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2007年3月の投稿

2007年3月31日 (土)

ラーマングンにもヒンドゥー寺院 

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タンジュンプリオクの方から高速をラーマングンで降りたところ或いはプラムカから右折したところに大きなヒンドゥ寺院を発見した。敷地が大きいので奥にある寺院にいままで気が付かなかったのであろう。Pura Adhitya Jayaで旧い内部のガネシャ ガーデンの部分は1871年のもの。 城壁で仕切られた内部にはマハメルの塔、ビマ閣、トリムルティの像などもあり、外部にはヒンドゥーの学校、供え物や祭礼具を売っている店やワルンもあり一帯は将にバリの雰囲気である。誰にとがめられることもないので一寸憩うには良いところかも知れない。ところがその隣はイスラム寺院があり、共存している姿になんとなく安堵したものである。

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2007年3月30日 (金)

クディリで古代王国発見

KediriのTondowongso村で行われている発掘調査で古代の隆盛を誇った王国の存在の可能性が高まっている。12の地域から発見された392個の遺物の中の14個はSyiwa Maha Bumi、Durga Mahesa Sura Madini、Chandra、Surya、AndiniやNandiの神々の像で牛やリンガとヨニのイメージがある。石は勿論ブロンズや金のプレートに印字された文言もある。
Gayam村ではクディリ王のジョヨボヨ王Joyoboyoの瞑想所である寺院も発見されている。
ここは1957年に発見された場所であるがその当時は状況が悪かったこともあり、今回は前回の発見物より価値のある4頭神もある。モジョケルトのTrowulanからの発掘物との近似性も言われているので、マジャパヒットより200年位前になろうか。

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2007年3月29日 (木)

ジャカルタはファウジー知事に決まり?

9月に行われる地方首長選挙(Pilkada) でジャカルタ特別州は現在のスティヨソ知事の下で副知事をやっているDR Ing H Fauzi Bowoが俄然有力になっている。ゴルカール、闘争民主党、開発統一党(PPP)、PKB、PANなど大政党を含む17政党が挙って擁立したからである。それまでは運輸大臣のAgum Gumelar氏や映画俳優Rano Karnoの名も挙がっていた、競争相手は現在元国家警察服長官のAdang Daradjatun(福祉正義党支持)のみである。彼は現在58歳、その28年はDKIのキャリアーである。1948年ジャカルタ生まれで、1976年ドイツのBraunschweig工科大学の都市建設工学士を得、又同じくドイツのBaungenieurwesen Universitasから博士号をえており、DKIの観光局長官や市の次官からスチヨソ知事の信頼を得て副知事に急ピッチで昇進している。清潔で親密感があるようだ。市は267の町(Kel)があり1町当たり10億、合計で2,670億ルピアの町村自立プログラム(PPMK)を推進する。

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2007年3月28日 (水)

何故か金のある政府と軍

最近街をめぐるとあちこちに綺麗なインドネシア人好みの西洋館が立っているのにぶつかる。
Dep_keuangan_koperasi_1
ワヒッドハシム通りがメンテン・ラヤ通りとぶつかる角には財務省の協同組合用集会所がたっている。
Siriwangi_2
ブディ・ウトモの民族覚醒記念館前にはシリワンギ師団の事務所、
Kartika_medika_1
その裏にはKartika  Medikaと名前が付けられた多分これも軍の施設である。
そこからプラパタンに出たところの海兵隊の司令本部も綺麗で、その横の手工芸館は中央銀行の所有であるが、おめかし中で手工芸の展示はやめて
政府高官の宴の場所になるように見受けられる。これはほんの数百メートル単位のジャカルタ中央だけの話で広げるとまだまだある。

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2007年3月27日 (火)

上海ブルー1920とTugu Hotel 

Apr_shanhai_menten2006_068
上海ブルー1920とは最近オープンしたレストランの名前である。なんとエキゾチックでノスタルジックな名前であろうか。原形は20世紀初頭スンダクラパにあった渡来中国人が始めたティーハウス・ワルンであったという。(インドマルコ企業経営1月号参照)場所はクボンシリーの大通りでジャラン・サバンから右折れの所の緑深い街路樹の陰にあるので、看板もなく見過ごししてしまう。この店の経営はAnnette Anhar さんでTugu HotelグループのオーナーAnhar Setjadibrata氏の三女である。Anhar氏は大のアンチックーコレクターでこの店も保管されていた上海ティーハウスの備品類(中には当時副業の散髪台もある)を買って作ったものである。Tugu Hotelグループはこのようなアンチークと自然の安らぎをコンセプトにホテルを展開して、現在バリに2ケ所とマランにあるがジャカルタには計画中の如しである。但しジャカルタにはこの店含めレストランを4ケ所持っている。
上海ブルー:Warung Shanhai Blue 1920、Jl.Kebon Sirih Raya 70(7088-3066)
ロロジョグラン:Lara Djonggrang & La Bihzad Bar、Jl.Cik Di Tiro(315-3252)
ダプルババ:Tao Bar & Dapur Babah Elite、Jl.Veteran 1-18
サマラ パッサール サテ:Samarra Pasar Sate & Bar、Kebon Sirih Raya 77(7088-3066)

