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2007年8月の投稿

2007年8月31日 (金)

日本領事館がムルデカ・バラットにあった時代

Merdeka_barat_alazhar_025
日本大使館は戦後賠償・平和条約が発効した1958年4月15日に大使が派遣されたことになりそれから丁度50年になる。それまでは領事館のみでこれが現在のムルデカ・バラットのRRIの横の国民福祉調整大臣事務所だったそうで、その後はイマムボンジョールに移ったそうである。これも広沢さんの情報で送っていただいた当時の地図に記載がある。そのあと現在のタムリン24番地に大使館ビルが建てられ進出企業も相当収容できていたと聞いているがこのビルは2005年堅牢な要塞ビルに建て替えられた。立替の間はサリパシフイックホテルの前のATDビル(?Menara Thamrin)にいたこともある。どんどんお上が遠くなっていった歴史である。
ムルデカバラットからイマンボンジョールやタムリンに移った経緯はちょっとわからない。
当時の外務委員会で時の藤山国務大臣が次の通り答えているが 尚何処のことやら不明である。「平和条約の批准が終りましたならば大使館を設置して、そうしてそれをやるつもりで、現在あそこで大使館の建築をやっておりますから、そういう時期がすぐくると思います。」(これは条約署名前の話である)

(追記)2017年5月11日ブログhttp://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/uscagarbudaya-2.html参照
蘭印時代日本領事館はクブンシリーの先のFachrudinにあった。

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2007年8月30日 (木)

スカルノとチキニ小学校

Photo
チキニ小学校ブログ第3弾目であるが、1957年11月30日のスカルノ爆弾事件当時は長男のグンター・スカルノプトラが学んでいた。手りゅう弾を投げた犯人は60年に死刑されているがそのあと62年プルメスタ反乱の後の弾圧で既に投降したズルキフリ・ルビスが関与しているとして逮捕している。犯人は死刑されているので反証のしようがない。犯人はイスラム過激派で当時のスカルノはどん底の経済・国民生活を西イリアン開放戦争にはけ口を求めたが国連でも見放され平和解決の放棄宣言をするどん底にあった。この年の初めにはスマトラ・スラウエシでのプルメスタ反乱への動き、共産党伸張とナサコム体制、戒厳令施行の下にあった。
この学校はCikini76にあり最初Sekolah Rakyat Mayumiと言い1942年プリアイのインドネシア夫人が設立したとのこと、優秀な生徒が集まっていたと見え、日本軍政時代に“Di Timur Matahri”が強制された小学唱歌コンテストでいつもこの学校が優勝していたとイワンチルタ氏の思い出が語られていた。イワンチルタ氏はメンテン在住のバテックの名匠である。

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2007年8月29日 (水)

社会連帯の日HKSNの記念碑

パッサール・セネンのチェンパカ・プティの方に向かう通りの角に人民兵が立ち上がって攻撃する姿の記念碑がある。Apr_2006_048
下は噴水になっており子供達が水で戯れていたので写真に収めた。
この記念碑はHari Kesetiakawanan Sosial Nasionalの記念碑でこのハリと言うのは1948年12月20日、つまりオランダが第二次警察行動として当時の共和国首都ジョグジャカルタを攻め、スカルノ・ハッタを逮捕した日である。記念碑の周りで休んでいた人に尋ねてみたのであるが、彼は貧しい人々との友愛の記念碑だと言っていたが、多分この日が我々の周りで口に出ることはなく殆どの人は知らないのではなかろうか。今度の12月20日を良くウォッチしよう。

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2007年8月28日 (火)

TIMにはイスマイル・マルズキの胸像が

Messunda_kelapa_pertamina_tim_j_pal
TIMには何度も足を運ぶのであるが、ここにこの公園の名前となったイスマイル・マルズキの銅像があるというので探しに出かけた。 その気になると直ぐ解かったがその気にならないと解からない。正門を入って直ぐの花壇の中にあった。この銅像は1984年建立されている。彼は1914年TIMの近所のKwitang(ブログで紹介済み)で生まれて丁度民族運動が燃え上がったときに青年期を迎え多くのクロンチョンを作詞作曲した。「インドネシア・プサカ」「ハローハローバンドン」は誰も知っているがその他以下に題名のみを列挙する。
Selendang sutra、 Aryati 、Gugur Bunga、Melati di Tapal Batas (1947)
Wanita 、Rayuan Pulau Kelapa 、O Sarinah (1931) Sampul Surat
Sepasang Mata Bola (1946) 、Bandung Selatan di Waktu Malam (1948)
Keroncong Serenata 、Kasim Baba 、Bandaneira 、Lenggang Bandung
Karangan Bunga dari Selatan 、Selamat Datang Pahlawan Muda (1949)

