« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »

2007年6月の投稿

2007年6月30日 (土)

大航海時代のヌサンタラの船

バハリ海洋博物館にコラコラ船が展示してある。タマタマ「香料諸島綺談(マングン・ウイジャヤ作、舟知恵氏訳)を捲っていたら当時は島ごとに得意な船があったようでこのコラコラはテルナテ島、テルナテが戦ったチドーレ島はガリー船、ハルマヘラはオ・ゴティ船を呼ばれる船を持っていた。他に西洋の戦艦の間に随送する船舟に大型軍船ジャアンガ、運搬船ラカフヌウ、2層甲板船オレンバイ、小型快速船ランチャウランチャウなども登場する。このBataviaship
16世紀の西洋の戦艦はガレオン船と呼ばれる。ガレオンの特徴は船首楼より高い船尾楼を持ち従来のキャラック船より船体が長く大量の大砲を積むことが出来たとある。展示されたコラコラ船はサンパン・プラフの類の彩色くり舟で帆はあっても櫓で漕ぐものであるが時代が下るとコラコラ船も大型化する。
これは東南アジア一般でアユタヤ、アチェ、バンテン、ジョホール、ブルネイ、マカッサルの王が西洋に対抗して作った大型の武装ガレー船である。バンテンのガレーは下部甲板に4門、マカッサルのコラコラは船楼部に7門、またマドゥラ島の大型ガレーは最大200人の兵員を乗せていたが、オールの数が少なく、大砲は2門だけであった……コラコラは、漕ぎ手を100人、青銅製の砲4、5門を乗せ……砲1門に3人がつき、1人は照準、1人は装薬、1人は発射に当たっていたとアンソニー・リード氏の著作にあるそうである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月29日 (金)

メンテン31の青年たち

Jun07_menten_049
Gedung Joang 45の建物についてはその生い立ちも記したが関連した人々の記述は未だであった。当時の青年隊Pemudaの先鋒はPemuda Menteng 31に代表されるがこのグループは三つの歴史的流れで分けられる。第1期は1942年で宣伝部が塾を創設したときの塾生である。Sukarni、Chairul Saleh、Adam Malik、Ismail Widjaya、Soepeno、Wikana、A.M.Hanafieたちで政治的にAngkatan Baru Indonesiaと呼ばれる。次は1945年7月、Pemuda Angkatan Baruを設立したB.H.Diah、Sjarief Thaeb(オルデバルで教育相)、Sudiro(兄がDKI市長となる)、Harsono Cokroaminoto(チョクロアミノトの次男、後に大臣)Sutomo(Bung Tomo)、Goelton、S.K.Trimurti(後女性大臣)である。第3期は1945年8月14日 Komite Van Aksiを作ったSukarni、Saleh、A.M Hanafie、Adam Malik、Wikana、Pandu Kartawiguna、Marto Nitimiharjo、Kusnaeni、Darwis、Djohar Armunantoである。彼らは闘争組織としてBarisan Bentengを組織した。第一期での先生役はSukarno(政治)、Hatta(経済)、Sunario(国家)、Amir Sjarifuddin(哲学)及び日本語は中谷さん、一般教養は清水さんと言う顔ぶれである。Ashramaのヘッドはスカルノであるが、実質的に運営したのは副のChairul Salehで彼は後、スカルノの後を狙う地位にまで上がったが)9月30日事件で夢は霧消した。 主要な登場人物の胸像は写真のように同博物館の外側にぐるりと立っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月28日 (木)

バハリ海洋博物館案内

Bahari_jun07_sundakelap
スンダクラパの昔のパッサールイカン入り口にある長い倉庫風の建物がバハリ海洋博物館である。
ここはVOCの胡椒など香料(Rempah2)やお茶、コーヒー、綿花など商業倉庫で、1652年、1718年、1773/4年と3段階の建設を踏んでいる。
倉庫も3棟が逆V字形の土地に立っているのでこの建て増しが3段階と言うことである。独立後は通信関係の事務所として使われ、1972年に文化保存施設に指定、1977年から海洋博物館となった。伝統的なヌサンタラの船や航海機器など800点が展示されてるそうであるが、時間もなく,昔見ていることもあり外側をみるだけで帰ってきたが、船の模型では有名なブギス人のPhinisi船(Padewakan)、カリマンタンのAlut Pasa、テルナテのKora-Kora船が飾ってある。ぺニシの実物はスンダクラパ港に多数停泊し或いは木材を陸揚げしている最中を見学できるし、スンダクラパの入り口にはこれもオランダ時代の見張り塔や造船所跡の倉庫(現在Café)もある。
海からの涼しい風もあり、多分子供さんがいる家庭では時間つぶしが出来そうである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月27日 (水)