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2007年3月26日 (月)

Pieter Van HoornとJohn van Hoorn総督

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コタのポルトガル教会は1695年に完成した。一方シティホールであった歴史博物館の完成は1710年なのでバタビアの建設から相当遅れているが実際はシティホールは3度目の建てかえられた物である。どちらにもVan Hoornなる名前が出てくるので関連を調べてみる。これは昨年11月23日のブログの続きでもある。

シティホールの中に大きな横に長い木の標識があり、オランダ語で「このシティホールはJohn van Hoorn総督により1707年1月23日に再建に着手、Abraham van Riebeek総督の1710年7月10日に完成した」とある。
一方Simon教会に木製のPlaqueに次のような意味のことが書かれている。
「この教会の最初の定礎は1683年Pieter Van Hoorn青年により置かれ、そしてそれはこの国の政府の命令により教会の司長(Wardens)である市の事務総長John Van Hoorn閣下と市の議会副議長(Alderman)John Lammerts Radder閣下の監督の下、建設された。1695年10月の日曜日にTheodorus Zas 師によって最初の説教がもたれた。云々」

John van Hoornは1653年生まれ、総督になったのは1704年で1709年まで勤め2年後亡くなっている。建設の命令を下したのは彼の一つ前の総督Willem van Outhoorn(1691年から1704年まで総督)であろう。Hon.Govermentとだけで何故名前が記載されなかったのか不思議である。またPieterの前にthe youthと冠されているが子息Johnのそのときの年齢32歳(1683-1651)から考えておかしい。Pieterの墓はプラサスティ記念墓地公園にあり1619年生まれ1682没と記されており彼は商人として成功を収めた一人であるのでPieterの青年男女(子供若しくは会社等のメンバー)と訳すべきであろうか。或いは父親のPieterはその後にJanseと入っているので別の息子であったかも知れない。尚Pieter Janseの墓は家族とプラサスティにあるがJohnは本国に戻ったようである。

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2007年3月25日 (日)

パッサール・スネンは月曜市

Senen
月曜市などよくある名前だと思うが和暦には週がなかったので地名になっているものは日本にはないだろう。渋滞と喧騒の中にある現代のパッサールスネンであるがここの歴史は古い。オランダの初期、グヌン・サハリ通りがグローテ・ツイダーベークと呼ばれたころその南側に、Vinckと言う人が作ったVinnckpasserと呼ばれた市場で月曜だけ開いたが1766年には曜日に関係なく開かれるようになった。裏側はイムホフ総督時代に作られたKali Baru新運河が流れている。入り口辺りやスネン駅の前の公園にはなにやら記念彫像があるが又何れ調べよう。駅構内にRp1,500の入場料で入ったがここの駅はホームが複数ありインドネシアでは大きいほうだ。

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2007年3月22日 (木)

マタラム王家の末裔

マタラムは国内戦乱と王族間の内紛それにオランダの介入への闘争に明け暮れ最後には4家に分立させられた。概括すると:スルタンアグンの死後第4代の残虐暴君アマンクラット1世に対するトゥルーノジョヨの反乱がありVOCが支援し制圧、第6代アマンクラット3世はVOCから退位させられスロパティの反乱に合流(1704年第一次ジャワ戦争~08年)し、第8代アマンクラット4世は、一族間で内乱が起こり(1719年 第二次ジャワ戦争~23年)、第9代パクブオノ2世はバタビアの華僑反乱に乗じて反旗を翻したため1749年の王位継承問題からついに第3次ジャワ継承戦争を経てついに1755年マタラム王国はオランダにジョクジャカルタとスラカルタに分裂させられ王国は滅亡する。1757年マンクネゴロ家分派。爾後はオランダの行政下にあったが、1812年スルタンセプーの反抗でパクアラム家が分派させられた。この4家とも現代に生き続けており現在の4家の長は下記の通りである。
Surakarta家 :Pakubuwana XIII(2005年~)
Yogyakarta 家 :Hamengkubuwana X (1988年 ~)
Kadipaten Mangkunegara家Mangkunagara IX (1987年~)
Pakualaman家Paku Alam IX (1998年~)

