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2007年3月26日 (月)

Pieter Van HoornとJohn van Hoorn総督

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コタのポルトガル教会は1695年に完成した。一方シティホールであった歴史博物館の完成は1710年なのでバタビアの建設から相当遅れているが実際はシティホールは3度目の建てかえられた物である。どちらにもVan Hoornなる名前が出てくるので関連を調べてみる。これは昨年11月23日のブログの続きでもある。

シティホールの中に大きな横に長い木の標識があり、オランダ語で「このシティホールはJohn van Hoorn総督により1707年1月23日に再建に着手、Abraham van Riebeek総督の1710年7月10日に完成した」とある。
一方Simon教会に木製のPlaqueに次のような意味のことが書かれている。
「この教会の最初の定礎は1683年Pieter Van Hoorn青年により置かれ、そしてそれはこの国の政府の命令により教会の司長(Wardens)である市の事務総長John Van Hoorn閣下と市の議会副議長(Alderman)John Lammerts Radder閣下の監督の下、建設された。1695年10月の日曜日にTheodorus Zas 師によって最初の説教がもたれた。云々」

John van Hoornは1653年生まれ、総督になったのは1704年で1709年まで勤め2年後亡くなっている。建設の命令を下したのは彼の一つ前の総督Willem van Outhoorn(1691年から1704年まで総督)であろう。Hon.Govermentとだけで何故名前が記載されなかったのか不思議である。またPieterの前にthe youthと冠されているが子息Johnのそのときの年齢32歳(1683-1651)から考えておかしい。Pieterの墓はプラサスティ記念墓地公園にあり1619年生まれ1682没と記されており彼は商人として成功を収めた一人であるのでPieterの青年男女(子供若しくは会社等のメンバー)と訳すべきであろうか。或いは父親のPieterはその後にJanseと入っているので別の息子であったかも知れない。尚Pieter Janseの墓は家族とプラサスティにあるがJohnは本国に戻ったようである。

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