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2007年4月の投稿

2007年4月30日 (月)

Sultan Iskandar Muda通りは大動脈

最近建ったパクブオノ・レジデンスのあるパクブオノ通りからクバヨランラマに抜けようとする陸橋の下をポンドクインダーに向けて北から流れる通りをSultan Iskandar Muda通りと言うが、運ちゃんなどこの名前を言うことは無くアルテリと言ったようだ。つまりJalan Arteri Pndok-Indahと言うようだ。Arteriと言うのは英語のArterialつまり動脈と言う意味で、それを言うならThamrin-Sudirmanが最大の大動脈かもしれない。この名前はアチェ王国の全盛時代を築いたアチェ王の名前で、イスカンダールと言うのはアレキサンダーのアラビア読みで、ムダは若いであるから若きイスラムのアレキサンダー王と言う意味となる。1593年生まれで1636年没であるので43歳でなくなっているので若いというのは正しい。 ムキムを貴族層(ウレバーラン)に封土する支配体制で最大版図を作り上げた。 アチェ王国は15世紀にアチェ族が創建した王国でイスカンダールムダはその12代。イスラムの貿易拠点であったマラッカがカトリックのポルトガルに占領されたあとアチェはそれに代わるイスラムの貿易港として胡椒貿易で繁栄した。胡椒はマレーの北部も生産地であり、アチェは16世紀から数度に渉りジョホールとマラッカを攻撃している。
イスカンダールムダの時代もジョホール王を捕らえマレーの北部を占領し、マラッカを攻撃したがマラッカには大敗を喫している。

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2007年4月29日 (日)

落ちぶれたPasar Senenの今と未来

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3月25日のブログでパッサール・スネンを書いたが確かにこのPasar Senenは古い歴史で272年前の、1735年にこの土地のオーナーであったJustinus Cornellis Vinckeがウエルトフレーデン宮殿(場所は現在の陸軍病院)の近くに月曜だけ開く市場をオープンした。当時この市場はVincke Passer.とも呼ばれた。彼はタナバンにも市場を開いており、両者を結ぶ道を建設した。それが今アルヤドゥタ・ホテル前のPrapatan通りでタナバンにはこの通りはクブンシリー通りを通ることになる。
1900年代初めには軍や役所の中心であったが独立後は地方からの移住者が増え、1960年代、市はパッサールスネンビルやバスターミナルを建設した。1987年から92年にかけてはホテル、ショッピングモール、事務所、ルコを持つモダーンなスネン・アトリウムが建設され、第一ホテル、ヤオハンやマーク&スペンサーが入居したが1998年の金融危機後はインフォーマル部門が集まり徐々に魅力を失っていき、会社本部崩壊が原因ながらヤオハン等の撤退を見た。パッサールスネンビルが出来た後1996年と2003年には火災を起こしており活動は停滞した。 インフォーマルな商業或いは屋台商売( PKL:pedagang kaki lima )が繁茂し経済価値は一挙に落ちた。. 市は再生の目標をCBD(Central Business District)に置き 2006年にデザインを公募しMaryanti Kusuma Asmara が “Life in Tomorrow Senen”. として入賞した。このプロジェクトはPD Pasar Jaya、PT Pembangunan Jaya、PT KA及び運輸通信省によりチームを結成し進めているが資金は市の予算もあるが投資家を募っている。

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2007年4月28日 (土)

スターウッド、ジャカルタに新ホテル St.Regis

世界最大級のホテルチェーンのStarwoodがDuta Anggada Realty Tbkとジャカルタ・スディルマン通りにホテル&レジデンスを建設する。2011年にオープンのこのコンプレックスは175客室と284戸の住宅を持つ2つのタワーである。Starwood はシェラトンなど9つのブランド(フォーポイント、セントレジス、ラグジュアリーコレクション、ル・メリディアン、ウェスティン、アロフト、エレメント)をもつグループで世界で95ケ国850のホテルと145,000人の従業員を抱え、日本でもシェラトン都、シェラトンベイなど多くのホテルを持つ。ホテル側の力強い言葉をお伝えする。
「ジャカルタの中心の戦略的ローケーションとセントレジス・ブランドの他を許さぬお誂えのサービスで世界で最も違いの解かる旅行者に素晴らしく魅力的な選択を与える。それはジャカルタの急増する観光客と多国籍企業の需要を手助けしこの街の金融街にブームを齎すであろう。」

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2007年4月27日 (金)

