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2007年7月の投稿

2007年7月31日 (火)

チキニの謂れとコーヒーショップ

Cikini_coffee_shop_3
チキニに行くには現在はJl..Soerosoと名前を変えた ゴンダンデア通りのHotel Mengtengの先を右に
折れてタマン・イスマイル・マルズキに出てくる道を通る。このチキニ通りは一方通行であるのでいつもTIMに出てきたら右折させられ、左手側をよく見ることが少ないが、どうも左手の方も昔の名残を残しているようである。ある日少し歩いていたら昔風のケーキ屋兼コーヒーショップがあったので覗いてみた。写真の右手にはティールームがあり誰もいないので一人でくつろぐにはいいかも知れない。そのうちオランダ系と思われる若い青年二人がケーキを買いに来た。多分オランダ社会ではこのケーキ屋は有名なのかもしれない。
このチキニの名前の言われは多分昔の方言を使った冗談と思うが。。あるときこの地区の家に泥棒がはいったが、主がこれを捕まえてやってきた警察に叫んだ言葉から来ている。
Ci Kini(Sir Here he is)、Gondandia!(Hang him)これはIda Indrawati KhouwさんがJP誌に書いていた話である。

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2007年7月30日 (月)

マトラマンのST.Joseph カトリック教会

Stjoseph_matraman
マトラマンラヤを下ると立派なカトリックの教会が現れる。余り大きすぎて写真に取るのが難しい。前に通りはバスウエーのバスストップが大きくジャマしているためもある。ここは1924年に建てられた教会でデザインは又あの有名なFransJohan Louwrens Ghijsels(1882年~1947年)である。色々作品が多すぎるがKOTA駅も彼の作品である。 1921年頃のこの地区には1,000人の欧米系カトリック教徒がいて、ミサはウエルトフレーデンのカシッドラル或いはKramat Parish 教会に行っていたというが今は7,000人にも膨れ上がり、拡張したはずである。

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2007年7月29日 (日)

一人では足も遠のくアンチョール

アンチョールは正式にはTaman Impian Jaya Ancol であったが2006年に北ジャカルタの観光地に選ばれ名前をAncol Jakarta Bay Cityと変更している。552haの広さにゴルフ場、インドネシア版デズニーランド、シーワールド、4starホテルが二つ、マリーナ、ボーリング、芸術広場、コテージ、プール等々がある。
このアンチョール地区は18世紀のAdriaan Valckenier総督の時代から名勝地で、彼は綺麗な別荘を作った。
第2次大戦とこれに続く独立戦争の間にアンチョールは忘れ去られチリウン川が無制限に水と泥を貯め込み、この地区は汚い、よごれた汚泥地帯となり子供を捨てる悪魔の土地として戦慄するような場所になった。
その後この地帯を工業地帯にする提案があったがスカルノ大統領は一言の下却下し観光地とすることとし1965年の12月に当時の市長Soemarnoに命じたが、実行は次のAli Sadikinがチプトラが率いるPembangunan Jayaに建設させて完成した。1970年にテアターモービルが建設された後1985年にドゥニア・ファンタジーI が出来現在のようになった。今はシィーワールドにロブスターを食べに行くくらいであるが、昔は良くお世話になったものである。
シーフード、ダンドゥットディスコ、ビーチプロムナード、おこう、クラブHailai、ハワイアンダンスショー、大晦日カウントダウン、海浜フイッシング、帆船ボーティングなど懐かしいが、テアター・モービルはあれは80年代だったろうか。忘却の彼方である。

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2007年7月28日 (土)

改訂国税通則法No.28/2007の邦訳

かんかんガクガク3年間も討議されてきたインドネシアの税法であるがその目玉である国税通則法がやっと昨日、公にされた。 官僚が作った原案は国会審議で納税者の権利が生かされ殆ど脱骨されたと行っても過言ではない。これで納税者と税務署がイクオール・スタンスに立つことが出来る或いはこれでやさしいインドネシアの税務署の人達と友達になれるかもしれない。この翻訳はインドマルコ社で早くも完成、一般販売の予定である。 
旧3法との合体版で注釈付で69頁、販価はRp600,000+VATである。
一寸ここで試しに宣伝してみたが、ご希望があればメールすると良い。 メールアドレスはrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netである。

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2007年7月27日 (金)