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2007年3月20日 (火)

シャングリラ前はジョジョハディクスモ通り 

タムリン通りとスディルマン通りの境界の所にはこの南北線の下をトンネルで交差する通りが運河にそってあるがその東側は何度も登場したスルタンアグン通りで、西側はM.Djojohadikusumo通りである。スルタンアグンはマタラム初期の王であり、ジョジョハディクスモは独立前後の政治家・官僚であるので二人がセットになったのは関連はなさそうである。
M. Djojohadikusumo(1894年~1978年)
正式にはR.M.Margono Djojohadikusumo、東部ジャワ プロボリンゴ出身。1911年官吏養成所卒業、1942年庶民銀行頭取、45年9月最高諮問会議議長、1946年インドネシア国立銀行総裁、国立工業銀行頭取、国会議員、協同組合運動を指導した。
より有名なスミトロ博士のご尊父である。
この通りにシャングリラホテルがあるが、多分余り知られていないこの道路を住所とするのを嫌って、ホテルの住所はスデルマンKav.1である。スディルマンのBNIの横の道がホテルの裏側に到達できるようになったのかも知れない。

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Dukun Atas駅とSudirman駅

Dukun Atas駅と言えばタムリン通りとスディルマン通りの結び目の所の寂れた汽車の駅であったが、今はスディルマン駅と名前変えしている。寂れた駅だから名前もDukun Atas(上級占い師?)程度の名前が合っているのであるが、この捨てた名前をバスウエーが拾っている。それもDukun Atas駅とDukun Atas II駅と二つもである。Dukun Atas駅はルート1のコターブロックMが拾ってスディルマンの像の後ろの駅でDukun Atas II駅はルートIVのスルタン・アグン通りの端がランドマークビルを一周してユーターンし元のスルタンアグンに出るそのランダマークセンターの横の駅である。この二つの駅は回廊で繋がっており、駅の外に出ない限りワン・チケットで利用できる。今日は3連休の最後の日であるが、最近バスウエーの利用が増えてきたように見受ける。7路線と増えたので利便性が高まったのかも知れない。

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2007年3月18日 (日)

ジャカルタモノレールが本当にGO

昨年12月12日にGOになると伝えたジャカルタモノレールであるが、何故か工事は停止になっていた。しかし昨日スチヨソ知事は既に政府保証書が発行されたと発表したので今度こそ本当に動き出すと思われる。Dubai Islamic Bank は総投資額$650百万のうち$500百万の政府保証を条件に融資に応じたもので、政府は半分はジャカルタ市が内部で分担することになっている。
政府保証は乗客数ガ1日16万人に達しない場合のロスを保証する形になっているが16万人とはかなり強気な見通しに感じる。先ずは成功を祈る。

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2007年3月17日 (土)

Hard Rock Cafe、 EX、 Studio XXI

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サリーナデパートにあったハードロック カフェがエムユーカフェに取って代わられていると書いたがそれはEX(エンターテインメント センター)が出来た3年ほど前にEXに移っていてジャカルタを去った訳ではない。EXにはお決まりのFood Court、Fitness Center、Studio XXIなどが入っているがこの建物は奇抜で黄色、橙色、青色、赤色に塗られた4階建ての箱型ビルが少し放射状に並んだものでPlaza IndonesiaのAnnexとなっている。2階にしゃれたクラブがあったので入ってみて聞いたところどうも映画館併設のクラブのようである。オーナーの名前を聞いたら素直にBenny Suhermanと答えてくれた。彼はスハルト元大統領の近親Sudwikatomonoと映画館のチェンーンをインドネシアで展開している人で、昔からStudio 21と言う名前でジャカルタでは殆どのモールにある。最近は Studio XXIで中流以上を狙い、The Premierで上流階級を狙うマーケットセグメンテーションを展開している。プレミアでは多分飛行機の1st クラス的なイスでゆっくり見れるのだろうが入場料はRp100,000だそうだ。プラザ・インドネシアは確か息子のバンバン氏がやっていたというから、見えないところで未だスハルト人脈・金脈は生きづいているような気がする。EXの写真は構内で取ろうとしたらサトパムに止められたので隣の日本大使館側の道路から取ったもので全景は入らない。念のためThe Premierの電話番号は3143221で、ポンドクインダーモールや
スナヤンシティにもある。

