨソの任期は今年で終わりだから静かに待つのだろうか。

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東京ジャカルタ会の模様

Jkt
東京ジャカルタ会の冬季懇親会に参加させてもらった。今回はユスフ・アンワール駐日大使と枝村元大使がご出席され約70名の盛会であった。 丸の内北口1分の日本工業倶楽部2階大ホールで行われたが、8人掛けの丸テーブルに三々五々適宜座るビュッフェ形式である。 来賓、役員挨拶、会員夫人のインドネシア舞踊、新入会員挨拶、会員自己テーマ紹介などがあった。欠席者の一言伝言リストも頂いたがこれには約140名の方々がリストアップされていたので全会員は約210名となる。多分枝村大使とその後の国広大使時代、1990年を挟むころと思われるが規約も無いようだし自由な会であった。飛び入りで参加した小生も新入会員で挨拶をさせられたが、そこで挨拶苦手の小生は、ジャカルタと日本の往復の生活を既に3年になるのは2年と間違えてしまった。努力の要らない自慢話であるがこの往復の飛行機で雨に遭遇したのは1回のみである.
1年に6回ペースなので、6回x2年x往復の2x乗り降りの2=48回と計算したが3年なので72回となる。自分ながら驚異的数字である。夏季懇親会もあるはずだから又出てみよう。写真は会員夫人(元インドネシア人?)の踊りの出し物である。

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2007年2月27日 (火)

Nassau Boulevardは都通り?オレニエは?

ジャカルタ随一の由緒ある大通りはホテルインドネシアからメンテン方角に向かうイマム・ボンジョール通りとディポネゴロ通りである。共にオランダ植民主義に戦った最大の英雄の名前を冠されているが、オランダ時代はナッサウ通りとオラニエ通りと言われた。オラニエ・ナッサウ家と言えば現在のオランダ王家の家系である。 ナッサウ家は12世紀ドイツの貴族(ナッサウ伯)を起源としそのオットー一世系の子孫は15世紀にかけてネーデルランドに勢力を伸ばし16 世紀には神聖ローマ帝国 ブルゴーニュ公からホラント州などの総督に任ぜられ、南フランスのオランジュ公領も相続で領有することになり、このネーデルランドとオランジュ(蘭語ではオラニエ、英語でオレンジ)を相続した若干11歳の王子オラニエ=ナッサウ家の始まりである。 ドイツの方はヴァルラム系(ナッサウ=ヴァイルブルク家)でドイツ連邦のナッサウ公国、ナッサウ州となったが最後の王はルクセンブルグ公国に迎えられている。
日本占領時代はナッサウ通りは都通り(?Miyokodooriの文献)、オラニエ通りは明治通り(?)に改称させられた。

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2007年2月26日 (月)

スタンシャフリルと対のモハマッドヤミン

スタンシャフリルを通ってタマン・イスマイルマルヅキに行き又戻る道でカナル・グレシックを真ん中にしてスタンシャフリル通りと対峙する道がモハマッド・ヤミン通りでHIのサークルでカナルグレシックと共に消える。カナルグレシックはあの歓迎の塔のサークルの下を通って日本大使館の裏手、からクブンシリ、チデンを通ってコタ・バタビアに行くチデン運河となっている。スタンシャフリルとセットとなったヤミンは同じミナンカバウの同時代の民族運動英雄である。
Moch. Yamin(1903年~1962年)
彼は、西スマトラ出身、ブキティンギの師範学校やボゴールの農業学校でも学んだが性に合わずジョグジャのAMSに転校し最終はオランダ政府奨学金を得てジャカルタの法科学校を卒業。高貴な理想を持ち、インドネシア民族の覚醒と発展を夢見てよく支配政府を攻撃する演説を行った。奨学金は途中で取り消されたものの、卒業後個人で図書館を設立、政治的にはスマトラ青年団に参加し後インドネシアムダを設立した。民族統一の夢は1928年10月28日に発表された「青年の誓いSumpah Pemuda」に結実した。一つの国家、ひとつの民族、一つの言葉のモットーは歴史的転換点となった。独立準備委員会のメンバーとしてパンチャシラ精神の誕生に貢献した。独立後は国民委員会の議員となり、多くの著作を残した。1973年に民族運動の英雄として叙勲した。
ムハマッド ヤミンは詩人でもあり青年の誓いの詩を作ったことでも有名である。
「美しき地の浜辺に座る。波の砕け散る所。。。。気高き水にかこまれてあり。我が生地、その名はインドネシア」