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2007年8月27日 (月)

MEDCO Panigoroの積極的展開 

8月25日のブログで出てきたメドコ社であるが、正式にはPT Medco Energi Internasional Tbk. (MEI)で社長はHilmi Panigoroである。MEIの創設者は兄のアリフイン パニゴロであるが、昨年はヒルミの下で業績を拡大させ特に海外原油開発・採掘ではアメリカ以外にもオマーン、リビア又最近カンボジャにも進出した。彼は2007年には最低8ケ国でオペレーションを実施することを目標としている。彼はインドネシア新エネルギー開発協会(METI)の会長を務めている。
石油以外の部門では電力の業績は大きく拡大し、又2006年11月にバイオエネルギー事業に参入しバイオエタノールを生産する。12億ドルの市場価値と16億ドルの資産を保有するMEIは国庫へのリベニュー・シェアリング契約の納付と税金の支払いも大きく最近4年の間に平均6億ドル以上を納付してきた。会社の維持伸張の為には大きな投資金額を必要とし毎年平均3億ドル以上の資本調達が必要とのことである。このリポートには成功の秘訣みたいなことは書いてない。若いインドネシア青少年のために何か書いてくれるといいのだが。。
Medcoはやはり兄のArifinの下で大きくなったもので、9部門で24の企業を擁する上場企業である。ITB卒の彼は多分、親譲りの財産もあったはずで頭脳明晰と政治的な感覚を持ち合わせ、プリブミ育成やプルタミナの自由化の政府の方針に旨く乗ったのだろうと思われる。73年大卒後、プルタミナに入社するも75年にはPLNの家庭用電気配線を手がける建設会社を設立し独立、80年に現在の会社の源流たるドリリング会社Meta Epsi Drilling Company(PT Medco)創立している。84年にはバンドンのPreanger Hotelを購入しているほか92年に東カリマンタンのTesoro Tarakan Petroleum所有の油田や95年南スマトラのStanvac Indonesiaの油田を買い取ったのが土台のようである。今日三菱商事は間接的にメドコの20%の株主になったニュースが報道された。Niaga_tower_atlet_hotel_004
写真は保有ビルの一つニアガタワー。

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2007年8月26日 (日)

鉱山エネルギー省の建物はStanvac

タムリン通りの北の端、ムルデカ・スラタンとの角にある重厚な建物は鉱山エネルギー省の事務所であるが、ここは昔米国スタンダード石油系スタンバックの事務所であったが日本が占領したときは日本軍の総司令部として使われた。総司令官今村将軍の将軍邸は今のムルデカ宮殿であるので近かった訳だ。スタンバックと言っても今の若い人にはわかるのだろうか。カルテックスもどうであろうか。
小生の昔の住宅のオーナーはカルテックスの役員であったので、なじみのある名前043
であるが、昔の油田権益保有者は全てプルタミナに譲渡させられ請負契約の地位に落とされて今は名前もなくなったのであろうか。更に今はメドコなど国内企業がどんどん膨張してきている。
昔のインドネシア石油事情は広沢氏のペイジに詳しい。http://www16.plala.or.jp/bouekitousi/index.html
写真は今日取ってきたものであるが樹木が茂り過ぎて全貌が取れない。

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2007年8月25日 (土)

重点市場インドネシア:エネルギー事業調印総額53.5億ドル

三菱商事/メドコ・プルタミナ LNG輸出基地 $12億
双日・神戸製鋼/ブミリソーシス 褐炭液化 $13億
丸紅・韓国中部電力/トリパトラ 発電事業 $7.5億
伊藤忠・九州電力/メドコ・プルタミナ 発電事業 $8億
三井物産・東京電力/パイトン発電増設 $10億
伊藤忠/プルタミナ国内向けLNG貯蔵施設運営 $3億
上記は安倍首相の訪イの際調印されたインドネシアとの契約である。この他にも伊藤忠はメドコへの融資買油もあり、重点市場の一つである。ここではメドコ社が目を引くが別途リポートしよう。

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2007年8月24日 (金)

チャンドラワシ事件・強運のスカルノは5度暗殺

子供が学んでいたチキニ小学校での爆弾事件は先に報じたが、そのほかにスカルノは5度ほど暗殺しかかっている。マカッサルでは1958年と1962年二度、一度は臼砲により、2度目は大統領乗車の車の後方に手榴弾を投げられて、3名が巻き添えを食ったが本人には怪我もなかった。他にジャカルタとボゴール上空より飛行機による狙撃事件もある。1962年初めの1月7日のマカッサル事件はチャンドラワシ事件と名付けられていて、当時西イリアン解放に国民を掻き立てていたスカルノに挫折を狙うものであった。犯人ラトゥプリア曹長は死刑され一件落着後、プルメスタの反乱も鎮圧したあと蒸し返し、この反乱のインドネシア統一共和国の調整官であったイダバグス・スルヤ・テナヤを逮捕、チャンドラワシ事件に関与したものとして死刑の判決を下している。1962年はシャフリル元首相以下政敵も逮捕しスカルノの悪政から転落に向かう時であるが、やはり暗殺事件の連鎖も大きく影響したのであろうか。暗殺が悪政を呼ぶわけないから、悪政が暗殺を呼んだはずである。