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2007年3月16日 (金)

Sanggar Heidiで子供絵画展

Sanggal_heidi
レストランPisaのあるGreja Theresiaの裏のテレシア通りを通っていたら、ふと展覧会ががやっているような家が目に付いた。インドネシアの子供達が描いた絵画の展覧会を準備中で本日18:00にオープンすると言うことであった。従いゲストブックに署名したが最初のゲストと言うことになる。この展示会は日曜日までやっている。Sanngar Heidiと言うのはさしずめハイジ・スタディオ(小展示館)であるが正式にはBalai Budaya Jakartaと言う。 1万ルピオアであるが一応入場料が要るが、立派なカラーのカタログを呉れる。作者の名前と写真まであるが、年齢の記載はないところは何か意味があるのだろうか。子供が居られる人は子供と三連休の時間つぶしにいってはどうだろう。

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2007年3月15日 (木)

ミナンカバウ出身の民族運動家 続編

先日2月15日、西スマトラのミナンカバウ出身の民族運動家の多さにびっくりしたがそこではモハメッドハッタ、スタンシャフリル、ムハマドヤミン、アグスサリム、タンマラカを挙げたが他にも居たので北スマトラ出身と比較して見よう。西スマトラニア他に
• アブドウル・ムイス、独立英雄
• モハマッド・ナッシール、首相
• ハエルル・サレー:副首相
• ラスナ・サイド:英雄
• シティ・マンゴポー:英雄
• イマム・ボンジョール:英雄などがいるので合計11人になる。最近の大臣としてはProf.Dr.Emil Salim、Fahmi Idris、Harun. A. Zainなどがいる。
北スマトラもバタック人を中心に下記の偉人がいる。
• A.H.ナスチオン:国軍司令官
• アダム・マリク:副大統領
• アミール・シャリフディン: レンビル協定時代の首相、マディウン事件に連座
• T.B.シマトゥパン:国軍参謀長
最近の閣僚級はこちらの方が多いかも知れない。Akbar Tanjung、Arifin Siregar、Cosmas Batubara、 Miranda Goeltom、Sabam Sirait等である。

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2007年3月14日 (水)

再開発の波のサリーナデパートの思い出

昨年8月21日にお知らせしたがサリーナーデパートの再開発が動き出すようである。隣の政府の建物を含め全体をサリーナスクウエアーと言う名前の複合施設にする2,000億のプロジェクトである。
サリーナデパートは日本の賠償で建設され1963年にオープンしたもので、未だ市の中心部に位置しながら寂れている。日本より速くオープンしたHard Rock Caféは今は更に喧騒たるマンチェスター・ユナイテッドカフェに取って代わられ、早朝にはお金を使い果たした飲み客が駐車場でよく喧嘩をしている。

サリーナとはスカルノ元大統領の幼少期の育ての親とも言えるブンバントゥの名前であり、女性の地位を高めるジェスチャーの願いも込められていた。エスカレーターもインドネシアで最初のものである。当初は西部や松坂屋の指導を受けて居たようだが最初のスカルノのコンセプトは直前に訪問したソ連等の共産国のデパートから学んだ市場価格リードにあったようで、多くの中小企業と招いたりした社会主義的経営は直ぐ破綻1968年にはカジノとMiraca Sky Clubと言うエンターテインメントセンターとなった。その後1990年代初期に、マクドナルドとハードロック・カフェのような現代性のアメリカのシンボルが来たが、消費者の近代的豪華のショッピングモールへの関心を戻すことは出来なかった。今サリーナは多くの開発業者を招きBOTベースで現代消費者の好みに合った姿に帰るという。スカルノに人類愛を説いたサリーナという名前は残る。 東ジャワにある墓に眠るサリーナがどんな人だったかはスカルノの自叙伝のほかは今はだれも知らない。以上JP誌のAnissa S. Febrinaさんの記事をサマライズしたものである。Sarina_mar2006_007
実際サリーナデパートを見てみると外側は案外綺麗にしていた。
カジノは1984年ごろ賭博禁止で閉鎖されたがそのあとはパサラヤの創業者であるアラティフ マーケティング部長(後労働大臣)の力で成功した。賭博は好きでない小生も一度連れて行かれた事がある。カジノがどこであったかは長く忘れていたが、ここであったのだ。何か薄暗い埃の中の女が立つ雰囲気が思い出される。

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2007年3月13日 (火)