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JakartaのPepper Lunch 

Jakartaに進出、展開中のPepper Lunchが地元紙ジャカルタポストに取り上げられている。従来のファストフードに飽きてきて、テーブルで自分で料理するPepper Lunchが物珍しがられている。昨年初めにプラザ・スナヤンに第1号店を出して更にプラザインドネシアが2号店らいい。プラザインドネシア店は105席ある。フランチャイジーはPT Boga Makmur Primaである。テーブルで料理するにはホットプレートを使うがこれは70秒間260度のオーブンで熱しその後オーストラリア牛肉、ご飯、野菜を盛りその熱で料理するが熱は20分間保たれる。黄な粉キャラメルアイスクリームのデザートも人気のようである。
Plaza Indonesia level LB#57,58-58B 、Jl. M.H. Thamrin Kav. 28-30 tel: 3107616

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2007年2月24日 (土)

Sutan Syahrilとカナル・グレシック

Danau_shahril_021
ジャカルタのスディルマンよりホテル・メンテンやTIM(タマン・イスマイル・マルヅキ)やチキニ方面にいく場合使う道がスタン・シャフリル通りである。これはホテルインドネシア前のサークルをヌサンタラビルの方に右折し入る道で小さな小奇麗な運河グレシックに沿って真っ直ぐ伸びる街路樹の木陰の道である。
Danau_shahril_022
この道は前回登場したチック・ディ・ティロ通りで左折するとメンテンホテル方面に行ける。このスタンシャフリルは2度ほどこのブログに登場させたが彼の伝記を記してみよう。
Sutan Syahril (1909年~1966年)
スタンシャフリールは1909年スマトラ パダンでマハラジャで検事長の父のもとに出生。中学はメダンのオランダ系MULOに、高校はバンドンのAMSに進んだ。時に民族覚醒期の熱気にあふれた中、若干18歳で「プムダ インドネシア」と言う青年活動組織の設立を指導した。1929年オランダに留学、先にハッタが指導してきたインドネシア協会で活動、1931年故国のインドネシア国民党の混乱の為学業半端にしてハッタに代わり先行帰国、インドネシア国民教育協会のリーダーとなった。この党は政治を目的にする若いエリートを教育する場であった。1933年にハッタも帰国、教育協会の会長を譲るが、1934年には植民政府により、幹部15人共逮捕され、ジャカルタ チピナン刑務所に入れられた。その後ハッタと共にイリアンのディグルに流刑となり、又その後も一緒にバンダネイラに移送されそこで8年、その後スカブミに移された。日本時代は潜伏状態を続ける。1945年11月1日に、中央委員会による議員内閣制を認めさせ外相、内相を兼務する首相になり、1946年オランダとのリンガルジャテ協定締結する。シャフリルは日本に協力したことがなく日本:ファッシズムよりオランダ:民主主義に信頼を置いており、オランダも対日協力者スカルノを相手にしない中、スタンシャフリルはオランダと協調しながら交渉するものであったが、国民は譲歩は国辱とする意識とオランダ側の協定違反や最後は第1次侵攻により追い込まれ辞職せざるを得なくなった。外交に手段を移す為国外に脱出、国連の場でオランダの軍事侵攻をやめさせるよう訴えの演説をした。彼自身はその後内閣の職務に付くことはなく社会党党首としての活動を行うのみとなったが、1955年の最初の総選挙では惨敗、反スカルノの嫌疑で獄中につながれ病気を発し最後はスイスでの療養の甲斐なく客死した。

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2007年2月23日 (金)

ラーマングンの古さ 

Jakarta_golf_013
ラマングンが1872年にオープンしたと言うので時代背景を探ってみた。言ってしまえば明治維新前後である。
1866年強制栽培のタバコが終了、その後砂糖(1870年)、コーヒーも廃止し完全廃止は1915年
1867年オランダ、東インド教育省を設置
1868年オランダベンクール直轄領へ。日本:王政復古
1869年スエズ運河開通
1870年オランダ・バタビア客船就航(スエズ経由)、スマランーソロ鉄道開通
   (タンジュンプリオク開港は1886年、日本の新橋―横浜鉄道は1872年)
1871年電信ケーブル敷設 (バニュワンギー豪州)、英蘭間スマトラ条約 アチェ権益
1872年バタック戦争とgimonca.comにあったがシシンガマンガラジャは1876~1907のはず。
1873年アチェ戦争始まる
日本での最初のゴルフ場は1901年の神戸ゴルフ倶楽部のコースだそうで、アメリカでも1887年のSt. Andrew's Golf Club of Yonkersが最初だそうであるので植民地バタビヤの古さがわかる。さすがコルフである。

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2007年2月22日 (木)