Otto Iskandar DinataはOTISTA通り 

チャワンの一寸手前で北のジャテイネガラ、カンプン・ムラユのバスターミナルから下ってハルヨノ通りにぶつかるまでの通りは通称OTISTA通りである。正しくは国民英雄のOtto Iskandar Dinataの略称である。彼は1897年バンドン生まれで、師範学校卒、プカロンガンでブディウトモに参加、オランダ批判はその頃からでオランダは彼をジャカルタのムハマディアに移動させた。 師範学校時代は禁止されていたダウエスデッカーのドゥエクスプレス新聞をよく読んでいた。1928年にはPagoejoeban Pasoendanと言う教師組織の長となり51の学校を設立したがその中に今日のPasundan Univ.がある。
1930年パスンダン同志会代表として国民参議会の議員となる。参議会ではThamrinの国民派に属し1939年GAPIに統合し活動を続ける一方Warta Harian Cahayaを発刊した。独立の直前はインドネシア政治連合協議会(PPKI)に参加し、1945年憲法案を草稿した。独立後国務大臣に就任するも45年12月死去、政府は1973年に国民英雄に叙した。
子供12人おり、子供達に“Indonesia Merdeka!”や Ibu Kandung(実の母)よりIbu Pertiwi(祖国)に尽くすことを教えた。長男はPETAに入隊させた。ニックネームはSi Jalak Harupat(困難に勇気を示す)で、独立宣言後の国務大臣としてPETAとKNIL及びHeihoを人民保安団BKRを創設、Raskar Rayatと言う多くの青年団も参加させた。又日本側から武器の譲渡交渉に当った。馬渕少将との武器引渡し合意も実際は進まず、青年団からは日本の協力者とのレッテルも貼られていたが、1945年10月日本側のBKR本部攻撃事件のあと、彼はバンドンからジャカルタに来るよう電話があり、その後12月行方不明となりタンゲランの浜で死体となって発見された。Laskar Hitam"の仕業であったようだ。

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2007年4月26日 (木)

南マルク共和国(RMS)独立運動と超人サイト 

4月24日のブログに偶々モルッカ諸島の小史を書いてみたが、25日のニュースで又アンボンで爆弾事件が起こったニュースを読んで愕然とした。この爆弾では6人が負傷した程度であったが、専門家は直ぐこれは南マルク共和国(RMS)の分離運動と関連した事件だと断定していたが、よくよく読むと将にブログの24日は1950年4月24日にRMS独立宣言を行った日であった。
この4月より前には3月にも14人の負傷者がでたニュースもあり、少し歴史を遡ると2004年にも独立派と反独立派、クリスチアンとムスリムの対立の銃撃戦があり最大は1999年から2002年に掛けた武力抗争では1万人の死者を出す大抗争があったことが判った。
当然小生はこの時期ジャカルタに滞在していたが、3年間に渉り延々と続くこの事件には性懲りもない宗教がらみの住民対立程度の関心しかなかった。又当時イスラム導師を狙う連続殺人黒装束団のニュースも続いていたと思う。これもどうだったのかいつか整理したいが、マルクの1万人死亡のリポートを見て1万人はいかにも多いと過去のニュースメモから検証してみようと1年間分を書き続けたがなるほど毎月何十人単位での事件が続いていたがどうも3年で1,000人内外しかでない見込みで途中でやめて日本語で「アンボン 爆弾」でGoogleしたところ 早崎隆志氏のサイト「1999年アンボン騒乱レポート」に遭遇し又びっくり、小生がアンボン・爆弾ニュースを拾って纏めようとしたそのレポートが既に成っていたのだ。更に氏のサイトを見ると「超人」という名前で世界史から音楽、天体、地球と将に宇宙規模の情報サイトが作られていた。hppp://www.tcat.ne.jp/~eden/ リンクを張りたいが未だどうしたら張れるか知らない。
それにしても何故スハルト時代に死んでいたRMSが1999年、2004年から又2007年にも復活するのか、分離したメリットはないと思われるがもっと別の意味があるのではないだろうか。全てのインドネシアのテロは1999年からのここアンボンとスラウエシのポソが源のように感じる。

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2007年4月25日 (水)

第三次ジャワ継承戦争とマタラムの分割

4月6日のVan Imhoff総督の言葉が引き金になった第三次ジャワ継承戦争はマタラム王の兄弟の確執から王家が3分割された戦争である。
マタラムのススフナン パクブオノIIは弟マンクブーミーと不和であったが1947年イムホフがクラトン訪問時マンクブーミーを叱責し兄に従うよう多くの面前で譴責した為マンクブーミーは席を蹴り兵を募った。 同地では不平を持つ甥のマスサイドも盗賊団として荒らしていたがマンクブーミーと連合しススフナンーVOCに叛旗を翻した。 戦争は一進一退の中パクブオノIIは将来息子を案じたのか王家の領土をVOCに差出し自身は1949年に病死してしまう。処置に困ったVOCはパクブオノIIの息子に領土を返しパクブオノIIIとしたが、このVOC傀儡には王族も反対、戦争はVOCに不利に推移した。その前にマンクブーミーはススフナンを号し即位しており、これはマスサイドに不快感を与え両者が対立を深めていたのに乗じ、1755年VOCは和解を申し出マンクブーミーに領土の半分を差し出しスルタンの称号も許した。すなわちマンクブーミーはジョグジャに王宮を開きハマンクブオノ1世となった。甥のマスサイドは更に不服として抵抗したため1757年VOCはススフナンの一部を割譲、パンゲランマンクヌガラI世としてマンクヌガラ家を分家せしめた。この戦争でマタラム家は3分割され結果として夫々がVOCの権利を認めることとなった。