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2007年8月22日 (水)

マンガブサールのBakmitanは今も営業

Mangga_besar_iv
これも広沢様の情報で60年代、コタのマンガブサールIVに旨いラーメン屋があったとのことで今もあるのか探しに行ってみた。マンガブサールの通りのロカサリ側は奇数番号、向かい側は偶数番号ゆえロカサリの直ぐ先でユーターンし側道に入り探し、又人に尋ねたら目の前がマンガブサールIVであった。何故か奥の方は人だかりがしておりその道は鉄格子で半開きで侵入できないので歩いて入った。喧嘩でもしているのかと思ったが人だかりは子供のサッカー見物の人だかりであった。ここでも人に店の場所を聞かねばならぬほどその店は看板もなく、間口2間ほどの小さな店であった。辿り着いたときは2時半過ぎでもう、その日の営業は終わりと言うことで味見は出来なかったが店の前でサッカー見物している親父の言うことには、昔よくプルダニア・バンクの日本人が食べに来ていたという。その店はもう80年くらい経つとも言う。旨くて人気があるのに店を拡大する欲も無く、そこが人気の秘密かも知れないが、バンドンのミーナリパンを思い出した。同じ揚げ団子が入っているバクミーである。

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2007年8月21日 (火)

スンダクラパモスク横のKusuma Atmaja

Messunda_kelapa_05
夜、チキニ方面からRasunaに向かうとき以外余り通る事はないがスロパティ公園に面したバペナスの裏側のスンダクラパモスクの前の道の西側がKusuma Atmaja通りである。
この辺りもモスクの喧騒がなければ広々とした静かな住宅地である。しかし最近はお釜も出没する。この通りの名前になったクスマ・アトマジャ氏も苦笑しているかも知れない。クスマー・アトマジャ氏は正式にはDr. Prof. Sulaiman Effendi Kusumah Atmajaで1898年西ジャワ、プルワカルタ生まれである。インドネシア独立後、最高裁判所(Mahkamah Agung)の創設に尽力、初代最高裁判所長官となった。ジャカルタのインドネシア法学校を卒業後奨学金を得てライデン大学に3年留学した。法分野の政府の仕事をしながら当然政治活動は出来なかったが、密に独立運動を支援した。日本占領時も引き続き裁判の仕事に携わった。1947年に一度、オランダによる傀儡政権パスンダン国の代表に薦められるがこれを断った。 最高裁判所裁判官の現在までの歴代最高裁判所長官を紹介しておこう。
Kusumah Atmadja 1950 1952
Wijono Prodjodikoro 1952 1966
R. Soerjono 1994 1996
Sarwata bin Kertotenoyo 1996 2000
Bagir Manan 2001 2006
Bagir Manan 2006 現在

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2007年8月20日 (月)

プリンセン・パークはどこ 

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Lokasari
広沢氏からのメールにプリンセン・パークなる名前が出ていたので、マンガ・ブサールのロカサリだというので行ってみた。この名前は多分ロカサリが出来る前、この一帯にオランダ人の公園があったのであろうと推定できたのであるが、着いて裏側から探検をはじめ、警備の人に尋ねて見るといとも簡単にそのありかを指し示してくれた。ぐるりとロカサリを回り又たずねるとこの人も簡単にも少し左だと言う。人々の記憶の中に名前ぐらいしか残ってないはずなのに何かがあるというので勇んで行く。この辺りだろうと言う所で又聞くと目の前の大きなホテルがそのプリンセン・パークであった。つまりこの地域の公園?の名前がホテルの名前に付けられていたのである。又そこは表の入り口の直ぐ右であった。この名前はオランダのゆかりのある名前で偶々読んでいた書物に以下のような記述があったので、関係あるなしを問わずここに記録しておこう。
「スペインとの戦いが続く中、1584年7月10日、ヴィレムはデルフトの彼の居館プリンセンホフで、フェリペ2世を信奉するフランス人のカトリック教徒バルタザール・ジェラールによって暗殺された。昼食をとるために2階の書斎から1階へ下りようとしたヴィレムは、突然現れた暗殺者から3発の銃弾を浴びせられ、「神よ、わが魂と愚か者たちにお慈悲を」との言葉を残して倒れたと伝えられている。プリンセンホフの階段の壁にはその時の弾痕が今も残されている。次男マウリッツが後継者として1585年にホラント州、ゼーラント州の総督に就任する。その後、1597年までに再び北部7州をまとめ上げ、対スペイン戦争を継続していった。」
会社のスタッフにも聞いてみたが知っているというので又驚いた。彼は年齢30台なのにオランダ時代のことを知っているのかと思いなお聞くと、彼の知っているプリンセン・パークはカジノ、ビリヤード、6映画館、多くのレストランなどからなる遊興地であったというので親父連中のノスタルジックな話の中の記憶であろう。

