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2007年9月の投稿

2007年9月30日 (日)

持ち主不在のMarsudiriniにも日本軍

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マタラマン・ラヤを下っていくとサン・ヨセフ教会と並んでその威容を誇るオランダ風建物が現れる。Marsuderini学院(SMU/SMP/SMA)である。住所はMatraman Raya 129である。両者の関係は解からないが修道尼さんたちの修道院Biaraも敷地にあるので一体のものかもしれないが、現在の建物はYayasan Marsuderiniの所有となっており、このヤヤサンは修道女が作ったものであるからである。ところがこのヤヤサンの会長であるFransino Roosijamiシスターも正確にこの建物の歴史は知らなく特に買ったものやら貰ったものやら解からないというからのんびりした話である。解かっているのを記録すると、建築は1923年というから隣の教会と同じ時期である。日本占領時代は日本軍が利用したが独立後は共和国が接収したものであろう。1955年にOrdo Santo Fransiscus (OSF)のシスターが入居して以来このヤヤサンが維持手入れしてきた。ジャティネガラには古い建物が多くジャカルタ市の文化遺産cagar budayaに指定されたものが7つもあり、この建物もその一つである。(条例No.475 /1993による)Marsderini学校は成績優秀で有名である。

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2007年9月29日 (土)

Villa Isola イソラ・ベラ

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ジャカルタにイソラベラというクラブがあるがこれとヴィラ・イソラとの関係はしらない。ゲイセルスの設計した建築に関する本にヴィラ・イソラの美しい写真があったので是非見たいと出かけてみた。バンドン在住の友達に聞いても知らないという。それもそのはず現在はその建物の名前はブミ・シリワンギに変わっている。 住所のLembangweg, Lembang(バンドンの北部丘陵地帯)を尋ねて先ずはステァ・ブディ通りを北上する。この通りは長くドンドン行くうちに未だLembangに至ってないのに右手に写真で見たような建物を発見、その道路でベンクルー地震の喜捨を募っていた学生に聞いてみると、要領を得ないがどうもこれこそがヴィライソラのようである。本には土日は休館となっていたので外からの写真だけで諦めかけて少し進むとその横に又何かある。ここでも尋ねるとバンドン教育大学と言うのでキャンパスに入ってみると、何とここからヴィラ・イソラに向かうことが出来る。ビラにはイソラの管理人が居たので5千ルピアで入れてもらった。広いマーブルのロビーから裏庭も見渡せる。前ファサードもバックも美しい建物である。この建物は1933年東印度の新聞王Dominique Willem Berrettyのために立てられた別荘である。設計はC.P.Wolff Schumaker、建設がゲイセルスのAIAグループでアールデコの傑作である。イソラとは多分イソレートから見てよく言えば離宮の意味があるのであろう。

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2007年9月28日 (金)

TIMの芸術学校とウスマン・イスマイル

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タマンイスマイルマルズキは8月28日のブログでも紹介したがイスマイルマルズキの胸像を見ながら行くと奥の映画館が終わりの如くに見えるが、この映画館の左手横を通り過ぎると未だ奥に何かがある。一つは芸術学校、あと屋外劇場や文学のH.B.Jassin Doc.Centerもある。1968年にアディサディキンが開園したこの8haのイスマイル公園は元はラーデンサレーの動物園であったが開園前にもここに国民演劇学校があり、1961年頃インドネシア映画界の重鎮ウスマル・イスマイルも指導していた。訪問した日は文化祭などをやっていた。隣はアートデコスタイルのガーデンホールである。劇場に戻るとここは 400席、音響効果(acoustics)設備もあるコンサート会場にもなる。Pusat Kesenian Jakarta Taman Ismail Marzuki (PKJ-TIM)

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2007年9月27日 (木)

クマヨラン空港の管制塔

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現在のジャカルタフェアー会場PRJ敷地は昔はクマヨランという空港あった。正式には1940年にオープンされ1985年に取り壊された。但しその前から空港は使用され例えばオランダKLMの前身であるKNILMが1928年にフォッカー機を飛ばしたり、1934年にはカンタス航空の乗り入れ協定などがある。クマヨラン空港は454haもあり、幅50メートル、長さ800メートルの滑走路を持つ当時ヨーロッパ先進国に劣らぬ、アジア随一を誇ったといわれた。1974年にこの空港は手一杯になったため国際部門をハリム国際空港に移動させ、国内線を担当してきたが1985年スカルノ・ハッタ空港が出来たため取り壊されたものである。
 その当時の管制塔は今も残っている。
それはこの地区の端の方の放棄されたような地区にあり、大工事の為に出来た大きな穴の湖が前面に出来ている。塔は労働者達の住居になっているようである。管制塔も市は歴史保存建物に指定はしているが、放置しているだけである。

