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2007年5月の投稿

2007年5月30日 (水)

Suwiryo通りの高い椰子並木

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Bapak Soehartoの私邸から一寸出てきたところにある道路でトゥンク・ウマルのサークルに出てくる高い徳利椰子が並ぶ通りがSuwirryo通りである。彼は国民党の幹部で、国民党は1927年にスカルノ、サルトノ等の青年により結成されたがオランダの弾圧に会い、活動を停止していたが1945年にマングンサルコロ等により再建されたがその中でSuwirujoは委員長ともなり幹部として働いた。1945年初代ジャカルタ市長、1951年スキマン内閣の副首相。1957年、地方反乱でアリサストロアミジョヨ内閣が倒れるとスカルノにより組閣を命ぜられるが不成立か、次のジュアンダ超議会内閣までの1週間の話しであった。

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2007年5月28日 (月)

雑然さは変わらぬパンチョラン

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パンチョランはグロドックの反対側、ガジャマダ通りを北上した左側にある。ガジャマダ通りはここからピントゥ・ブサール・スラタンと言う通りになる。何れも中国人の最たる商業地区である。ジャカルタ動乱のときここにあったCity Hotelと一切合財のパッサールは焼け落ちた。
今は道が広くなった程度の変化しかないが又雑然たる商業地として生きている。20世紀の始めにはここにはカナルとグロドック橋があったそうでここまで舟が商業貨物を運ぶ動脈の一つであった。グロドック橋はPancoranとNieuwpoort Straat(現在のピントゥブサール・スラタン)を結んでいた。パンチョランの名前の由来は昔ここに泉マンチュールがあったことから来ており、Molenvliet運河(現在のチリウン運河)から浄水された水を組む住民の列が出来ていたそうである。Alwi Shahabさんのリポートからの話である。知ったところで何の役にも立たないが、この変わらぬ雑然さがコタの魅力なのだろう。

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2007年5月27日 (日)

Cokroaminotoは民族主義政治家一家

ラスナサイド通りから北に向かうH.O.S. Cokroaminoto通りはオランダ時代はJawawegと言われメンテンが開発された時代からはメンテンを南北に走るメインロードの一つである。ラスナサイドの北端の橋からメンテンの一番賑やかなショッピング街を通り抜けワヒッドハシムまででインドネシアの民族運動の師であるチョクロアミノトの名前が付けられている。彼はHaji Umar Said (H.O.S) Cokroaminotoが正式な名前で1882年、東ジャワ・マディウン生まれで、官吏養成学校を卒業後、イスラム商業同盟に参加、1912年より政治志向のイスラム同盟の会長として終生指導した。演説に優れカリスマ的指導者であった。スカルノの恩師でもある。共産主義を排したイスラム社会主義を標榜し「イスラムと社会主義」を発表した。1918年アブドゥル・ムイスと共に国民参議院でイスラム同盟を代表しオランダに対し国民議会を設置する動議を行った。
イスラム同盟には前述アグス・サリムやスルヨプラノトも参加しオランダ政府に脅威を与える組織に発展した。その後チマメレ事件(農民運動)の嫌疑で拘留され、1934年病床で亡くなった。1961年民族運動英雄として叙せられた。
二人の息子のチョクロアミノト・アンワール(兄)、チョクロアミノと・ハルソノは共に国務省等大臣を歴任、最高諮問会議委員にまでなっている。

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2007年5月26日 (土)

インドネシア大使公邸での手工芸展

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これは9日のブログで案内していたものであるが、昨日行って来たが結構な賑わいを見せていた。
残念ながら踊りの方は午前中で終わりと言うことで、笛と弦楽器の演奏だけであったが、古いよき時代のインドネシアを愛する日本のお年を召された方や妙齢のご婦人が来られて品のある工芸展であった。大使公邸も中々のものでコロニアル風の天井の高い堂々たる建物である。日イ友好50周年(1958~2008)を記念したものであったが、日本の賠償協定(講和条約)は1958年1月20日であるので、多分5月24日は大使館設置か何かのイベントがあったのであろうが、58年の5月はオランダ船舶引き上げ後の緊急輸入として木下商店が契約を取った時でこれ以降不幸な女性3~4人を生むことになる。手工芸展の案内ガールはMy Photoに入れておこう。

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2007年5月25日 (金)

リッポカラワチの7億ドルの大拡張

上場しているリッポカラワチ社は6兆ルピアを投じて拡張プロジェクトを立ち上げる。このプロジェクトは12ヘクタールの土地面積の所に豪華アパートメント3棟、29階建てのAryaduta Regency Hotel、250床のSiloam Hotel、コンヴェンションセンター、及びPelita Harapanグループの私立学校を建てる。資金はシンガポールで昨年発行した不動産投資証券(REIT)だそうだ。エスパルマンからタンゲラン行きの高速は込むがアウターリングを利用して大回りに行けば渋滞は幾分さけられる。まだまだ不動産ブームは続いている。