ダルマプルサダ大学に$78,600相当支援:大使館

ジャカルタ大使館はジャカルタのダルマプルサダ大学へ日本語・日本文化教育支援として頭書の金額相当の日本語教育の為の設備等を供与すると発表をした。これだけのニュースであるが時々大使館が前面に出てきて散発的支援を発表することが多い。何だろうと思う。
ダルマプルサダ大学は日本で留学したインドネシア人が中心となり、1986年に設立した大学で日本語学科等2,300人の学生が学んでいるそうだ。
プルサダ大学には1991年天皇陛下来訪時にも訪問された程、日本もバックアップしていることは承知している。拓殖大学が1997年に提携し、都市貧困対策リーダー育成事業 も行っているというが、現地ビジネス或いは政界含め未だ知名度は低いと言わざるを得ない.。未だ歴史が浅いが故だろう。ただ大学のウエブサイトは死んだままであった。
拓殖大学は桂太郎が1900年に. 台湾の開発行政人材を育成する国策大学としてスタートし、国際開発学部を持ち、世界の34大学(中国7、台湾3、韓国3、モンゴル3、イギリス3、マレーシア2、米国2等18ケ国)と留学提携している。

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2007年3月12日 (月)

IKIP(UNJ)そばのワリソンゴ村

この間行ったUniversitas Negeri Jakartaの1ブロック先、第2キャンパスの近くに
ワリソンゴの名前が付けられた通りが密集している一角がある。ワリソンゴの名前は下記の通りであるが、この9聖人の内7聖人があり更に通常のワリソンゴにない名前が4つ(Sunan Demak、Sunan Geseng、Sunan Kanoman、Sunan Supuhan)もある。
不思議な現象であったので記録に取っておくがジャカルタにはこのようにワリソンゴの名前を付けた密集地帯がここの他に、ポンドクグデ(5聖人)や南カラワチ(6聖人)にもある。
Cafe_senan_giri


Walisongo----------Rawamangun---------Pondok Gede
Sunan Gresik-------t.a-----------------t.a
Sunan Ampel--------Sunan Ampel--------Sunan Ampel
Sunan Bonang-------Sunan Bonang-------t.a
Sunan Drajat--------t.a---------------- Sunag Drajat
Sunan Kudus--------Sunan Kedus--------t.a
Sunan Giri----------Sunan Giri----------Sunan Giri
Sunan Kalijaga-------Sunan Kalijaga-------Sunan Kalijaga
Sunan Muria-------- Sunan Mulia-------- Sunan Mulia
Sunan Gunung Jati---Sunan Gunung Jati---t.a

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2007年3月11日 (日)

IKIPは最早ない?。State Univ.へ

Ikip_unj2006_057
ラーマングンゴルフ場から大きな赤い屋根瓦の建物が見えるので何だろうと行ってみた。キャンパスの中にも会釈程度で入れたので写真を撮ってきたが、名前は国立大学ジャカルタ(Universitas Negeri Jakarta UNJ)と言う。この大学は師範大学というか全国で10大学を数えたInstitute of Teacher Training and Education (Institut Keguruan dan Ilmu Pendidikan Jakarta:IKIP Jakarta)であったが、1999年総合大学へ脱皮するべく大統領令により改称した。今でもIKIPなる言葉で知られているが、実際は10校とも全て名前を変えているようである。 例えばMalang、Jogja、Medan、Semarangは同じUnversitas Negeriであるが、Bandungは英語で言えばIndonesia Uneversity of Educationと言う。IKIP Jakartaの前史としては独立後教員不足の為全国に4校を設立した中の一つでスカルノ時代の1964年にIKIPとなっていた。
教育専門家育成だけでなく教育以外の科学、技術、芸術、文化の領域にも力を入れている。学生は例年の全国大学入学テスト(Ujian Masuk Perguran Tinggi Negeri)UMOTN)により選抜されるが体育、芸術、音楽、舞踊学部には特別テストが科される。学生数は国内から14,000人で、韓国とマレーシアとの交換学生が学んでいる。
IKIPに対しては日本はJICAを通じた理数科教育質向上のプロジェクトを提供したことがある。
Mawasisiwi_ikip_032
ジルバブの学生達と校門前でおしゃべりしてきた。

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2007年3月10日 (土)

