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2007年6月 8日 (金)

ディポネゴロ・セントット・キアイモジョ

昨年の7月10日にディポネゴロ王子についてブログで紹介したが、他の読み物があったのでそこから要点を報告しよう。1822年アマンクブオノIVが死去し若年の子が後を継いだが前にラッフルズに約束させられていたディポネゴロが無視される状況に至っていた。彼は反欧州の急先鋒として人々の尊敬を得ていたが1825年オランダ政庁が彼の所有する聖なる墓所を通過する道路を作ったことがこのジャワ戦争の直接のきっかけとなった。ディポネゴロ軍は勇敢なセントット指揮で優勢を得ていたがオランダ軍のデ・コック大将は本国やセレベス等他の島からの出征軍を得てベンテン戦法で強化する中1829年には、仲間のマンクブーミも降伏、ムラピ山腹ではキアイ・モジョ指揮官が逮捕されイモギリでは司令官のセントット自身が相手軍門に走るや戦争は勝敗を決しデポネゴロは協調を願ったが欺かれ逮捕され、最初はメナドに追放されその後マカッサルに移送、同地で亡くなった。クバヨランのパクブオノVI世通りの先にキアイ モジョ通りがある。

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