市誕生480年記念ラーマングン ゴルフコンペ

Rawamangun_hut_ke480_jun07
6月22日はジャカルタ市誕生480年記念日に当たり、モナスで州政府主催式典が行われ、恒例の花火も打ち上げられた。ラーマングンゴルフ場でもそれを記念して土曜日と日曜日二日間のゴルフトーナメントを実施した。これにはユスフカラ副大統領他280名以上のジャカルタの名士が参加した。尤も副大統領は土曜日、9ホールのみであったそうである。我々は一般にオープンとなった午後二時からのプレーであったが、カラオケ大会で盛り上がっていた音楽を聴きながら平和で繁栄するジャカルタを味わうことが出来た。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月26日 (火)

新国立博物館とマジャパヒット展

National_museum_jun07
2月9日と12日のブログにマジャパヒット展とTrowulan遺跡の話は乗せたが昨年11月から延び延びとなっていたマジャパヒット展が開かれた。大統領のスケジュールが中々取れなかったためでやっとテープカットに漕ぎ着けた。これは新国立博物館別館(アルチャ館)のオープンも兼ねているのであるが、日曜日行った時は写真の通り誰も訪問者は居なく閉まっていた。ジャカルタ新聞が紹介している内容でメモしとくべき事項は
*王国の名前「苦いマジャの実」のマジャが飾ってあったそうであるが、
Maja_pahit
小生はミニインドネシアで写真に収めていたので紹介しよう。
*展示の石造には王国のシンボルの太陽神スリヤやシヴァとウィシュヌの合体神のハリハラ像がある。
*乳房の形をしたテラコッタの水差しは自然と容器から水が染み出、その気化熱で中の水が冷やされるそうである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月25日 (月)

新中華街マンガ・ドゥアHarcomas

Jun07_sundakelap_kota_037
元々中華街に違いはないがマンガ・ドゥアにITCが立ち、ドシット・マンガ・ドゥアホテルが建って、パッサール・パギが移転してきたときからこの通りはAncolのグヌンサハリに抜けるところまで赤色主体の中華街が華人の力を見せ付けている。その中で電気街Harcoと多分シナールマスが開発したHarcoMasの入り口の門を写真に取ってきたのでそれを紹介する。
ここには新たに二つのホテルNovotel Mangga DuaとLe Grandeur Hotelができ繋がっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月23日 (土)

Museum Sejarah Jakartaジャカルタ歴史博物館案内 

Museum_sejarah_jakarta_nov06_046
入り口でRp2,000の入場料を払うと胸ポケットサイズの案内書を呉れる。インドネシアには何処も子供だまし程度のものしかない。
真っ直ぐ入っていくと裏口に抜ける一つ前の部屋の横壁に木でできた看板があり、オランダ語で「このシティホールはJohn van Hoorn総督により1707年1月23日に再建に着手、Abraham van Riebeek総督の1710年7月10日に完成した」とある。つまり建て替えでありこの前にも市役所的建物はあったという事である。この建築様式は現在オランダ王室宮殿として使われている建物より半世紀早く建てられた旧アムステルダム シティホールの似ている。ここもシティホールとしても使われてオランダ市民の出生、死亡他生活を管理し、裁判を行いこの地下が牢獄でもあった。今も牢獄は裏庭から観察することが出来、暗くて低い天井の部屋に足を繋ぐ鉄球の鎖が見える。独立後は国軍本部に使われたがアディサデキンが市長の時の1974年博物館となった。1階に前史時代からヒンズー・仏教時代の石碑、ポルトガル時代の石碑があり2階は昔の家具、彫り物のスクリーン、その他、彫像、絵画、武器類がある。Taman Fatahilahにある。TEL:6929101 月曜と祝日のみ休館のはず。閉館は普通15:00故注意が必要。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月21日 (木)

