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2007年4月27日 (金)

Otto Iskandar DinataはOTISTA通り 

チャワンの一寸手前で北のジャテイネガラ、カンプン・ムラユのバスターミナルから下ってハルヨノ通りにぶつかるまでの通りは通称OTISTA通りである。正しくは国民英雄のOtto Iskandar Dinataの略称である。彼は1897年バンドン生まれで、師範学校卒、プカロンガンでブディウトモに参加、オランダ批判はその頃からでオランダは彼をジャカルタのムハマディアに移動させた。 師範学校時代は禁止されていたダウエスデッカーのドゥエクスプレス新聞をよく読んでいた。1928年にはPagoejoeban Pasoendanと言う教師組織の長となり51の学校を設立したがその中に今日のPasundan Univ.がある。
1930年パスンダン同志会代表として国民参議会の議員となる。参議会ではThamrinの国民派に属し1939年GAPIに統合し活動を続ける一方Warta Harian Cahayaを発刊した。独立の直前はインドネシア政治連合協議会(PPKI)に参加し、1945年憲法案を草稿した。独立後国務大臣に就任するも45年12月死去、政府は1973年に国民英雄に叙した。
子供12人おり、子供達に“Indonesia Merdeka!”や Ibu Kandung(実の母)よりIbu Pertiwi(祖国)に尽くすことを教えた。長男はPETAに入隊させた。ニックネームはSi Jalak Harupat(困難に勇気を示す)で、独立宣言後の国務大臣としてPETAとKNIL及びHeihoを人民保安団BKRを創設、Raskar Rayatと言う多くの青年団も参加させた。又日本側から武器の譲渡交渉に当った。馬渕少将との武器引渡し合意も実際は進まず、青年団からは日本の協力者とのレッテルも貼られていたが、1945年10月日本側のBKR本部攻撃事件のあと、彼はバンドンからジャカルタに来るよう電話があり、その後12月行方不明となりタンゲランの浜で死体となって発見された。Laskar Hitam"の仕業であったようだ。

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