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2007年8月19日 (日)

ベンクルーのスカルノ・ファトマワティ公園

ベンクルーの州政府はブンカルノとファトマワティが住んでいた住宅を再建移駐しPersada Soekarno Fatmawatiという名前の公園を建設する計画である。
スカルノとファトマワティの家の間には小学校と住民の家があり離れているが将来は一つにする。Persada Soekarnoと言うのはスカルノが住んだことのある他の地域の場所にもあり、ベンクルーのものを本命としたい。ただファトマワティの家は娘のSukamawati SoekarnoputeriによるとBNIのベンクルー支店となっており交渉しなければならない。スカルノの方は貿易を行う中国人が所有していたものでオランダ風、中国風、地元伝統の混合様式である。以上州の責任者の話である。
オランダにより流刑されていた余りに酷いフローレス島のエンデからここに移されここでスカルノは3年間読書に著述に明け暮れ、日本進駐時直ちに開放された。後に独立宣言時使用されたインドネシア国旗を縫った国母といわれる第一夫人ファトマワテイと知り合うのである。
ブンカルノはSang Proklamator独立宣言者、Sobat Makples、Marini Sipayung(海兵隊の保護者?)などと今も敬愛されている。(独立までのスカルノは)

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2007年8月18日 (土)

バスウエー6号、4号、1号乗換えでB-Mへ

「dukun_atas.jpg」をダウンロード
Dukun_atas

Pizzaman

独立記念日の17日、運ちゃんを休ませ念願のバス試乗を行った。ラスナからブロックMまでは路線地図で読んだとおり2駅を乗り継ぎ行くことが出来た。先ずラスナサイドでRp3,500 noチケットを買い、改札を抜け待つほど7分、ラグナン動物園からやって来た6号線に飛び乗った。生まれて初めてのインドネシア バスである。安作りに見えるが思いのほか小奇麗な座席を見渡していたら次の駅で背中にしていたドアーが急に開きそのまま座席の柱に挟まれていしまった。センサーもないためドアーが閉まるまで惨めに待たねばならなかった。
路面は大きな凹凸面があり、右や左のカーブをスピードを上げて飛ばす為危険を感じる。スルタンアグンの橋からラトゥハルハリまでは一般道路、そこから4号線との接続のハリムン駅で降りると駅は人々でびっしり、今日は日が悪かったなと辞めようかと思ったが数台バスをやり過ごすうちに次の乗り換え地ドゥクアタス行き4号線バスに乗り込めた。ドクンアタス駅はランダマークビルを回りこみその横にあり、スデイルマンの1号線の駅とは150メートルほど離れておりその間専用ブリッジでつながっている。スデイルマンのドクンアタス駅で又4台やり過ごして乗り込むことが出来た。スデルマンからシシンガマンガラジャを通ってB-Mに向かう。運ちゃんの横の一番前の座席に座ることが出来、いつもと違う車窓の景色を見ながらやっと写真を撮る余裕が出て来た。接続駅では駅構内が仕切られておりそこから外に出ない限り1回のチケットで何度でも乗り継ぎできる。
チケット代は値上げの話もあり、こうなると余り日本と変わらなくなるが今でも利用客は中流階級のようですりの心配は余りしない。何度か話しかけてみたが人々は愛想悪く、これは緊張している為であろうか。

