« こんな所もメンテン通り | トップページ | 改訂国税通則法No.28/2007の邦訳 »

2007年7月27日 (金)

Dewi Sartika女史はCondetへ

7月13日と4月27日のブログで書いたOTISTA通りを受け継ぎ南に下る道がDewi Sartika通である。このOTISTA通りとDewi Sartika通りは、北のアンチョールからの南へ、グヌンサハリから クラマットラヤを経てマトラマンラヤへ更に ジャティネガラ通りからこのOTISTAとDewi Sartikaに繋ぎ更に南へ行ってタンジュンプリオクからチャワンの南に延びる9月30日事件のMayjen. Sutoyo通りと合流しボゴールラヤ通りとなりボゴールに行く、かってのオランダ時代の避暑地行きの道路を構成する。或いはDewi Sartikaは上記の合流手前で左折しながら南に下るこれも古いチョンデットラヤにつなぐことも出来る。この名前になったDewi Sartikaは1884年、西ジャワ チチャレンカ生まれである。彼女はオランダに反抗しテルナテに放逐され亡くなったソマナガラ王(Raden貴族)の娘であった。小学卒だけであった為、後にインドネシア婦人教育問題に奔走した。1904年には自らバンドンで夫人学校を設立、独立した建物を得た1910年にはラーデン デウィ・スクールと名前を変えたが火の海バンドン事件で放棄させられた。1947年Cineanで亡くなり、1966年に民族運動の英雄(Pahlawan Pergerakan Nasional)に叙せられる。

|

« こんな所もメンテン通り | トップページ | 改訂国税通則法No.28/2007の邦訳 »

インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: Dewi Sartika女史はCondetへ:

« こんな所もメンテン通り | トップページ | 改訂国税通則法No.28/2007の邦訳 »