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2007年5月24日 (木)

Van Heutszの占領政策「簡易誓約書」

Teuku Umar、テウクと読むのかトゥクともトゥンクともいうが、この名前の通りはオランダ時代はVan Heutsz Boulevardファン・フューツ大通りと言われた。又この銅像がタマン・チュット・ムティアにあったというがこの人はアチェ戦争に従軍した参謀少佐であった。オランダの各地の領主を攻めるには要塞を軽便鉄道で繋ぐ戦法が取られたが、この戦費は膨大となり、財政を圧迫していたところ、ファン・フューツが妙案を出しこの後大アチェは平和を回復したという。これは簡易誓約書と言うもので断固たる政策を取る代わりに政庁に降伏すればその領地を安堵するというもので、支配に服す誓約書に署名させた。
この誓約書はロンボク、バリがオランダの支配に落ちた後の1920年代には300通に及んだという。この案は現在にも通じる策であることを暗示する。少佐も少なくとも将軍に昇格したはずで、新たに開発されていたメンテンの大通りに彼の名前が付けられたが、独立後はその敵としたTeuk Umarに直された。すなわちアチェ戦争は結局はアチェの勝利であった。

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2007年5月22日 (火)

Gedung Joang 45独立闘争博物館

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メンテンラヤ通りをアルヤドゥタ・ホテル方面から南に下るとき平屋の小さな古い建物がある。これも博物館でGedung Joang45と言う名前である。
The 1945 Fight For Freedom Museum 独立闘争博物館とも言われ 日本占領時は軍政監部の宣伝班が使用していたそうで、その後日本軍の資金で青年達の政治教育の校舎となり教育を受けた青年たちは全国に巣立って行った。日本はこの施設で日本の大東亜戦争を支援する青年団の教育を目的としていたが、彼らはインドネシアの独立の準備に走ってきた為、1943年はこれを廃止し、Putera人民総力結集運動のジャカルタ支部事務所となり、これも1年で諦め次はジャワ奉公会を立ち上げその事務所となった。独立宣言後はMenteng 31と言われた青年グループの司令本部として使われた。
建物自体は1920年代に当地に長く住んでいたSchomper一族が建て、Hotel Schomperと言う名前のホテルであった。昔行ったことがあるが中に入れなかったので再度訪問し建物内部の報告をしたい。住所電話はJl; Menteng Raya 31 390-9148、 開館は08:00-15:00月祝日が休み、土日はオープンです。

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Harmonieはオランダ時代の社交クラブ

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街をドライブするとハーモニーなる地名の方向標識を見ることがあるがこのハーモニーの確たる地名はない。コタから出てくるハヤムウルック通りがマジャパヒト通りとなり左はジュアンダ通りとヴェテラン通りがあり、右側にはスルヨ・プラノト通りがある。1990年代前後に立ったプラザ・ハルモニ(Rukan)やイスタナ・ハーモニー(アパート)に名前が付けられている程度であるが、ここにアジア随一の社交クラブ“Societiet de Harmonie”があったのである。当時ジャカルタに住んでいたがコタに用事がなかった間の1985年に取り壊されたので見たことがなくやむなく昔の写真を借用する。この大きな建物を見ると半分は現在のMajapahit通り(昔Rijsweijkstraat)の拡張に使われ左半分は国家官房SEKNEGの駐車場になっている。写真で見るとおり手前左から来るベテラン通りやハヤムウルックの方は広々としておりマジャパヒット通りは狭いので1980年代には渋滞に見舞われていたのであろう。この建物は1810年頃ダーンデルス総督の時代にオランダ人の社交の場所として構想され、ダーンデルス宮殿(現財務省)をデザインしたSchultzeにより同じエンパイヤ・スタイルに設計されたが、資金的問題もあり、途中頓挫、次のラッフルズ時代の1814年に完成した。建設請負はAbdul Hamiedと言うプリブミだったと言う。それなら尚のこと保存すべきだったであろうが。。

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2007年5月20日 (日)

5月20日は2度覚醒

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今日5月20日はインドネシアでは民族覚醒の日である。99年前の1908年5月20日、Stovia(医師養成学校)で学生であったストモは学友グナワン等とブディ・ウトモと言う団体を設立その第1回総会が開かれたものである。ブデイウトモはジャワ語で「最高の英知」の意味でインドネシアが最初に目覚めた国民運動の組織である。
9年前の今日の日はスハルト退陣1日前の日であり、民族覚醒記念日に合わせたスハルト大統領辞任を求める大規模集会が計画され、国会議事堂は学生に占拠され2万人にも膨れ上がっていた。国会、国軍、5賢人、Petisi50など多くの指導者が蠢き、その圧力で辞任に追い込まれたもので、めまぐるしいときであった。ジャカルタ滞在者は17日からJAL/ANA他、臨時便やチャーター便等政府救援機で日本に帰国した。自衛隊の救援機もシンガポールまで来ていたはずである。 8割以上が避難したのではないだろうか 家族でそのまま戻ってこなかった方も多く日本人会の登録人数は半減近くになり恢復には相当かかり、終にもとの数を越えることはなかったのではないだろうか。写真はSTOVIA