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飛行機に乗り遅れたらの怪事件

今日ジャカルタに出発、盆が過ぎると料金が安くなるが、其れほどお客は激減するのであろうか。 今日は適度に混んではいたが又三つの席を独占できた。前の方はかなり混んでいるが後ろのコンパートメントは空いている。いつもの通り客を数えるが今日はちょっと数えるのは難しく、多分40人ぐらいか、つまり90座席ある後ろのコンパートメントで以前数えた7人が9人になり23人になり今日は40人と言うわけである。今日は夏休みなので少し割り引くとしても少し増えてきたことがうれしい。ところが中々動き出さない。誰か一人遅れているのでお待ち下さいのアナウンスがある。ふと見ると未だ荷物を載せている最中なるのを発見、その後説明ではその人は乗らないことになったのみアナウンスがあったので早速食いついてやったがチーフアテンダントが後から説明に来て言うには荷物は載せているのではなく乗らなくなった人の荷物を下ろしていたのだと言うことが解かり、そのようなケースでは危険物の荷物だけのせ本人は乗らないことがあるので必ず下ろすということで大納得。これはテロ未遂であり或いは愉快犯か、飛行機会社はきっちり警察に報告しメデイアも取り上げ犯人はとっちめないといけないと思ったこであったが、後で考えると自爆犯の荷物はどのように排除できているのだろうか。自爆する気になれば危険な荷物を載せられるコとになる。いつものリピートになるが、噛み付きたいところは:未だジャカルタ便にタイガールが乗っていること(これも事前に噛み付いたのでおしゃべり用カーテン仕切りはしなかったが。。)、世界の天気予報にKLはあるがJKT・Baliはないことは変わりないが、今回の機内ビデオは前回の往復で見たスパイダーマン、シュレック、ディープブルと3本も同じものでお茶お濁していた。又
飛行場での手荷物検査で使い古しの歯磨きチューブを没収された。きちんと透明のビニール袋に入れて且つキッチリ見せたのであるが。。自己申告すると言ったとおりに宣告する医者、占い師、警察を思い出した。

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2007年8月16日 (木)

Marlborough要塞は荒廃を生き抜く

Photo
写真で見るこの要塞は壮大で堅忍不抜である。このベンクルー(ベンクーレン)の要塞はイギリスが1715年に当時のイギリス東インド総督J.Colletが建設したものである。名前の由来はウインストン・チャーチルの先祖であるマルボーロ公ジョン・チャーチル(1650-1722)に捧げるとされたところから来る。5ヘクタールの亀の形をしたこの砦は監獄や武器倉庫としても使われ、海岸に面した小高い丘の上にある。海岸はTapak Paderi湾にありその眺望はキャンバスには描ききれないという。この地はスカルノが流刑にされた場所と同じであろうか。
上記にさわりを借用したこの写真の解説記事には何も触れてないが。。

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2007年8月15日 (水)

“Merdeka”の挨拶制定

17日の独立記念日には“ムルデカ!”が日常の挨拶になる。語源は自由な人マイダイケルではないかと思うのであるが本当はしらない。この挨拶言葉はスカルノが定めている。時に1945年8月31日、スカルノは次のメッセージにより、“Merdeka”を1945年9月1日からの国民の挨拶にすることを決定したのである。挨拶のやり方は”Merdeka”と叫びながら拳を前に突き出し手を高く上げるべしとされている。
Sejak 1 September 1945 kita memekikan pekik “Merdeka”Dengoengkan teroes itoe,sebagai dengoengan djiwa jang Merdeka! Djiwa Merdeka, jang berdjoang dan bekerdja! BERDJOANG dan BERKERDJA! Buktikan itoe1945年9月1日より我々は“Merdeka”を叫ぼう これを独立の精神の雄たけびとして叫び続けよう。独立の精神とは闘争と仕事に励むことである。闘争と仕事を!証明しよう。
やはりスカルノは偉大である。ヌサンタラの隅々まで一体となる独立への熱望をかき立てていったのである。この挨拶を聞くと外国人でも身が引き締まる。宗教に逃げない、私利私欲を追わないインドネシアであって欲しいものだ。今日日本は終戦記念日 昨日「日本の一番長い日」という映画を朝方まで見たが、日本は仕掛けは早いが降伏の仕方がわからず大臣連の決断に時間を取っただけで、天皇の決断は早かった。

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2007年8月14日 (火)