西運河は85年の古い運河

東運河のついでに西運河Banji Kanal Baratを見てみると、この運河は1922年に建設に着手したものであるが、そのきっかけは1918年のバタビア大洪水である。その当時のバタビアは未だメンテンが開発に着目されてきた時代であるので今よりは小さな町(162km2、現在は661km2)であったが全市が洪水になったようである。グロドック刑務所の辺りで胸までの深さであった。又洪水の後はコレラが襲ったと言う。市では洪水対策委員会を設置し専門家であるHerman Van Breenも参加した。これで西運河とマンガライの水門およびカレット水門が建設されたが、当時Van Breenも予測したとおり洪水の流れを変えるだけであった。
西運河の長さはマンガライからSungai Cideng、Sungai Krukut、Sungai GrogolをつなぎMuara Angke.まで17kmである。マンガライとBanjir Kanalは昨6月12日のブログにも書いてます。
現在のAngke当たりのTeluk Gongでは運河はごみだらけである。
この運河を水上交通に使うアイデアは古くからあるようで最近スチヨソ知事がぶち上げ、Dukun Atas駅辺りは着々と準備が進んでいるようだ。

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2007年3月 9日 (金)

バスウエーIVのスルタン・アグングとは 

タムリン通りとスディルマン通りの境界の所にスデルマン将軍の像が建っているがここでバスウエー路線1(コターブロックM)の駅Dukun Atasとバスウエー路線4(ドゥクン・アタスープロガドゥン)のが乗り継げる駅Deukun Atas2に行ける。路線4は運河沿いのSultan Agung通りをマンガライ方面に向かうが、この道は又ラグナン動物園からラスナサイド通りを通ってくる路線6も使うようだ。但し4と6の乗り継ぎは未だのようである。
ところでこのSultan Agungは誰かを調べてみた。次の通りである。
Sultan Agung(1591年~1645年)
マタラム第三代王。Mas Rangsangとも云う。マタラムは中部ジャワでマジャパヒットが衰えるとスノパティにより建国されたが、第2代マス・ジョラン(パネンパハン・クラビアク)のときマタラムは伸張、第3代(1613~1645)も積極策で1620年ごろ良港スラバヤを取り、1628年~1629年、今度は西進しバタビアを2度攻撃したが、クーン総督の死守に合い成功しなかった。 スルタン・アグンは矛先を再度東に向けグレシックのムスリム聖者スーナンギリの国を滅ぼしたが、望んだバリ攻撃はならなかった。スルタン・アグンの時代はマタラム王国の全盛時代でイスラム・ジャワの混合文化の華が開いた。1975年国家英雄Pahlawan Nasionalに叙せられる。
彼の死後子供のアマンクラット一世の時代はトゥルーノジョヨの反乱、アマンクラット2世の時代はスロパティの反乱と内乱が続き、王家の継承内紛にオランダVOCに乗ぜられ第3次ジャワ継承戦争を経てマタラム王国は1755年に滅ぶことになる。

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2007年3月 8日 (木)

JICAの東運河の開発は進むか

東洪水運河(BKT)は未だ北ジャカルタでどよんだままである。Rorotan地区の265の土地のうち30%は二重の土地権利書があり訴訟中であると言う状況なのだ。予定地には無許可の家を立て貧民が入り込んでおり、又ゴミ捨て場と化しているところも多い。
この運河はアリ・サディキン市長の時代1973年のマスタープランから始まっており、1990年、1997年は日本の企業或いはJICAも係っている。2002年になってスティヨソが建設着手したが民間の所有権の収用の値段の綱引きで躓き放置された。 
全長23.5km i Kali Cipinang、Kali Sunter、Kali Buaran、Kali Jati Kramat、Kali Cakung、Kali Blencongをつなぎ270平方キロをカバーすると言う。
Kebon NanasからPondok Bambu、Cakung、Ujung Menteng(ブカシ近く)からMarundaから海に注ぐルートで完成後マンガライとKebon Nanasも結ばれ結果、西運河と東運河がマンガライ水門で結ばれることになるようだ。
2月のジャカルタ大洪水のあと国家予算から3兆ルピアの予算措置がカラ副大統領より発表されたので今度は腰を入れて進むことを期待したい。

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2007年3月 7日 (水)

Mesjid Al Mansyur < = > Al Anwar:メスジッドアンケ

Angke
モハマッドマンシュールが預かったメスジット・アル・マンシュールのモスクデザインは純粋なイスラムでなくヒンズー・ジャワ・中国・アラブの色彩を混合した文化の名残で、これとよく似たモスクは隣のアンケ地区のメスジッド、アルアンワールである。こちらのメスジッドはアンケとも呼ばれる。
アル・マンシュールのドアーはチーク材でジャワ彫りがあり、屋根の線はヒンドゥ、イマムの場所Mimbarはアラブの緑で彩られ、デザインは中国系ムスリム商人の影響であるらしい。住所のLioは中国語ではgenteng(瓦)を意味する。ここに昔はスンダクラパに繋がる川があったそうで五つの橋がかかっていたが現在は川も消えこの地区の名前にJempatan Lima(五つの橋)と名前を残している。
隣の地区アンケにあるメスジッド・アンケは1761年に、中国人モスリム(女性)が建設したとされる。彼らは1740年の中国人大虐殺事件のあとバタビア城から逃れここのバリ人ムスリムと結婚し同化した。ここにはポンティアナクのスルタン皇子Syarif Hamidの墓があり神聖なものとされている。此方のメスジット・アンケの方が歴史的建物として保護されている。写真はアンケの方であるが二つは見分けが付かない。