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2007年5月19日 (土)

ゴンダンディア通りはR.H.Soroso通り 

メンテンのチック・ディティロ通りのその先は昔ゴンダンディア通りと称していたが今はR.H.Soroso通りとなっている。どの辺りで名前が変わるのかは定かでないが、レストランのロロジョグランはチック・ディティロ通りなのでその先の鉄道橋架手前だろうと思う。
R.H.Sorosoは正式にはRaden Pandji Suroso(1894年~1981年)でシドアルジョ生まれ、地方土木局員、新聞編集長を経て1942年人民参議院議員となる。イスラム同盟や大インドネシア党で活躍した。日本占領時代はジャワ奉公会支部長、州長官を歴任し独立準備委員会委員となる。独立後も中部ジャワ州長官、Bakin長官、50年にはナッシール内閣で労相、後55年まで歴代内閣で人事省、社会省、公共事業省を任じる。(以上シマトゥパン「インドネシアの独立の道」左藤正範氏訳より)
1950年人事相として数万の農園労働者のストライキを鎮めたり、労働紛争解決委員会(P-4) を設置した。1962年、地方分権委員会の委員となり、地方自治法の立案に参加。1966年スカルノ末期の国民協議会でスカルノ大統領の責任を追及した終身大統領としての地位を剥奪することとなる。1972年には初めて、インドネシア公務員住宅(188戸)の建設を行った。1986年国民英雄となる。 スハルト時代に英雄となり、道路名にもなったのであろう。

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2007年5月17日 (木)

死亡広告、財閥の場合:大家族のインドネシア語

ある財閥の大叔母の死亡広告があったがこちらの方は、無事埋葬を済まし我々家族親族一同は悼んでいるとし、以下子供から曾孫まで123人の名前が列挙されている。この方は83歳と高齢であったので兄弟や況やその上の方々或いは子供でもなくなった人がいるのではないだろうか。
以下広告にある家族名を言葉の学習として書いてみる。
子供=Anak=Child=2人
子供の配偶者=Menantu=Son/Daughter of Law=2人
養子=Anak Angkat=Child in law=3人
養子の配偶者=Menantu Angkat=2人
内孫=Cucu dalam=Child of one’s Heir=8人
外孫=Cucu luar=Child of daughter=4人
孫の配偶者、養子の子供=Cucu Mantu=6人
兄姉=Kakak=Older sibling、4人 brotherfoodは兄弟、Saudara兄弟姉妹 
弟妹=Adik=Younger brother/sister=3人 Saudariは同じ世代の女性への呼びかけ
甥姪=Keponakan=Nephew/Niece=8人
義理の甥姪=Menantu Keponakan 
配偶者の兄姉(義兄)=Kakak Ipar=3人
配偶者の弟妹(義妹)=Adik Ipar=2人
曾孫=Cicit=Great grand child=18人
甥姪の子供=Cucut Keponakan=25人
甥姪の子供の配偶者Cucut Mantu Keponakan ハトコ(再従兄弟)か。この広告には
従兄弟=Sepupu=Cousin は兄姉は居るのに居ない。
叔伯父母Paman・Om/Tante・bibi=Uncle/Auntは居ない
祖父母=Keket/Nenek=Grandfather/Grandmotherも、姑=Mertua=Mother in lawも当然居ない。

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Cut Nyak DienとTeuk Umar通りは夫婦道

5月8日のブログのトゥック・ウマール通りの北の端の右側に先日紹介したバタビア・芸術センターがあるがその横の鉄道に沿ってこれも先に紹介したチック・ディ・ティロ通りに出るまでの道はチュット・ニャク・ディエン通りと言う。この道の名前の英傑、Cut Nyak Dienは1850年アチェ、Nanta Setiaのウレバーランの娘としてうまれたが、1873年にはNanta Setiaはオランダに占領された。彼女は小さな子供を連れて避難したが、父と夫は1878年Gleの戦いで戦死した。彼女は夫の敵も取る為オランダとの闘争に参加するようになった。1880年彼女は父の従兄弟のTeuk Umarと結婚し父の領地を奪い返したが、その代償は1899年Meulabohでのテウク・ウマールの戦死であった。彼女は引き続き先頭にたち闘争を指導した。年老い50数年、オランダは軍を動かし、彼女は逮捕され、スメダンに幽閉され1908年その血で没した。1964年に独立闘争英雄に叙されている。これは夫よりは速かったが道路名は夫の名前の先っぽの右側の小さな道である。

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2007年5月16日 (水)

スミトロ博士の死亡広告を読む

スミトロ博士はジャカルタ動乱時のコストラッド司令官ブラボウォ中将の尊父である。中将はスハルト大統領の次女を娶っていた。
スミトロ博士はスハルト退陣もほとぼりが冷めた2001年3月になくなっている。インドネシアでは大物の場合埋葬も済むと親族一同で新聞に広告をだす。スミトロ博士の場合は弔問・弔意への子供からのお礼の形を取っており、グスドゥル大統領、メガワテ副大統領、ライス、アクバール、ユドヨノ、スダルモノ、トリストリスノ、バークレーマフイアの5~6人、ウィドドPanglima、エンドリアルトノ参謀長、リャミザードKostrad、Bibitメトロジャヤ、アミヌル・Kopassusなどの名前が見える。約55名ほどの方々の名前を列挙したお礼状である。ハビビの名前はないのは現職だけを書いたのかも知れない。ウイラントもウイドドにバトンを渡しており、名前はないので深読みしても真実は出ないだろう。
スミトロ博士の子息4人の名前で出しており、長女のお婿さんはジワンドノ中銀総裁、長男はPrabowo Subianto Djojohadikusumo 次男はHashim Sujono Djojohadikusumoである。次女も入れた兄弟3人は夫婦子供の名前を入れているが、プラボヲには妻の名前はない。妻はスハルトの次女であったが離婚されている。当時の新聞の切り抜き半ペイジがあったので読んでみたまでである。

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2007年5月15日 (火)

9周年のジャカルタ動乱

昨日今日ジャカルタの新聞は9年前のジャカルタ動乱の追悼集会等の報道をしている。小生も当時ジャカルタにいたのであるが、大変なときに居合わせると言う気概はあったが、日記も付けてなく、友人と街の動静を連絡しあったことだけは思い出せる。12日にトリサクティ大学の4人の学生が射殺され、13日から15日はジャカルタ中が暴徒と火災に見舞われた。会社から急ぎ退出、アパートに戻り屋上から見ると丁度我がアパート近辺は平和であるが360度のあちこちに炎と黒煙が立ちこめていた。スハルトはエジプト訪問中の所15日未明に急遽帰国、石油値上げを撤回し穏便な改革で有終の美を飾る積りでいた。20日予定された学生、民衆の大規模デモまで不穏な空気が更に拡大が見込まれ日本人も日本への避難で日本企業は大童となる。実際のJALの引き上げ機は17日でで、又どうしてもインドネシアに残らねばならぬ企業幹部は大ホテルへ避難したが、小生はアパートに残り、不安な夜を過ごしていたことを思い出される。20日朝のアミン・ライスのスト中止の声明にはホットしたものである。17日まで多くは火を付けられた中国人スーパー・デパートで火炎に巻かれた子供達であったが1,200人の犠牲者を出した。

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2007年5月13日 (日)

バタビア芸術センターとバリ文化のブーム

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Boploの斜め後ろ、トゥク・ウマール道路の橋に立つ昔の移民局の建物はバタビア時代はKunst- kringと言われたが今は使用されてないため呼称が難しい。移民局が2000年にKemayoran に移転したあとこのビルの所有権はチェンダナファミリーが握っていた。 ジャカルタ市の保護歴史遺産に指定されているが用途も定まらず、公開されてない所を見ると、今もそうだろう。
建設までの当時のいきさつは1902年、ヨーロッパ文化を懐かしむと同時に現地文化の理解を深めようとする芸術サークルがバタビアで結成され全国にも広がっていった。1916年にはその全国のサークルはバタビアに本拠をおかれた。その施設がKunstkringでBoploの当主である建築家モーエンが設計し、そのままサークルの会長になった。かれはここでバリ文化の紹介事業も行い後に「バリの文化」を著した。モーエンはその後1931年にパリで開かれた国際植民地博覧会でオランダ館をヒンドゥー・バリ文化で飾り、バリの観光の名声を高めることに貢献した。バリとメンテンの恩人でもあり、建築設計家であるので、この建物はインドネシアの建築博物館にしたらどうだろう。パリ植民地博覧会のオランダ館は開会中に火災が起こり展示文化品と共に消失したため、彼のメンツは潰されたようである。 Kunstkring diusulkan dipakai sebagai museum achitektur heritage indonesia

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日本軍のジャワ上陸地点

2月8日の日本軍広安部隊の戦没碑のことを書いたが、この部隊はメラクから上陸している訳であるが、阿部知二の「火の島」などを読んでバタビア攻略の日本軍はバンテンに上陸したものとばかり思っていたので調べたところやはり広安部隊はメラクであり、バンテンに上陸したのは第16軍の司令本部であった事が分かった。
今村均中将率いる第16軍は
第2師団(歩兵で言えば歩兵3連隊構成)仙台、約14,000名
第38師団(歩兵3連隊構成)名古屋、約24,000名
第48師団(歩兵3連隊構成)台湾、約16,000名
第56師団の坂口支隊、パラオより合流、5,200名
第55師団の南海支隊、ラバウルより、4,500名
金村支隊 1,000名
その他、戦車連隊、公平、電信、自動車、飛行集団、挺身団からなっており、総勢は90,000名程度になるようである。第48師団はスラバヤ方面攻略の為クラガンに上陸し又第38師団の内、主力13,000名はスマトラ・パレンバン攻略、更に1連隊の東方支隊の5,300名は豪州軍の北上を押える役目でアンボン・チモール方面に出て行き、残った6,000名の東海林支隊はスバンの北のエレタンに上陸した、訳で従いジャワ攻略は第2師団(バンテン・メラク上陸)東海林支隊(エレタン上陸)、第48師団(クラガン上陸)他で55,000名と言われる。尚金村支隊はバリを、坂口支隊はカリマンタン(タラカン)から合流、南海支隊は思わぬ好戦況の為発動されなかった。
広安部隊が属する第2師団のうち第29連隊はカボ岬、第16連隊(広安大佐)と第4連隊はメラクに上陸している。
市の図書館で借りた太平洋戦争の本から思いつきで整理してみたが未だ疑問がいくらも出てくる。

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2007年5月12日 (土)

ジャラン・サバンとAgus Salim

メンテン内の縦の南北に走る道路を見るとタムリンと併走するAgus Salim通りがある。これはタムリン通りが出来る前のメイン通りでモナスとイマムボンジョルをつなぐ旧称Jalan Sabangである。Agus Salimは初期の民族運動指導者で1961年に民族運動英雄(PaHlawan Pengerakan Indonesia)に叙されている。
1884年西スマトラ出身、バタビアでギムナジウム・ウイレムIII中学を卒業、翻訳者や公証人の仕事した後、1906~1911年はジェッダの領事館勤務、1912年原住民小学校を開校、1915年にチョクロアミノトが指導するイスラム同盟に参加し、コミュニストを抑え、アフマッド・ダーランと共に共産党を排除した。1917年バライ・プスタカ(国立出版局)主筆や日刊紙ネラチャの編集に携わった。1929年には名前をイスラム同盟党と変更、イスラムを独立の一翼を担うまで指導した。又同年ジュネーブの国際労働青年会議にオランダ代表団の顧問として仏語で演説した。日本占領時代はプートラの評議会員や独立準備委員を務めた。
1946年からスタン・シャフリル内閣でオランダとの交渉に参加し、更に1947年からアミル・シャリフディン内閣、ハッタ内閣で外務大臣を務めた。1949年の第二次侵攻時はスカルノ、ハッタと共にオランダに逮捕拘留された。1954年没。数ヶ国語を操ることが出来る卓越した外交官であった。 Jlsabani_024
写真は雨季で道路工事中を洪水でやられごった返しているジャラン・サバンである。

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2007年5月11日 (金)

国軍の誕生 BKR-> TKR-> TNI

4月27日のブログでOtto Iskandar Dinataが最初の内閣の内務大臣の時創設された人民治安団BKR(Badan Keamanan Rakyat)は独立宣言後の5日後の8月22日に独立準備委員会で決議されたもので翌日スカルノがラジオ放送で宣言した。日本軍が設置した義勇軍や兵補は19日には解散させられ、これら犠牲者の救援が目的で、まだ国軍と名乗ってはいなかったので多くの若者の心をつかむことが出来ず彼らは全国で30も青年団プムダを結成した。彼らは日本軍の武器の奪取や施設の接収にうごき連合軍の上陸の直前のイカダ広場で20万人にもおよばんとする大会にまで盛り上がっていた。この集会はスカルノ演説で日本軍との対決を免れたが、国軍の必要性を感じた政府は10月5日にBKRをTKR(Tentara Keamanan Rakyat)人民治安軍に編成変えした。10月7日には政府は正式にPETAや元蘭印軍NICA以下全てのプムダの参集を布告した。当初ジャワに10個師団、スマトラに6個師団置かれたがこの編成に当ったのは元蘭印軍で最高位であったウリップ・スモハルジョで彼が参謀総長となった。最高指揮官はマデウンでの日本軍への反乱を指揮したスプリヤディが行方不明のまま任命された。スデイルマン将軍が最高指揮官となったのは11月になってであり、今の国軍TNIと改称されたのは47年6月28日である。
TKRと編成された日、10月5日は国軍創設の記念日となって毎年ジャカルタで祈念式典が行われる。

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2007年5月10日 (木)

4月 投資環境 やや改善

*ジャカルタ株価指数、2000ポイント越え、更に過去最高更新中
*今年の経済成長見通し6.3%:世銀、来年は6.5%。
*政府が民間の行きすぎた海外借り入れに注意喚起。
*外資規制見直しへ。新たに石油ガス採掘、港・空港開発、海・空・陸運、水道運営、病院・クリニックサービスの外資比率最高49%などの案。
*PPh23見直し:各種引き下げ、自動車レンタル料税率3%を1.5%に、サービス4.5%等
*わいせつ罪に問われていた、「プレイボーイ」編集長エルウィン・アルナダさんが無罪に
*ヤマハ・モーター、契約社員約100人が退職金支給、正社員としての雇用など求めてデモ。

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2007年5月 9日 (水)

五反田インドネシア大使公邸での手工芸品展+踊り

今日インドネシア大使館にVISAを取りに行って来たがトンボ返りに戻ってきたら往復で丁度3時間で済み意外と短時間ですんでほっとしている。ここもJALジャカルタ行きと同じくお客は少ない。
インドネシア大使館では手工芸品展示会の案内書を入手したがこれは日イ外交関係樹立50周年とを記念した事業と言うことで次のような内容であった。
事業副題:ショーケース・オブ・エクセレンス
日時: 5月24日(14:00~17:00)~5月26日(10:00~17:00)
場所:大使公邸 WismaDutaIndonesia 五反田-5-2-26
インドネシア全国手工芸品協議会の会員30社が出品しており、ビジネスマッチングが期待されている。毎日15:00からは踊りのパフォーマンスがあるようで、25日にはプンチャク・シラットの公演も行われる。(ユル・プルワント氏の武術踊り、ダニ・イルファンシャ氏の伝統音楽、テーマはアモング・ソロ:感に従う) 偶にはアンクルンや伝統踊りに浸ってみるのも良いだろう。

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Boplo近くのKunstkringは何

テウク・ウマール通りBoplo(Cut Mutia)で切れる横にBoploに劣らず言われがありそうな建物が建っている。一時スハルトが崩壊した後、窓やドアーが破壊されもう取り壊されるかとばかり見えたこの建物は当時イブ・ティエン婦人の博物館になるという噂で、ジャカルタ動乱時に暴徒により荒らされた。
今はリノベーションで気持ち悪いくらい新しくなっているが未だ使用目的は不明で公開されていない。
建設は1913年、設計はBOPLOと同じ設計家である。
Bopro_imigrasi
建物の名前はBataviasche Kunstkring(芸術の輪)であり当時ピカソやゴッホの作品が展示された。独立後は長く移民局として使用されたためその方が有名である。

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2007年5月 8日 (火)

アチェ戦争のNO.1 Teuk Umar

先週のサムラトランギ通りがチュット・ムティア通りにタッチする所に南のスロパティ公園より北上してきたTeuk Umar通りが出てくる。テウク・ウマールは既にこのブログに登場したチック・ディチロと並ぶアチェの反オランダ戦争の指導者で1853年生まれ。一度1893年にオランダ軍に投降、オランダ軍に参加したが、他のウレーバランを降伏せしめる為と称し金と武器を奪って失踪したこともある戦略家でもあった。1899年に領国を奪回する戦いの中、犠牲となった。1973年同じ独立闘争の英雄となる。
アチェ戦争は1873年、アチェがトルコと同盟を結びアメリカ・フランスとも同盟交渉するや、オランダが侵略を開始して始まった。一時はコーラー司令官も死亡する反撃に成功するも1874年にはスルタンも戦死、1878年までにアチェ全域を奪われたが新スルタンを擁立するマンリマ・ポリム一派は抗戦を続けた。この段階はウレバーラン(領主層)の保全戦争であったが、1880年台になりイスラム指導者チック・ディチロは聖戦を掲げ農民を組織しゲリラ戦でオランダ対イスラム社会の抵抗の戦いとなった。 
旧ウレーバランのテウク・ウマールも参加、その後奪回ならず、1903年戦力増強したオランダ軍に降伏した。30年に及ぶ最大の対オランダ戦争であったが最終の戦火の終結は1911年チュッ・ムゥチアの闘争まで38年も続いた。
アチェは17世紀スルタン・イスカンダルの下、強大を誇ったが、19世紀には小領主が割拠しスルタンはその代表に過ぎなかった。シンガポール経営に力を入れるイギリスは米・仏等のこの地域への介入を嫌い1872年オランダとスマトラ条約を結び交換にオランダのスマトラ支配を認めていた。

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2007年5月 7日 (月)

列国議会同盟会議はジャカルタで早2回も

バリで行われていた列国議会同盟はイラクから外国軍が撤退する決議を以って終了した。
この決議は「テロリズムはその根源と原因、クロスボーダー資金調達含め国際協力で征服」と題され、インドネシアがインド、イランと共に提案された緊急事項として外国軍隊が撤退すべきとしている。同時に行われていたエジプトでのイラク関係国閣僚会議の報道、此方も成果はないがそれに隠れて列国議会同盟の報道は読売日刊では見つからなかった。 イラク問題は期待はしないが自信のあるインドネシアなどイスラム国のお手並み拝見してみたい。この列国議会会議なるものはその歴史に比べると知名度は低い。正式にはInter-Parliamentary Union(IPU)と言われ1889年に設立された世界の議会による国際組織。本部はジュネーブ(スイス)。各国の議員の対話の中心として、世界の平和と協力及び議会制民主主義の確立のために活動している。147ケ国と7地域がメンバーとなっており、会議は最近は年2回で、春の会議は各国持ち回りである。
創設したのはイギリスとフランスの議員二人で1927年までは彼らヨーロッパ出身議長は8人もノーベル平和賞を貰っているがその後はぱったりである。会議の場所が欧州を離れたのは1934年トルコ、アジアに来たのが1956年バンコク、東京は1960年と1974年でもう30年もお呼びでない?ソウルは1983年と1997年、インドネシアは今回の116回目の会議と2000年の会議と2回あり、不思議なことに北朝鮮が1991年で、中国は1996年、ロシアは1998年である。どうでも良い事かも知れないが。。

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2007年5月 6日 (日)

Sam Ratulangi通りの英雄名

Cut Mutiaにはサム・ラトゥランギ通りからも行ける。この道はメンテンの真ん中のチョクロアミノトから斜めにメンテンラヤ方向に向かう道であるが、この通りの名前の人はスラウエシ出身の国家英雄である。
正式にはDr. Gerungan Saul Samuel Jacob (G.S.S.J) Ratulangiでミナハサ地方のトンダノで1890年生まれ、地元ラジャ学校後ジャカルタの工科学校に進学、1915年オランダで科学師範の学士を得た後、スイスでも物理学の博士号を得、スイスではアジア留学生協会の委員長も兼ね、インドネシア協会のメンバーであった。帰国後はジョクジャで教鞭を取り、インドネシア保険会社を創設したり、ミナハサ同盟の委員長、国民参議院Volksraadのメンバーや政治週刊コメンタリーの編集長をこなした。独立宣言準備委員会の委員を経て独立後の1945年スラウエシの長官となったが、オランダの再進出で逮捕されイリアンジャヤに連行された。其のときからオランダと闘争しスラウエシをインドネシアの一部となるように努力したが、1949年、オランダの第二次警察行動と再逮捕と彼の死が相次いで起こった。彼は国家英雄としてトンダノに葬られている。又彼の名前はマナドの空港にサム・ラトゥランギ空港として残されている。

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Cut Mutiaは元BOPLOの事務所

Mesjid Cut Mutiaはモスクとしてはかなり変わった建物である。元々この建物はメンテンやゴンダンディアを開発した当時のデヴェロッパーN.V. de Bouwploeg (P.A.J. Moojen 代表)のビルである。1922年でモスクになったのは1970年である。それまで郵便局、日本軍占領期は海軍施設、鉄道会社、市の住宅局、宗教関係事務所と入れ替わりが激しい。スハルト一家もハジの後(1991年)、ここへお祈りに来ていたそうである。Boplo と言う名前はその会社の名前の現地人読みであるが色々なブランドとして市内の至る所にあるようである。 Apotek_boplo_1
近くにApotekの名前になっているのがあったので写真に収めた。ここはWahid Hasyimの端である。

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2007年5月 5日 (土)

Cut Mutiaでアチェ戦争は終わり

前日の部長の名前はCut Meutiaであったがこれはアチェの戦争末期の国家英雄である。 道路の名前にもなっており、Wahid HasymがHotel Bumi Joharの前のJoharどおりの先のGondandia駅のところの道でこれはMenteng Raya通りに合流する前でユータンするがこのユーターンの道もそのユーターンので出来た公園もCut Metiaの名前が付いている。又ビンタロ地区にブカシ市にもその名前の道はある。
彼女Cut Nyak Meutiaはアチェで1870年生まれ、幼い頃既にアチェはオランダとのアチェ戦争に突入しており、心はこの闘争に動かされ、結婚後も夫のアチェの活動家Cik Tonungとオランダパトロールに対する攻撃隊を結成した。1905年夫がオランダグンに逮捕されその場で銃殺刑を受けた。その後夫の友人のPang Nangruと再婚したがパヤチチェムでの戦闘でまたもや夫は戦死。夫の遺志をついでたった45人の刀剣武器の部隊を引き連れ、Sabil王と言う11歳の子息と共に闘争を継続した。彼女の戦闘は攻撃場所を変えながら行う戦略であった。何度も苦難を味わい降伏の勧めを拒否しながら最終的には潜んでいた場所が敵の知るところとなり両足、胸に銃貫創を受け死亡した。1913年のアチェ戦争の終わりである。1964年独立闘争英雄に叙せられた。
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Cut Metiaはそこにあるメスジッドの名前にもなっている。

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2007年5月 4日 (金)