インドネシアのイスラムは未だ。

ミスユニバース2007の森理世さんが8月2日からインドネシアに来ているが12日はバンドンで絵画のオークションに参加する予定であったがインドネシアのイスラム過激派のプロテストが高まりバンドン行きは中止となったそうである。反対の理由はポルノだと言う。何を夢想するのだろうか。プレーボーイ誌にも反対したが最終判決ではプレーボーイ誌は無罪となったはずである。
又12日は世界のイスラム急進派組織ヒズブット・タフリルの集会がジャカルタで開かれた。この組織は(Islamic Liberation Party – ILP)とも言われカリフを頂点とするイスラム社会の統一を目指すものでアラブ諸国の一部でも活動を禁止されているものである。各国からの演説者のスピーチを聞く為に約8万人が集まったそうである。同様な集会がこの間パレスチナでも行われILPのAmir(Prince又はLeader)の'Ata Bin Khalil Abu Rushtaのスピーチを録音で流した。
演説者は下記が予定されている
1. Dr. Imran Waheed (Hizb ut-Tahrir Britain)
2. Sheikh Ismail Al Wahwah (Hizb ut-Tahrir Australia)
3. Sheikh Issam Ameera (Hizb ut-Tahrir Palestine)
4. Syeikh Uthman Abu Khalil (Hizb ut-Tahrir Sudan)
5. Prof. Dr. Hassan Ko Nakata (Japan)
* Hafidz Abdurrahman, MA (Hizb ut-Tahrir Indonesia)
* KH. Abdullah Gymnastiar (Popular scholar who regularly appears on
 Indonesian TV)
* Prof. Dr. H. M. Amin Rais ( Former leader of Muhammadiyah)
* KH. Ma’ruf Amin (Majelis Ulama Indonesia)
* DR. H. Adyaksa Dault, SH, M.Si.
* KH. Drs. Hasyim Muzadi (General chairman of the Central Board of Nahdlatul Ulama)
* Prof. Dr. Din Syamsuddin (Current leader of Muhammadiyah)
* KH. Habib Riziq Shihab (General Chairman of the Islam Defending Front, FPI)
* KH. Zainuddin MZ (Reform Star Party, PBR)
*Abu Bakar Bashir(Indonesia's Mujahiddin CouncilのリーダーでJemaah Islamiyahの精神的指導者)
英国と豪州のスピーカーは入国拒否されたとのこと、又13日のジャカルタポストにもリパブリカにもWeb上では何も発見できなかった。

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2007年8月13日 (月)

大砲Si Jagurの伝説

Si_jagur
昔ファタヒラー広場の北の端の衣料キオスクが並んでいる雑踏の中に少し卑猥な形をした昔の大砲が横たわっていた。現在はジャカルタ歴史博物館の裏庭の木陰の下に置かれている。この大砲のキャップは右手の拳を握り親指を人差し指と中指の中に差し込んだ性行為をイメージした形をしており、昔は多くの人が妊娠の神として供え物をし、祈りの最後は跨ったといわれているが、今はそんな謂れを信ずる人はいない。
Heukenの伝える伝説では「昔パジャジャランの王様が悪夢を見て見知らぬ大きな大砲からの大きな音を聞いた。翌日王は宰相のKiai Setomoにその大砲を探すよう命じ失敗したら処刑すると言い渡した。彼は家に帰り夫人のNyai Setomiと相談、この砲を探す為、瞑想に入った。しばらくしてやってきた王の軍隊は二つの大砲が転がっているのを見つけた。兵は二つをマタラムに運んだがKiai Setomoの大砲はバタビアにのがれた。」と言う訳であるが、Heukenはこれはオランダがポルトガルのマラッカから戦利獲得したものでバタビア城に設置されていたという。他の話ではオランダが来る前、ポルトガルがパジャジャランの王に畏敬の念で送った贈り物とされている。それには三つそろいであったがKiai SetomoとSetomiは番としてマタラム王家のBrajanalaゲートにおかれたがKyai Setomiは夜鳴きする為バタビアに移された。あと一つはバンテンにあるという。砲身に“Ex Me ipsa renata sum”と書かれているところを見ると時代を経て幾つかの大砲から再鋳造されたことになる。真実よりも伝説のままにしておこう。
8月21日にGedung Kesenian Jakarta (GKJ),でこの伝説が演じられる。写真はジャカルタ歴史博物館の裏庭からヘルメスの像を撃つ。

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2007年8月12日 (日)

西新宿のBKPM東京事務所・インドネシア投資の問題

Bkpm
5
木曜日に、11月9日のブログでも紹介したBKPMの東京事務所に北島さんを訪ねた。西新宿と言うので時間の余裕を作って先に東口の賑わいでも見て回ろうと思って新宿に着いたが、駅の周りの地図掲示板には西新宿5丁目は見当たらない。ちょっと慌てたが、たずねたずね大江戸線に西新宿5丁目駅があるのがわかり事なきを得た。
新宿西口からは多分二駅分くらいの距離があるが、都庁、中央公園、熊野神社、12社(そう)を見物しながら行くのもいいのだろう。正しくはインドネシア投資調整庁東京事務所:住所 :東京都新宿区西新宿5-7-1 若月ビル3階電話 :03-3320-7692、メール:bkpm521@bkpm-jpm.ocn である。
丁度インドネシアへの投資相談のお客と応接中であったので、まだまだ日本からの投資案件もある証であり一安心するものがあった。インドネシアからの正式所長は帰国しており、代わりの公式人事はなく個人本位の経営に堕していると指摘しておられた。インドネシアは中国に顔を向けており、日本が苦手な資源・エネルギーを重点部門としている中で昭和電工・丸紅のアルミナ事業性評価会社に期待を持っておられた。所謂ネガテイヴ・リストも商業省からの関与が厳しく逆行していると憤慨。
小生もハビビ内閣後のBKPMは投資拒絶型になっており、何も期待するところがない。人が変わると過去の方向性を無視し又自己の裁量権を拡大する為むしろ逆行となるのはインドネシアでは普通のことなのである。
写真はBKPM東京事務所の看板と同じ通りから見た東京都庁