Dewi Sartika女史はCondetへ

7月13日と4月27日のブログで書いたOTISTA通りを受け継ぎ南に下る道がDewi Sartika通である。このOTISTA通りとDewi Sartika通りは、北のアンチョールからの南へ、グヌンサハリから クラマットラヤを経てマトラマンラヤへ更に ジャティネガラ通りからこのOTISTAとDewi Sartikaに繋ぎ更に南へ行ってタンジュンプリオクからチャワンの南に延びる9月30日事件のMayjen. Sutoyo通りと合流しボゴールラヤ通りとなりボゴールに行く、かってのオランダ時代の避暑地行きの道路を構成する。或いはDewi Sartikaは上記の合流手前で左折しながら南に下るこれも古いチョンデットラヤにつなぐことも出来る。この名前になったDewi Sartikaは1884年、西ジャワ チチャレンカ生まれである。彼女はオランダに反抗しテルナテに放逐され亡くなったソマナガラ王(Raden貴族)の娘であった。小学卒だけであった為、後にインドネシア婦人教育問題に奔走した。1904年には自らバンドンで夫人学校を設立、独立した建物を得た1910年にはラーデン デウィ・スクールと名前を変えたが火の海バンドン事件で放棄させられた。1947年Cineanで亡くなり、1966年に民族運動の英雄(Pahlawan Pergerakan Nasional)に叙せられる。

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2007年7月26日 (木)

こんな所もメンテン通り

Jlnmenteng_depanpetaniJlmenten_rusakメンテンラヤ通りからモナスに向かう丁度ホテル・アルヤドゥタ前の農夫の像の前の辺りには取り残されたチナ商店が幾つかあるがその商店の間で左折して入り込める道がある。
ここもMenteng通りである。メンテン地区の将に代表する名前の道であるが、自動車が入れない、入ってもどこかに発展するわけもない道である。何故こんなところに由緒あるMentengなどと言う道があるのだろうかとジャカルタ中を見渡すとあちこちにあることに気が付いた。ボゴール、デポック、ジャガカルサ、チカラン、タンジュン・ドゥーレン。。。圧巻はチャクンのブカシよりにMenteng Metropolitanなる一角がありここに50ほどMenteng何々と言う道が密集している。
このジャカルタ中央のメンテンの名前の由来は、一説にはこの地を保有していたオランダ人の名前(van Mutinghe)から来ているとも言うが、むしろメンテンと言うのはメンテンと言う果実木の名前でその果実木が茂っていた土地なのだろうと思うと合点が行く。

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2007年7月25日 (水)

Ali Sadikin市長にこんなにも功績が

ジャカルタ市のオランダ時代の旧建物等の保存、公園、博物館に意を尽くしたことで、小生のブログにもよく名前の出るアリ・サディキンH. Ali Sadikin元ジャカルタ市長を紹介しておこう。退役海軍中将(Letnan Jenderal TNI KKO-AL )だけあってスマートさを感じさせる。KKOとは海兵のKorp Komandoである。1927年7月7日生まれの80歳でJI. Borobudur No. 2 でご健在である。今までにBintang Mahaputera Adipradanaを叙勲(Tanda Kehormatan)している。スカルノ大統領時代に何度かスカルノの内閣を海洋大臣等で支え、Putera Bangsaに列せられた。氏は首都の首長を1966年から1977年まで務めた。特に芸術振興にも力を入れ1968年にはタマンイスマイルマルズキ(TIM)をオープンした。その他、ラグナン動物園、プロジェクト・セネン、アンチョール夢公園、タマンリア・ルマジャ、プルイット衛星都市、などをオープン、チョンデット地区の文化再評価やバス網の整備にも力を尽くし或いは今に続くジャカルタ生誕記念日の祭りや博覧会ジャカルタフェアーをスタートさせた。スハルト崩壊時には政治改革に種々助言・批判活動を行った。今度のジャカルタ市長選挙には建築に明るいFauzi Bowoを支援している。息の長い活動の人生である。

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2007年7月24日 (火)

年間通したジャカルタ観光行事

年間通して行われる観光行事についてJakarta Travelが案内する所で主要なものを下記すると
*ワヤン・クリット:国立博物館、 毎月第二及び最終土曜の夜、1時間に短縮されている。日曜の朝方にはファタヒラーのワヤン博物館でも行われている。
*ガメラン音楽:国立劇場 毎日日曜朝
*インドネシア伝統舞踊:タマン・ミニ公園、毎週土曜9.00 から14.00まで、アンチョール芸術市場でも土曜夕方或いは日曜朝方行われる。
*3次元立体映画館:タマンミニ、毎日
*ワヤン・オラン:Gedung Kesenian劇場で、毎週水曜日、8:15から終わるまで、出し物がKETOPRAKの日もある。
*その他モナス、ファタヒラーの絵画陶器博物館やアンチョールのシーワールドである。
これらは特別な行事ではない。元々ジャカルタにはいつもやっているような観光行事はないので国立博物館に本当かどうか行ってみよう。何度か行って見たが何も行われていなかったような気がするが。博物館以外でも拡大したPlace of Interestsは合わせて200ケ所ぐらいあるはずだが、保護建築物と同じように登録制にして見学客が気安く入れるようにしたらどうだろうか。

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2007年7月23日 (月)