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2007年9月26日 (水)

8月の投資環境トピックス 遅ればせ 9月26日

*日イEPA締結、貿易高の約92%が無関税に。イ人看護士/介護師受け入れ、など。
*日イ、チレボン・パイトン・サルラ発電所、ガス・プロジェクトなど6件53億ドルの協力署名、
*新会社法に大統領署名。2007年第40号法。詳細はインドマルコ社翻訳参照
*新投資法に異議、外国投資家の利益優先とNGOなど無効求める。
*ムーディーズ評価引き上げ、商品セクターで幅広い回復が進んでおり国際収支の健全化
*2008年度予算案を発表、歳出は836兆ルピア、成長率6.8%に設定、補助金減、貧困支援を増額
*バタム・ビンタン・カリムン自由貿易地域/自由港についての3政令に大統領令署名
*退職金積立政令案ようやく合意。会社負担3%で受け入れられたもよう。
*ジャカルタ州知事 ファウジ氏が当選 選挙委が最終結果発表 
*アセアン-日本FTAは11月に実現見込み。

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スンダ・クラパの監視塔はピサの斜塔

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昔のパッサール・イカンの入り口に立っている塔はオランダがバタビアを占領した初期の港湾監視塔(Lookout Tower)である。オランダ語ではUitkijk、インドネシア語ではMenara Sharbandarである。
最初の建物は1645年に建てられCulemborgと言い、1809年までバタビア城の壁の一部としての要塞であった。今の原形は1839年、エマニュエル教会と同じ年に古い監視塔を建て替えたものである。1886年タンジュンプリオク港が開港してからはここの重要性は薄れたが1967年までスンダクラパ港の事務所であった。1977年隣の海洋博物館がオープンしたときここは博物館の一部に認定されている。ピサの斜塔に比されたり、風で揺れるのでMenara Goyangと呼ばれるそうである。40メートルの高さの最上部に行く階段が隙間のある木製階段であるので足元に注意が必要である。若干の絵などを飾っているがやはり周りの古いスンダ・クラパ港やVOCのドックヤードを見下ろすと感慨が湧いてくる。

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2007年9月25日 (火)

ヘロー・チキニでお土産ショッピング

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昨日行ったチキニのヘローには日本へのお土産を探しに行ったのである。ヘローはメンテンにもチョクロアミノトにもあるがここは新装モールで、それは昨日報告したとおりであるがあと一つ一方通行の入り口で大きく回りこまないとここにはこれないと思っていたのでそれを確かめるのも目的であった。ゴンダンディア通りの北端は今まで使ったことがなかったが、ナント右折れでチキニ・ラヤに入れるどころか、右折れする前にこのモールに入れるのである。とするとアクセスは簡単でパークも青空で出来、ゆったり買い物とか食事もできるので使い勝手は良くなる。
日本へのお土産は以前はコリアンダーやオールスパイスなどの香辛料もあるが今回はお菓子コーナーを覗いてみた。有名なところではドドール(dodol)である。西ジャワガルット市の名物でクラパ・ムダの粉が原料の餅風羊羹風のお菓子である。ブレム(Brem)というのもある。此方は中部ジャワ・ボヨラリの名物でもち米が原料でラクグアン風のお菓子である。 Suling Gadingというブランド名でかすかに甘いのはイースト菌で砂糖は使ってない。にきびの予防に良いという。
あとKoya Suuk というピーナッツを粉にしてあと固めたものもいい。これらは一つ一つが更に小さく包まれているので衛生的でもある。他にButter Cookies “Shinta”やEmping Melinjoも買ったが中国の月餅はここにはなかった。写真はメンテンラヤからのモールでこの地点は5つの名前の通りがぶつかるところである。

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2007年9月24日 (月)