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2007年8月11日 (土)

新幹線の喫煙専用?車両

急に福岡に行く用ができ、飛行機の座席は取れずハイシーズンの当日券は割引料金の2.5倍と無茶苦茶な値段をつけるので新幹線に飛び乗って行ってきた。小生福岡までは始めてであったが5時間程度で思ったより短時間で、座席は広く、総じて快適であった。飛行機一本槍を見直すこととなったが一つだけ問題は1車両が喫煙専用車然となっていることである。偶々そこに乗りタバコの煙がご法度の病気持ちの小生は酷い目にあった。本来喫煙ルームは一本程度数ために憩う人用に作られるのであり、ある車両を喫煙ルームにしてそこに数時間座ることを考えたら正気の沙汰ではない。タバコが悪とせば悪は散らせば征伐できるが纏めたてはいけない。この車両は自由席である1号車から3号車の中の3号車で全体の16車両の乗客の内一寸でも禁煙できない喫煙者を引き受けているので猛者ばかりでひっきりなしに吸っている。始発ではやっと座席を確保できた全員が一斉に一息つくので車両内はもうもうたる煙となる。
全体で2-3個の立ちんぼの喫煙スペースを作るとかもっと換気設備、酸素供給設備を設置して欲しいものである。岡山でやっと小生の回りの席は若い世代や婦人が座るようになり何とかタバコの煙からのがれることが出来た。

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2007年8月 8日 (水)

ジャカルタの人口の不思議

ウイキペディアにジャカルタの人口の長期推移が出ていた。少し年代・数字を丸めると
1870年     65,000
1900年    115,000
1930年    435,184
1940年    533,000
1950年   1,733,600
1960年   2,900,000
1970年   4,500,000
1980年   6,500,000
1990年   8,200,000
2000年   8,300,000
2006年   7,512,363
これを見ると独立からスハルト時代は10年間で1,200,000から2,000,000の人口増、1,990年から増加ピッチは落ち、最近は前年比減少である。推定するに先ずは家族計画政策が特にジャカルタ市住民で進んできたこと(80年代央から)、農村からの人口流入抑制が働いたこと(90年代央)、都市の飽和・環境破壊からのUターン(最近)として見た。最近の原因は少し大胆であるが、若年層の就職機会の減少による相対的に豊か農村への帰農或いは郊外都市へのシフトと見たのであるがどうであろう。1870年以前の数字はないが別途記録した数字によれば
1643年     27,068(内オランダ人2,024,奴隷13,278マイダイケル5,362中国人2,747)
1750年     14,141(内ヨーロッパ人1,541奴隷8,717)
二つの数字の出典は違うが、どちらも土着人は少ない。(スンダクラパ時代のベタウイは600人という記録もある)、奴隷は外島等から連れてこられたものであろうが、又追放されたのであろうか?

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2007年8月 7日 (火)

Prof. Dr. Saharjo通りのサハルジョとは

突然ではあるがパンチョランの塔通称7UPの大彫像のサークルの北側にProf.Supomo通りがあるが更にその道を北に取るとProf. Dr.Saharjo通りとなる。この通りはどう見ても一つの通りであるが途中のBalai Sudirmanの辺りで名前を変えているようだ。そこから北がサハルジョ通りで北の端はパサラヤ・マンガライである。但しパサラヤ・マンガライ辺りの道は逆の一方通行となる不思議な道である。何故ここがサハルジョ通りなのか彼の経歴からは判らない。彼は1909年ソロ生まれである。SHを取得後、インドネシア大学の名誉博士号を得、独立後は政府の重要な部署を経て国務省の副大臣を務めている。 法学の分野では新しい選挙法や旧オランダ法令のインドネシアとしての多くの法律の整備に尽くした。1963年亡くなった年に独立英雄(Pahlawan Kemerdekaan)に叙せられた。

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2007年8月 6日 (月)

進むバス・ウエーネットワーク 

色々批判を無視しながらやって来たバスウエー・システムも結構お客が乗っているように見えこれはこれで成功するのではと思わせるようになってきた。さらに来年1月からの営業を目指して3路線がこの8月から建設に着手される。追加3路線は:
8号線 26km:Lebak Bulus - Harmoni:通過駅はJalan Ciputat Raya, Metro Pondok Indah, Teuku Nyak Arif, Letjen Soepomo, Panjang, Daan Mogot, Raya Tomang, Gajah Mada/Hayam Wuruk.