マンガライのSDN No.1とNo.2

MangarraisdnMangarraisdn_bina
Mangarrai
オランダ時代の学校で現在も残っている学校が5つあることは先に紹介したが、その一つがマンガライにもある。地区はManggarai UtaraでDutch Staat Spoorwegenの国営鉄道会社ののコンプレックスに建てられそのオランダ人従業員子息用の学校であった。1916年建設で当時はMarschalk Landと呼ばれた。屋根が2段でお互いに同じ角度で上下に組み合わされその間の隙間がエアコンの役目、屋根の上に小さなタワーがある。 午前の学校がSDN1であるが午後の学校はSDN No.2である。現在文化センターとしても利用されている模様。写真は長屋風のが学校、タワーのあるほうが兼文化センター。殆ど隣にも小さな学校があり序に写真を掲げておこう。

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2007年7月22日 (日)

ジャティネガラは軍都

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デンマーク出身のVOCの兵士でもあったJohannes Rach(1720-1783)は風景画つきの著作を残し、その中でこの土地の要塞を描いている。Buitenzorgに行く道をガードするようにチリウン川の曲がり角の高地にあったという。ダンデルス総督もここに要塞を作ったが彼の赴任は1808年ゆえRachが描いた要塞はその前のものである。マタラムがバタビアを攻撃したときのキャンプもここであった。1811年イギリスがフランス支配下のオランダのバタビアを占領したときの最大の戦いが起こったところもここである。1811年8月イギリス軍12,000人のインド人主体の兵はチリンチンの上陸、騎兵隊がバタビヤに侵攻するや仏・オランダ軍は戦わずしてWertvredenからStruiswijk(Salemba)に引き、更にここMeesterで戦い大敗した。司令官が土着言葉を知らず前に進め!と言うのをLarilah Lari cepat!と叫び土人は一斉に逃げたという。Lariとは逃げると言う意味である。この蘭英の戦いは西祥郎氏の「ニャイ・ダシマ」に詳しい。写真はなんとなく。

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2007年7月21日 (土)

昔の最高裁判所 ex.Mahkamah Agungは財務省所有

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昨日のブログに書いたようにラパンガン・バンテン・チムール通りの角地に昔の最高裁判所であった建物がある。財務省本館の敷地の左手であるが、現在はなにも使用されていない。前庭など草がぼうぼうで朽ちていくのではないかと思われた。 この財務省の敷地は広くその前にはにはあのピータースゾーン・クーンの銅像があったが今はその名残もない。多分木が植えられているところだろうと思って偲んでみた。 或る日曜日ここには人影もなく正門は硬く閉まっていたが旧裁判所側の門は開いている。さすがオランダのヘリテージの最大級のものだけあるわいと思ったがいつもあいている保証はない。
この建物は1808年オランダ植民政庁が建設したもので、完成は1825年で総督が日常使用する事務所であったが1848年から最高裁判所となり使用されていたものだ。正面はドーリア式円柱が6本立っているクラシックスタイルであり、正面写真はポピュラー故あえて横からの写真を掲載する。 建物の所有は財務省で建物正面額にDepartemen Keuangan R.I 歳入総局とある。 一時予算総局が使ったり博物館となった時代もある。

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2007年7月20日 (金)

AMSオランダ時代の高校は今SMUN-1

ラパンガン・バンテン・チムール通り=財務省前の道をパッサルバルー方向に向かう道は昔の最高裁判所の所で右折しグヌンサハリ通りに出る。この道がブディウトモ通りである。この短い道には幾つか古い学校があるようだ。Stma1_budi_utomo
その一つはSTM-1 工業高校である。多分その横に隣接してあるのもSMUN-1高校も共にオランダ時代の学校である。STM-1には1906年の数字が屋根の壁に記されている。古くはKoningin Wilhelmina Schoolと呼ばれた。
SMUN-1は所謂AMS(Algemeene Middenbare School)でよく民族活動家の履歴に出てくる所謂高校で、現在も高校として使われている。 
Smun1_ams
現代には不向きのように見えるが裏に新館もスポーツもできる中庭もあるそうである。オランダ時代の学校は公立で5校残っているが現在皆、学校番号がNo1.である。6月15日のブログのスカルノ爆弾事件のあったチキニ小学校もその一つである。

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2007年7月19日 (木)

インドのBebekが大攻勢か

月曜日にスシロバンバンユドヨノ大統領を招待した工場の操業式典が行われた。インド第3位の2輪車メーカTVS社の工場で場所はカラワンのスルヤチプタ工場団地である。敷地20ヘクタールで年産30万台の2輪車を生産する。 所謂ベベックタイプ(a duck-shaped 110 cc Bebek step-thr)の新世代で“Neo”と呼ばれる車種である。
総投資は$50百万であるが国産化率を80%まで高め3年で1億ドル迄予定している。ユドヨノ大統領は夫人同伴でファーミ・イドリス工業大臣も参加、インドからはVenu Srinivasan会長(元ユニレバーインドネシア社長)夫妻が来イしておりかなり力が入ったもののようである。ネオの価格はRp11.6百万レベルで中国の安値戦略とは異なる自信のあるものである。
TVSは80年代にスズキと合弁を作ったこともあり(現在スズキは独立)日本の技術を習得している。インドのこの分野の生産技術は相当信頼を得ており、中国のコピー製品もインド市場には入れないという。インドのオートバイ販売台数は2004年650万台が2010年には1,000万台と急成長中である。6月で最大手はホンダ車(Hero社)で24万台、2日はバジャージで12万台、3位はTVSで4万であるが、この月は前年同月比17%(TVSは40%)の減少を記録した月である。
2000年の中国車のインドネシア市場乱入は、品質、ベンケルサービス、中古品市場等で日本の牙城はゆるぎなかったが、インドネシア青年男女の日本びいきもある気がする。これがあると強いはずであるが。

