« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月の投稿

2007年10月31日 (水)

南洋航路をPELNIで楽しむ

Kade20in20indonesie_jpg
Ciremai_030
オランダ時代、蘭領東印度航路の旅客船が到着したタンジュン・プリオクの風景写真があるが今はどうなっているのであろうか と9月のある日タンジュンプリオク港を尋ねてみた。日曜日は空いており何処に行こうと港内フリーパスである。辿り着いたのが国内旅客ターミナルで、その岸壁には大型旅客船が丁度出向準備している最中であった。これが写真のMV Ciremai である。CiremaiのルートはAmbon - Banda - Bau・Bau - Fak・Fak - Kaimana - Kijang - Makassar - Surabaya - Tg Priok - Tual である。
国内航路は国営会社のPELNI (P.T. Pelayaran Nasional Indonesia)が担当しており、ホームペイジでは大型船で25隻ほど運行しているようだ。 最新鋭の船だとMV Kelud(バタムータンジュンプリオク)や MV Sinabung.(ジャヤプラ、マカッサル、スマラン、タンジュンプリオク等)他に MV Bukit Siguntang やMV Kabuna をリコメンドしている。運賃はざっくり言えばドイツ建造、就航5年内の船で1日、Aクラス キャビンで二人で$100、A-1 クラスはTwo-bed、バスつき、TVつきである。クルージングにも適しているとホームペイジでは宣伝している。なんとなく心引かれる南洋航路である。
昔の風景スケッチはKantlijnから借用した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月30日 (火)

インドマルコ「インドネシア企業経営」10月号

下記の記事目次の10月号が発売になりました。詳しくは同社のホームペイジ
www.indonesialink.net/indomalco/でどうぞ。 メールアドレスはrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netでも申し込めます。
• インドネシアの今月の税務法令アップデート
• インドネシアの今月の経済法令アップデート
• インドネシアの会計原則 101 (デリバティブ・ヘッジ会計処理7)
• インドネシアのVAT申告書記入ガイドの一部改訂
• インドネシアの改正通関法の実施細則
• インドネシアの退職金積み立て政令成立へ
• インドネシアの電源開発と最近の事情
• インドネシアの専門家の報酬に対する源泉徴収
• インドネシアの輸出品の原産地証明 アップデート
• インドネシアの今月の労働関連トピックス
• インドネシアのバイオ燃料コマーシャル許可
• インドネシアのHSコードの判定:半製品
• インドネシアの営業許可(SIUP)規定の改訂
• インドネシアの改訂ジャカルタ特別州行政法 その組織
• インドネシアのフランチャイズ法
• インドネシアの大統領選・国軍の動き
• 今月の月次経済指標 2006-2007トレンド
• 2007年9下旬 政治・経済トピックス
• 2007年10月度 上・中旬 政治・経済トピックス
• 物価・貿易統計発表2007年10月
• 「『タガロア再発見』を読む」
• 「明日の街角22~グローバル時代のCSR」
• 「クバヨランの道路と英雄名 北東3」
• 「ジャカルタ・バスウエーの全て」
• 今月の為替株式金利の動き

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月29日 (月)

青年の誓いとインドネシアラヤ

Indonesia_raya_sumpah_pemuda
10月28日は1928年の第2回全国青年会議で青年の誓いが採択された記念日であった。青年の会議の記念館はクラマットラヤ No.106にあるが、第1回の会議はジャカルタ芸術劇場で行われた。
この誓いは以下のことを国家統一の基礎として留意することで決定されたとして、クラマットラヤの裏庭に面したギャラリーには大きなプラークが掲げられている。① Kemaoean ② Sejarah ③ Bahasa ④ Hoekoem Adat ⑤ Pendidikan dan Kepandoean ①など oeはuなること知っていても直ぐには読めない昔の綴りである。
その横にはインドネシア国歌となる「インドネシア・ラヤ」をその作曲家スプラプトマン(Wage Rudolf Supratman, 1903-1937)が友人に紹介しているジオラマが実物大で立っている。歌詞は以下に1番だけを書いたが3番まである。
Indonesia, tanah airku, tanah tumpah darahku.  Di sanalah aku berdiri, jadi pandu ibuku.
Indonesia, kebangsaanku, bangsa dan tanah airku. Marilah kita berseru, "Indonesia bersatu!" Hiduplah tanahku, hiduplah neg'riku, Bangsaku, rakyatku, semuanya. Bangunlah jiwanya, bangunlah badannya CHORUS:
Indonesia Raya, merdeka, merdeka Tanahku, neg'riku yang kucinta.Indonesia Raya, merdeka, merdeka Hiduplah Indonesia Raya!
三つの青年の誓い(Sumpah Pemuda)そのものは昨年の10月28日のブロッグでを紹介できたが今年は遅れてしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Puncak SilatでPrabowoとGobelの争い

Puncak_silat
つい先日インドネシア・プンチャク・シラット協会(IPSI)会長に元コストラッド司令官の退役中将 Prabowo Subianto氏が選出された。 実は総会の前日に決められていたため単に儀式であったが、前日の会議では候補者演説も無く民主的でなかったためRachmatは候補者から降りたようである。Rachmatはこれまで身銭を切って育てたチームも解散、再編成するというが2007年東南アジア競技大会までにはあと2ケ月しかない。現在世界のチャンピオンはベトナムである。 プンチャク・シラットもフイリピンやマレーシアにもありこちらも本家争いがあるが日本のプンチャクシラットはインドネシアからの先生を呼んでやっている。 プンチャクシラットの本部兼訓練所(ホテル併設)はタマンミニに向かう道にのTMIIのすぐそばにある。Rachmat Gobel氏は松下パナソニックとの合弁相手で父親のモハマッド・ゴーベル氏の時にパートナーとして大きく育った。今後も同じ場所にある国際シラット組織の常任顧問としてシラットの活動を続けるそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月28日 (日)