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2007年4月24日 (火)

モルッカ諸島はマルク諸島

ポルトガルが16世紀始めマレー半島のマラッカを占領し香料貿易の拠点としたその香料はモルッカ諸島にあったわけであるがマラッカとモルッカと名前が似ているので混同していたが、モルッカ諸島はKepulauan Malukuとあり、何のことはない昔マルク州と言われた地域の島々である。英語でMoluccaと訛ったのだろう。
香料はニクヅクと丁子に代表され、スラウエシとニューギニアの間のこのモルッカ諸島が特産地でモルッカ諸島は香料諸島といわれる。丁子は丁香、クローブとも言われCengkehやKretekといえば直ぐ解かる。これはマルク諸島の北の北マルク諸島(テルナテ島、チドレ島、ハルマヘラ島)の特産品である。現在の行政区では北マルク。州都はSofifi、北マルクは旧マルク州から1999年に分離した州で計画上の州都はTidoreのSofifiで実質的にはTernate島のTernateであったが2007年インフラも整い遷都したはずである。ニクズクはアンボンを州都とする中央マルク諸島の特産品である。
マルクは1512年ポルトガルが来航以来、スペインとの争奪戦、1599年にはオランダがやって来てポルトガルを駆逐、イギリスもアンボイナ事件で放逐、一時イギリスにパンダを奪われたこともあるがずっとオランダの占領地であったという歴史からオランダ植民軍の兵士としてオランダ植民地政府に忠誠を尽くすものが多く、インドネシア独立に際しても1950年マルク共和国を樹立し新政府に叛旗を翻した。反乱軍は多くオランダに亡命し、オランダで一時事件を起こしたこともあるがスハルト時代は押えられてきた。スハルト崩壊の1998年以来、分離派が絡むテロ事件が続いている。

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2007年4月23日 (月)

Condetのブタウイ料理 

Condetはブタウイの故郷である。ブタウイ料理をたずねたリポートからを触りを紹介する。
チョンデットはKramat Jati地区の近くにあり昔へび皮模様の果物Salakが育つ地域であったが昔の名残は殆ど無くなっている。ブタウイ文化公園もあるがチャーミングなブタウイ・スタイルの住宅も今はなくオリジナル・ブタウイ人も殆ど転出している。ベタウイのこのチョンデットにくればSalakで作ったアシナン(甘塩すっぱい漬物)やお皿を真っ黒いろに染めてしまうブラック・ナッツのKluwakで味付けされたSayur Asemをよく買ったものだ。
又Sangra(Sangre)と言う料理は若い人達にも人気である。ブタウイ人は朝11時と夕方7時の 1日2食主義で朝食にはSangraを食した。 Sangraとはオイルなしの焼き飯である。2食の間食にはtondanganとかのスナックやKekebaと言う7つの果物(メインはdelima (pomegranate)柘榴)のサラダを食した。
甘いスナックではKue-pepekがある。これはメリケン粉で甘く蒸したものでチョンデット・オリジンではないがここで有名になったものである。
又海から相当は離れてはいるがブタウイ人は海の魚料理を好む。一つはpindang serani Marundaと呼ばれSeraniはChristianの意味がある。小骨が多いBandeng(milkfish)が使われている。
Marundaはジャカルタの北のポルトガル人の地区であったので彼らがこのSerani fish Soupを考えたものであろう。 魚のグリルではbawal(flat fish)。最も有名なものは牛肉料理のtangkar、や豊富な茄子を使ったsemur terun(Fried eggplants with creamy soy sauc)である。
と言うことだそうで何かの機会に食べてみよう。

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クニンガンを囲む新ホテル群

クニンガン地区のTaman Rasunaアパートを持ち上げたのでここの現在の地理的状況をホテルで示すと、まずRasuna Said通りは北の端をThe Regent Hotelがあり南端にGran Melia Hotelが構えている。この道を横に跨る道がLe Meridian Hotelから来る道がサトリア通りでここはシンガポールのオーチャードロードを目指しており、JW.Marriott Hotelやその前にThe Ritz Carlton Hotelが聳え立ち最近又Rasuna Saidに抜ける直前にManhattan Hotelが開業した。サトリア通りの先がカサブランカ通りとなりプリ・カサブランカ・アパートの横にThe Park Lane Hotel、それがテベットのサハルジョ通りとぶつかる先にHarris Hotelも出来た。そう言えばタマン・ラスナ・アパートのコンプレックス内にもHotelがあった。Aston Rasuna Hotelでこれはバクリーが開発した17棟のアパートの2棟をホテルに衣替えしたものだ。これらホテルなら小生にとっては送り迎えも好都合である。

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2007年4月21日 (土)

