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2007年2月24日 (土)

Sutan Syahrilとカナル・グレシック

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ジャカルタのスディルマンよりホテル・メンテンやTIM(タマン・イスマイル・マルヅキ)やチキニ方面にいく場合使う道がスタン・シャフリル通りである。これはホテルインドネシア前のサークルをヌサンタラビルの方に右折し入る道で小さな小奇麗な運河グレシックに沿って真っ直ぐ伸びる街路樹の木陰の道である。
Danau_shahril_022
この道は前回登場したチック・ディ・ティロ通りで左折するとメンテンホテル方面に行ける。このスタンシャフリルは2度ほどこのブログに登場させたが彼の伝記を記してみよう。
Sutan Syahril (1909年~1966年)
スタンシャフリールは1909年スマトラ パダンでマハラジャで検事長の父のもとに出生。中学はメダンのオランダ系MULOに、高校はバンドンのAMSに進んだ。時に民族覚醒期の熱気にあふれた中、若干18歳で「プムダ インドネシア」と言う青年活動組織の設立を指導した。1929年オランダに留学、先にハッタが指導してきたインドネシア協会で活動、1931年故国のインドネシア国民党の混乱の為学業半端にしてハッタに代わり先行帰国、インドネシア国民教育協会のリーダーとなった。この党は政治を目的にする若いエリートを教育する場であった。1933年にハッタも帰国、教育協会の会長を譲るが、1934年には植民政府により、幹部15人共逮捕され、ジャカルタ チピナン刑務所に入れられた。その後ハッタと共にイリアンのディグルに流刑となり、又その後も一緒にバンダネイラに移送されそこで8年、その後スカブミに移された。日本時代は潜伏状態を続ける。1945年11月1日に、中央委員会による議員内閣制を認めさせ外相、内相を兼務する首相になり、1946年オランダとのリンガルジャテ協定締結する。シャフリルは日本に協力したことがなく日本:ファッシズムよりオランダ:民主主義に信頼を置いており、オランダも対日協力者スカルノを相手にしない中、スタンシャフリルはオランダと協調しながら交渉するものであったが、国民は譲歩は国辱とする意識とオランダ側の協定違反や最後は第1次侵攻により追い込まれ辞職せざるを得なくなった。外交に手段を移す為国外に脱出、国連の場でオランダの軍事侵攻をやめさせるよう訴えの演説をした。彼自身はその後内閣の職務に付くことはなく社会党党首としての活動を行うのみとなったが、1955年の最初の総選挙では惨敗、反スカルノの嫌疑で獄中につながれ病気を発し最後はスイスでの療養の甲斐なく客死した。

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コメント

スタンシャフリル通りのヌサンタラビル寄りに私の一家が借りた家の大家さんが居た。
そのスタンシャフリル通りから斜めにチキニ方向に走るサムラトゥランギ通りはメンテンの主要道路の一つである。
通りの名前になっているサム・ラトゥランギ博士は独立準備委員会の主要メンバーであった。
話は変わるが、1962年から63年にかけて、私の学友である北スマトラ石油開発の大森通広君と私は、ジャカルタに駐在していた。
クバヨランバルにあったお互いの宿舎は歩いて行ける距離なので、彼は毎晩のように私の寮にやってきた。
私の寮には日本料理の上手なコックと麻雀メンバーがそろっていたからである。
1年ほどして、当時、北スマトラ石油の常務であった西嶋重忠さんの厳命で大森君はサムラトゥランギ通りのラトゥランギ未亡人の家に下宿させられた。
西嶋さんは独立前夜、前田精海軍少将の顧問として大いに活躍した人でラトゥランギ博士とも親しかったという。

広沢 勉
the-hiro@lapis.plala.or.jp
http://www16.plala.or.jp/bouekitousi/index.html

投稿: 広沢 勉 | 2007年3月 4日 (日) 23時18分

サムラトゥランギ博士が身近に感じました。メナドの空港の名前になってますね。メンテンやクバヨランを歩くのは気持ちよかったでしょう。 今は世の中が日本でも萎縮してますね

投稿: jakartan | 2007年3月 5日 (月) 09時24分

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