Wahidinとブディ・ウトモ

Stovia
ラパンガン・バンテンと言うと何となくガツガツした感じがするがオランダ時代のウエルトフレーデンやワーテルロープレインと言うとよき時代の印象が生まれる。ここにダーンデルスが建設着手したダーンデスル宮殿、現在の財務省がある。
この財務省の裏手に財務省新館がありこの辺に Dr.Wahidinという道がグヌン・サハリ通りとの間に、あるいは横に繋がってある。 この道の北側がBudi Utomo通りであり、その更に北、つまりポス通りとグヌサハリ通りを繋ぐ道がDr.Sutomo通りで何れも短い通りであるが二人ともインドネシア国民運動の発祥の ブディ・ウトモの創始者である。
このワヒディン通りもストモ通りのあるこの地区は現在行政的にはパッサール・バルー地区(Kel.町)に属する。パッサール・バルーはチリウン川の向こう側とばかり思っていたが。。ここではワヒディン氏を紹介しよう。
Wahidin Sudiro Husodo
1852年ジョグジャ生まれ、民族の自立へ強い信念を持った人であった。インドネシアの  子供達は十分素質があるが経済的困窮で教育を受けられないだけであるとしてジャワ人のための奨学金制度を作った。 ジャワ医師学校(Stoviaの前身)を卒業後ジョクジャで政府の医師として1899年迄働いた。 ジャワ語の「レトノ・ドゥミラッハ」の編集長でもあったが、STOVIAの学生ラデン・ストモやスワジに大きな影響を与え、ブディ・ウトモ結成へ指導した。1917年、ジョグジャでなくなった。政府は1973年国家英雄(Pahlawan Nationalに叙した。写真はストビアの裏から。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月27日 (土)

ニャイダシマの終焉地とその教訓

Kwitang_marinir
西祥朗氏のニャイ・ダシマ物語が今日終焉に近づいている。氏のホームペイジ「インドネシア情報ライン」で「ニャイ・ダシマ 魔の手へ」が掲載されている。スンダ出身の色白の美少女は若いイギリスサラリーマンの世話を焼く身から何時しかニャイ(結婚をしていない夫人)となり、娘も儲け、夫が貸し与える財貨を貯めつつ益々妖艶になっていくのを、御者風情のサミウンに見初められ、ドクンとイスラム教義で攻められその魔の手に落ちる。ダシマは夫エドワードに宗教も違い将来の約束ない身を考え離縁を申し入れエドワードも泣く泣く娘を引き取りながら聞き入れたが、ダシマにはサミウンの第1夫人ハヤティと姑にいじめられるどん底の生活が待っていた。彼らの狙いはダシマの財産であったのである。ある日エドワードと暮らした家の近くのチリウン川にダシマの死体が発見された。ハヤティが刺客を雇ったのである。
この地はジャカルタのKwitangで今のグヌン・アグン書店があるところで死体は投げ込まれ海運省の裏側のエドワードの家近くで発見されたのである。Kwitangには旧いイギリス教会もあるので、なるほどこの辺りにはイギリス人も住んだのであろう。次代は1813年から1824年ごろ、ラッフルズ時代、イギリスは東インドをオランダに還付した時代である。 この小説には幾つかの版があるようで植民地版はブタウイとムスリムの残忍卑劣さを訴えているといわれる。西さんのおかげで今頃このような文学があるのを知ったがこれから新しく赴任する日本人青年の必読の小説のようである。 写真はグヌンアグン書店2階から色ガラスを通してみたチリウン川に架かるKwitang の橋とマリニール本部である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月26日 (金)

コリント様式の建築美

045
ギリシャ・ローマ時代の建築様式で特に列柱の特徴でドーリア式、イオニア式、コリント式があるがジャカルタにはこれら全てを見ることが出来る。東京の西洋建築を今月から見学に回ったが、残っているのは流石金がある日本はリノベーションが行き届いており素晴らしい。代わりに一部しか残ってない、それは震災や戦災で失われたから致し方ないがジャカルタは素朴なところが良いということになろう。
列柱では一番華麗なのはコリント式で高い台座、細く高い柱、柱頭はアーカンサスの葉飾りであるがこれを始めてまじかに見ることが出来た。明治生命館である。これは戦災にも生き残った為GHQの本部に接収されたこともある。ジャカルタではムルデカ宮殿であるが、その気がないのと誰何されるのが怖くて写真は9月20日のプログ程度の出来栄えである。何れ撮りに行くとして、取り合えず明治生命館を飾っておこう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年10月25日 (木)