ジャカルタ・ファッション・フード・フェスティヴァルの開催

この11日から17日に第4回になるJakarta Fashion & Food Festival (JFFF)が開かれる。場所はMuseum Gaja というから国立博物館か、スポンサーのPT Summarecon Agungはかっての大手不動産会社であるがサバイブしていたのだ。発表はCut Mutiaという英雄の名前と同じマネージャーである。
市の観光局とインドネシア デザイン&ファッション・ビジネス協会との協賛でFashion ExtravaganzaとFood Festivalが行われる。この祭りは国民に文化的遺産を紹介するのが目的であるが、インドネシアだけでなく他国からの参加も得てインドネシア民俗の遺産と現代芸術あるいはマルティ文化をブレンドする。Cut Mutiaはこの調和の取れた文化のブレンドが新しいグローバルな文化のアイデンティティとなると付け加えた。

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2007年5月 3日 (木)

アジアの5月ゴールデンウイーク

コールデンウイークは日本発祥であるが最近中国の方が長い連休を祝っている。
中国では五一黄金周といわれ労働節(メ-デー)を中心とした連休である。他に連休は新年(3日)、春節(7日程度)、国慶節(10月1日から7日)である。インドネシアでも振替休日とCuti Bersamaで結構連休が多い。折角仕事で1ケ月の予定で行っても思わぬ連休にぶつかる。この3月から6月でもヒンドゥー正月(3/19月)、聖フライデー(4/6金)、キリスト昇天(5/17木4連休)、仏陀生誕(6/1金)と言う具合である。
但しインドネシアにはメーデーも子供の日もない。主要国を見てみると中国のメーデーは3日間で(本来は1日)、他にシンガポール、マレーシア、タイが祝っている。
子供の日は本来旧暦の5月5日の端午の節句であるので年により日が変わるが日本と同じ西暦5月5日で祝うのは韓国のみで、中国は漢族は旧暦で祝うが6月1日を国際児童デーにあわせ休日としている。この時期ゴールデンウイークになるのはタイがメーデーの後5月5日と7日が戴冠記念日がある。フイリピンはどうも予定は立たないようなので無視した。日本も首相の憲法改正の意気込みが荒くなってきたが万一改定があっても再発布は5月3日にするだろう。

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2007年5月 2日 (水)

ジャカルタ歴史博物館の正義の剣

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歴史博物館の2階にある一つの古い剣がある。長さは1.5メーターありこれの使い手(algojo)は強力の男であったろう。この正義の剣(Pedang Kedilan)で何人の首が落ちたであろうか。一つ解かっているのは1629年、VOCの16歳のContemhoeffと言う職員がこの市公会堂(Balaikota現在のジャカルタ歴史博物館)でこの剣で刑を受けた。彼はJacques Specxという老商人が日本の女性と同棲した結果生まれた娘の12歳のSaartjedと体の関係があったからでクーン総督の厳しい処罰を受け、Saartjeも同じこの前庭で罰された。
1630年オランダ政府はアジアにオランダ女性を送ることを禁止した。一つの例外はVOCの高官でその夫人子供を帯同できるというものであった。従いオランダ社会は男だけの社会と言え、結果多くが現地女性と結婚しインドーブランダと言う混血子孫を産んだ。当時の混血はMestizenと呼ばれ19世紀一般的であったポルトガル語を使っていた。
VOCの高官の金持ちの未亡人は又家族と家族の結びつきに野心的な男に好かれた。
他にこの剣で倒れた男にPieter Everbeldとその仲間がある。彼らは1722年反乱を起こそうとした廉で処罰された。そのときKwitangに住んでいた男と中国人もつるし首にあった。
この博物館で、エリザベス王がインドネシアを訪問した際 驚かれたところは地下の牢である。中国人虐殺事件の時には500人もの中国人がこの狭い暗い牢につながれた。これはリパブリカ誌でAlwi Shihab氏のエッセイの一部である。大した意味もないが歴史の一片である。

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2007年5月 1日 (火)

Teuk Nyak Arif通りとは?

昨日のサルタン イスカンダール・ムダが始まるクマヨランラマ陸橋の下の北に向かう道がこの道である。この道はポンドクインダーからプルマタヒジョーに向かう時の左に大きく曲がっていく陸橋の通りなので割りと使うが通り名を知っている人は少ないこれもArteliで片付けられているのであろう。アチェ戦争が終わった後のアチェの国家英雄である。
Teuk Nyak Arif(1899年~1946年)
バンダアチェ生まれ、大アチェの司令官の子息、ブキットティンギーやOSVIAセランで学ぶ。若いときからインドネシア民族の団結と人民の為、殖民政府への挑戦を続け「アチェの短剣」と言われた。国民参議会のメンバーであったがGosenson大尉の逮捕命令を避けながら、多くのウラマや民衆の力を結集し日本占領までオランダと戦った。
日本占領時は一時憲兵隊に逮捕されたが民衆への影響力を配慮し釈放された。長い糖尿病に煩いアチェで亡くなる。

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