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2月のニューストピックス

*2006年輸出前年比17.55%増の1,006.9億ドルと1千億ドル台に乗せ。輸入611億
*首都圏の大洪水70%が被災:死者85人、避難者40万人、損害10兆ルピア
*ドル建て国債発行15億ドル。国債依存にIMFが警告、CGI会議もインドネシアが辞退
*シドアルジョ泥噴出:地震による地盤変動にともなう泥火山との見解、セミナーで。
*観光ビザの有効期間を30日から120日に:観光客誘致で副大統領。
*中国6社がジャワの3発電所(2.4MW)開発を受注へ
*西イリアンジャヤ州から西パプア州へ:州議会議長。
*メガ時代の指紋認証機器購入めぐる汚職疑惑でユスリル国家官房長官が撲滅委と対立
*デング熱流行:延べ患者数1.5万人超、死者250人にと保健省発表。レプトスピラ症でも14名

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2007年3月 6日 (火)

ついに見つけたMoh.Mansyur

昨年10月14日ブログでMoh.Mansyurの事跡が判らず市の観光局まで行って空振りとなったこともあり、投げやりにMas. Mansyurと同一人物視してしまったが、昨日何気なく見ていたJP誌の新聞切り抜きにMoh.Mansyurの名前を見つけた。それはコタのPekojan、TamboraのMoh. Masyur通りから入った所(Jl.Sawah Lio)にあるAl Mansur Mosqueの話の中である。このモスクは1717年マタラム王国のスルタン・アグンが派遣したウレマのRaden Muchidにより建てられたとされている。時代は下って独立戦争時代にMuchidから第5代のMochamad Mansyurがこのモスクの長で彼は独立闘争の兵士のためにこのモスクを司令部として使用、屋根に紅白旗を掲げたがオランダ軍の銃撃にあった。この銃痕は今もあるとのことである。Mansyurは又NUのバタビア支部長であったが1967年に亡くなり彼の墓はこのモスクにある。これは現在モスクを預かる彼の孫のFatahillah氏の話である。

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2007年3月 5日 (月)

史跡 メンテン スタディアムの変身

オランダ時代の1921年に作られた由緒あるメンテンスタディアムの取り壊しニュースを昨年8月25日に伝えたが早くもここに施設が出来上がって4月に一般公開するという。タマン・メンテンと言う名前の施設で3.5ヘクタールの土地にガラス張りのピラミッド的建物が二つほどで心臓強化体育地区(Arena senam jantung sehat?)、バスケット場、フットサル、バトミントン(bulu tangkisとはコリャ又)、自転車sepadu roda?、ジョギングトラックなどである。
他に3階建ての駐車場(175台収容)がある。 公共スポーツ施設を取り壊しただけに発表には植林の話もあり、サウォ、フランボヤン、メンテン(メンテンの語源となった木)、その他やし(Palam)類を植えるそうだ。
苦言二つ:役人の言葉はわからない、レバランで閉鎖すべしとする遊興施設でもピンボールや身体リフレッシュクリニックと訳して見た時も悩んだものだ。
この施設には320億の市予算を使ったそうだが、何か錬金術でも見付けた感のあるインドネシアである。

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2007年3月 4日 (日)

パンチャマルガ青年隊(PPM)は今

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ジャティネガラの駅の近くブカシ・チムール・ラヤ通り(No.76)を通るとき左手にめっぽう古い建物が目に入る。1階建ての古代ギリシアの柱を持つ玄関構えを持った建物3棟セットで並んでいる。横の方に字が消えそうな看板があったので写してきた。パンチャマルガ青年隊、東ジャカルタ支部駐屯地とある。その前は国軍0505大隊のものであったと言う。それより前はイギリス軍がバタビアを攻略したときダーンデルス総督軍の司令部だったという説もあり、或いはこの地Meester Cornelisのパンダ出身の知事のものであったとも言われる。確かジャティネガラはバンダ出身のCornelisの所有地だったと言うことでオランダ時代はその人の名前が付けられていた。現在所有権が大隊のものかパンチャマルガのものか不明で市も手が出せないようだ。パンチャマルガ青年隊と言うのはパンチャシラ青年隊と同じような元スハルトの私兵隊だったようで反政府デモを抑える役目を持っており、今ではレバランなどの警防団の仕事を受け持つ自発的団体のようである。
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建物自体が何か使われているかと言うとそうでなく、壁は崩れ屋根は雨漏りもしているところがあり、ホームレスが2人ほど眠っていた。