チキニとKimia Farma

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チキニ・ラヤの入り口に小さなモールが出来ていたが、明日は日本と言う昨日出かけてみた。Hero SupermarketとGold Gym、大手のコーヒーショップやレストラン等々が入居している。ここは昔オランダ風建物のキミアファルマが立っていた話であるが、当時そのような興味もなかったので記憶にはない。モールの一角にキミア・ファルマがファーマシーとして入居していた事と、このモールの横のCut Mutia通りのバス停の名前がParmasiとなっていたことくらいが名残である。
40肩の薬を序に買った。塗り薬でCounterpainというBristol Myers Squibb社のもので冷やす(Cool)ものもあるが暖めるものが良い。この名前は英語読みで言うと通じない。カントルピンと言うと通じる。何処にあるかとかちょっと相談すると飲み薬でいいのがあると高い薬を出してきた。25万だというのでカントルピンだけで良いと断ったが向こうが用意したカントルピンは特大サイズであった。アポテックは何処もそうであるが店側が主導権を持つので高いもの高いものと買わせられる。

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2007年9月23日 (日)

ラマダン関係なしのBloK-M、ファラテハン

ブロック・エム裏の外人バー街のファラテハンに行ってみた。昨年も行ってリポートしたとおり昨年は全部閉まっていた。(兎に角その日は閉まっていた)今年はどうだろう、いつもと変わらぬ賑わいをみせていたのだ。この辺りの店は名前からMy Barで中身はディスコなのでモロに閉鎖対象遊興施設になるのであるが、今年はフロアをステージにして音楽を楽しむ趣向にして営業許可を貰っているようだ。ライトミュージックとか言って許可を貰ってしまえばあとはガンガンと派手にやる。ビールもいつもの通り小瓶をラッパ飲みできる。ブロックMでも酒は一切出さないクラブがあると思うと普通と変わらぬ店もある。ビールだといけないのでお湯飲みでお茶を飲む振りさせながら供する店もあるがその分、量が少なくなるのに料金は同じとくる。この遊興施設閉鎖条例はアルコール提供がいけないのか、遊興がいけないのかはっきりしない。ロサリ・ホテルのレストランのコーナーのバーカウンターはボトルを無くしホテルのレストランなのに一切アルコールはださないのには呆れ返る。My Barのバンドは楽器4名、シンガー4名の8人編成のPlastic Bandと謂う名前のバンドで男性歌手も女性歌手も握手を求めて来たり愛想がいい。女性のシンガーの一人は休憩時には側まで来てくれて会話を楽しんだ。彼女の名前はMoureenで、パイレーツ オブ カリビアンのエリザベス・スワン似の美人ある。持ってきた電池3本もこの1ケ月使い切ってしまっていたのでデジカメがないのが残念で代わりにサインを貰ってきた。

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2007年9月21日 (金)

ガンビールのエマニュエル教会の建築様式

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9月2日のブログの続きであるが:この教会の謝肉祭の時の古い写真がある。前庭に集まった人達が実に小さく見える。入り口の階段までが3メートル、ドーム迄の高さが28メートルである。
この教会は1839年5年かけて建設されたが建設・設計はJ.H.Horstで1.5ヘクタールの土地に旧態のゴシックチャーチ・スタイルにフォローせず、ギリシャのパンテノン神殿に啓発されたネオクラシカル・スタイルである。内部にも175年前のパイプオルガンもあり、生演奏が楽しめた。2000年ごろ、この教会の敷地を私企業が買収しショッピングモールにする訴訟があったが現在も立っているところを見ると私企業が負けたに違いない。裏の敷地には西部インドネシア・プロテスタント協議会などの付属建物も何故か古げに立っている、写真は大きさを見るため横からの教会の眺めである。

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2007年9月20日 (木)

総督・大統領の居住宮殿

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大統領宮殿は大統領の居住する宮殿としてはシンボル化されており、現代の大統領はスカルノ以外全て自宅で居住している。スカルノの前の日本占領時は第16軍総司令官はこのケーニングスプレイン宮殿に住んでいる。その前に遡ると1942年から1879年までの15の総督時代はここイスタナムルデカが大統領宮殿であった。(ただし居住はボゴール宮殿か自宅だったようだ)1879年から1820年はイスタナ・ネガラ時代で1820年代のVan der Capellen、1830年代の Van den Bosh以外は無名に近い。
1740年代イムホフ総督はカリブサールのトコメラーに居住しながらボゴール宮殿を建設した。1750年代のモッセルはウェルトフレーデンのガトットスブロト病院に宮殿をたて、1770年代のde KlerkはArsip古文書館が自身の邸宅であったようにオランダ時代の総督は自宅かボゴール宮殿を主とし、モッセルのウェルトフレーデン宮殿やネガラ宮殿を臨時宿泊所的に使い分けてきたようだ。 1740年前はまだそのような記録に出くわしていないがバタビヤ城であったかもしれない。