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2007年7月18日 (水)

6月のインドマルコ社投資トピックス

インドマルコ社の6月度のインドネシア投資環境関連ニュースをサマライズすると
*バタム島全域を自由貿易地域に:経済閣議で決定
*イ格付け改善の予測ムーディーズ。政府債務の割合が徐々に下がっていることも好感。
*3月末時点の貧困者数3,717万人、前年同月比215万人減。貧困率は16.58%で
*南マルク共和国活動家ら約25人が大統領式典に乱入騒ぎ。
*国税通則法改正案がようやく国会通過、来年1月1日より施行。税務紛争へ道
*ヤマハ発動機、カラワン第2工場増設計画、年産能力180万台に。投資約4億円の見通
*新経済政策パッケージ発表。計141項目。ネガティブリスト策定、VAT還付の迅速化など。
*今年の国内自動車産業成長率予想、昨年(9.79%)上回る11.5%:購買力回復の兆し
と総じてプラス項目であった。

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2007年7月17日 (火)

コタ旧中銀前の歩道トンネルの現況

Bank_mandiri_kota
コタ駅前に工事中の歩行者用地下トンネル建設で発掘されたオランダ時代の建造物の部分と思われる遺物の話が又新聞に掲載されている。今回はインドネシア大学の考古学教授Mundardjitoで氏はこのプロジェクトの前に建設の許可を取るべきで、歴史的サイトの掘削工事を許可なくやることは違法であると苦情を述べている。
昨年末、工事人夫が西側の入り口のマンディリ銀行博物館を掘っているときに古い貨車、テラコッタパイプ、木の杭、レンガ類を発見した。
市の文化博物館局の事前調査ではバタビア城の壁は傾斜を持つ形であるが発見されたものは直立型であり、
この場所はバタビア城壁ではないとしている。氏はこの場所はバタビア城のあった場所に近いこと、テラコッタパイプは18世紀のバンテンの上水システムに使われたものと似ていること、オランダ時代の地図にはスケールの概念がないので決め手がないとして全ての発掘物の分析を要求している。
既に半年以上もたっているが今日まで結論は見てない。この間6月に行った時はトンネル工事はまだ完成してなく渋滞にまぎれて何も確認も出来なかったが、次回又訪問してみよう。写真は4月ごろのもの。

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2007年7月16日 (月)

洪水対策の地下大トンネル計画

この水曜日に又スティヨソ市長が大プロジェクトをぶち上げた。洪水対策のため雨水を海に流す大口径の地下トンネル構想である。これはクアラルンプールでも採用されており彼のプロジェクト仲間カラ副大統領と公共事業大臣と共に来週見学にマレーシアに出かけるそうである。
これは西運河(洪水運河)の下15メートルに東ジャカルタのBalekambang からManggarai、Tanah Abang、Roxy、空港のCengkarengのほうに抜ける22kmのトンネルである。このトンネルの中に直系12 メートルの2層の道路と下水貯水槽を設置する。いわば交通渋滞、水量調節、洪水対策、下水改善の多目的のトンネルシステムであるが、総コストは約16兆ルピア(1.8兆ドル)という。
同時に開催された洪水対策のセミナーで水力工学の専門家は洪水対策には洪水壁、洪水運河、人口湖、貯水地域を作るという事と洪水予告と警報システムが重要だと主張した。西運河の壁を高くすることでこのトンネルの目的は代替できるとSiswoko 氏はこのプロジェクトで洪水問題が解決することに懐疑的である。 
元環境大臣のSarwono Kusumaatmajaも出席、彼は、コストが巨大であろうとも統合灌漑システムが必要だと市のプロジェクト賛成派である。今年2月の大洪水では140人が死亡、8兆ルピアの損失を出している。8兆ルピアとすると2回で元を取る事になるのだが。。
クアラルンプールのそれは全長約10km、全高約6mの洪水対策トンネルが約5kmの2層式有料道路が併設、総工費6千億円以上である。東京では首都圏外郭放水路は、延長6.3km、直径約10mの世界最大級の地下河川方式の放水路と神田川・環状七号線地下調節池の延長約4.5km、トンネル内径12.5m。現在は神田川の洪水調整池トンネルであるが将来は地下河川とする計画とのことであるが、交通併用ではない。