Menteng No.37はHans Selaiman氏のもの

Menteng_no37
チキニのオランダ時代の建物である郵便局の写真を撮っているときドンドン後ろに下がって、ふと横を見るとそこにこれも古い壊れかけた建物を発見した。これも19世紀中ごろまでのWoonhuisスタイル住宅である。ここはMenteng Raya No.37で80メートル先のMenteng Raya No.31 にはGedung Joang 45博物館があり、その昔Hotel Schomper であったが、此方No37 もHotel Schomper IIであったらしい。
2003年ごろまではクリスチャンの夫人のメスで使用されていたようであるが、取り壊し予定である。今年初め小生と同じような地元の人がこれを見つけWeb上で反対運動を展開していたので未だ取り壊しは行われていないが市の保護建物に指定されていないため成り行きが注目される。現在の持ち主はHans Selaiman氏のものであると立て看板がしてあるが名前から何故欧米人の名前なのか不思議である。。Woonhuis式住宅の特徴は前庭、後庭が広く、前面は階段をもつギャラリーでギリシャ時代の柱のファーサードである。ジャワのPendopoに似た屋根は低く時に前面のフリーズで隠れている。前面ドアーは3個ほどあり真ん中が玄関で中に入るとそのまま廊下で後ろのテラスまでつながり、その間に左右に2つ3つの部屋がある。
Menteng37tahun_2004_2
破壊前の写真は2003年時代のものでhttp://patindhan.multiply.com/photos/photo/10/1.jpg  より借用した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月24日 (水)

CiputraのIPOは買い。チプトラ成功物語

Ciputra PropertyがIPOを進めている様だがもう購入は遅いかもしれない。 計画では販売は11月5日からで12日には上場でRp570 karaRp800の値段で21億株、40%程度が公開される。この資金はSatrioの土地拡充資金或いはSomerset Grand Citraの増資資金に使われる。残り60%の株式は先に1994年に上場したCiptra Developmentが保有しているが、2008年に後1社上場する事で全体で9社が上場することになる。
会社は2005年181億ルピアの利益から2006年は429億ルピアにアップし好調が続いている。会社の利益は主としてCiputra Mal等の小売業から来ている。会社はクニンガンの11ヘクタールの土地に開発中である。彼は1931年スラウェシのParigi生まれの貧しい華人のうまれである。日本占領時父親は投獄され死亡、牛を飼い、お菓子を売る生活であったが1TB建築学科に進学、メナド出身の女性と結婚し、クバヨランバルに移りDKIの保有会社Jayaに勤めここから成功物語が始まった。アンチョール開発に参加し1997年の金融危機までにJaya Group, Metropolitan Group及びCiputra Groupの三つを保有していたがCiputraグループに注力している。ジャカルタだけでなくメナド、メダン、スラバヤなど全国10の住宅地開発、Ciputra  HotelやMallのビジネス、Century 21もあるし、ハノイやインドにもCity建設を行っている。75歳になって社会貢献としてUniv. Ciputraを創設し企業家を育てている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月23日 (火)

Mohammed “Bob” Hassanとスハルトの今(敬称略)

Jun07_bob_hassan_kbaru_020
インドネシアのTimber Tycoonといわれる当時apkindo(Indonesian Wood Panel Association )の会長であり、Nusanbaグループを率いていた。スハルトの側近でゴルフ仲間であった。スハルトの最後の内閣では商業大臣にまで抜擢されている。1931年生まれの華人である。スハルトの上司となったガトットスブロト将軍の子供として育てられ、独立戦争時に軍に糧食を供給したことが始まりといわれる。国の植林基金を流用したということで有罪となりヌサカンバンに禁固となったが2004年3月釈放されていので今はこの家に住んでいるのであろう。先日のIdul Fitriにチェンダナのスハルト邸にハリラヤの挨拶に行かれたようだ。 16日のこのブログでSenjayaのモスクに触れたが、その前の家が彼の自宅である。衛星から見た地図には広い裏庭の奥にプールが見える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月21日 (日)

Ku-i の用法、Pantas Saja!道理で!

以下は学生が大学合格発表の看板を見ているシーンである。
Akupun mencari namaku di papan pengumuman. Nama-namanya tidak diurut berdasarkan abjadアルファベット順 sehingga sulit mencari nama calon siswanya. Kutelusuri よく見るdari depan sampai paling belakang tidak ketemu. Setelah hampir putus asa諦めるmencari, akhirnya aku temukan namaku tepat di pojok kiri atas papan pengumuman itu. Pantas saja susah ketemunya! 僕だって発表の掲示板に自分の名前を探したが、アルファベット順でないので大学生候補者(合格者)の名前を探すのは難しかった。最初から最後まで一つづつ名前を追ってみたが見つからない。諦めかけていた頃、終に自分の名前が掲示板の左上の隅にちゃんとあるのを見つけた。道理で見つけるのが難しいかったはずだ!

KutelusuriはKu-telusur-iでKuとは「私=aku」のことで、この場合、主格を一寸表す程度でまた語尾に来る用法もある。Meninggalkanku 私を置いて行くMenghampriku私に近づく などであるが
前は主格であり、後ろは目的格だから余り混同は起こらない。Google検索のことをtelusuri dengan googleと言う。-iは他動詞化であるが -kanは~を-すると言う意味で –iは目的を強く意識しないように思える。Telusuriに似たような言葉にMenyusuri がある。語幹のsusurは縁である。端まで伝って見るでこれも端のほうを探す意味になるのかな

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月20日 (土)