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2007年9月19日 (水)

Weltvredenとガトットスブロト病院

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Weltvredenはオランダ政庁時代は今のジャカルタ中央区を言うようだが、Abdul Muisを西、Kebon Sirihを南、Genung Sahariを東、Juandaを北とするイメージでさらにはLapangan Banten地区、或いはダーンデルスが建設着手した現在の財務省ビル一帯が代表される。Jalan Juandaがパッサルバルー手前で鉄道と交差する所に1675年ごろバタビヤの南東を守る要塞が建設されて以来、この地は軍事基地になり、更に行政の中心地として発展してきていた。ファン・イムホフ総督のあとのモッセル総督は1750年代現在の中央軍事病院(ガトットスブロト病院:場所はJl.Abdul Rahman Saleh))のあるところに大きな邸宅を建てた(1820年迄)、ダーンデルスはそこより内側に総督宮殿を建設着手したのであるが、完成は次の時代をまつことになり、彼自身はボゴール宮殿に入った。ラパンガン・バンテンの近くに実業家コネリスが立てた邸宅の名前であった。Weltvredenの発展の第2章である。

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2007年9月18日 (火)

バンドンの建築物 

古い建築物が生活の中に生きている。バンドンはアールデコ建築物の世界でも3指に数えられる宝庫と言われた。その代表がヴィラ・イソラとサボイ・ホフマン・ホテルである。その湾曲した面の特色を持つ建物が街中にあると言っても過言ではない・Bandung_022
民家やトヨタデ^ラーショップ、マクドナルドまでアールデコ風な建物にしてこの町の特徴を市民が守り立てているのである。
アジア・アフリカ通りまで来るとここはオランダ時代の建物が多く残されている。
何故そうなったか、オランダ政庁は1920年台、バタビアの首都防衛上不安を感じてきており、首都移転を考え、バンドンがその候補となりつつあった。こうした意図の下に軍機能、通信省やGedung Merdeka、Gedung Sate(州庁舎)などが建てられた。ということである。

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2007年9月17日 (月)

チョクロアミノトにもラトゥ・アディル

ウエスタリングが冒涜したジャワの正義の女神ラトゥ・アディルが啓示を受けた人はデポネゴロ王子の他にもう一人いる。イスラム同盟の指導者チョクロアミノトである。このイスラム同盟(サレカットイスラム)は華僑の経済独占に脅威をうけたイスラム商人が1908年バタビア、ボゴールでティルトアディスルヨによって設立されたイスラム商業同盟が更にソロのバテック業者サマンフディンの協力を得てソロに波及、両者はこれらの組織の再統合を企画、チョクロアミノトを指導者と仰ぎ1912年にスラバヤで再組織されたものである。会員証を護符とみる農民層の支持をうけて1919年には会員250万人にも達した。当初は反政府活動の意思のないことを掲げていたが各地での華僑暴動や諸要求貫徹の実力闘争事件を引き起こし、オランダ政庁は弾圧に向かうことになるが、更に19年にスルヨプラノトの労働組合統一連合を受け入れ大きな脅威となる。各地の支部活動がその左翼化とともに共産党躍進の土台となったのではなかろうか。
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写真は古いものがなくなったチョクロアミノト通り

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2007年9月16日 (日)

バンドンとジャカルタの違い

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高速が繋がって初めてバンドンに日帰りで行ってきた。スティアブディ通りの日本レストラン“鳥元”のオーナーのたっての勧誘を今まで蹴ってきたのでもう信用失墜していた所であるが、ふとジャカルタのわずらわしさから脱出したくなったからでもある。キッチリ計ったので間違いないがなんとジャカルタのアパートから鳥元まで立ったの2時間であった。バンドン市内は活気があり、何処にも依存しない独立した経済圏を確立している。最初はストリートチルドレンもいないのではと勘違いしたくらいであるが数は少ないがやはりいた。街中がいわばメンテンとでも言え、大きな街路樹の道路、古いしゃれた洋館風の家々、ファッショナブルな店舗展開、夫々が駐車場を店の前に持っている。街には勝手に車列を止める警官も居なく、交通ランプに従い整然と動いているのでジャカルタの対警官ストレスがない。ジャカルタはお偉さんが通るメインは車がぶっ飛ばしているが貧乏人が乗る公共バスが通る側道は警察がメインに出るのをブロックするので渋滞この上もない。道路で真ん中の分離帯を設けている道も殆ど見かけない。自由な街なのである。きちんと歩道があるので人々は歩いている。ジャカルタでは殆どたむろしている。町全体がいわば中流の平均化された町である。道を何度か聞いたが知らない人は周りの人に聞いて呉れ(ジャカルタは知らないで終わり)、中には先導してくれたバイクの青年もいた。ストレスがないから人々は親切である。