Rasuna Saidは国家英雄の飛翔の土地

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アパートメン タマンラスナはRasuna Said通りにある。この通りは3 in 1が免れており、バスウエー、モノレール、ウオーターウエーに囲まれたラスナ・エピセントラムは近い将来ジャカルタ随一のビジネス・レジデンス・ショッピング・コンプレックスになる。
Rasuna Saidと言う名前がインドネシアの国家英雄の名前でそれも女性であることを知ったのは最近のことである。
彼女は西スマトラ出身の婦人教育運動家で、以下のような経歴の持ち主だが、この地区・この通
りとはどんな関係があったのだろうか。
イスラム系学舎に学び、1930年にインドネシア ムスリミン党の前身PMIに参加しオランダ批判の演説を重ねた為、逮捕されスマラン拘禁される。後にパダンで学校を創立、婦人雑誌を指導。独立後はDPR議員から1959年にはDPA委員となる。74年国民英雄(Pahlawan Nasional)に叙せられる。
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ラスナサイドの裏手の川岸はまだこんな状態である。(写真テスト中)

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2007年4月20日 (金)

ジャカルタ・アパートビジネスは儲かる

ジャカルタポストによると不動産仲介業の雄プロコンインダー社のリポートの引用であるがジャカルタはまだまだアパートの需要は伸びる一方であるが供給に制約があるのでアパート事業はバイアブルな投資案件だとしている。街には工事中のアパート・コンドミが林立しており其れほど希望の沸く事業には見えないが、話は一寸変わるが、昨日日本の知り合いがジャカルタ・ロングステーの下宿を探しておられたのでThe Residen 71とParama Guest Houseを紹介したが、休暇を兼ねたジャカルタ旅行が増えてくる燭光を感じる話であった。ジャカルタの知り合いが今後大中心地のひとつとなるラスナサイドのアパートを売りにだしているが、Rp570百万(7百万円)程度で良い投資物件である。

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2007年4月18日 (水)

日本は何故インドネシアに無頓着

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4月15日、日曜日にJALで戻ってきたが気の毒になるほど搭乗客はすくない。主翼より後ろのコンパートメントは横9列、縦12列の座席が並んでいるので108人程度の座席数になるがここに
小生含め7.5人の乗客しか居ない。0.5人は幼児である。往きも帰りもそうである。2月のときもそうである。写真は2月のときでこのときは乗客9人であった。いくら空いていても小生一人でカバーできるのは座席3つが最大であり、酒類もビールと梅酒とワインとブラディ・マリーが最大である。 スチュワーデス 添乗員?は専属となる。内半数はタイガールであるが、できればインドネシアガールを雇って欲しいと昔文句を付けたが、この日本人の国際性不感症は目も当てられない。NHKの世界の各地の天気情報案内を見るとバンコク、シンガポール、クアラルンプルの天気予報はあってもジャカルタの天気予報はない。バリすら名前がない。日本にとって大きな友邦国であるインドネシアを馬鹿にするのも程々にして欲しいものである。日本航空とか日本放送教会とかエセ公務員だけの性癖かと思っていたら、読んでいた新聞の「世界の天気」欄もそうであったのにびっくり・ガックリ。天気など読めない・気にしないインドネシア側の事情が原因かも知れないが、それにしても。。。

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チリウン川のエコツーリズムへ本腰

ジャカルタ政府はチリウン川の水質向上に力を入れ始めた。東ジャワのクラパ・ドゥアから南ジャカルタのプジャテンへのチリウン上流の川岸へのエコツーリズムを展開する為である。
このプロジェクトにはインドネシア大学やTrisakti大学、それにPesanggarahan川をクリーン・エコ・ツーリスム地区に変えたChaeruddin氏も参加する。
マンガライとカレットの間のウオターウェーのためにも必須のプルジェクトである。この4.2km waterway のパイロットプロジェクトは6月にも開始すべく既に3っつの駅(ポート)を設置している。
チリウン川の汚染度はレベル4でチリウン川117kmの川岸に不法に居住する住民のごみ放棄が主な原因で大統領もチリウン川水質管理令に署名予定であり、バンテン州、西ジャワ州と共同でチリウン・チサダネ・チタルム川の再生計画に合意している。大分本気になってきたことに驚く。

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2007年4月17日 (火)

Abdul Syafi’ieと学生街 

前日のサトリア通りのカサブランカの先のアブドゥラシャフィー通りのAbdul Syafi’ieは、1910年ベタウイのカンプンバリ生まれ、ベタウイのカリスマ的ウラマの一人である。モスクの説教壇で神にインドネシア民族の研鑽の勝利を祈願して、又1967年に設立されたムスリムのラジオ局からジャカルタの人々が待ち望む彼の声がいつも流れた。1973年には他のキアイと共にウラマ協議会を設立。 時のジャカルタ市長の賭博やP4、或いは埋葬に関する政策に対し人民の声を代表して批判、討議した。アリサディキン市長もAs-Syafi'iyah学校やAl-Barkahモスクのリノベーションには彼の助言に従ったという。ジャティワリンギン地区には彼の名前に由来する多くのプサントレンや大学が作られ今学生の街と言われるようになった。彼はインドネシアウラマ協議会(MUI)の設立の一人で副会長を務めた1985年に没した。