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2007年7月15日 (日)

クルタネガラとスミトロジョジョハディクスモ

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クルタネガラ通りがプルナワルマン通りと交差する角地に大きな建物がある。政府財務省の所有の研修センターの如しで正式にはBadan Pendidikan dan Pelatihan Keuangan、Kampus Sumitrojojohadikusumo(金融教育訓練庁、スミトロジョジョハディクスモ キャンパス)である。
スミトロジョジョハディクスモはインドネシアの中央銀行や財務省の重鎮であるので彼の名前を冠しているのだろうか。 彼の経歴を紹介しておくと:
Prof.Dr. Sumitro Djojohadikusumo (1917年~2001年) 中部ジャワ、クブメン出身
スミトロ博士は欧州に留学しロッテで経済博士号取得、ソルボンヌ大学留学、オランダ経済教会勤務、1946年帰国、スタンシャフリール首相のスタッフを皮切り。蔵相顧問、1947年インドネシア銀行総裁、49年h-グ円卓会議参加、50-51年ナッシール内閣通産相、52-53ウイロポ内閣蔵相、55-56原発布内閣蔵相、51-57インドネシア大学教授、学部長、1959年の地方騒乱時Permestaに走ったためスカルノの手をのがれて欧州に亡命。スハルト時代に帰国、バークレイ学派を率い軍内閣に文民閣僚を送り込んだ。スマーリン、アリ・ワルダナ、ウイジョジョ・ニティサストロと言う煌びやかな面々である。68-73商業相、 73-78 科学技術相、スハルトの経済顧問時代の1994年、投資の30%は水漏れ(Kebocoran)していると発言しジャーナル界が騒いだことがある。
又親族家族でもスハルトの次女を貰ったコストラッド司令官プラボウォ・スビアントと当時経済界の星であったチルタマスグループのハシム・ジョジョハディクスモは息子であり、BI総裁であったスドラジャッド・ジワンドノは甥である。
スハルト崩壊後の壮絶な権力の争奪戦には手を拱くしかなく、子供達の悲運を助けることも出来ず亡くなった。
クルタネガラは彼の第2の故郷であろう。

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2007年7月14日 (土)

インドネシアの最高裁判所

Mahkamahagung
大統領宮殿の横並びに立派な建物があるがここがインドネシアの最高裁判所 (Mahkamah Agung)である。住所はメダンムルデカウタラ 9-3で現在の最高裁判所長官(Hakim Agun)はBagirMamanと言う人であるが余り用はないだろう。最高裁判所に上がってくる裁判は地方裁判所等の第1審(初審)、その判決に不服な場合の第2審(控訴審)、その判決に不服の場合の上告審の三審制度であるがその他に特別裁判所の破産や労使紛争や税金特別法廷などの上告もある。オランダ時代の最高裁判所は財務省の横にあるがここは建物が保存されているだけである。対応する最高検察庁(Kejaksaan Agung)は昨年12月28日に写真を付けたが何れも建物は堂々たるものだ

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2007年7月13日 (金)

OTISTAの横死の一因

4月27のブログにOtto Iskandar Dinataについて書いたが、宮元静雄氏の終戦処理記にも彼の名前が出ていた。それによると、1945年ブリタールで義勇軍の反乱があったが片桐大隊の説得で武力行使に至らず解決を見ることができた。指導者スプリヤディは行方不明のままであるが首謀者の裁判の陪席にスカルノが自ら買って出たが結局オットーイスカンダール・デナタが推薦された。義勇軍指導部の山崎大佐は後にこれが氏の横死の一因になったかも知れないと言う。云々。 
日本軍はインドネシアが独立宣言をした日には義勇軍を解散しており、オットーはその義勇軍後援会長であった。スプリヤディは義勇軍ブリタールの大団長でもあった。独立宣言後の共和国治安団の参謀長に行方不明のまま推薦された。
横死と言うのはこうである。 タンゲランにあったLaskar Hitamというアラブ系イスラム過激派組織が1945年10月31日に当時国防大臣であったオットーイスカンダール・デナタを誘拐し、最後は12月20日にタンゲランのマウク海岸で頭をはねられ殺されていたのが見つかったと言う事件である。当時オットだけでなく何人かの政府要人も誘拐された。ラスカールヒタムはBarisan Brani Matiとも言われ又のちのKarto Suwiryoの騒乱事件(1946-1963)の源となったという。
オットーはタムリンと共に日本にインドネシアの将来を期待した一人であった。為に利敵協力者Kolaboratorとして殺されたと見る人もいる。
Otto Iskandar DinataはOTISTAと省略し道路名にもなっているが ここのBNI オティスタ支店が訓練課徴金の払い込み口座があったのでなんとなく馴染みがある名前である。

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2007年7月12日 (木)