9号線30km:Pinang Ranti - Pluit:通過駅はJalan Pondok Gede Raya, Raya Bogor, Mayjen Sutoyo, MT Haryono, Gatot Subroto, S Parman, Latumeten, Jembatan Dua, Jembatan Tiga, Pluit.

10号線 19km:Cililitan - Tanjung Priok通過駅はJalan Mayjen Sutoyo, DI Panjaitan, Jend. Ahmad Yani, Yos Sudarso, Enggano.
距離数も大したものである。又全体では15路線になるやに聞いている。15路線といえば東京の地下鉄路線に匹敵するので可也といえるが接続が悪いのが難点である。今度アパートからブロックMまでの路線利用が可能かチェックしてみよう。

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2007年8月 5日 (日)

7月インドネシア投資環境ニュース


*欧州27カ国へのイ航空会社の乗り入れ、正式に禁止に:EU決定。サウジも追随。
*会社法改正審議:企業の社会的責任(CSR)義務、廃棄物排出会社等に限定
*投資ネガティブリスト/条件付開放分野についての大統領令署名される。
*テロ黒幕とされるバアシルが次期大統領候補! 急進派ムジャヒディン評議会が推薦方針。
*スラウエシで大雨と地すべりで72人以上死亡46人行方不明
*マンディリ、首都空港鉄道プロジェクト投資1.7兆ルピアの70%支援方針表明。
*ナイキの契約打ち切り:副大統領が緊急閣議する騒ぎに。従業員らが再びデモ。
*物品税法改正案も国会で可決。贅沢品税が物品税に代わる余地できる。
*州都法案が国会可決。州知事の閣議参加認められる。
*バイオ燃料投資流行る。上期の民間投資170億ドル記録、

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2007年8月 4日 (土)

Pramuka通りはボーイスカウト100周年

サレンバのマトラマンラヤ通りからプロガドゥング工業団地に向かう道は手前半分がPramuka通りで先がPemuda通りである。Pramuka とはPraja Muda Karanaの略で(ボーイ)スカウトである。 
1907年に英国ロバート・ベーデン - パゥウェル卿によって始められたボーイスカウトの運動が今年8月1日100周年を祝っている。 イギリスの発祥の地ブラウンシー島での100周年記念ジャンボリーに世界150ケ国が参加している。インドネシアはオランダ時代の1916年には早くもボーイスカウトを作っている(注:日本も概ね同じ年である)がその後幾つかの組織が生まれていたため1961年5月20日付けの大統領令で1本化され1961年8月14日に全国組織のGerakan Pramuka (Pramuka 運動)がスタートした。この100周年を記念して各国で記念切手を発行するようで86ケ国が計画している。記念のテーマの"One World One Promise" (Satu Dunia Satu Janji).が印字される。 切手収集はこの運動の中で推進された趣味の一つで、国も記念切手を発行してきており、それらの切手を通じて過去の活動を追跡できる。
インドネシア代表は350人からなり7月29日のインドネシアデーではアンクルンの合奏、パプアの踊り、Jemberの衣装カーニバルを披露し満場のスタンディング喝采を浴びたそうだ。インドネシアのスカウトは上流階級の子弟の雰囲気であるが、今年はストリートチルドレンをフォーカスした活動を行っている。

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2007年8月 3日 (金)

チキニのオランダ人ショッピングプロムナード

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チキニラヤ通りの郵便局の先に2階建ての長屋風の商店が並んでいる。いつもはサッと通り過ぎるのであるが良く見るとなにやら風情のある建物である。自動車を降りてみると、広い歩道もついて一つ一つの商店が広いショーウィンドーを持った商店街で、古いオランダ時代からのショッピングプロムナードである。 1920年代建設に建設されたもので7月31日のブログのコーヒーショップもここにある。この正面、道を隔て、昔これもオランダ次代のApotheek、Kimia Farmaがあったが最近小さなモールに変わっている。この道は一方通行なので中々アクセスが面倒である。この一方交通は余り機能してなく少なくともTIM辺りから一方通行を解除しないと両方共将来はないかもしれない。

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2007年8月 2日 (木)

Borsumij Wehryは今は郵便局

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チキニ通りの入り口に古い建物がある。今は郵便局であるが、オランダ時代は有名なトレーデイィンッグハウス Borsumij Wehryの事務所であった。英文コレポンのサンプルに出てきたりした一流商社である。現在もいわばオランダの総合商社の如しであるが、インドネシアには前からPT. . Borsumij Wehry Indonesiaとしてジャカルタ、スマラン、バンドン、ジョグジャ、アンボン、アチェ等に支店を持っていたので何らかの権益に預かっていたのかも知れない。正直、インターネットではサリムグループやマントラストグループに名前が見えHagemyerの買収ニュースもあったが金融危機でどう転んだかは解からなかった。

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