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Jemaah Islamiyah が攻撃隊を組織 

先月の警察の捜査でアルカイーダの系列組織ジェマーイスラミヤの7人のメンバーが逮捕され、この攻撃隊の存在の情報が明らかになった。月曜、インドネシアのテロ撲滅のチーフによるとこの東南アジアのテロネットワークはテロ攻撃隊を組織して警察、裁判、検察を含むターゲットリストを作成したとのことである。
この攻撃隊はインドネシア人及び外国人をターゲットにする100人の隊員を擁している。
反テロチーフのAnsyaad Mbai 少将は「我々は彼らが西側、クリスチアンを彼らの敵としており、彼らはクリスチアン聖職者を狙っていることを知っている」と語った。

インドネシアのテロ対策警察はそこそこ逮捕に漕ぎ着けているが、裁判ではお印的な刑で、その後恩赦で又野に放って根絶が出来ていない気がする。インドネシアではテロは麻薬よりは許しやすいようだ。歯がゆい話だ。

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2007年4月16日 (月)

サトリア通り

アンバサダー・モールは開店当時はガラ空きで隣に又安物のWTCが立ってからは安物衣料などを求める人で前のSatrio通りは毎日渋滞が激しい。この道が東に二つのカサブランカ アパートがあるカサブランカ通りに繋がり更にサハルジョ通りを越えてからAbdul Syafi’ie通りとなりテベットまで伸びる。Satrio通りの名前はアミールシャリフディン内閣以来、保健行政に携わりスカルノ大統領の全盛時代から崩壊にかけて保健大臣を6期務めたたProf. Dr. Satrio(1916年~1986年)である。同じ名前でSatrio Billy Joedonoがいるが彼はスハルト時代に商業大臣で、メガワティ時代は会計検査院(BPK)の長を務めたが未だ健在である。

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2007年4月15日 (日)

メンテンの花の家 

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昔も通りすがりに写真を撮ったことがある綺麗な家がコンパス誌に最近紹介されていた。この家はメンテンのチック・ディ・ティロ通りNo.62 でラトゥハルハリ通りからデポネゴロ通りに向かう道で丁度家の前に信号がある。信号が要るほど交通が混雑しているわけではない。交差する道はKi.Mangunsarkoroと言う道で殆どの人は聞いたこともないくらい静かな道である。
赤信号に止められてもこの家とその庭を眺めていれば心が和む。この家は75年ぐらい経つようでメンテン地区が開発され、メンテンの南に位置するこの地区も1930年代に開発された当時はオランダ人が住む地区であった。この住人は1958年以来住んでいて一切リノベーションは行う必要がないくらい丈夫で従い当時のままの本物である。白い壁にぐるりと取り付けられた窓、窓の上部に空気取りの穴が取り付けられている。庭には色とりどりの花が咲き乱れている。
近くからでは写真に全景が取り難いので容赦願いたい。
1958年といえばオランダ人が完全に撤退した年であり、これらオランダ人が住んでいた家は誰でも住むことが出来たそうであるが、政府にかなり高額はらったそうである。土地800m2、家250m2で現在の固定資産税はRp14百万というからこれも高い。オランダから接収した企業や不動産は政府がスハルトの時代にいくらか還付したはずであるが、多分政府が儲かったのであろう。

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2007年4月14日 (土)

ストモ ストヨ スポモ ストポ 

こんなに似ている名前があるとはこんがらがって来る。これらの名前は道路の名前になっており又全部英雄とくるから更に驚く。ストモについては又二人おり一人はブディウトモを創設した人であり、あと一人はブントモと愛称されスラバヤに上陸したイギリス軍と独立か死かと呼号して戦った人である。これらは昨年の11月10日~13日のブログで紹介している。ストヨ氏は9月30日事件で犠牲になった人でこの人の名前はチャワンで南のチリリタンから北に上りパンジャイタン通りにつながる線に付けられている。
Mayjen. Anumerta Sutoyo Siswomiharjo
1922年中部ジャワ生まれ。HIS、MULO、日本占領時代の公務員教育、軍事コースで訓練
を受けた。TKRに入隊、46年はガトット将軍の副官、56年頃はイギリス駐在武官、61年
に陸軍法務検察官、共産党の農民第5軍計画に反対、同じくG30S/PKIの犠牲者となった。

スポモ氏の名前はパンチョランの通称7UPの大彫像のサークルに北側から出てくる道に付けられている。
Prof.Supomo, SH(1903年~1958年)
スラカルタ生まれ、法学校卒業後ライデン大学留学、インドネシア大学から教授称号を得、1951年同学長となる。1945年憲法草稿に参加、その他多くの著述がある。日本占領時代はインドネシア政治連合協議会のメンバー、独立後は法務大臣や英国大使を務めた。1965年独立防衛英雄(Pahlawan Pembela Kemerdekaan)となる。

Sutopo中将についてはまだ調べが終わってない。
Sutomo Dr. 民族運動英雄  11月13日 ブデイウトモ
Sutomo Kol. Buntomo 英雄11月10日 スラバヤ英雄の日
Supomo Dr. 独立英雄 憲法草案
Sutoyo Mayjen.革命英雄 9月30日事件
Sutopo Letjen:人物不詳

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2007年4月13日 (金)

キャイ・タパとバンテンの陥落

ガジャマダ通りを地図上で少し南になぞるとカルフールの横に出てくる道路がある。これはKH. Hasyim Asyhari通りである。この通りを西に取るとKH Tapa通りと名前を変えタンゲランまで続く長いダーンモゴット通りに繋がっている。このハシム・アシュハーリは1月5日のブログに登場させた通り、グスドゥル元大統領の祖父である。 キヤイ・タパと言う人は中々掴めないがある本に次のような事跡が出ていた。
バンタンは1733年以降サルタン・ザイヌル・アリフインの治める所となっていたが彼は夫人の一人アラビア出身のファチマの言うがままで彼女はサルタンの後継者に己の娘むこを立て、総督ファン・イムホフにこれを認めさせた。1748年サルタンが狂気の兆候を現すに及んでファチマは摂政となりサルタンをアンボイナに送りサルタンはその地で死亡した。バンタンの住民はサルタンと血縁のない新王とそれと結ぶVOCに対し、キヤイ・タパとラトゥーバグスの指揮下、猛烈な反逆戦を展開した。総督イムホフが死んで後任のモッセル新総督は方針を改めファチマ一派を追放し旧サルタンを迎えいれVOCの臣下とする条約を結んだ。しかしこの改易も叛徒の反乱を抑えることは出来ずキヤイ・タパ軍団はバタビアに侵入し略奪破壊を行い戦いを継続した。
VOCは苦戦の末、逆退し叛徒はマタランに逃走した。この後1753年新サルタンはVOCとの条約を守り、バンタンとランポンの地がVOCの支配となった。バンタンはダーンデルス総督のときも過酷な人夫使役に反乱、最終的にバンタンが消えるのはラッフルズの時1813年である。
このキアイタパとは関係ないが、南太平洋一帯でタパ クロスとして知られる樹皮を使った絵画などが有名である。

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2007年4月12日 (木)

Gedung Kesenian ジャカルタ芸術劇場

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パッサールバルー側から全貌が綺麗なオランダ時代の劇場がGedung Kesenian Jakarta(GKJ)、ジャカルタ芸術劇場である。外観の雄大さに比べると内部は割りと小さい。ロビーや回廊に面積を割いているからだろう。1821年建設で、近くのダーンデルス宮殿も完成していた時代、イギリスとの戦争にも勝利し、オランダ人が殖民地生活を謳歌し始めた時代であろうか。この地にはイギリス人も小劇場をつくったがオランダ人はバンブー劇場とけなした。オランダ人はヨーロッパの文化が恋しくヨーロッパからの芸術家を招いていた。昔はSchouwburgとか Comedie Gebouwとも呼ばれていたという。日本占領時には兵舎などに使われたこともあるそうだが、日本軍はインドネシア人にも解放し、インドネシア人の芸術家の発祥の一つにもなったと評価されている。
独立宣言の後、最初のインドネシア中央国民委員会(KNIP)の会議が行われた。 ここではいつも何かオペラやワヤンや踊り、コンサートをやっており、個人ベースでも借りれるくらいの値段であるそうだ。
Gedung Kesenian Jakarta
Jl. Gedung Kesenian No. 1, Jakarta 10710 - Indonesia
Phone: (62-21) 3808283, 3441892. Fax (62-21) 3810924.

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2007年4月11日 (水)

デング熱の予防法

毎年雨季にデング熱病がはやる。今年は1月から3ケ月だけでジャカルタだけで42人の死者がでており、昨年は通年で51人であったというから大変な数字である。 2004年は症例では20,640人で90人が死亡している。3月がピークを迎えるがこの3月だけの症例は4,423人、昨年の3月は2,249人である。1998年には133人が死んだメモがあった。
洪水で見たように雨水の流れが悪くなっており、ヒトスジ縞蚊が発生しやすくなっているのであろう。アパートでは2回ほど燻蒸消毒を実施したが、予防薬もないため刺されないようにするしかない。感染すれば38度以上の熱が5日ほど続き、頭痛、筋肉痛に襲われる。
効果は知らないが蚊が嫌がるZodiaと言う植物があり会社にまで売りに来ていた。臭いので嫌がる人もいる。

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2007年4月10日 (火)

3月度投資環境関連ニュース

*引き続き運輸関係事故や災害続く 7日ガルーダ着陸失敗21人、23日ジャカルタ沖フェリー火災50人、6日西スマトラパダン地震73人、3日東ヌサテンガラ地すべり74人
*新投資法ようやく国会可決。日イEPA締結へ加速。
*大統領が‘夢’:2030年までに、世界5位以内の経済大国に、1人当たり所得1.8万ドル
*首都のモノレール建設、中央政府の保証供与で4月に再開:州知事。
*今年のコメ輸入量180万トン見通し。世界第2位のコメ輸入国に転落か:FAOレポート。
*今年の完全失業者数100万人増、1,180万人に:労相見通し。
*鳥フル:検体のWHOへの提供再開。検体の提供は不公平と主張していた。死者は71人に。
*ジャカルタと平壌が姉妹都市関係で合意