カルタネガラKertanegaraと大邸宅通り

クバヨランバルに日本人が住まなくなってクバヨランバルの道路名も関心が低くなっていよう。 クバヨランの道路は丸に十の字の家紋に木の葉の葉脈か亀の甲紋が走っているようで覚えるのに難しい。4っつに分かれた地区の北東(右上)部分の横にはしっているのクルタネガラ通りであるが、途中一方通行の南北に走るグナワルマン通りに邪魔され直進が出来ないが、パッティムラ通り側は大きな邸宅が並んでいる。 この道路名になったクルタネガラはシンゴサリ王国最後の王である。祖父はシンゴサリ建国のケンアロックであり、娘婿はマジャパヒットを建国した。 仏教を深く信仰し、仏教の聖人としての銅像がスラバヤにある。一方、スマトラのスリウィジャヤから、ムラユ国に大艦隊を送り一時支配下に置くなど積極的であったが、本国の政治は乱れ、ケンアロックが殺したクディリの一族のジャヤカトワンの復讐で殺害された。
彼の在位は1268年から1292年で、日本では鎌倉時代の終わりの頃であるが、姦計と復讐の時代背景は似たようなものである。 クビライの使節を追い返したのも彼であり、将に北条時宗(1968年~1284年)と同じである。 Jun07_kartanegara4_kbaru_018
写真はクルタネガラ通りの著名な家である。

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2007年7月11日 (水)

アジア・カップにインドネシア1勝

Img0024_stadiuma_bunkarno
インドネシアを主開催国として始まったアジアカップ2007でインドネシアはdグループでバハレーンに2:1で1勝目を上げた。Dグループで1位・2位が決勝戦に進むので2勝すればいいのだろうが後の試合は韓国とサウジで、これはバハーレーンとは訳が違うだろう。 Mereka bukan Tim yang tiddak mungkin dikalah, tapi Indonesia bukan tim yang tidak bisa menang 彼らが負けるとは思えないが、インドネシアが勝てないとは決まっている訳ではないという心境らしい。 此方にいて状況は判らなかったが応援でファナティックになりやすいインドネシア人で地元で何が起こるか判らない。 14日 サウジと対戦、18日が韓国戦である。 共にスナヤンのゲロラ・ブン・カルノ・スタジアムで行われる。決勝戦もここで7月29日に行われる。FIFAのランキングでは143位のインドネシアではあるが頑張って欲しいものである。
スナヤン・スタディアムといえば1962年のアジア大会開催の為スカルノが建設したスタディアムで彼の名前を冠されている。正面の写真でも飾っておこう。

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2007年7月10日 (火)

チキニのプールとスネンのプール 

チキニ通りのカラオケ・SYURIの手前に、前庭の駐車場を広くとっている洒落たレストラン ブルー・ムンバイがある。 ここはインド人の菜食主義者の店らしく、当面お世話になることはない店であるが、その店の前の道路の向こう側は昔からトタン塀で囲われた広い一角があり、ここがオランダ時代に広いプールがあったところで当時のオランダ人の憩いのレクレーション場所であった。Cikini_pool
このZwembad Tjikini(Cikini Swimming Pool)の施設は1925年に建設され1980年台までは存在したというが、当時の写真を見ると、50メートルのオリンピックサイズ プールの両側には白い背広を着たゼントルメン達がびっしり水面を渡る涼風を楽しんでいるのが見える。 休み時間なのか誰も泳いでいるものが居ないのが不思議な写真である。裏の奥も整備された公園みたいに見え多分ラーデンサレーの庭園の一角であろう。
Cikini_pool_ato
今、囲まれた塀から覗いて見ると建てかけて途中でやめた建造物があり、その地下に雨水が溜まっているほか、奥の方はジャングル化している。 再度写真を見ると良き時代に飛んで行きたくなる感傷がある。このプールの建築設計はあの有名なAIAグループの設計者でその人はこのブログで、パウルス教会や運輸通信省の建物でも紹介した。
囲んだ塀にはHotel Formule 1の名前が出ており、チョクロアミノトに進出したこのHOTELがここの途中放棄の建造物の土地を購入したのであろう。 しかしここは既に多くのホテルがある。Sofyanホテルやメンテンホテルは隣り合っている。 Senen_1
序に現代の隣町のスネンプールの賑わいをお伝えしよう。

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2007年7月 9日 (月)