高度な交通機関システムより人々の規律を築け

Meidyatama Suryodiningratと言う方がジャカルタの交通問題に投げた言葉である。これこそ日本人が望んだ交通問題解決策の最大なものである。主張の幾つかを紹介しよう。
公共輸送機関システムの欠陥は通勤者の生活を厳しくする、しかし自ら運転するにもジャカルタで苦痛となるのは何にも増して人々の過度な自分本位と横柄な軽率さである。 交通状態をみればどんな素人でも問題の大半が自分勝手なバス、自動車、オートバイのドライバーによって起こされていると結論ずけるだろう。 MRT を導入してもこの埋め込まれた不従順さを改めることは出来ないだろう。 バスは自分の望みのままどこでも、いつでも、ストップする。 バス停はタバコ売りのキオスク以外の何ものでもない。或いはオートバイ乗りが休憩場所としている。

自動車ドライバのちょっとしたエラーは、どんな犠牲を払っても追い越しする機会としてオートバイ乗りによってつかまれる。 オートバイにぶつかる自動車の運転手は、オートバイ乗りの無謀さにかかわらず、常に間違いとされる。自動車ドライバは同様聖人ではない。 多くがおそらく一度も運転免許証試験に合格したことがない。
礼儀作法のこの欠如は公共輸送機関のユーザーにも言える。バスではストップする前にも乗り込もうとするやからで戦場になる。 乗る前に、バスから降りる乗客を待つ丁重さを持っていない。乗客がいらだって、バスをどんどんたたいても、それは何の助けにならない。 バスウエーは比較的、乗客に若干の態度を教えることに成功していた、しかしそれさえラインに並ばせて待たせる為に多くのガードを必要とする。

殆どの人々は、子供の時に立ち返って、道路や交通について基本的な態度とエチケットで再教育を必要とするように思われる。 警察はただ交通規則を強くするだけであるべきではない、もし必要であるなら、高校レベルから、交通の安全性を尊重するよう教育すべきだ。ただ点火のキーを回しブレーキの方法を知っているだけで道路に出ることは許さるべきではない。
しばしば自動車が、輸送よりむしろ、見せびらかすために使われる。 人々が冷房に慣れてしまって、5分以上も無いことに絶えられなくなっている。ホテルやモールの駐車場を見ても、空いている20m先に駐車することを嫌がりロビーの入り口近くで行ったり来たりとチャンスを待つ。
MRTが出来たとしても、こうした態度の変化なしでは、整備されたジャカルタのビジョンは夢のような話のままでいるであろう。

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2007年2月21日 (水)

ジャカルタ勤労者の住宅事情 

ジャカルタほど中産勤労者への住宅供給が無視された都市はないのではないだろうか
タルマネガラ大学の調査ではスディルマン・タムリンに勤務する165,000人の勤務者の約90%が41km以上はなれた住宅からの勤務を強いられている。勢い通勤費は彼らの少ない所得に打撃を与える。現在の勤労労働者の住宅費は50万から200万であるが、もし中級住宅の建設コストは1億程度であり、これに25%の不動産業の利益を見て17%の住宅ローンを15年で仕組むと月額ローン返済額は100万程度となる。
現在の通勤労働者の住宅の平均は8m2程度であり、5年前家賃が25万であったものが50万に増え、面積は更に小さくなりつつある。ジャカルタ市の空き地は富裕層と不動産業者のため高級コンドミとショッピングモールの乱開発でなくなりつつある。カラ副大統領は下層住宅に対する税務便宜を検討すべしとしているが。。

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2007年2月20日 (火)

ウィルヘルミナパークのイスチクラル モスク

Istiqraltower
アジア一と言われるIstiqlalモスクはオランダ時代はラパンガンバンテンに隣接しカシドラルの教会の前で、女王の名前を取ったWilhelmina Parkと言う広大な公園地帯であった。ここにはアチェ戦争に勝利した記念の塔statue of Athenaがあったが現在はないく、ここにはチリウン川をコタのほうに回すのとグヌンバハリにまわす角に今でも水門がある。
ウイルヘルミナパークをイスティクラル・モスクに変えたのはスカルノの時代である。彼の時代に多くのオランダの遺産が破壊されている。市電も今考えるとバスウエーよりよかったのではないかとおもうが。。イステイクラル・モスクはプロテスタントのオランダ人Friedich Silaban氏の設計で彼はスカルノのモナス、スナヤン競技場、ボゴール市長邸を設計している。

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2007年2月19日 (月)

マスマンシュールのPlaza Cristal

Prasasti_007
マスマンシュール通りのサヒッドジャヤのコンドミのIstana Sahidの斜め前に一寸ごてごておしゃれをしたビルがある。 ミッドプラザの横のDavinci Towerを小さめにしたビルであるが内部も宮殿用家具、シャンデリア、インテリアの全館ショールームの趣のある店であった。中国人の経営なので誰彼誰何されることもない。2階はレストランもあり 何かにつかえそうだ。Mas Mansyur Kav.45、電話5790-0600 マーケットマネジャーはMr. Bobby Soetimanである。

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ラーマングンでのゴルフの記録

Rawamangun_golf_depan
今週は日曜から日曜で5回もゴルフをやった。 260,000x2、125,000、140,000、150,000の合計グリーンフイは925,000だから高いコースの1回分である。
ラーマングンで記録に残っているホール・イン・ワンは350人ほどある。 日本人では1966年に取っている。富本氏、原口氏、たつや氏、荒井氏、秋山氏、花谷氏、鈴木氏2000年、鈴木氏2003年と続く。同一人かどうかは分らない。クラブチャンピオンは日本人では1981年の岩崎氏のみでKemal Pawakaと言う人がなんと1991年から99年、2003年、2005年、2006年と取っている。 漏れがあったら失礼ですが、敬意を表して記録を留めておこう。 小生などもパンカランジャティでオールインワンしたことがあるが、黒板程度に1年ほど名前が載っただけだった。

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ストウオとスドモがラーマングンの顔

Rawamangun_kepala
ラーマングンにイブヌストウの写真があった。このゴルフクラブは1872年にオープンしており、歴代クラブ総裁(クラブプレジデント)はオランダ人又は西洋人のようで初代がA.Grey、日本占領期は1939年から1946年の長期に渉りH.D. Swasonと言う人である。1959年にSenu Abdulrahmanと言うインドネシア人が出てくるので多分この時期にオランダ資産の接収を行ったのではないだろうか 1960年以降は綺羅星の如く下記の名前となる。超長期政権のSudomo時代は大変だった。Ibnu Sutowoは親子で出ている。アッチッチの像に似ているのは口の大きさか
1960-61: Edy Martadinata 
1961-67: Ibnu Sutowo
1967-68: Brigjen.TNI  Subroto Kusmardjo
1968-70: Marsekal TNI Roesmin Noerydin
1970-97: Sudomo
1997-00: Bob Hassan
2000-03: Siswono Yudohusodo
2003-06: Pontjo Sutowo
2007~ : Cosmas Batubara

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2007年2月16日 (金)

アッチッチの像はイブヌストウのPizaman

Photo_16
ブログに寄せて頂いた広沢先輩のコメントでクバヨランの入り口の塔は寄付したプルタミナの当時の総裁イブヌ・ ストウに似ていると囃し立てられていたそうで、日本人社会ではアッチッチの塔とニックネームが付けられ、オランブレ系にはピッザマンと言うようであるが、日本人の感覚の方がマッチしてしる。
正式にはMonumen Pemuda Membangun 建設青年の記念塔という。 1972年の建築である。
写真をブログに添付する予定であるが、インドネシアではこの作業に30分ほど要し失敗することもあるので日本に帰ってからになるかも知れない。

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ミナンカバウ出身が多い独立英雄

西スマトラ、州都はパダン料理で有名なパダンであるがこの州の真ん中の高原都市がブキティンギでミナンカバウの故郷であるがここ出身の独立英雄が多いのには驚いた。モハメッドハッタを筆頭に、スタンシャフリル、ムハマドヤミン、アグスサリム、タンマラカ等である。モハメッドハッタはスカルノとセットにされたため、又タンマラカは共産党系であったため道路名にならなかったが他の民族運動の英雄達と共にメンテン地区にその名前を残している。 ミナンカバウとは牛の勝利の意味で昔マジャパヒット王国が攻めてきたとき戦闘をやめて闘牛で戦ったとかでミナンカバウの牛が勝利し、それを伝えるのが種族名になったと言う。独特の尖った屋根は牛の角を表わしている。ミナンカバウ族は母系社会で男子をたくましく育て、又他の社会で生き延びる為故郷に錦を飾るムランタウの精神がありそれが英雄をはぐくんだのであろう。

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2007年2月15日 (木)

Teuku Cik Ditiro通りは三つある。

メンテンのサンパン・マツダ・セントラ レストランがあるチック・ディチロ通りは番号のないものと番号が1と2とつけられたものと三つある。チックディティロはメンテンの最南のラトゥハルハリの端の橋から北上してゴンダンディア通り(現在の正式名はR.H.Soroso通り)に繋がる道路でそこで一旦切れたあとあのレストランの前の通りとその先の鉄道線に沿った道路でこのチックディティロ1も2も小さな短い通りである。この名前はアチェ戦争のときの英雄で1836年生まれ。本名はシェイフ・サマンでチック(・ディチロ)はウラマ宗教指導者としての尊称。ピディのチロ生まれだからチロのウラマと言う名前となる。 1873年アチェ戦争が起こるや彼はイスラムの聖戦として指導し勇名を馳せた。1981年、オランダは毒薬を盛る女を送り込み、結果病気を発して死亡した。1973年政府は独立闘争の英雄(Pahalawan Perjuangan Kemerdeka-
an)に叙した。

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2007年2月14日 (水)

平日は優雅にラーワマングンゴルフ 

Rawamangun_ura
ラーワマングンにあるゴルフ場は正式にはジャカルタ・ゴルフ・クラブ(JGC)と言い、1872年にオープンした名門である。メンバーシップは34百万であったが現在キャンペーン中で26百万であるが、売買は出来なく終身メンバーと言うものである。グリーンフィーも安く土曜で315,000、日曜は260,000、平日は205,000、更にファシリタスとして月曜はなんと125,000、又水曜の55歳以上のシニアは140,000で
あった。共に12:30スタートの場合である。 設計はパー71、5,592メーターで又大きな木が張り出して池が待っているコースが多いので苦労する。スコアカード表にはショートでCall on Holeすべきこと、又各コース毎にペース オブ プレーが記載されそれによるとミドルで15分、ショート10分、ロングで18分程度で、全体で4時間19分とされている。
Jl. Rawamangun Muka Raya 電話475-4732である。小生など55歳以上に見えないのか事務手続きなのかパスポートなど年齢記載のエビデンスを要求された。


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2007年2月13日 (火)

レストラン菊川とメナド美人

サンパン・マツダの前の道を先に進むとレストラン菊川がある。 菊川には淑やかな若い女性が3人いるので寄ってみると良い。 オーナーの奥さんがメナド美人だったからか、昔はメナド出身のウエートレスばかりであったが今はメナド出身者はいない。
菊川に付いては昨年6月1日のこのブログでジャカルタポストにTiarma Siboro氏が書いた「流れる川のレストラン菊川」と言う記事を紹介したが、その一部のくだり、つまり「。。。インドネシアで一番古い日本のレストラン菊川。。のオーナーの菊池輝武氏は。。佐賀県に1918年に生まれ、彼のインドネシアへの最初の訪問は1942年3月、軍の将校としてであった。この駐在のときに、彼は北スラウエシのメナド生まれのアメリカ人と会った。二人は恋に落ちて、家庭を持つことに決めた。」
たしか軍の将校ではないこと、アメリカではないことに苦情を述べたと聞いているので小生もここで訂正しておこう。お二人ともお元気だと聞いている。

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Sampan Matsuda Sentraのディナーショー

Sampan_matsuda_1
10年以上も前、ゴンダンディア通りのマルコポーロホテルの先で小さな道路を右に折れたところにインドネシアのダンスショーを見ながら食事が出来るレストランがあったが直ぐ閉めてしまっていた。 最近これが復活、サヒッドジャヤに嫁いだ松田ユミアティさんが梃入れしたもののようで名前は上のとおりである。場所はTeuku Cik Ditiro II-1、電話 392-3930である。 ショーは8時から9時までとグループのAss.DirectorのMr.Panjiは云うが6時オープンなので速く来た人はどうするのだろうか。いずれにしても電話で予約が望ましい。一人で行くところではないので最低二人、料金は一人25万の豪華シーフードである。パンジ氏の名刺(Hp:0813-8201 -2342) には会社名はTiga Dara Cemara Abadiでここの他に下記の店を保有している。
*日本料理 加賀 Pndok Indah、Komlek Plaza I-Blok:UA33 (電話751-2263)
*ヘアーサロン ウブッド Kebayoran Baru Apartment Brawijaya 1F(電話 723-0902)

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2007年2月12日 (月)

Trowulanはマジャパヒット王国の首都

トロウーランはスラバヤの南西70kmに位置するMojokerto市のサブディストリクトである。ここから多くの出土品が発掘され大きな都市であったことが浮かびあがり、これがマジャパヒット王国の首都であったのではないかといわれている。この地域に着眼したのは1815年イギリスのラッフルズ総督で画家Wardenaarに調査させ自らの著作になる「ジャワの歴史」でここの神殿や入り口についてMajapahitの遺跡であると記している。その後Maclaine Pont(オランダ)が調査発掘し発掘品が現地での博物館の端緒となった。
Trowulanは王族の宮殿を意味するAntarawulanから来ているという。また当時宮廷詩人のエンプ・プラパンチャのナガラクルタガマにも王都の説明がされていると言う。 この王都は9 x 11kmの広さで薄いレンガの壁に囲まれ入り口(Gapura)や宮殿(Halaman Istana、Keraton)、神殿(Candi)、貯水場(Kolam)、給水パイプ(Saluran Air)、境界マーク(Batas Kota)等々が都市構造として発見されている。

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2007年2月 9日 (金)

マジャパヒット展どころでない大統領

国立博物館では昨年の11月にマジャパヒット展を開き、Trowulanの遺跡の出土品等をジャカルタで展示する予定であったが いまだ開かれていない。 この展示会は大統領がテープカットする予定の為大統領の時間を頂かねばならないが、中々時間がないようでいまだ何時開かれるともわからない状況のようだ。
マジャパヒットの都は10km四方程度の大きさゆえその壮大さは現地でなければ味わえないかもしれないが秘宝も数々あるので是非見たいものである。
これを記念してIndonesian Heritage SocietyではMajapahitという写真集を出している。会員以外でも事務所に行けば買うことが出来る。(Rp200,000)場所はSentral Senayan Iの17Fであるが、午前か午後しか空いてないので電話で確認してからの方が良い。(TEL:572-5870)

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1月のインドネシア ニューストピックス 

1月
*2006年自動車販売31.8万台(40%減)本年は40万台、二輪車は4.4百万(-12.8%)
*鳥インフル死者63人目に急増、国家災害認定
*食品、繊維、衣料など特定産業への投資の所得税便宜4種、1/1から:政令出る。 純所得軽減、減価償却前倒し、損失補てんの延長、配当課税率の軽減。
*マネジメントサービス/技術サービスのPPh23は 4.5%に引き下げ:
*アダム航空がスラウェシ沖で墜落。26日間捜査後、発見は断片のみ、全員102名不明
*今年の観光客誘致目標700万人に:副大統領が550万人目標の引き上げ要請
*昨年経済成長率は5.5%、今年は5.7-6.3%:BI(中銀)見通し。
*昨年インフレ6.6% (2005年は17%)、本年は6%程度か

12月のもおさらいすると;
*政策金利、1ヶ月もの金利10%を切り SBI 9.75%
*株価終値1,803、世界第3位の躍進
*総人口の49%に当たる1.09億人が貧困層/貧困層予備軍、と世銀。
*和平のアチェで州知事選、GAM幹部が当選
*バリ爆弾テロ等の精神的指導者バアシル師に最高裁、無罪判決
*アチェ大洪水で190名以上死亡、ジャワJepara沖フェリー転覆600人程度絶望か
インドネシアの災害では最後の締めがなく結局何人亡くなったかは判らずじまいになることが多い。
元々全体で何人いたかの分母がわからないと言うことである。

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2007年2月 8日 (木)

イマムボンジョールとデポネゴロImam Bonjol

デポネゴロについては何度かこのブログで出てきたが、デポネゴロ通りとつながったジャカルタ随一の誉れ高い道路がイマムボンジョール通りである。
イマム・ボンジョールは1772年西スマトラでイスラムの環境の中で生を受け、西スマトラの全てのウラマの教えを受けた。
長じてパドリとして畏怖され権威をもった。理想の国家としてボンジョル国を設立した為オランダから敵対されることとなった。ミナンカバウを中心とする西スマトラでは1780年台から宗教改革運動が始まっていたが、これはメッカから帰国したワッハーブ派の急進派のパドリ派と慣習化したアダット派の争いで1821年にアダット派の依頼でオランダが介入し戦争状態となった。オランダはパドリ派のゲリラ戦に悩まされ1824年、マサン協定で停戦に持ち込んだ他、ファンデンボッシュ総督の攻勢に1832年にパドリ派のイマムボンジョルが立てこもるボンジョル砦が陥落、イマムボンジョールは最終的には1937年オランダ側の甘言で欺かれ逮捕されチアンジュールに幽閉された。その後スラウエシはメナドに移され1864年その地で死亡した。
これによりオランダの西スマトラ征服がなり、オランダは過酷な強制栽培制度時代に移っていく。。
このパドリ戦争は同時期にジャワで起こったデポネゴロ戦争と共にインドネシアがオランダに歯向かった2大戦争として評価されている。デポネゴロも最終スラウエシで客死している。
イマムとはシーア派で言う場合宗教指導者であり且つウンマ共同体の長を言うが、インドネシアでは宗教指導者に対する称号的に使用される。イマムボンジョールはボンジョールが共同体でもあるのでシーア派的意味があったのであろう。

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廣安悌隊30勇士の碑

昨日の続きであるが、この碑の発見については伊藤忠ジャカルタの月刊誌の、1996年8月号頃に寄稿しているが、その頃推定も入れて「多分ボゴールからもってきたと言う通り、当時バンテン湾からの主力の部隊の進撃で、ボゴール方面に移動した豪州軍もあり、チャンティン渓谷のガルグの丘で日本軍の支隊との戦闘があったようであるからその兵士達かも知れない。」と記載している。
記述の小冊子では加藤裕氏がコメントしており、それによるとこの隊は第16軍第2師団の新発田出身
廣安連隊長隷下の挺身隊で、昭和17年3月1日メラクから上陸、バタビアを突いた本体とは別れボゴールに向け進軍したが、ボゴールの手前25KMのところのリュリアン(Lyurian)で折からの雨季で氾濫したチェプラン川で立ち往生し、これを見た対岸のがけの上で陣取っていたオーストラリア・オランダ連合軍が一斉に銃撃を加えてきた。碑の方々は其のときの犠牲者であるとしている。この川の丘の上に同部隊の戦友会が1998年、この旧碑の存在を知らずに新しく建てたそうである。
加藤氏がプラサスティで見つけたのは2000年で彼の尽力で所属部隊を突きつめ、且つプラサスティ博物館の好意で2001年に修復建立したとのことである。ジャワ作戦中最大の激戦に散った霊に安らかなれと祈りたい。

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2007年2月 7日 (水)

日本軍上陸最前線部隊全滅の記念碑

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昨年5月10日のこのブログに1996年に小生がプラサスティ石碑記念公園で発見した日本兵部隊の墓について写真と共に紹介したが、それは隅のほうに打ち捨てられていたので当時の大使館に善処を依頼したものであった。このあいだ、このプラサスティ公園に行ったところ案内人が日本兵士の墓名碑があると言うので一番に連れて行って呉れた所がこの小生が発見したものを土台に作った慰霊碑であった。
ところが事務所で押し売りされた小冊子によると、この部隊の慰霊碑は戦闘があったボゴール・リュリアンにも1998年に、ここの小生が発見した墓名碑の存在を知らず作ってしまい、その後このプラサステイにあるのを知りこれを2002年に作ったのが現在ここにあるものであると言うことで、すなわち大使館の善処もなかったためかダブって作ってしまったと言うことになる。
この小冊子は日蘭戦時資料保存委員会が作成した「南方各地慰霊碑一覧」と言う20頁のものでRp20,000で販売されていた。中を見ずに買ったが後で見ると水に濡れたのか、頁が前後で引っ付き読めない状態のものであった。ここに居る係りの者は、ここに眠る人たちの事跡も知らず入場料とこの本を売ることしか頭がなく、総督の墓があるかと聞いたところスティヨソは未だ生きているというのにはがっかりした。写真にはかすかに96年の日付がはいっているはずだ。

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2007年2月 5日 (月)

ジャカルタ洪水マップ

ジャカルタ洪水マップと銘うったが一寸追いきれないかもしれないが昨日のチリウン川に続き記録を留めておこう。北から来るクルクット川はチランダックからチプテ、クマン、ウィジャヤ、バンカの低地を水浸しにし隣のプジャテン・マンパン地区も洪水にしてきたマンパン川と共にテンデアン通りに押し寄せ合流、弊社のビルのところでスデルマン通りの高さに止められアトマージャヤ、ベンヒルを陥れる。更にバンジール運河に流れてタナーバン地区、グロゴル、ダーンモゴット、更に下流は多くの運河が乱れて交差しているので大惨状ではないかと思う。
ジャカルタの西はチサダネ川・タンゲランであるがこれは措いといてその市よりにPesanggrahan 川とがある。これにやられる所はビンタロ、タナークシル、チプリル、クドヤがあり、ここでKali Angkeに合流する。Kali AngkeはPesanggrahanの西側にあり、これにやられるところはチレドゥックである。
今回の最大の被災地はカンプングムラユ、チャワング(UKI)、チピナン、クラパガディン、チャクン、タンジュンプリオク、ブカシ(ジャバベカ工業団地も)の広大な地域のようである。これは町名では追いきれない。他にはシャングリラホテル前、アグスサリム通りなどがある。空港までの高速は冠水したが大渋滞の中どうにか通れたようである。
今日でも屋根まで水が引いてない場所(カンプンムラユなど)やボゴールのカトウランパ水門当たりの激流がTVで流れている。
5年前にもジャカルタ大洪水があり、多くの企業が事務所閉店に追い込まれ日本人の居住区選定の要素に洪水の危険を入れることが指摘されたことを思い出す。電話網・インターネット網もやられ、偶々土日曜があったからよかったものの、それでなければ3日程度ジャカルタ経済はストップさせられたことになる。
スチヨソ知事は悪いのはボゴール地区の別荘地(自分も持っているはず)乱開発だとボゴールに責任をなすり付けているが、分が悪いのは否めない。

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国家災害中のゴルフ 2月4日(日)

国家災害と認定しテロ警戒でも余りない最大危険警報(Siaga-1)が発令されている中、国家トップがゴルフだとの噂を聞いた。突然の闖入に予約を飛ばされた日本人発のニュースなので間違いはあるまい。今日も曇りではあるが雨は降っていないのにラーマングンは朝のうちに終日クローズを打ち出し、友人の言う通り国民感情を慮ってのことかも知れない。それでも国家トップに見習ってオープンしているスナヤンゴルフに出かけることにした。行きがけに会社の前の道を通ったが昨日までの水は忽然と消えている。多分道路工事で排水溝を誤ってふさいでしまったことに気づきあけることが出来たのであろうか。すし屋の大将の話では上流の貯水ダムを閉めているがもう限界で放流するとのことで満潮とも重なれば明日は又洪水が続くとのことである。

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会社ビルは今日も死に体 2月3日

昨日は増水の危険を知らさなかったビルのオーナー会社もそうであるが、ぼんやり見ている運転手もどうかしている。これがインドネシアのAsal Bapak Senangの封建主義の残滓である。一時は運ちゃんを置いて裸でも帰るといきり立ちパソコンなど会社において体一つで帰ったため土曜日の今日はパソコン取りに会社に行くことにした。雨はとっくに上がり、晴れ間さえ見せるほどであったが、同じビルの日本人の話では水は僅かしか引いておらず彼自身はズボンをたくし上げ水にぬれながらビルに行ったとのことであったので未だ水が引く可能性のある夕刻4時近くに寄ってみたが、水は満々と変わらなかった。昨日の愚はせじと止めにして近くの打ちっぱなしに行った。ラーマングン・ゴルフ場は昼からオープン、スナヤンゴルフもオープンで、スデルマン-ブロックエムの通りは乾いている中、何故我がビルだけが洪水の中に立っているのか不思議な気がした。
確かに市内随所が大洪水であるが、ジャカルタに流れ込む河川の曲がりくねっているところを中心に広域洪水、地面が低いところがスポット洪水である。ジャカルタの水源地ボゴールの雨の状態はよくわからないがジャカルタから見た雨の状況は29日から30日にかけ降り、又1日置いて1日から2日にふったようだ。
ジャカルタの代表河川チリウン川はジョグロス山系に源を発しボゴール市内を分断し真っ直ぐデポ(ック)に出てくる。更にパサ-ルレボ、チリリタン、カリバタ、テベットの東で高速tollを越えカンプンムラユ、ジャテネガラの東からマンガライに出る。ここには流水管理ダム(水門)があり、大きな運河Kali Malangに分離される。この後らパンガンバンテンから左右に分かれてグヌンサハリとコタを通りジャワ海に流れるのであるが将にこの地名が冠水地である。そのほかにもクルクック河、スンター川、ブカシ川、マラン運河、バンジール運河迄あり今回の洪水は最大級である。

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会社のビルが洪水に 2月2日

Banjir_feb1_001
2月1日午前中から2日金曜まで降り続いた大雨で金曜の朝、運転手が予定出勤時間より2時間も大幅遅れで出勤してきて始めてジャカルタのあちこちで冠水(Banjir)していることを知った。情報が集まるうちにアトマジャヤ大学一帯は膝まで、近くの河の水がおしよせ、弊社のビルの出勤者はビルに近寄れず帰宅していることが判った。小生の車はCRVなので意を決し泳ぎきりたどりつく事ができた。10時過ぎであったが当然一番乗りで後何人かたどりつき当日は25%の出勤率と言う有様であった。いずれ水は引くと思っていたが気づく内に増水一方で夕刻4時には股下何センチと言うほどに増え続け、このままでは帰れなくなると危険を感じ大決断の末この深さ50ch、距離で25メートルの泥水の大海に車をどぶんと乗り入れ一気呵成に向こう岸まで泳ぎつけた。見ている警官のもこの勇気ある行動に親指を突き立て感嘆していた。ジャカルタのメーン道路がこれほどに冠水したのはこのOO年で初めてのことであった。多分どこかの国際機関から環境賞を受けたステイヨゾ知事の仕業に違いない。
立件証拠は3Fの会社事務所からの写真である。

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2007年2月 1日 (木)

ジャカルタ コンドミ市場動向

ジャカルタのコンドミニウム市場は昨年第4四半期はインフレと金融逼迫で打たれたとColdwell Banker
Commercial (CBC).のリポートは分析している。昨年中央銀行のベンチマークレートは12%から9.75%まで下がったが未だ実際の銀行貸し出しレートは下がっていない。このリポートによると実際の貸し出しは15.5%~18%で投資家は不動産より金融資産に投資しがちである。
コンドミの売り上げは38%下落又アパートレンタルもこの期間に5.9%下がっている。コンドミのストックは43,555戸で内320戸が販売されたに過ぎない。一方供給の方はBelleza 1、Belleza 2、Sudirman Park 1 及び2などで2,527戸であった。売り上げは落ちたが価格は安定し、プライムロケーションで平米当たり、Rp 7 百万(US$769) からRp 22.50 百万のバンドであった。
アパートのレンタル部門では10,940戸のうち38戸が契約を見ただけである。家賃も平米当たりプライムで$10.79 ~ $29.93、セカンドリーマーケットで$2.84 から $15.96である。
2007年にはthe Marriot Executive、Senayan City、Oakwood Premier Cozmo、Belleza Sofitel、One Pacific Placeの5つのアパートか完成する。当然ながらロケーションとオーナー・オペレーター次第で格差は大きい。

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