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もう一人のCornelis Chastelin

デポックの開発者でもあるコネリス・キャステリンはウェルトフレーデンの開発者でもあった。第3代総督クーンのバタビア開城から30年、或いは欧州の列強の権力争奪の30年戦争から30年(この1648年にオランダは正式にスペインから独立)のころこのウエルトフレーデンは森であったがこの土地の北西部はAnthonij Paviljoenに与えられていた。その後を継いだのが東印度評議会のメンバー、コネリスでかれはバリの王から奴隷を購入しここで米の栽培を行った。米の栽培はバリ人が得意としていたようである。かれは二人のバリ女性に子供を産ませこの二人の娘に遺産を残すことになる。(デポックは別)1703年にはこの地の邸宅で“植民地に付いての考え”という本を著作している。この邸宅がWeltvreden(満足)と呼ばれ後この一帯の呼称となったという。Banten_lapangan
写真はボロブドゥールホテル前のラパンガン・バンテン

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2007年9月14日 (金)

クンバン・グラの姉妹店Bungarampai

Bungarampai
9月9日のブログKembang Goelaの姉妹店Bungarampaiが7月にオープンしている。メンテンの明るい静かな通りチックディティロのアイセンターの前で古い洋館のマンション風である。店の名前はどちらもいわく有りげであるがそのような名前の花も何も存在しない。多分、女性の詩的感覚の産物なのであろう。
5人の夫人連のあと一人はリニーと言う方だと解かった。5人の内の一人は彼女だけでGangGangスレイを含む12のレストランを既にやっていたり、一流デザイナーPrajudi氏に繋がる人であるほかは特にないが、皆華人であることは確かである。
Bungarampai:Jl.Cik Di.Tiro No.35、TEL:3192-6224
Kembang Goela:Jend.Sudirman Kav.47-48 TEL:520-5625 Tommy 0813-11383627
Meradelima:Metro Duta Pondok Indah Plaza I, Blok UA TEL:7590-9273

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2007年9月13日 (木)

Cornelis Chastelinとデポック住民 

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デポックラマの殆どの住民はBelanda Depokと呼ばれる。みなクリスティアンである。何故か12の使徒宜しく12の名前の家族に分かれている。12の名前はJonathans、 Leander、Bacas、Loen、Samuel、Jacob、Tholense、Isakh、Joseph、Laurens、Soedira、Zadokhである。彼らの祖先はこの地の大地主Cornelis Chastelinの奴隷であった。彼は1696年にこの土地を買い、バリやその他の外島から農園で働く奴隷も購入した。彼は人道的な人で彼らに働かせるだけでなくキリスト教を教え彼が死ぬ1714年には夫々に土地を与え奴隷の身から開放した。バタビアには1674年の記録で人口27,068人の半数12,278人の奴隷がいた。インドネシアの奴隷解放は1860年であるので150年も早いことになる。
今でもこの12ファミリーはCornelis Chastelin Foundationを組織し彼が亡くなった1714年6月28日はCornelis Chastelin Dayとして祝っている。写真は彼が創建した教会付属の学校である。

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2007年9月12日 (水)

Jalan Roa Malakaとポルトガル語

大昔の兼松さんなどが事務所を開いていたジャラン・コピの縦に交差する道にJalan Roa Malakaがある。このRoaと言うのはポルトガル語のRoadであるのでマラッカ道路通りと2重修飾である。またこの地区Kelurahanの名前にもなっている。 マラッカから連れて来たポルトガル人が住んでいたのであろう。ポルトガル人と言ってもマイダイケルスといわれる黒いポルトガル人である。クロンチョンを齎したのも彼らであるがインドネシア語の中にもポルトガル語が多いので驚かされる。例を挙げると、Lemari(Armario カップボード)、Bola(ボール)、Gereja(教会)、Pesta(祭)、Tinta(インク)、Jendera(窓)、Bendela(旗)、Meskipun(Mas que:だけれども)、Nona(Dona女)、Roda(車輪)がある。日本語に入っているポルトガル語も圧倒される:引用しておくとパン、テンプラ、カステラ、金平糖、カルメラ、ピーマン・ココア、ボーボラ(カボチャ)、ボーロ(京都の蕎麦ボーロ)、ビードロ、ボタン、ショール、襦袢、カッパ、更紗、メリヤス、羅紗、ベランダ、ビードロ、カルタ、シャボン、タバコ、コップ、フラスコ、ポント(先に:京都の地名)、カンテラ、ブランコ、チャルメラ、たんと(たくさん)、ジョーロ、オルガン、舟の丸(海)。。。