JALフライトの不思議

今日、日本に戻ってきたが飛行機の乗客は前回よりも増えているように見えた。JALも何故か機種変更してジャンボを投入していた。 ジャンボといえば既に人間では言えば壮年、なんとなく使い難い古さがある。
いつものはボーイング777だったのであろうか最後座席番号が 57でジャンボ747-400は67であった。
横の座席数がいつもは9席、今回は10席あった。 パーソナルテレビのリモートも使い勝手が悪く、その上画面が頻繁に止まるので席を移ることになった。 乗客が増えたといってもまだまだ座席は空いており、最後列一つ前のの66番から50番へ、その真ん中4連席に寝ることが出来た。いつもは最後の列近くに座席を取るのであるがそれはそこにキッチンがあり、ちょくちょく酒をねだれるからであるか、その癖で今回も最後列に座席をとったのであるがそこはトイレコーナーでキッチンは前にあり逆に一番遠いところとなった。
そこに又なぜかインドネシアワーカー風の男達が約16名ほどぎゅうぎゅう詰めにさせられていた。
あれだけ空いているのであるが。。。、
相変わらずタイ人ガールがおしゃべりをしながら働いていた。 テレビで日イEPA締結で看護師受け入れのニュースはながれていたが。。
国際線のフライトルートマップに日本地図がでるがそこの代表的都市が何故厳原なのか何故佐賀なのか、何故蔵王なのかわからない。
降りてから、健康申告の黄色い紙を貰ってないことに気づきスチュワーデスの不親切にむっとしたが、なぜか空港での健康申告カウンターでは係官も居なく今は実施を取りやめたのであろうか

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2007年7月 8日 (日)

ジャカルタの繊維博物館案内

Tekstil_museum
繊維博物館tekstil museumと言うと日本では繊維工業博物館を連想するがインドネシアのこれはインドネシア各地の伝統の布の文化を紹介するもので、建物自体が繊維博物館の由来とは関係がないが瀟洒で且つ豪壮な古い一寸した宮殿である。1800年代にフランス人の個人の住所であったとある。その後トルコの領事のAbdul Aziz Al Mussawi Al Kartiriと言う人が買い、1942年にDr.Karel Christian Chruqが買い、独立宣言後ここは人民治安団の司令部になり、又民間のLie Sion Pinなる人の所有を経て政府が買い取り、1977年これもアディサディキン時代にイブ・チエン・スハルトが博物館としてオープンのテープをカットした。
ラーデン・サレーのマンションについての記事をよむとラーデン・サレーの邸宅はSayid Abdullah bin Alwi Alatasと言う人に買われたがこの人は後一つ現在の繊維博物館の建物を義父より相続したと出ているが上記の繊維博物館の説明の中には符合が確認できない。敷地は広く建物の裏も大きな庭園になっており、幾何学的西洋庭園と建物に覆いかぶさる枯れ老木が青空に映える様は美しい。
内部は余り趣味もなくなんとなく入らずじまいであった。古いバティックやイカット、プーランギのカインがその機織や染色用具と飾ってある。

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2007年7月 7日 (土)

ブンカルノ大学

Bunkarno_univ
チキニラヤ通りのプガンサアーン方面の端にブンカルノ大学がある。スカルノ教育財団が1999年に設立した私立大学で3,000人程度の小さい大学である。法学、経済、経営、社会、IT等の学科をもつ。1999年といえばハビビ大統領時代或いは後半はメガワティ副大統領の時代で、スカルノの名誉回復に尽力してきた3女ラフマワティの力があったのであろう。ここは6月22日のブログのメトロポール・Megaria21の隣でメンテンアパートのある静かなところである。

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2007年7月 6日 (金)

明日はジャカルタ・カーニバルの夜

市誕生480年記念行事の一環としてジャカルタ・カーニバル略してジャカルナバルが土曜の夜開催される。これは市誕生記念行事として今回は8回目であるのでついこの間の1999年に始まったものである。メイン会場はCity Hallの前で夕方19:00に始まるが、ハーレーデビットソンバイクの行進、帆船学校生徒によるマーチング・バンド、インドネシア国旗掲揚隊、そのほか“ジャカルタをインドネシアのマルチ文化のシンボルにしよう”を旗印に全国各地から集まったグループの行進も見ものである。この中にはFalun Gongの瞑想グループやジャヤ・アンチョールや多くの企業グループ、中には韓国のPT Korea World Centerも参加して賞金を狙う元気さである。
花電車の列もモナスからタムリン・スディルマンを通ってスマンギまで行進する。
こうした行事で主催者の市文化局ではジャカルタの安全性を訴えている。安全かどうか行って見るかな

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2007年7月 5日 (木)

スーパー クラブ K7 エクゼクティブ エンターテインメント

K7_super_club
先のブログで崩壊中のオランダ時代の建物の写真を付けたがこの通りはコタの奥、ファタヒラーの先のKunir通りに繋がるカリ・ブサール・チムール3通りで、このKunir通りNo7にアジア最大のデスコの一つがある。面積15,000m2に6,000人を収容できるワンスポットエンターテンメント 宮殿である。
写真は横から取っただけで行き過ぎてしまったのでその壮大さは又の日に譲るが、ここには二つのデスコ、一つはColosseumで3,000人、他の一つはIbizaで800人収容できるが他に10-50人用のカラオケが40部屋、ピアノ・ラウンジ、ガーデン・テラス、バーラウンジ、カフェ、レストランもありブテックホテル34室もある。
(Kunir St. No. 7、Pinangsia Village, Taman Sari、62-21-6907575)オーナーはLetty Johanで日本やドイツでも経験を積んだ趣味の男で帰国後デスコを始めて財も積み上げたのであろう。
K7
広告の写真を見つけたので付けておこう。