Sriwijaya海洋国家と機動隊本部

Brimob_sep07
トルノージャヤ通りの国警機動隊本部裏にサンジャヤ通りと並んでスリウイジャヤ(Sriwijaya、Srivijaya、Sri Boja)通りがある。スリウイージャヤは古代王国でマレー半島全域、スマトラ全域、及びジャワを含む現在のインドネシア全域の沿岸部を支配した貿易国家で大河ムシの都市パレンバンがその中心であった。生まれは3世紀から5世紀、消滅も1200年から1300年の間と言うようにはっきりしたものはない。スリウィジャヤの発見はフランスの学者により20世紀になってからで、今も不明事項が多いがインドネシア独立の領土の原形となったマジャパヒットに比すべきシンボルとなっている。余り主張すると「トラン・ブーラン」の歌唱のようにマレーシアと本家争いになるかも知れない。
サンスクリット語でSriはShining、vijayaはVictoryの意味がある。現在この名前は南スマトラを所管する第2師団の名前となっており、パレンバンの国立大学の名前としても残っている。適当な写真がないので国警機動隊本部をアップロードする。この前に立つ銅像はだれだろうか 南ジャカルタ警察の裏の警察施設にたつ像もこちらはじかに触れることまで出来るのに名前の記載がない。警察に余りアクセスできないので、情報が得られない。情報求むです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月19日 (金)

バンドン鳥元表彰と地熱発電 

Photo
ジャカルタで発行されている雑誌「Jakarta Jawa Kini」に友人のやっているレストラン鳥元が(Bandung-Best
-Restorant-Award-2007)賞を射止めていた。メールで彼に送ってあげたが彼も知らなかったようで大変喜んでいた。以前にも日本の公的機関の雑誌に成功レストランとして紹介したこともあり、このブログにはこれで3回登場させたのでチャンコ一杯分くらいのおごってもらえるかも知れない。この間9月に訪問したとき同席した人は住友商事OBで近くの地熱発電に携わっていると言っていたが今日インドマルコ社の雑誌用に「インドネシアの電源開発事情」を脱稿したこともあり、思い出したのでブログ化した。写真はレストランの裏庭で、第2駐車場と事務所と従業員休憩室があるところであるが、裏を見ると全てがわかるというものである。但し知的で可愛い女性従業員達は写真に取ったが残念ながら小生も一緒に写ってしまったので、店に見に行ったらよい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月18日 (木)

昔のサバンのバンジールmalah mesti nongkrong 

Jlsaban_024
昔からジャランサバン辺りは浸水しやすかったが、下の文は1932年の大洪水のときの描写である。Orang2 tidak bisa keluar rumah, malah mesti nongkrong mencari selamat di bubungan(トップ)atap rumah. Bagi yang beruntung memiliki perahu, hari itu mereka bisa berdayung -dayung (オール)di Jalan Sabang 人々は家から出ることが出来ず、それどころか多分屋根の上の高いところに腰をおろして安全を求めなければならなかった。もしうまく舟を持っている人々はジャランサバンに艪をこぐことになった。
Malahはむしろと言う意味、よく使われる言葉はbahkanやmelainkanがある。
Mestiはpasti、英語でcertainly、Semestinya=seharusnya
Nongkrongはむしろじっと座って無為に過ごす様子に合っているジャカルタ語

| | コメント (0) | トラックバック (0)

クルッド火山爆発予兆とシドアルジョの泥流出 

政府は東ジャワケデリ地区のクルッド火山(1731m)の爆発予兆が激しくなったとして付近の住民3万人の避難を指示した。爆発は差し迫ったものと観測されている。
シドアルジョの泥流出を思い起こすと、何があってもおかしくないインドネシアの地下変動であるのであえてブログにも書くことにした。過去1815年のタンボーラ火山と1883年のクラカタウ火山爆発は想像を絶するものであった。この二つの爆発はその規模は世界で1位と2位である。
「クルッド山頂に火口湖がある。1919 年の爆発により火口湖の水が噴出してラハール(泥流)として麓に流下して災害を起こし5000 人の命が奪われた。そこで,オランダ人技術者により火口にトンネルを掘り,火口湖の水位を下げる努力がされ,現在もトンネルによって水位をつねに低くしてラハールの発生を防いでいる」(この項は大槻氏インドネシア専科より)クルッド山は1990年にも爆発を起こしており、それに続く爆発が予想され既に2年、エネルギーは蓄えられている。 少しだけ火山が活動して、流出が激しくなっているシドアルジョの泥水噴出が止まるようなことがあればと期待するのであるが。。インドネシアの活火山は129火山もあり、インドネシアは太平洋の日本とも繋がる"Ring of Fire" の一部である。昨年はTalang(西スマトラ)やメラピ火山がニュースに流れた。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年10月17日 (水)

守られない首都条例:貧乏人に金品は

旧聞に属するがジャカルタはこの9月に物乞いなどに金品あげたら罰金を課す条例を定めた。街には物乞い、物売り、ストリート・チャイルド、ストリート・パフォーマンスがあふれているが彼らに金品を上げたら10万から2千万ルピアまで或いは2ヶ月の拘留を課すものであり、この条例 No.8/2007 首都のイメージを守るとしている。自転車タクシーやバジャイも違法とされ、バンチーも同じである。
インドネシアには貧乏人同盟などの組織もあるようで反対運動を展開した結果、内務大臣はこの条例の適否をレビューすると約束したようである。
ジャカルタの前はメダンなども制定したはずであるが何か本末転倒である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月16日 (火)