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2007年9月10日 (月)

ジャラン・コピは兼松の故郷

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広沢先輩から教わった兼松の大昔の事務所を写真に収めてきた。Jalan Kopi No.51 と番号は確認されたが建物が果たしてそうかはわからない。隣は中国風店舗のまま残っている。ジャラン・コピとはコタ駅よりも、ファタヒラーよりも北のジャラン・クニールに繋がるカリ・ブサールから出てくる道でカリブサールの真ん中にある橋を基点に西に向かう一方通行の道がジャラン・コピで東に向かうジャラン・クニールも一方通行である。一方通行にしてしまった為かちょっと不便なのかコタ駅周辺がごった返していてもこの辺りは写真の通りである。
更にオランダ時代まで遡ると橋の名前はMidelpunts Brug でジャラン・コピはUtrechtsestraat と言う名前であった。確かクニール側には大きなオランダの商館も残っている。その昔の貿易会社の集まったところであるようだが、伊藤忠は何処だったかは未だわからない。
ジャラン・コピから橋に向かう風景も掲げておこう。

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2007年9月 9日 (日)

Kembang Goelaレストラン

Kembang_goela
インドマルコ・インフォ・センターの入居ビルPlaza SentralにKembang Goelaと言うレストランがあるがインドネシアの伝統宮廷料理・華やかなオランダ時代のライスターフェル式料理でもてなす貴人気取りになれる店である。他にポンドクインダーにMeradelimaと言う店もある。 Delimaとある通り5人の金持ちの奥様方がオーナーである。クンバングラにはユドヨノ大統領やメガワティ元大統領、スティヨソ市長もお出でになったことがある。店にはユドヨノ大統領を囲む、リリー、イナ、ソニャ、キャロリン夫人連との記念写真が飾ってあった。あと一人は聞き漏らしたが代わりにリリアン(アルベルト リム子息の夫人、このビルのオーナー)が写っていた。旦那の素性も聞いてみたが単なるSipilと言うだけで特別有名な人々ではない。
Kembang Goela:Jend.Sudirman Kav.47-48 TEL:520-5625 Tommy 0813-11383627

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2007年9月 8日 (土)

Latuharhariと初代州知事

Latuharhary
メンテン地区内部の横の通りには、南端にスルタン・アグン通りがあり、それが添う運河のメンテン内側の線がLatuharhari通りである。この道は昔からエリートのメンテン地区とマンガライを結ぶ道で、又横に沿ってボゴールーデポックータナバンを繋ぐ鉄道が走っている。この2月からはバスウエーの6号線も沿って走りこれはラスナサイドからラグナン動物園まで伸びて居る。
ラトゥハルハリ氏の経歴はJohanes Latuharhari:1900年マルク出身、ハルク島の大部族ラトゥハルハリ家の流れのサパルア島の教師のの家に生まれた。アンボンの“Eerste Europeesche School”で基礎教育を受けたあと1923年バタビアのHBS中等校を卒業、そのあとオランダのライデン大学で法学を学んだ。マルクで最初の“Master in de Rechten”.を取得し1927年に帰国、スラバヤの高等裁判所長官の下で仕事をした。その後は政治活動に入りアンボン同盟の議長を勤めマルクの民衆をインドネシア独立へかき立てた。独立準備委員会委員として1945年の独立宣言の時はスカルノやハッタと共に宣言にこぎつけた。
1945年独立宣言直後の国民委員会(国民協議会・国会に当る)の副議長、初代マルク知事、1950年RMS反乱が鎮圧されたあとマルクの治安回復に努め、後任にあとを託しジャカルタにでてくるが1959 に死亡、国家英雄となっている。奥さんは40年後死亡。7人の子供がいる。
1945年8月の初代の州知事(当初は8省Propinsiとし省長官Gubernurを置いた。又省は州に分割し州長官Residenを置く)は下記の通り。
西部ジャワ(スタルジョ・カルトハディクスモ)
中部ジャワ(スロソ)
東部ジャワ(スルヨ)
スマトラ(トゥク・モハメッド・ハッサン)
ボルネオ(パンゲラン・モハメッド・ノール)
スラウエシ(ラトランギ)
小スンダ(グスティ・ケトット・プジャ)
マルク(ラトゥハルハリ)
尚ジャカルタ市は市長 スウイルヨとしスルタン領は従前の制度を継続した。

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2007年9月 7日 (金)

Westerlingウエスタリングはどんな男 

英文のウイキペディアで次の通り紹介されている。
Raymond Pierre Paul Westerling (August 31, 1919 - November 26, 1987)は父オランダ人と母ギリシャ人でイスタンブールで出生、第二次世界大戦でオランダ軍に入り、イギリスで訓練を受け、1946年になってインドネシアに赴任、南スラウエシの治安回復のためのDSP軍の司令官となっている。DSFはアンボン兵が主体でKNILのエリート部隊で冷酷残忍にも無実の数千人の人々を裁判もなしに殺している。1949年彼はRatu Adil 軍(APRA 正義の王)を組織し1950年スカルノ政府打倒のクーデターをバンドンで起こすが失敗しシンガポールに逃げた。これらの戦争犯罪にも拘らずかれは裁判に掛けられることもなく本国に移り1987年に死亡した。
又インドネシア語では次のようなことが書かれている。(重複を避けて)
インドネシアに来る前は印度のマウントバッテン卿の下で働いている。南スラウエシで共和国を支持する民衆を制圧した彼はトップの英雄とされていた。
1946年12月に南スラウエシに赴任した彼は公式ガイダンスによらず勝手な反乱制圧戦略を立てこれがPembantaian Westerling(ウエスタリング虐殺 The Butcher)を引き起こすことになる。オランダのメデイアは喝采を持って報道している。レンビル協定後ウエスターリングはジャワでKSTと言う軍を率いスラウエシと同じように悔恨の情もなく無垢の子供達を殺している。西ジャワではダルルイスラムとも関係を持ち大きな部隊を組織しクーデタに打って出た。1月23日のクーデタと呼ばれる。
山崎功先生の著述には「1948年・・・執拗なゲリラ戦に悩まされたオランダは・・戦争の泥沼にはまり込み村落焼き打ち、インドネシア民衆虐殺などの蛮行を繰り返すことになる。」とある。
ウエスタリングが編成したラトゥ・アデル軍のラトゥ・アディルとはジャワ人が信じている末世に現れる正義の神の名前である。この名前はオランダに挑んだデポネゴロ王子が使った名前で王子は、ある日今こそ立ち上がれとラトゥアデイル神の啓示を受けたものである。(インドネシア専科より) 

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2007年9月 6日 (木)

もひとつのグレジャ・エマニュエル

Greja_emmanuel
ガンビール駅の正面にどっしりと且つひそかに立っているグレジャ・エマニュエルと同じ名前がもひとつある。但しそれはデポックなので行政区的には外である。此方の方が古く1713年建設で表のドアーに「この地の建設者であり、大地主のCornelis Chastelinの思い出」と記念した飾り板がある。但し1832年の大地震のあと1854年に建て替えられたものである。この教会には現在も1,000家族ほどのクリスチアンがコングリゲーションに参集するが彼らはその昔の「黒いポルトガル人」とかバリ奴隷の子孫である。美しいこの教会も道一杯に張り渡された宣伝幕でうまく写真が取れないのが残念である。

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2007年9月 4日 (火)

日蘭の虐殺、ポンティアナクとウエスタリング事件

ポンティアナから88kmのマンドールに日本軍による虐殺の慰霊塔が立っている。命乞いする住民の首を将に日本刀で切らんとする悪魔顔をした兵士などが描かれたレリーフと21,037人の犠牲となった旨の州知事の認証文句の碑である。当時、バリックパパンの海軍第22根拠地司令官の下でそこから遠く離れたこの地に200名の駐屯部隊が置かれていたが、当初は住民と平和な関係であったが1943年9月以降連合軍の防諜活動が激しくなり戦況も悪下する中で、対日陰謀が発覚されこの取締り処罰がエスカレートしたものである。事実は事実であるが2万人は明らかに間違いで、戦後オランダにより司令官以下裁判で死刑にされ処刑されておりその裁判記録やオランダ戦争資料館の公式回答でも1300人とされている。(以上は加藤裕氏の「大東亜戦争とインドネシア」の要約)
一方オランダ側にも大虐殺事件がある。数字を挙げているのは山川出版社「東南アジア現代史Iで共著なので書いた人はちょっと不明」でその辺りを引用すると「46年スラウエシで婦女子ら4万人を惨殺したウエスターリング大尉は再び共和国に敵対することを図り49年11月ラトゥアディル軍と言う名目だけきれいな部隊を組織し50年1月バンドンに攻め入りついでジャカルタ侵攻を企てたが失敗しマラヤに脱出した。」
彼は裁かれることもなく余生を本国で送っている。

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2007年9月 3日 (月)

新規オープン高速でビンタロからタンジュンプリオク45km

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ジャカルタ南のベタウイの故郷でも訪ねようかと出かけた日曜日、ラグナン動物園に掛かるシマトパン通りは大渋滞、横の高速を見るとガラスキなので高速にすることにしたら高速料金がナント6,000ルピア、ちょっと一区間利用しようと思っただけであるのでちょっと高すぎる。アァそうだ新しい高速が出来た、あの料金だとピーンと来たので急遽行き先をベタウイの故郷行きの為の一駅だけでなく、北の終点まで乗ることにした。 そうすると6,000ルピアは単一料金なので1回の利用で例えばビンタロからタンジュンプリオクまで45kmの高速料金が80円と言うことになる安さである。
アンペラ辺りからチクニール(ポンドク・グデ)を越え北のチャクンに向かう。この終点はタンジュンプリオクなのか、その場合はチャクン辺りから左にそれて行かねばならないのであるが、うっかりしているうちにチャクンの一般道路に下りてしまった。降りたのか自然とそうなったのかは知らない。一般道路と言っても高速用に道幅は確保されており真ん中のスペース20メートの幅が延々とゴミ捨て場となっており、平日はコンテナートラックで大渋滞する道である。
新高速では炎天下、未だギザギザの取れてない路面をタイヤが痛そうに走る。運ちゃんはタイヤ交換し6ケ月にもなるので交換しなければならないと言う。ちと早い気がするが。。タイヤは1本550,000ルピアもする。

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2007年9月 2日 (日)

美しいEmmanuel Church・Willemskerk

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インドネシア語でグレジャ・エマニュエルと書くと艶かしい語感であるが、その教会自体も実に美しい。中に入ってみると思ったより非常に大きく迫ってくる。
案内書には8時から13時までとあり、且つカメラは許可がいるとのことであるが、ある日の午後通りかかったので入ってみた。裏門から守衛に誰何されることもなくずっと正面に行き一回りしてきた。このプロテスタントの教会は1834年から1839年頃に建設され、ネーデルランドのウイレム一世の宗教原則の進歩を讃えたもので、ウイレム一世は兄弟愛、寛容、平等の自由なる思想で異なったクリスチアンの名称を一つの教会に統一したがそれは本国よりここ東印度で成功を見たそうである。建築様式は因襲にとらわれないものでアレーナスタイルのインテリアーをかばうドームの屋根とドーリア式の円柱が特徴である。バロックの説教台は日本占領時代失われたそうである。HISの案内書にはそんなことまで書いてある。

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2007年9月 1日 (土)

Laba Labaはde Spinで1898年創業

安物のカバンが壊れたのでカバン修理で有名なラバラバに修理を頼んだのであるが、見るだけでこれはできないと断られた。合成プラスティック製であるからだということであった。お客も多く皆の前でハジを掻く話であったが、小生は役に立てればブランドや本物などにこだわらないので恥ずかしくはないが、来た序に店を観察していたら奥の壁に古い写真が貼ってあったので側の汚いものを片付けさせ写真を取らせてもらった。
Pintu_kecir_grodok_006
写真は1938年に取ったde Spinと言うTokoの記念写真のようで多分Laba2はde Spinが前身でこれは創業1898年のようである。 De Spinとはオランダ語で蜘蛛の意味であり蜘蛛の絵や標本などがあちこちに飾ってある。オランダ人の店かなと思われたがオランダ人の風貌の華僑のようである。 ここがTjikini No.1の住所で辺りはガンビール市場といわれていたのであろう。合成皮革でも修理する気になれば出来るはずであるが本物の皮しかやらないのが老舗の意地なのであろう。腹いせにブログで宣伝してあげた。ちなみにLabaはインドネシア語では利益であるが複数のLaba2となると蜘蛛の意味である。

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