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2007年7月 4日 (水)

ジャカルタ・コタ・クのルネサンス

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ジャカルタはかってはクイーン オブ ジ・イーストと言われた国際都市としての栄光を持つ美しい町であった。広い道に整然と植樹された緑豊かな木々の間にグレコ・ローマンの宮殿を中心に、グランド・コロニアル・スタイルの建物とアートデコ調の建物が並び、熱帯の生活に適した大きなベランダや窓をもつマンションやカントリーハウスが点在していた。今ジャカルタではコタ・トアのルネサンスを願った活動が始まっている。建築保存専門家のBudi LimやMiranda Goeltom,中央銀行副頭取のを含んだ7人委員会が“Jakarta Old Town Kotaku”を立ち上げ、政府と保存の協定書を結んだと報じられている。彼らは①街のリノベーション・保存と②経済開発と③古い建物の芸術文化の促進という三つの目標を結合させているが、行き着くところは資金問題のようである。更に委員の一人は悪名高い汚染と交通渋滞とならず者と乞食どもの氾濫を嘆いている。

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2007年7月 3日 (火)

TIMのラーデン・サレーの庭園は動物園

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昨日のラーデン・サレーの邸宅の裏庭は個人の広大な動物・植物園であった。彼は1864年にこの10ヘクタールの土地をバタビア市に寄贈しオランダ植民政府は植物・動物ソサエティを設立し動植物園として維持してきたがインドネシア独立後の1949年にはKebun Binatan Cikiniと名前を変更した。
収容動物も増えてきたため100年後の1964年に動物園は現在のRagunanに引越し、跡地はTaman Ismail Marzukiとして1968年アディサディキン市長の時代に芸術広場として開園している。

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2007年7月 2日 (月)

Raden Salehの一生

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チキニラヤ通りとサレンバを繋ぐオアシス レストランやチキニ ホスピタル前の通りはRaden Saleh通りで彼はインドネシア最大の宮廷画家である。
本名Raden Saleh Syarif Bustamanは1814年、スマランのアラブ系の貴族の家系に生まれ、ベルギーの芸術家A.A.I.Payenによりその才能を見出されオランダへの留学をアレンジして貰った。そこで或いはその後パリで良き教師(1829年からCornelius KrusemanおよびAndries Schelfhout)に付き才能を伸ばし、欧州の宮廷貴族、特にデューク候と知り合い、オランダ、オーストリア、プロイセンの騎士称号も得た。20年も欧州各地、或いは一時北アフリカに居住したあと1852年にはジャカルタに戻ってきてフランス ロマン ネオゴシック スタイルの邸宅を建てた。これが今Raden Saleh通りのチキニホスピタル内に保存されている。このマンションは最初彼の美しい欧州アジア混血の夫人と住むためであった。その後、彼はジョグジャに移りスルタンの従妹と結婚した。更に彼は一時破壊活動の陰謀に巻き込まれた嫌疑でボゴールで隠居させられ、1880年に亡くなっている。
彼の作品で有名なのは「デポネゴロ王子の逮捕」でこれはジャカルタ歴史博物館にコピーが飾ってある。更に「生と死の間」という絵やMerapi_merah_rsaleh
メラピ火山の絵がジャカルタBalai Seni Rupa(芸術セラミック博物館)にある。殆どのオリジナル作品は欧州の貴族の家庭や博物館にあり中でもアムステルダムの宮殿博物館の「Bull Hunting」は有名である。チキニ病院の方は昨年9月29日のブログで紹介している。

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2007年7月 1日 (日)

自然の驚異Karang BorongはAnyerに

ジャカルタは海岸都市であるが海で遊ぶにはインド洋のプラブハン・ラトゥに行くかスンダ海峡のAnyer又はCarita Beachに行かねばならない。Anyerの方はメラック行き高速で2時間弱だから行きやすい。浜に出ればクラカタウ火山を拝めるしSol Marbellaなどと言う大規模ホテルやコテッジも多い。
大噴火の後建設された華麗な白い灯台も有名である。ジャカルタポストに後一つ忘れてならないスポットを紹介していたがそれがカラン・ボロンで訳すと岩の穴であるが陸地から突き出た岬状の岩場の下は波で穴が開きゲート状になっているもので其処まで登っていくことが出来る。
頂上から見るとこの岩場が今にも海に崩落しそうなスリルが味わえる。そこからは陸の方は白いビーチを囲む山々の風景、海の方に目を転じれば美しい青い海と白い雲の地平線のパノラマである。同じようなKarang Borongは中部ジャワのパチタンやクブメンにもある。インドネシアにはこうした天然自然の美しさは沢山あるがあるというだけであることが嬉しい。(観光地にならなくて)
Photo_20
写真はアニエールの河口ので要を足している風情の夫人と村落の夕昏とどき

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