Senjaya通りとSanjaya王朝

Sanjaya_jun07_kbaru_022_2
クバヨラン・バルのパティムラ通りとグナワルマン通りの間にSanjaya通りと言う通りが
横に幾つか走っているが、丁度国トルノジョヨ通りの国家警察の裏に当り、そこを右(東)に通っていくと一寸風変わりなモスクに行き着く。その裏はこんなところにもあるのかと驚く墓地であるが相当荒れている。この通りの名前はSenjayaという綴りかも知れないが、この名前はその昔、ここタルマネガラ王国の領土を治めたであろうスンダ国の王でもあり、且つKalinggaを含めた王国を作ったサンジャヤ朝の創始者の名前である。ボロブドールの南東で出土したチャンガルの碑文で732年の年号とこのサンジャヤ王の存在が記されており歴史的事実である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月15日 (月)

2009年大統領戦の前哨戦

早くも2009年の大統領選に付いての動きが激しくなってきた。カラ副大統領、メガワテイ元大統領、スティヨソ前ジャカルタ市長が名乗り出ているが、インドネシア調査研究所LSIの調査では、国民はヨドヨノ元大統領が再選されることを期待している結果が出ている。この3人ではユドヨノが55%、メガワテが30%程度、カラが15%である。
一方ユドヨノの人気は徐々に下がっており直近では54%と言う数字である。これは2004年の選挙直後の人気が80%であったので小泉と同じで期待感が高いだけに
成果が目に見えなければ失望も高い。特に貧困・福祉で期待を裏切る形となっている。多分この調査は3人から選ぶ形を取ったものであろうが、新鮮さがない。かといって他に誰がいるのか政治が停滞しているといえる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月14日 (日)

9月のインドネシア投資環境関連ニュース

インドマルコ社配信のニュースから:
*事業しやすい国ランク、イは132位:世銀調査。前年の153位からランクアップ。
*イのIT競争力64か国中57位:ビジネス・ソフトウエア連盟(BSA)。
*アジア開銀:イの経済成長予測を上方修正、今年6.0%→6.3%、来年6.3%→6.4%。
*イの汚職度180カ国中143位:トランスパレンシー・インターナショナル。
*関西電力、ラジャマンダラ水力発電の独占開発権取得。来年着工、2010年完成計画、4.7万kw。
*伊藤忠、ジャバベカ工業団地に内陸コンテナデポ建設計画。
*自動車販売1-8月は前年同期比38.9%増。ガイキンドは見通し41万台に上方修正
*プラブハンラトゥ石炭火力発電、1,050MW、レンバンも630MWの建設開始。1万MW開発プログラムの一環、パチタン、バンテンも。
*日本格付研究所のイ長期優先債務格付け引き上げ。見通しもstableからpositiveに。
*バンドンの高校生の13.6%は麻薬使用者:サーベイ。
*物乞いに金品あげたら罰金10万-2千万ルピア、拘留2ヶ月:首都条令
*スハルトがタイム誌に最高裁で逆転勝訴、不正蓄財疑惑めぐる記事に対する名誉毀損提訴で

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月13日 (土)

スロパテイ公園の知事官邸

Photo
昨日モナスの南のDKI特別州知事の首長府を紹介したが、知事の執務室があるのかは知らない。多分公式式典に使うBalaiと思うが、知事のお住まいはスロパテイ公園の周りの一角にある。スチヨソ氏がこの間まで住んでいたところであり、流石おしゃれ好きな知事だけあって、その美麗さは目を見張る。ここの今度選ばれたファウジ知事が入るのかどうかは確認していない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月12日 (金)

DKI首長府もWoonhuisスタイル住居

Residence_of_dki_merdekaselatan
副大統領府につられてDKI首長府としたが現在はDKI州政府の事務所の敷地内にBalai Kota Jakartaとして保存されている。これも19世紀に建てられたものと思われるが、最初は理事官の事務所であった。理事官とはレジデンと言われ現在の州長官にあたるが、総督より任命され担当州の行政、警察、裁判の権限を持っていた。この統治方式は20世紀始めには完成し1909年ジャワにはバタビアを含め17のレジデンが任命されていた。
90年代までは前庭はプール風噴水池の如しであったが現在はどうであろうか 外側から写真を撮ったので確信がない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月11日 (木)

インドマルコ「インドネシア企業経営」9月号

下記の記事目次の9月号が発売中である。詳しくは同社のホームペイジ
www.indonesialink.net/indomalco/ でどうぞ。 メールアドレスはrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netである。
• インドネシアの今月の税務法令アップデート
• インドネシアの今月の経済法令アップデート
• インドネシアの会計原則 100 (デリバティブ・ヘッジ会計処理6)
• インドネシアの物品税法の改正ポイント
• インドネシアの輸入品の船おろしと保管
• インドネシアの会社定款の新スタンダード
• インドネシアの技術等の使用料の範囲
• インドネシアのメインサービス税関での通関
• インドネシアのTHR(宗教大祭手当) 
• インドネシアの税額決定プロセスの各種行政書式
• インドネシアのエネルギー法の要約
• インドネシアの今月の労働関連トピックス
• インドネシアの納税者番号登録通知状の和訳
• インドネシアの製造業の問題点
• インドネシアのコンピュータ教室の授業料にかかるVAT
• インドネシアの婚姻法 その2
• インドネシアの今月の月次経済指標 2005-2007トレンド
• インドネシアの2007年8下旬 政治・経済トピックス
• インドネシアの2007年9月度 上・中旬 政治・経済トピックス
• インドネシアの物価・貿易統計発表2007年9月
• 「明日の街角21~平成19年、秋分の日に」
• 「クバヨランバルの道路と英雄名 北東2」
• 「マタラム時代の戦乱と4王家の分立」
• インドネシアの今月の為替株式金利の動き
2007年の1月からの目次は添付しました。
「2007.xls」をダウンロード

| | コメント (0) | トラックバック (0)

レバラン直前追加の一斉休暇

愈愈 Lebaran インドマルコ社の2007年カレンダーによるとレバラン大祭は13日と14日で一斉休暇(cuti bersama)が12日、15日、16日となっている。レバラン大祭が土曜日曜にすっぽり入り前後を一斉休暇にしたものの合計で5日間と短い為、政府は先日、一斉休暇を17日から19日の3日追加した。これは次の20日が土曜であり、土曜も当然休みが前提でそこまで繋いだものである。
11日なども先に休暇を決定していた企業もあるのであとで勝手に追加されたのではたまらない。みんなで渡れば怖くないというのであろうか。政府は予算も不要で善政の積りでやっているかも知れないが企業は従業員の有給休暇を振り向けて夫々に決めているのでおせっかいである。そこまで余裕のない会社・産業もあろう。
小生がジャカルタに居れば次のスケジュールになろうか 夢のホリデーであるが運ちゃん調達が一苦労かもしれない。と人は言うが今まで休みたいという運ちゃんは居なかったことは貧しさがひしひしと言うことかもしれない。
10月12日(金) JGCでゴルフ
10月13日(土) イスタナめぐり(ライスウエイクからウエルトフレーデン)
10月14日(日) クマヨランでゴルフ、タンジュンプリオク港見学
10月15日(月) チレゴンでゴルフ
10月16日(火) マハカム辺りの地図作成(Park JohnとFusion Spa)
10月17日(水) ボゴールでゴルフ、ボゴールのオランダ時代建物めぐり 
10月18日(木) リッポーインペリアルでゴルフ
10月19日(金) バンドンの鳥元訪問 州議会などをカメラに
10月20日(土) マトワでゴルフ、ブタウイの故郷訪問
10月21日(日) スナヤンでゴルフ
10連休である。金もかかるし スケジュールを入れるのに一苦労します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月10日 (水)

Kimia Farmaはベテラン通り?ブディウトモ通り?

Kimiafarma
ベテラン通りに確かにこの写真の建物はある。建物にKimia Farmaとありキミア・ファルマ社の迎賓館然としているが、これが昔住民にGedung Setan(幽霊館)とささやかれた建物であろうか。
Gedung Setanと言われた建物の説明には、パッサール・バルー地区のブデイウトモ通りにあることになっており、その昔はフリーメイソンの館であった。当時の名前は「東のスター」である。
地図を見ると確かにブディウトモ通りにKimia Farmaの名前がある。多分此方は本社、或いは工場があり、これこそKimia Farmaの発祥の地かも知れないが、その関係は再度訪問し確かめるしかない。ベテラン通りのKimia Farmaは綺麗過ぎるのと昔の写真と一寸違う点が疑問であるが又こんな最高の所に所在していることもこれこそ幽霊館であった証拠である。このベテラン通りは総督宮殿(現在のイスタナネガラ)やHotel der Nederlanden(現ビナグラハ)や内務省、陸軍司令本部などがある通りである。
2007/1/6のブログ、2006/4/17のブログについでのブログであるが次回再訪の上Kimia Farmaは締めくくろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 9日 (火)

副大統領府はWoonhuisスタイルの住宅

Istana_wakil_presiden
モナスのムルデカ・スラタン通り、アメリカ大使館の隣にある建物が副大統領の宮殿、Istana Wakil Presidenである。昔爆弾テロの脅迫事件があったがアメリカ大使館ほど厳重ではない為、写真は取れた。この建物は19世紀中ごろ 流行ったWoonhuis(住宅風)建物で軍のエンジニアが最初に作ったと言われ、トロピカルな気候に合わせた住宅でシンプルであるが前庭、後ろ庭が広く、それで富裕さを誇った。ここの副大統領府の後ろ裏のクブンシリ通りに面している。今のユスフカラはデポネゴロ通りに住んでおり、デポネゴロの家の方が大きく常時、軽戦車がテロを警戒している。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007年10月 8日 (月)

チマンギスのカントリーハウスと思い出

久し振りと言って置こう。最初のインドネシア赴任時代の友人からメールが来た事もあり、当時のジャカルタ時代の思い出を綴ろうと思ったが適切な写真がない。工場があったCiracas辺りからBogor Rayaボゴール街道は1970年代の日本企業進出の第一波の進出地でもある。目に留まったもので、帝人、東洋紡、松下電器、YKK、ヤンマー、サンヨー、明和工業、マラック等々。
507_pondok_cimmangis
この街道を上って行くとインドネシア国営ラジオRRIの電波発信基地があり、その中にオランダ時代の建物があったので昔の写真をアップロードしよう。
Bogor Raya 34km(ボゴ~ルに向かって34km)にある、広大なチマンギス電波発信基地の敷地の南端に、この大きな建物はある。この建物は1775年ごろVan der Parra総督の寡婦の為に建てられたものだそうだ。所謂オランダ時代のプランテーションが南へ発展しこのボゴール宮殿に向かう街道沿いにはこうしたカントリーハウスがいくつもあった。ポンドック・グデーなどは地名として残っているだけであるが、ここの建物はどうなるのであろうか。1998年初めは未だ一般の人が住宅にして存在していたが、あれから又10年過ぎようとしている。次回は最初の赴任時代の思い出を尋ねる旅にしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年10月 7日 (日)

Pasar BaruのToko Kompakは健在 

Kompak_sep07_salemba_kopi_048
パサール・バルーに古い中国の店が健在しているというので先月のある土曜に出かけてみた。クスニアン・ジャカルタのジャラン・ポスト側から橋を渡って入って行くと、確かにそれに見える店が幾つかあるが、カキリマに聞いてその店は直ぐ解かった。
19世紀の終わりに建てられたようでこれが現在もToko Kompakと言う名前でカバンなどの日用品を売っているようであったが、古いだけに店先のカバンも色あせて見えた。一説には200年前とも言われ Mayor(区長程度)の中国人Tioさんが作ったとも言われる。Tio氏はオランダ政庁から中国人の代表として指名された5人のMayorの一人であり、既に8世代を数えるHokkianである。
パッサールバルーは1820年にオープンしており当時市場としてはスネンとタナーバンが既にあり、パッサールバルーは名前の通り新しいショッピングエリアでジャラン・ベテランとジャラン・ジュアンダの金持ちのショッピングエリアであった。当時の建物は全てLanggam Cina形式であったが今はそのかけらもない。唯一の例外がトコ・コンパックである。トコ・コンパックは1993年に他の4つの建物と共に歴史遺産として指定されている。その住所はJl.Pasar Baru No.2、8、30、46で、昔ブログに書いたマタハリはその昔の名前Zohnが今の名前に他の店は2階の一部に昔の名残を残すのみである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 6日 (土)

DKIはレバラン帰省に乗じた人口流入を監視

Detik誌の社説では毎年レバランでは首都の人口が増え郊外化が進んでいる。首都に入ってくるポイントは28ケ所あり、DKIでは毎年の事ながら監視を強める。昨年はDKIから出た人2,402,494人であったが入ってきたのは2,484,344人で81,850人増加した。2007年は区の数で8ケ所規模の200,000人くらい増えると予想されている。
28ケ所とは主要ターミナルPulogadung, Kalideres, Kampung Rambutan及びLebak Bulus、補助バスターミナル(Rawamangun, Grogol, Rawabuaya)、汽車の駅(Gambir, Jatinegara, Senen、空港(Halim Perdanakusumah と Soekarno Hatt)高速出入口(Cikampek, Jagorawi, Merak.)である。確たる就職口と住居がないものは入らせないとのことであるが又チェックで混むのであろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 5日 (金)

イソラ宮のD.W. Berrettyの栄光と運命

Bandung_052_2

バンドンのイソラビラのオーナーはD.W. Berrettyという当時の新聞王の別荘であった。ベレッティ氏は1890年当地で教師の子供として出生、中学卒業後郵便会社P.T.Tに就職したが直ぐ新聞社のJawa Bodeに移りまた第一次世界大戦前にアメリカなどに旅行、金はなかったが借金で電報サービス会社を興した。彼はオランダと東インド間のニュースの最速プロバイダーとして成功への道を進む。
彼のニュースエージェンシーの名前はANETAと言う名前で“全てにナンバーワンの意味であった。彼は世界を飛び回りロイターのサー・ロードリック・ジョーンズ会長とも懇意であった。1918年から1932年までに6回結婚している。ここまでが彼の栄光の時代で世界大不況から1932年にはAneta、Bataviaに注力することにし、1933年から1934年にかけて彼の別荘としてイソラビラを建設したがこれが財政的にも命取りになった。
或いはジャーナリストや政治家との折り合いからこの会社を売却する為オランダに向かったが、この旅行の飛行機がクラッシュし彼は44年の生涯を終えた。イソラ・ビラに住んだのは数ケ月であった。
当初のイソラビラは3階建てであるがその後4階が建て増しされている。バンドンの街に良く似たアールデコの建物を発見したのでこれを貼って置く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 4日 (木)

SMKKとSMP 5オランダ時代の学校

Jun07_sundakelap_kota_048
Sutomo通りをグヌンサハリから入ってくるとBPSの近くにしゃれた古い学校が目に付いたので写真に取ってきた。この学校はもオランダ時代の学校で広い窓と高い屋根が特徴である。SMP 5と看板にあるが小学からの一貫教育である。(朝が小学、昼から中学の授業) 何故か教室には煙突も着いた暖炉があるユニークさだ。
その先にもあと一つ学校があるがこちらはSMUK 27となっている。資料をあさると二つの資料があるがどれかとどれかが符合すべきであるがどれも肝心なところが符合しない。
*SMKK: 1932年建設のELS(Europeesch Lagere Schoolオランダ人の小学校)で現在はSMKK  Sekolah Menengah Keterampilan Keluargaと言われ殆どが女学生だそうだ。
*Gedung SMKK Negeri Jakarta - Jl. Dr. Sutomo No. 1 、Dibangun tahun 1942, Arsitektur gaya Eropa
オランダ時代の学校はどうもデータがあやふやである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 3日 (水)

イスタナ・ムルデカより古いイスタナ・ネガラ

Istana_negara
大統領宮殿イスタナ・ムルデカについての4月7日のブログの続きでIstana Negaraは18世紀の終わりにJ.A. van Braamと言う人が建築したものであるが彼の墓はプラサスティ記念墓地公園にある。英国が占領した時代(1811~1816年)は英国人のジャワ北海岸コミッショナーが住んだ。ラッフルズもこの地で後のHotel der Nederlandenとなった家に住んだ。このHOTELの跡地がスハルト大統領が執務・閣議を行ったBina Grahaで、現在は博物館になっている。Braamが1820年になくなったときこの家は総督の居住邸宅としてオランダ政庁が購入、総督・カペレンが最初に住んだ。ダーンデルスの宮殿は未だ建設完了せず、又完工後は政府事務所として使われたためである。この建物は1階と2階はトリグリフ(ドリス式オーダーの縦溝)で装飾されたフリーズ(装飾帯)で分離されている。1階は左右のウイングが付けられメインは14本の円柱で、内左右の端は2本の双子の円柱で支えられている。1848年の地震で2階は壊れたので再建・拡大された。2階からは今のモナスのKoningspleinが見渡せられた。
モナス側にムルデカ宮殿が立ったのはイスタナ・ネガラより約1世紀後の1879年でで、ウイレムIII世の結婚を祝したもので、ケーニングスプレイン宮殿或いはIstana Gambirと呼ばれた。イスタナ・ネガラはIstana Rijswijkレイスウェック宮殿のはずである。レイスウエック宮殿でハーグ条約のオランダの権限委譲の署名を行った。インドネシア側はハメンクブオノ9世であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 2日 (火)

イソラ・日本軍・シリワンギとUPI

ヴィラ・イソラを尋ねて歩いた日、バンドン工科大学のキャンパス前の公園には学生達がソコココ集まっていた。その中の学生達にUPI出身の者もおり、偶々尋ねてみると何と彼らもビラ・イソラを知らないのには驚いた。ヴィライソラはブミ・シリワンギと名前を変えているがインドネシア教育大学UPIの学長の事務所になっているのである。
Bandung_upi_027
UPI自身も1999年にその今の名前になったが、それ以前は高等師範学校PTPGで1954年にムハマッド・ヤミン教育大臣がresmikanしている。そのプラークがヴィラの中にかざってあった。(PTPGはのちにIKIPになったが) 
当時のLembangwegはUPIのキャンパスの中の道になっており現在の住所はSetiabudiである。日本の占領時は日本の司令官本部に使用され、インドネシア青年たちとの文化交流や訓練の場でもあった。 教育大学発祥の話としてみた。写真はUPIの新館をイソラビラから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 1日 (月)

インドネシア婚姻法

インドマルコの「インドネシア企業経営」に何故かインドネシア婚姻法の翻訳が載っている。この法律は1974年制定で未だ燦然と生きている。この原稿も個別に購入でき価格は\1,625円である。国内円振込みで可であるので
申し込みはメールアドレスで risa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

インドネシア会計原則

日本の連結財務諸表は国際会計基準で作成しなければならなくなったが、インドネシアは後発だけにインドネシア会計原則は国際基準に合致している。この集大成がインドマルコ社より販売されている。以下の通りであるが
全巻必要な場合は2割は割引あり。
「インドネシア企業会計原則 その1 」 (78P) ¥ 11,000
「インドネシア企業会計原則 その2 」 (79P) ¥ 11,000
「インドネシア企業会計原則 その3 」 (78P) ¥ 11,000
「インドネシア企業会計原則 その4 」 (77P) ¥ 11,000
ご希望があればメールすると良い。 メールアドレスはrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

改訂国税通則法No.28/2007の邦訳

かんかんガクガク3年間も討議されてきたインドネシアの税法であるがその目玉である国税通則法がやっと昨日、公にされた。 官僚が作った原案は国会審議で納税者の権利が生かされ殆ど脱骨されたと行っても過言ではない。これで納税者と税務署がイクオール・スタンスに立つことが出来る或いはこれでやさしいインドネシアの税務署の人達と友達になれるかもしれない。この翻訳はインドマルコ社で早くも脱稿、販売中である。 旧3法との合体版で注釈付で69頁、販価はRp600,000+VATである。日本向けは送料込みで7,800円、受け取り後国内振込み。
一寸ここで試しに宣伝してみたが、ご希望があればメールすると良い。 メールアドレスはrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ジャカルタ道路網・バスウエーの南北線

Bas_015
ジャカルタの中央を横切るスカルノハッタ行きの高速を南北に横切る通りは①スディルマン通りが代表で、このスディルマン通りと黄金の三角形といわれる形を構成するのが②Rasuna Said通り(マンパンより更に南にはマンパンプラパタン通り)、更にブカシ方向に探していくと③パンチョランの通称7UPの塔の辺りのProf.Supomo通り(更に南にはパッサールミング通り)となる。又チャワンの一寸手前の④OTISTA通り(更に南へはDewi Sartika通り)、一方⑤エスパルマンの方に目をやると、スリッピから南に下っていくグローラ通りがジャカルタ一長いその名もパンジャン通りと合流しTeuk Nyak Arif通りとなりクバヨランラマからポンドクインダー迄をSultan Iskandar Muda通りと名前を変えて繋がっていく通りがある。以上少し複雑であるが、全て人物名のこの①から⑤のたった5本の線が全てであり、それしかないからメーンのスディルマン通りが渋滞するはずである。
バスレーンで見ると1号のKota-B-M (これはファトマワティまで伸びねば意味ないが)、6号(RasunaSaid-Ragnan)、5号・7号(Ancol-Ranbutan)、又現在反対運動が激しい8号線(Pndok Indah-Harmoni)や14号線(Leabak Blus-Kebayoran Lama)が開通してやっと5つになるので此方も未だ淋しい感じがする。
写真はシシンガマンガラジャ通り

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »