Sam Ratulangi通りの英雄名
Cut Mutiaにはサム・ラトゥランギ通りからも行ける。この道はメンテンの真ん中のチョクロアミノトから斜めにメンテンラヤ方向に向かう道であるが、この通りの名前の人はスラウエシ出身の国家英雄である。
正式にはDr. Gerungan Saul Samuel Jacob (G.S.S.J) Ratulangiでミナハサ地方のトンダノで1890年生まれ、地元ラジャ学校後ジャカルタの工科学校に進学、1915年オランダで科学師範の学士を得た後、スイスでも物理学の博士号を得、スイスではアジア留学生協会の委員長も兼ね、インドネシア協会のメンバーであった。帰国後はジョクジャで教鞭を取り、インドネシア保険会社を創設したり、ミナハサ同盟の委員長、国民参議院Volksraadのメンバーや政治週刊コメンタリーの編集長をこなした。独立宣言準備委員会の委員を経て独立後の1945年スラウエシの長官となったが、オランダの再進出で逮捕されイリアンジャヤに連行された。其のときからオランダと闘争しスラウエシをインドネシアの一部となるように努力したが、1949年、オランダの第二次警察行動と再逮捕と彼の死が相次いで起こった。彼は国家英雄としてトンダノに葬られている。又彼の名前はマナドの空港にサム・ラトゥランギ空港として残されている。
| 固定リンク
「インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事
- スラバヤの誕生(2012.05.20)
- 5月のイスマイル・マルズキ(2012.05.14)
- トリサクティ事件とデモ(2012.05.13)
- ブカシの英雄Noer とChairil(2012.05.10)
- プラボォの狙い HKPIの日(2012.04.30)


コメント
私のコメントを引用いただき恐縮です。
文中に西嶋重忠さんの名前が出ていますが、西嶋重忠さんとは、戦前、左翼思想のため、一高を退学処分されてインドネシアに渡り、バンドンのトコチヨダの支配人を勤められ、戦中は海軍嘱託としてスカルノ、ハッタやブログに街路名の謂われが取り上げられたラトゥランギ、独立後の初代外相で「インドネシアの独立と革命」を著したスパルジョ等と親交があり、独立宣言にも関係した人です。まだご存命です。
スパルジョ著「インドネシアの独立と革命」を読むと、西嶋さんがインドネシア独立運動でいかに重要な役割を担っていたか、うかがい知れます。同書には、西嶋さんが戦犯容疑で逮捕された時の「西嶋重忠陳述」や「西嶋日記」などが引用されています。
また、米国人のジョージ・S・カナヘレが著した「日本軍政とインドネシア独立」にも、西嶋さんとのインタービューで得た証言が随所に引用されています。
西嶋さんは、戦後は、北スマトラ石油の常務として活躍され、その後、兼松やブリッジストン・タイヤの顧問をされました。
投稿: 広沢 勉 | 2007年5月 7日 (月) 17時40分
西嶋さんはまだ存命とコメントしてしまいましたが、先ほど、西嶋さんと親しかった私の先輩に電話で確かめたところ、昨年暮れに95歳で亡くなられたとのことでした。
生前を存じ上げていた者として、ご冥福をお祈りするとともに、無責任なコメントをお詫びいたします。
また、自分の手許にある資料だけで、西嶋さんの戦中・戦後の活動を記しましたが、西嶋さんご自身の著書「証言 インドネシア独立革命」もありますので、茲許お知らせします。
投稿: 広沢 勉 | 2007年5月 7日 (月) 19時21分
ご丁寧なる、貴重な情報有難う御座います。どの本もまだ読んだことはありませんが、先人の遺産ですね。
西島さんはNHKのインドネシア独立宣言のドキュメンタリ-にも出ていましたのでテレビで拝顔できました。仕えていた前田少将邸で独立宣言が起草されたので、現在も博物館になっていますがその後イギリスのキラー将軍がオランダとの調停に乗り出したときの写真はどうもこの前田海軍武官府だったように見えます。
投稿: jakartan | 2007年5月 8日 (火) 12時07分
西嶋の親族の者です。
このように取りあげて頂いていることに驚き、嬉しく思います。
お墓参りに行って報告したいと思います。
ありがとうございます。
投稿: | 2008年4月22日 (火) 16時43分
コメント頂き有難う御座います。
廣澤様のお陰です。
宜しくお願い致します。
投稿: jakartan | 2008年5月 1日 (木) 22時55分