メトロポール Megaria 21

ディポネゴロ通りがチキニラヤ通りを受ける角地に古そうな建物がある。看板には
Megaria 21と出て映画の大きなポスターから映画館と解かる。昔はスーパーHeroがあったが写真にはない。反対側かもしれない。
Megaria
このアートデコ調で高い尖塔を持つ建物は1932年(或いは1949年)建設と古いが1993年にジャカルタの文化保護施設となっているので取り壊されることはないだろう。昔はMetropool (Metropole)と言われていた。映画館としては1951年からだそうである。現在この映画館は50席程度の小さな映画館の6館で構成されているがいつも駐車場はガラスキである。売却の話が合ったが文化保護施設(Cagar Budaya)なので取り壊しが出来なく、リノベーションも許可がいるため中々買い手がつかないのではないだろうか。3方の道路があるが何れも一方通行なので不便でもある。ここもジャカルタの愚かな道路行政に泣いている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月20日 (水)

日本軍は青年塾を2度作る

Menten 31のGedung Joang 45は日本軍が上陸したとき日本軍の宣伝部の事務所になり、その後
多分彼らの肝いりでAshrama Angkatan Baruと言う名前の青年たちの教育の塾を作ったが、他の本を読んでいると同じように日本軍によるAshrama Indonesia Merdeka(独立塾)を作った話があるった。此方の方は既に敗色濃く、独立も止むを得なくなった時期の1944年9月であり、海軍武官府の前田少将が肝いりで、共産党のWikana や武官府勤務の元共産のアフマッダ・スバルジョ更に急進左派政治家 イワクスマ・スマントリが或いは指導者として参加した。海軍武官府側は吉住氏が実際の設立に携わったそうである。他にタンゲランの青年道場もあるしバンドンにもあったはずである。Gedung Joang45はつい最近書き又吉住氏は10月24日、青年道場は9月20日にも書いたがいまひとつしっくり来ないので追い追い調べよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月19日 (火)

デポックはキリスト教の町

デポックも古い町のようである。総督宮殿のあるボゴールの手前にある町で、当時オランダは占領した領土をオランダ人に売り、プランテーションの事業を手助けた。 ジャカルタ市内ではパッサールスネンはVinckeが入手し、ジャティネガラはMeester Cornelisが入手した。同じようにデポックはCornelis Chasteleinである。それは1696年のことであった。Chasteleinは裕福なオランダの商人で東インド評議会のメンバーでもあった。ウエルトフレーデンでコーヒーの栽培を手がけた一人でデポックに米栽培の広大な田んぼを購入した。同時に米栽培に秀でたバリ人の奴隷も買い入れた。有徳の士として彼はキリスト教にも身を献じた。1714年死亡後はバリ人の奴隷や黒いポルトガル人のクリスチアンが彼の土地を相続した。デポックでは1714年に奴隷制度がなくなったことになる。その後1880年以来、デポックでは過ぎ越しの祝いの日(ペンテコスト:モーゼがシナイ山で律法を授かった日)にはジャカルタ、ボゴールその他地区よりオランダ人やアンボン人の牧師がここに集まりその日を祝うことが続いた。と言うことでデポックにはキリスト教会が多い。デポックにはUIのキャンパスがあり、教育の都市として、ここはジャカルタではなく森と歴史の都ボゴールの一つの街として風格がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月18日 (月)

カリバタ英雄墓地

Karibata001
カリバタの英雄墓地に行ってみた。昔行ったことがあるが正面はイメージ一新、広大な敷地のfカンボジアの白い花で荘厳さをかもし出す。参拝する人もあると見えて、かなりオープンである。小生も何の手続きも要らず中に入ることが出来近くのエリアに偶々日本人の墓碑があり、それを案内人が教えてくれた。名誉なことであろうから名前を記すと小泉氏と清水氏で夫々イスラムの名前と共に併記され生まれと亡くなった日が刻まれている。日本人ではつい数日前の藤山氏の埋葬もあり、30人ぐらいいるのではないだろうか。独立戦争に参加した兵士は多分資格があるのであろう、毎年100人規模で増えているようで総数は8,000柱以上という。目測では幅600メートル、奥行き400メートル、一人一畳強のお墓が整然と並んでいた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