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2007年4月 9日 (月)

ボゴール、チパナス、タンパクシリン、グドゥンアグン宮殿

1745年に総督ファン・イムホフが建設したというボゴール宮殿(Istana Kepresidenan Bogor)は当初ファインイムホフの個人的別荘であったが1808年ダーンデルス時代に植民政府が買い取り総督府とした。植物園と隣接しており29ヘクタールの広大さを誇る。この中に591頭の鹿が放し飼いにされており、346種の木々が植樹されている。又37棟の建築物があり、メーンの建物はGedung Indukでガルーダの間とロータスの間の国賓応接の間あるいは大統領執務室、家族の食堂・寝室がある。又その左翼と右翼に2部屋ずつの棟が繋がっている。又庭には「Si Denok」や「The Hand of God」と言う彫像が置かれている。
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チパナス大統領宮殿はジャカルタから103kmはなれたチパナス(プンチャク越えのバンドン街道沿いにある。グデ山の麓、海抜1,100メートルに位置するこの宮殿も広く26ヘクタールで宮殿は7,760m2の大きさである。
ここは大統領の休養地として作られたもので庭は宮殿公園と宮殿森林の二つからなり宮殿神殿はチボダス公園とインドネシア科学技術院との協力で運営されている。本館の客間には1958年に製作されたSoejono D.Sの「カリウーランへの道」と言う絵が掲げられている。この絵は何処からでも眺めることが出来「千の眺めの道」とも言われている。
バリのタンパクシリン大統領宮殿は19ヘクタールに5つの建物と一つのペンドポ様式のホール棟がある。スカルノが大統領時代に建設された。2003年にはアセアン +3会議の晩餐会がここで行われた。
他に大統領宮殿としてジョグジャカルタにIstana Gedung Agung がある。これもオランダ時代のものである。
尚副大統領宮殿はアメリカ大使館の横にあるがチパナスなどは副大統領も休養地として利用できる。

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2007年4月 7日 (土)

大統領宮殿Istana Merdeka-Negara

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インドネシアの大統領宮殿はいつもモナス側から見るのであれだと思ってしまうが実は二つの宮殿からなっている。モナス側に見られるのがIstana Merdeka(ムルデカ宮殿)と言われるものでこの裏側、チリウン運河沿いのベテラン通りに面しているのがIstana Negaraである。この二つの間にはサッカー場半分ぐらいの中庭でつながっている。この大統領宮殿のコンプレックスの中には他にKantor Presiden大統領事務所、Wisma Negara、Masjid Baiturrahim(モスク)、Museum Istana Kepresidenan.(博物館)がある。
イスタナ・ムルデカでは毎年8月17日の独立記念日には来賓を招待して記念行事を行い、或いは前庭で閲兵式を行い国賓を迎える場所でもある。最初の部屋では外国の新大使赴任時の信奉書を受け取り、外国との協力協定などの条約を署名する場所である。
他にジュパラの彫像品で装飾されたジェパラ・ルームとラデン・サレーの絵画が5点飾られているラーデン・サレーの間がある。一番大きな部屋にはBasoeki Abdoellahの2点の絵画がある。この部屋の東側の壁にかかっている絵はマハーバラタからモチーフを取った"Pergiwa Pergiwati"で、西側はジャワ民衆伝説からの"Jaka Tarub" となずけられた絵である。
一番奥の部屋には国旗の遺産の間で独立宣言の日に掲揚された国旗とその複製が保存されており、この複製が毎年記念日に正面の17メートルの鉄柱に掲揚される。
この大統領宮殿が共和国大統領の居住する公式の場所である。イスタナネガラ(State Palace)はオランダ総督が1886年にJ.A. van Braamの邸宅を購入したもので、ムルデカパラスは1873年に新築された。大統領の別荘宮殿としてはボゴールとバリのタンパクシリンにもある。

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2007年4月 6日 (金)

男爵ファン・イムホフ総督の墓

3代目総督の墓はワヤン博物館の中にあると昨12月29日に書いたがその写真を撮った背中側にもいくつか墓があり、その一つに第27代ファン・イムホフ男爵(Gustaaf Willem baron van Imhoff 1743年~1750年総督)の墓がある。彼はボゴール(ボイテンゾルフ 無憂荘)を建設したり、チアテル辺りにオランダ人の農園入植を奨励したが度量のない男に見える。
1740年はバタビアは中国人虐殺で血塗られたが、当時参事会の有力議員のイムホフと総督のファルケニールとは以前から確執があり、どちらも責任を取るべき行為があった。ファルケニールはイムホフを本国送還したがイムホフは本国で賢く動き逆にファルケニールに責任を負わせ総督になって戻ってきたイムホフは本帰国中のファルケニールを逮捕しバタビアの獄に繋いだ。1750年イムホフの死をいい気味だと見ていただろうファルケニールも翌年没した。
ファン・イムホフは又マタラムの王家の仲違いにくちばしを入れ、マンクブーミを公衆の面前で譴責した為侮辱を受けたマンクブーミはその夜の内にパクブオノIIに叛旗を翻した。バンテン王国の内紛にも介入し、共に彼の死後、第三次ジャワ継承戦争とバンテンの反乱となって後任総督を苦しめる結果となった。

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その後のメンテンサッカー場

Taman_menten
その昔ジャカルタのサッカープロチーム、プルシージャのホームグラウンドであったメンテンサッカー場が取り壊されたニュースはこのプログでも取り上げたが知事が何に変えようとしたか今、判ってきた。取り壊し反対のデモが起こっていたのは昨年の8月、全貌を伝えたのは3月5日であるが4月に一般公開と耳に挟んだので行って見たが、外観は99%出来上がっているものの体育設備などが遅れているようで4月20日の週にずれ込むみたいである。Taman_menten_park

一応中には入れたので写真に収めたが、写真に取る前にジャガーに断りを入れると駄目だという。
強く抗議したのが効を奏し何とか写真に取ってきた。今時は大概このような許可を求めると先ず断られる。邪魔して金を取る前段階の振る舞いと思われて2千ルピア渡そうとしたがその程度は受け取らないと言う。このジャガーのプライドのなせるところなのだろうか。或いは市の幹部は未だデモを怖れているのだろうか

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2007年4月 3日 (火)

LatumetenやTeluk Gongにもマンションが..

Kali_angke
市の北、ラトゥメテンにLatumeten Cityと言うコンプレックスが建設される。去る3月13日に鉄柱の打ち込みガ始まったので間違いはない。この辺りはグロゴールの北Jembatan Besiで運河が入り組んでいる地区なので直ぐ洪水になるとおもわれるが乱開発で見直さることもなく進んでいる。
シティと言う通りアパートメントの他、住居兼店舗(RUKO)、モール、トレードセンターを建設する5.5ヘクタールの大プロジェクトである。インドネシア語ではkawasan hunian terpadu(多様的居住地区)という。新不動産王のPodomoro Groupの PT Cakrawira Bumimandalaが手がける。アパートは25階3棟、各500戸、kiosの値段で1~3億、RUKOで12億と言う。
この地域は戦略的好立地と書かれていたが、素人にはこの点はわからない。ここより車で10分程度西北にも3,000戸のアパートの計画がある。Teluk Intanと言う名前で場所はTeluk Gong、貧しい中国人と外島人が居り船員相手の商売地見たいであるが、こんなところにも日本で言えばマンションが建ちつつあるのである。

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2007年4月 2日 (月)

スネンの独立闘争記念碑 Tekad Merdeka

Senentekad
パサール・スネン駅の前の一寸した公園に、戦う青年男女の彫像が立っている。
これは1945年独立闘争記念碑で 副題として「独立への堅い決心」とある。この地区の青年男女の集まりで当時 Planit Senenと言う名前のチームが戦う様子を描いている。
横には手書き自体でTuhan jika aku gugur dan kau takdirkan aku hidup kembali sekali lagi Aku akan korbankan jiwaku untuk nusa dan bangsa「神よ、もし自分が倒れたらどうぞ今一度生き返らせてください。自分はこの命をこの国に、この民族に捧げます」と神風も驚くことが書かれているがこれもそのチームの一員が書き残した実話なのであろう。単純に生き返ると書いたが、Takdirとは神の定めに生きる、神の御許で生きるという意味だろう。
反対側にはまた「45年世代はこの民族の歴史において一つの生きた証明を持っている。なぜなら考えを進めると共に独立宣言を発したのだ。」と高らかに吼えているがこの台座では浮浪者が寝そべっており、周りにはスリがうろうろしている。

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Arsipはオランダ時代の総督邸

Apr_shanhai_menten2006_029
ガジャマダ通りを北上している時左手に大きなオランダ時代の建物が目に入る。今日の日曜日、行って見たが道路は空いていて、他の訪問者は一人でだけであった。
ここはオランダ政府の文書館でもあったところからArsip Nasional(国立アーカイブス)と呼ばれている。元は大富豪で総督に迄上り詰めたReyner de Klerk(1710年~1780年)の広大なオランダ風カントリーハウスとして建てられた彼の邸宅であった。建設は1760年。
表にチリウン河と裏のクルクック河の間の土地で現在のドゥタ・メルリンにまで届く広さで使用人の数が150人、馬も100頭いたと言う。
彼の死後妻Sophiaが相続、彼女の後は孫が相続したがその後転売が続き1900年に政庁が購入した後、1925年から政庁のVOC時代からの古文書館とした。インドネシア独立後政府は1974年に新たにチランダクのAmpera通りに国立公文書館を建て、ここにあった文書も移転収容したので
Apr_shanhai_menten2006_026
今はここにはコピー程度が展示しているが小さくて読めないのでイスと虫眼鏡を持っていけば1日暇つぶしが出来る。

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