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2007年3月 3日 (土)

何故か平城と姉妹都市

スティヨソ知事が北鮮のピョンヤンと姉妹都市としての覚書に署名した。相手は北朝鮮の特命全権大使というから相手は市ではない。貿易と繊維協定が目的であるがスティヨソはピョンヤンの交通システムを学びたいと言う。時々わからないことをするのがインドネシアだ。
ステイヨソ氏も姉妹都市がお好きらしく彼の時代にバンコク、マニラは良いがモスコーも中にはオフイシアルになったのかわからないがタナーバンの繊維の組合に押されてかMabuto (Mozambik)や南アフリカの州の名前も出ている。
ジャカルタポストにはこれで11都市として下記の名前が挙がっている。
ソウル、ロスアンジェルス、モスコー、東京、北京、ベルリン、イスタンブル、パリ、ロッテ、豪NSW州である。バンコクとマニラの名前はない。DKIの公式ウエブにも姉妹都市の頁はない。どうもインドネシアは合計が出来ない国である。境界がいつもぼんやりしている。
北朝鮮とは容共的スカルノ時代に親密になって以来の事らしいが、7ケ国会議にも参加したいはずである。スハルト時代はG-9になりたがっていた。
それより独立戦争のときバックアップしたインドと姉妹都市を結ぶべきだとおもうが。。
どうもインドネシアは中庸ぶって反抗心をみせるところが好きになれない所である。

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2007年3月 2日 (金)

Passar Baroeのマタハリ

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Pasar Baruパッサールバルーと言っても今時は中々行くこともないが、80年代は横にゴルフショップが密集してたところもあり、さらに昔のショッピングを偲ぶこともあった。その昔の写真は1940年ごろのがあるが当時は道幅も広く、当時の上流階級の買い物客で高級車が両側に駐車、行きかいしている写真である。あれから両側の店が張り出したのか道は小さくなって、現在は巻き返しにプラスチックの安物屋根でカバーされている。この一帯は200年の歴史があるというが、ラパンガンバンテンの通りからクスニアンを通って真っ直ぐ来れた地の利を得て中国人やインド人が自然と集まったパッサールのようである。ここで現在にも生きる最大の成功者はMatahariである。1950年代にここにDe Zon( 英語ではThe Sunのオランダ語)と言う小さな店があったそうで、このオーナーがHari Dharmawan氏で彼が現在のMatahariデパート(インドネシアNo.1 で81店舗を数える)の創業者である。
ジャランポスから橋を渡った先の通りは575メーターのアーケードである。橋の左手がこのブログで昨年2月頃訪問したJl.Antaraである。

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2007年3月 1日 (木)

日本の恥部、海外医療費の健保支給に2ケ月も

日本からの出張者が海外で医療費の支払いがあった場合、日本の国民保健でカバーされるが、小生も先般市役所に手続きしに行ったが、給付に2ケ月かかるということで仰天した。受給書類は国民保健の担当が微に入り細に入りチェックされた後であるのでその後誰が何をするというので2ケ月掛かるのであろうか まあインドネシアでは普通その間に書類がどこかに言ってしまうケースなので不安になる。いまどき未だこのような行政手続きが残っているのかと思うと、将に老体化した日本だなあと実感する。その上に担当官氏もどう見ても60歳以上で、英語も請求明細の数字の関連も読めない男で、どうしてこのような人が仕事についているのかとこれまた不思議であった。
海外療養費の請求については市役所で説明書及び書式をもらえるので海外出張の時はこれを持っていけば安心だ。この様式に海外の医療機関から記入してもらわないと受給申請書類にならない。症状にCold と書いたものですら何故か翻訳書が必要だと言うので自分で翻訳し署名捺印し作成した。小生の場合、たけのこ診療所であったが、あそこならば用紙はあり、言えば作ってくれるはず。但し作成費に9万ルピア強掛かるが。。 企業別健保の場合も同じような書類は要るのだと思う。

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