メンテンスポーツ公園はどうなる 

Jun07_menten_park_1
3月5日でも紹介したメンテンサーカー場は取り壊した後、スポーツ施設と3階建ての駐車場ビルを建設し既にオープンしている。設備はフットサル、バトミントン、サイクリング道路等々あるはずであるが、この大きなスポーツ公園に人影が見られないのはどうしてであろうか。何度か側を通りすぎてもわざわざ降車する気にもならなかったが、先日一寸降りて歩いてみた。あのガラスの家は何か中でスポーツでも出来るのかと思っいたが、とんでもない。中は狭く温室効果抜群である。あちこちに噴水など配置してあるが水は倹約気味で、植樹は未だ小さいため木陰もなく、カンティンなど憩う場所がなく、奥の方でサッカーなどをやっていた。サッカー場を潰してサッカー場にしたという訳である。夜のチョクロアミノトの屋台群の賑わいは大通りから駆逐されこの駐車場に行く側道のスペースでやっていたが、結構な客で賑わっている。ここにインドネシア人の秘密があるようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月16日 (土)

ジャカルタ生誕480年記念行事 

ジャカルタ生誕480年を祝うJakarta Fairが14日から7月15日までの32日間の予定で始まった。クマヨランの国際展示会場(JIEXPO),で開かれるものでオープニングにはユドヨノ大統領も来賓された。このイベントは1967年から行われているもので今年は40回目となる。今年のテーマは"Prosperous and Peaceful Indonesia."であるそうな。今年は新たに建設された12,000m2のHall Dも使用、合計45,000m2の広さになる。昨年の出典参加企業1,000社から今年は1,550社と増えている。来場者は2.6百万人、商談・取引は5,500億ルピアを見込んでいる。
警察も爆弾テロは勿論すりやこじき対策特別チームも編成し警戒態勢でいる。入場には磁気カードも使用されコンピュータによる入場者管理システムを採用したそうである。
ジャカルタ生誕480年は正しくは1527年6月22日のファタヒラーの勝利の日から起算されており全部で34の行事があるようであるが主なものは下記:
Jakarta Great Sale: 14 July迄
Pekan Raya Jakarta :15 July迄
Festival Kebon Sirih : 21 June
Enjoy Jakarta Concert: 23 June、HI前Benyamin Sueb の作品他
Malam Muda Mudi 及び花火同日、アンチョールにて。
Festival Pasar Baru : 29 June
Jakarnaval 2007 : 7 July 2007 HI前

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月15日 (金)

チキニ小学校爆弾事件

5月22日のブログのGedung Joang 45/独立闘争博物館に行って見たが薄っぺらなパンフしかなく展示品の筆頭は正副大統領の乗った車だというのが笑わせる。しつこく事務所で尋ねたらVCDがあり25,000ルピアで売ってくれたが未だ開くことが出来ない。
Jun07_menten_059
例の車は裏のガラス張りの車庫に3台展示されている。何故3台なのかと言うと1台は1957年爆弾事故にあったため使用不能となり事件の記念品となった為である。1957年と言えばPERMESTAを代表とする地方の反乱で国内は騒然とした中戒厳令がしかれていた年である。農村は疲弊し共産党の力が抜き出てきており、スカルノが共産党に傾倒していく時代で前年にハッタは辞職し袂をわかっている。
1957年11月30日、メガワティ少女も通っていたチキニ小学校でバザーが行われるというのでスカルノは良きパパ宜しく出かけたとき校舎内で大統領を狙った爆弾が爆発したものである。
103mar01
小学生を含む9人が命を落とし55人が重傷を負った。車のブランドはインペリアル、後1台の大統領車Rep-1はビュイックで日本が使っていたものをウンチャンが隠しブンカルノに献上したとある。
イスラム論議で紛争をかもしたナッシール伝によると彼は1956年に国民協議会メンバーとなり西イリアン論議でもスカルノとの仲は冷え切りチキニ事件後は頂点に達したとある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月14日 (木)

ボゴールは生誕525周年

先日6月4日はボゴールで525周年を祝う祭りのニュースがあった。2007年から525年を引くと1482年になる。ボゴールを本拠とした王国はパジャジャラン王国でありそれは1333年迄遡るはずであるがボゴール人はその古さよりシリワンギのゆかしさを好むのかこの1482年はシリワンギ王と慕われたスリ バドゥガ マハラジャ王の即位の年である。
パジャジャランのスンダ王国は一度マジャパヒットに滅ぼされたがただ一人残った幼い皇子の血統から曲折を経て王国を再統一したのがこのシリワンギ王である。シリワンギ王Parbu Siliwangi (1428-1521 M)の後のPrabu Surawisesa (1521-1535) が1533年Prasasti Batu Tulisを作っている。
市内40地区がスンダ踊りのパレードに参加し、ボゴールの名門ホテルサラックも記念プロモーションを行っていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月13日 (水)

チョクロアミノト通りにコンクリート・ブロック

Jun07_cokroaminotomenten_005
メンテンサッカー場を取り壊してスポーツ施設と駐車ビルを建てたので、チョクロアミノト通りの駐車は禁止されるとのニュースを読んで行って見て驚いた。両サイドの店の前に大きなコンクリート・ブロックが張り巡らされているのである。これではスマトラ津波も跳ね返すことが出来るだろうし、お客も寄り付かなくなるのではないだろうか。ジャカルタの道路行政で多くの店が討ち死にしたがここもそうならないことを願っている。駐車は出来ないので成程通り抜けは便利になったが、出来た駐車場とのアクセスは悪く自動車のユーターンや横断歩道すら用意していない。Heroスーパーマーケットも再スタートしたが、これでは又駄目になるのではないだろうか。コンクリートでブロックした内側の店との間にはたっぷり駐車できるスペースはあるがブロックされ死んだスペースである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月12日 (火)

Affandi Imaged 絵画展

Affandi Imaginedと言うギャラリーが開かれている。場所はハヤム・ウルックの例の古文書館Gedung Arsip Nasionalで14日までである。
これはスマラン・ガレリのおーナーであるChris Darmawanさんの企画でアメリカンエクスプレスが後援している。アッファンディはインドネシアの大画家の一人で彼の生誕100年(逝去は1990年)を祝うもので彼のイメージを現代画家60人が思い思いに描いている。太陽のモチーフの絵が多かったそうで、或いは彼が好んだパイプだとか二人の夫人や、女性との私的生活など現代人の感覚から敬い或いは皮肉っている。そういうようなことがジャカルタポストに出ていたのでお知らせします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5月の投資環境関連トピックス

*日本―ASEANのEPA:貿易自由化交渉で大筋合意、交渉は8月に終了、11月署名、来年発効予定。*西武ブランドの百貨店9日にオープン、首都HIのSCグランド・インドネシアに。
*改造内閣発表:ユスリル国家官房長官、ハミッド・アワルディン法相は解任へ。
*先月から発生が続くアチェとマルクの爆弾テロの背後に同一勢力の影:国家警察。
*イの競争力55ヵ国中54位:スイス・ビジネススクール国際経営開発研究所。
*上場企業全体の78%相当の267社が昨年黒字計上。累益55.4兆ルピア。
*JSX株価指数、とうとう2100ポイント超す。
*2月の失業率9.75%、2年半ぶりに1けたに:統計局。
*鉄道事業を外資に開放、最高出資95%:鉄道総局長令。全国の鉄道整備急ぐ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月11日 (月)

Gado-Gado Boplo ガドガド・ボプロ 

ボプロと言うのは 5月6日のこのブログで紹介した通り、ワヒッド・ハシム道路のメンテン・ラヤ通りの手前にあるチュット・ムティア モスクのオランダ時代の会社の名前であるが、そこには市場もありパッサール・ボプロと呼ばれ又そこに多分名物のガドガド屋があったのであろう。
Jun07_gado2_boplo_kbaru_040
れが今名物ガドガドのブランド名となりジャカルタのあちこちにGado2 Boplo(Ahli Makanan Tradisional伝統専門食品)のレストランチェーンを展開している。本店はハヒッド・ハシムNo.87(TEL:391-9481)、会社の近くのサトリオ通りにもクバヨラン・バルのバリトにも支店があるので行って見た。他に自慢料理はSop Buntut、Nasi Timbel、Lontong Sayurだそうであるが、この手のレストランはビールはないのでエスチャンプールを食した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月10日 (日)

シマトパンとハッタの家

Deponegoro_55
ポンドック・インダーゴルフから南に下って外環道路にでるがそこからタマンミニに向かう道がT.B.シマトパン道路である。シマトパンはインドネシアの参謀総長であった人で且つインドネシア・キリスト教界の最大の重鎮であった。Tahi Bonar Simatupang(1920年~1992年)は北スマトラのバタック・プロテスタントの家に生まれプマタンシアンタールのオランダ系HIS(小学)、MURO(下級中学)の後、ジャカルタのAMS(上級中学)を卒業しバンドンの蘭印軍陸軍士官学校に進んだ。同級にはナスチオンやカウィラランがいた。日本軍占領時は既に少尉に任官しており、一時逮捕されたが釈放され研究生活などで過ごし、独立宣言の後人民治安軍に参じ組織部長として軍の編成に活躍した。スディルマン将軍の信頼を得て実質参謀長(主席ヒダヤット大佐はスマトラ司令官兼務、ナスチオンはジャワ司令官)である傍らリンガルジャティ協定からハーグ円卓会議まで軍事委員として参加した。主権委譲後は参謀総長となるがスカルノと対立し結果1954年国防法成立で総長職を失い顧問に降格となり1959年39歳中将で退役、以降インドネシアやアジアキリスト教協議会議長及び世界キリスト教協議会理事を務めた。退役後官舎からデポネゴロ通りに居を移したが隣はハッタが住んでいた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

スタン・シャフリールの死

スタンシャフリールの最後6年の年代記を拾って見た。
  1960年スカルノ、スタンシャフリールの社会党を非合法として解散せしむ
  1961年ジュアンダが臨時大統領の時シャフリールを叙勲、スカルノは帰国後激怒
  1961年「誤った社会主義」に関する論文を発表
  1962年1月12日シャフリル逮捕される、ルムやアナック・アグンも。
      裁判なしでマディウン留置所へ、反スカルノの偽情報によるものであった。
  1962年11月病気治療のためジャカルタに移送、コタ・クアグンガン通りで拘留
       ハッサン、プリンセン、イムロン・ロシャディ、アッサートと共に。
高血圧で医師は読み違える。その後陸軍中央病院に移送。
  1963年2月陸軍中央病院からレバラン中の帰宅許可
  1965年1月陸軍中央病院の風呂場で倒れ手術したが、言語機能喪失  
1965年7月21日スイスに治療に行く ポピー夫人、子供ブユンとウピックに伴われ。
1966年3月9日死亡、そして3月18日遺骸帰国、
4月19日に盟友ハッタの最後の別れの挨拶で英雄墓地に葬られた。ハッタの言葉通り、真に公正にして繁栄するインドネシアの実現に努力した英雄(民族運動英雄)に相応しい人であった。スカルノが1901年生まれハッタは1902年生まれでシャフリルは1909年生まれで、スカルノの最大の政敵であったが1955年の総選挙では大敗を喫し政界を去ったはずである、些細な事がここまで尾を引いたかと思うと恐ろしい話である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 8日 (金)

ディポネゴロ・セントット・キアイモジョ

昨年の7月10日にディポネゴロ王子についてブログで紹介したが、他の読み物があったのでそこから要点を報告しよう。1822年アマンクブオノIVが死去し若年の子が後を継いだが前にラッフルズに約束させられていたディポネゴロが無視される状況に至っていた。彼は反欧州の急先鋒として人々の尊敬を得ていたが1825年オランダ政庁が彼の所有する聖なる墓所を通過する道路を作ったことがこのジャワ戦争の直接のきっかけとなった。ディポネゴロ軍は勇敢なセントット指揮で優勢を得ていたがオランダ軍のデ・コック大将は本国やセレベス等他の島からの出征軍を得てベンテン戦法で強化する中1829年には、仲間のマンクブーミも降伏、ムラピ山腹ではキアイ・モジョ指揮官が逮捕されイモギリでは司令官のセントット自身が相手軍門に走るや戦争は勝敗を決しデポネゴロは協調を願ったが欺かれ逮捕され、最初はメナドに追放されその後マカッサルに移送、同地で亡くなった。クバヨランのパクブオノVI世通りの先にキアイ モジョ通りがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 7日 (木)

Agus Kemas作品展とCafé Cemara

Agus_kemas
チョクロアミノト通りがワヒッドハシム通りに繋がる所にホテル・チュマラがある。その直前にGAIKINDOがありそのまん前にギャラリーがあったので入ってみた。丁度今はThe Music In Cubism と言うタイトルでAgus Kemasの作品展をやっている。古典から民族音楽までのミュージシャンをキュービスムに描いた作品で約30点ほどある。キュービスムとは20世紀初頭フランスに起こった美術のうねりでピカソやブラックを嚆矢とする複数の視点による形体の革命といわれるが、Kemas氏の作品は色彩も豊かである。ギャラリーの奥は静かな中庭のコーヒーテラスとなっており、外人が一人パソコンで仕事をしながら自然とコーヒーを味わっていた。
Cafe_galeri_cemara
写真は中庭に続く回廊から見たCaféの雰囲気である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 6日 (水)

Arief Rachman Hakimを悼む

ホテル アルヤドゥタの前の、グヌン・アグン書店からメンテン方向に入ってくる400メートルほどの短い道路はArief Rachman Hakim通りと名付けられている。この名前の人は誰なのか、長く探していたのであるが、一昨日JJCの図書館で一その端を見つけた。
彼は9月30日事件の後スカルノ大統領の最後の足掻きの組閣に憤った学生運動のリーダーの一人で、スカルノ政体の交代を要求したデモで警察の銃に斃れたインドネシア大学医学部の学生である。この死を悼んで詩を読み上げたのが学友で女流詩人となったイスマ・サウイトリである。詩を紹介すると;
「サレンバでの第1年目から 彼は私の友達だった。
「十二人の兄弟のうちの一人 北部カリマンタンへの医者の候補生であった。
「当直勤務の時間が来ても かれは一緒に巡回しない。
「なんと淋しく思われるこの廊下 以前の患者は尋ねるに違いない。

「彼は私の友達 いまや横たわりもの云わぬ
「弾丸に奪われてしまった最初の真心 おぉ神よ 貴方の掟はなんと重いのでしょう

「彼は私の友達 神よただ私たち皆の心を強めたまえ
「神よただ 彼らの上にその真心を読み取らせたまえ
以上 舟知恵氏の訳を引用した。その後スハルト体制崩壊劇で倒れた学生は多いが新しく作られた道はないのでどこかの道を幾つかに分けるしかない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 5日 (火)

Oasisレストランの誇り

Oasisレストランのブローシュアが2種類あるので、再度登場させてみよう。元総督が使用しただけに行けば玄関の車寄せで車を降りると、中部ジャワの王宮で使われた古い大きなゴングがお客の到着を知らせ、スンダのガメラン音楽に合わせ女性が案内してくれる。お客を待つ一寸した時間は有名なHendraの絵と踊りの仮面Topengが飾られているTopeng Barで一杯やりそれから予約した部屋に移ることになるが一番大きな部屋は一般客用のカリマンタン・ルームでチェスの白黒格子縞のフロアーと高いチーク材の天井からつるされた大きなシャンデリア、オランダの芸術家Robert Deppeデザインの大きなステンドグラス等が飾られている。他にスマトラ・ルーム、ラジャ・ルームが予約を待っている。トロピカルな緑豊かな裏庭に面してはガーデン・テラスもあり希望の客は星空の下でも食事が出来る。料理はクラッシカル、ヨーロピアン・フードのCrab Back Diable(悪魔の面)、ビスケーのザリガニ、ドーバーのしたびらめ、オスカー子牛のメダリオン、オアシス炎の剣などブランデー炎で供することも出来る。これ以上宣伝に協力することはないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 4日 (月)

Agung Podomoroとアパート建設 

まだまだジャカルタのアパート建設は続いている。大手Agung Podomoro Group ではその17番目のアパートをテベットに建設することを発表、コンセプトは女性向けと言うことで敷地の60%はラベンダーのガーデンやサロン&サウナに使われてその名もLavandeということである。Lavandeは2棟で727戸、2DKで3億程度である。
Sudirman Parkもこのグループが手がけるもので2,000戸を供給する。
他にSahid Metropolitan ResidenceやGaleria Glodok Apartment、Kuningan Placeなどがここ2年で市場に出てくるそうである。Podomoro Groupはアパート王とも言われ最近我々の眼に入るのがPakubuwonoがある。又ショッピングセンターではSenayan Cityである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 3日 (日)

ジャカルタ初代市長スウィルヨ 

ジャカルタ人がスティヨソを交替させる月がやって来ようとしている。ジャカルタ市の初代市長はSuwiryoで1945年から1947年までその後1950から1951年2回勤めた。彼が初代になった時はまだ日本軍の占領下の1945年7月でその時は副知事である。 原子爆弾が投下された後8月10日、日本軍降伏のニュースは伏せられていたがSuwiryoは勇敢にもある集会で発表し急遽ブンカルノに独立宣言を迫ることになった。スカルノの私邸であるプガンサアン・チムールで宣言式を執り行う責任を取った一人である。国民党のスウィルヨは青年達の9月17日のイカダ広場での独立達成総決起大会に参加した。このときはジャカルタだけでなくボゴール、ベカシ、カラワンからも多くが参集した。
1946年NICAの軍隊も加わった連合軍の軍隊が上陸したとき、スカルノとハッタはジョグジャカルタに遷都したがスウィルヨはジャカルタに踏みとどまり、国の僕として部下にも日常の職務を継続するよう命じた。1947年7月21日警察行動を取ったときスイルヨはメンテンの自宅でNICAに捕らわれ5ケ月間ガジャ・マダ地区で拘禁、その後スマランからジョグジャに移った。闘争の街でジャカルタ初代市長はトゥグ駅に到着したスディルマン総司令官から大歓迎を受けたものである。1950年3月21日、スカルノ大統領は再度市長に任命し、更にスキマン(マシュミ)内閣のとき副首相(PNI)に任命された。スキマンとスウルヨの名前からSuSu内閣と言われた。以上5月30日のブログに追加する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 2日 (土)

Setiabudi・Douwes Dekker・ミュルタトゥーリーは同一人物

スディルマン通りを少し下がって来るとブミプトラ・ビルとチェース・プラザの間の空き地にオフイスビルが立ち又その後ろにも細高いアパートが建ったがそこに出てくる道がSetiabudi通りである。Setiabudiと言うのも人の名前で、彼は多くの名前を持っていてこの名前が一番知られてない名前であるがそれが道に付けられている。
Danurdirdja Setiabudi、Dr.(1879年~1950年)
民族運動家ダウウエス・デッカー(Douwes Dekkerデッケル)のことで後半生にSetiabudyと改名した。その前に名前を借用したミュルタトゥリと言う名のおじは「マックスハーフェラール」の作者である。(甥の子)印欧系混血であるがどちらからも受け入れられずインドネシア人としてその差別に不満を感じ、インドネシア人と印欧人が共同で独立を目指すべきとしており、ブデイ・ウトモ運動に限界を感じていたチプト・マングンクスモやスワルディ・スルヤニングラート(後のデワントロ)は共鳴し1913年共に政党「東インド党」を結成した。この仲間3人をTiga Serangkai(3っつの束:三葉のクローバー)といわれる。東インド党は印欧人へのやっかみからインドネシア人の支持は少なかったが、オランダ政庁は危険な団体として、この3人を国外に追放した。デッカーはスリナムに、他の二人はオランダであった。帰国後、バンドンITBに在学中のスカルノと交流し影響を与えた。後に日本の協調も選択したタムリンと協働し、独立に尽くした。Jun07_053
写真はその道の奥にある昔からの安ホテルの最近の表情である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

オアシス・レストランとRijsttafel

Oasis_restoran
昔は遠来のお客があるとこのレストランに招待したものであるが最近はチョイスが増えてOne of Themになっているかも知れない。行けばバタックの男性ギターコーラス4人組が主賓にショールをかけて記念写真を撮ったものであるがそれより有名なのがリス・ターフェルという料理の供し方である。これはRise Tableと言う意味であるがいろいろな料理12種を12人の美女が抱えて持って来てお客の皿に一品ずつ置いていくもので、植民者オランダ人が編み出した贅沢なのであろうが、この店が引き継いでいる。ここはラーデンサレー通りで、店のブロスールには1928年当時の茶・ゴム・キニーネで一儲けしたBrandenburg van Oltsendeと言う金持ちが建てた住宅で日本軍が攻めてきた時には、時の総督がここを隠れ家的に使用したり、米軍海軍武官府公邸であったりしたそうである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »