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2007年11月の投稿

2007年11月30日 (金)

ブロックエムの環状建物 螺旋NYKのグッゲンハイム美術館

Bm007
グッゲンハイム美術館はアメリカの鉱山王ソロモン・グッゲンハイムのコレクションを基にして1937年に設立された美術館で1959年に五番街の現在の建物になった。設計は日本の帝国ホテルも手がけたライトである。此方はカタツムリ上で中央が吹き抜けになって最上階から展示品を見ながらいつの間にか最下階に移る趣向であるが、外観が似ている建物がブロックMの入り口近くにある。此方は最高検察庁の中の別館でブロックエム・モールに隣接する建物である。もう十数年も側を行過ぎるのであるがしげしげ見たのは今回が初めてである。グッゲンハイム美術館の写真を見て、この建物を思い出したがそれはそれまで螺旋状の駐車場とばかりイメージしていたからであった。
人間の知覚とは恐ろしいものである。

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2007年11月29日 (木)

ジャカルタ地域温暖化

ジャカルタは小生が居た11月中は乾季に戻り、ゴルフで1回も降られる事はなかった。勿論局部的に大雨・洪水はあったが、多分12月は相当降ると思われる。この雨は多分にジャカルタ地区の交通渋滞などによる地域的温暖化によることが大きいようだ。一方先日大潮の為スカルノ・ハッタ空港への高速道路が腰下まで浸水する騒ぎがあった。ITBの気象学博士のArmi Susandi教授はジャカルタは2050年には市の25%が海水に侵されると予測している。空から海からやられる図であるがその上インフラ計画もなく益々悪化させている。飛行場への高速の浸水は大潮と言うのであれば毎月のこととなるが、今回は18年周期の大潮であった上、海岸線バリアーの破損が放置されたとある。今後も毎月は起こることはないということでひと安心しておこう。来月はバリで世界気候変動会議が開かれる。

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2007年11月28日 (水)

2006年も8人の国家英雄

序に昨年の国家英雄叙勲者を調べたところ以下の8人プラス1人の勲章のみの受賞者が居られた。ハメンクブオノ以外は余り聞いたことがない人ばかりだが名前だけでも記録しておこう。国家英雄称号gelar Pahlawan Nasionalと栄誉勲章Tanda Kehormatanの授与式 Acara Penganugerahkan でユドヨノ大統領は“この国と民族のために奉仕した英雄を偲び又その霊に祈るため黙祷しよう。そして我々も彼らの闘争に続こう”とスピーチし宗教大臣の祈祷のあと出席大臣との懇親会に移った。
Gelar Pahlawan disertai Tanda Kehormatan Bintang Mahaputera Adipurna:
1.Alm. Pangeran Mangkubumi/Sultan Hamengku Buwono I, DI. Yogyakarta.
Gelar Pahlawan disertai Tanda Kehormatan Bintang Maha Putra Adipradana:
2.Alm. K.H. Noer Ali, Jawa Barat.
3.Alm. R.M. Tirto Adhi Soerjo, Jawa Barat.
4.Alm. H. Pajonga Daeng Ngalie Karaeng Polongbangkeng, Sulawesi Selatan.
5.Alm. Opu Daeng Risadju, Sulawesi Selatan.
6.Alm. Andi Sultan Daeng Radja, Sulawesi Selatan.
7.Alm. Izaak Huru Doko, Nusa Tenggara Timur.
Gelar Pahlawan Nasional:
8.Alm. DR. Mr. H. Teuku Moehammad Hassan, Nanggroe Aceh Darussalam.
Tanda Kehormatan Bintang Jasa Utama:
9.Alm. K.H. Muhammad Isa Anshary
頭のalmはAlmarhum(故人)を表す。

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2007年11月27日 (火)

Condetの女の子供達

Condet_019
ブタウイの故郷を訪ねようと出かけたがデウィ・サルティカどおりは大渋滞でチョンデットに右折れするCondet街道へ入れずBatu Ampar辺りから入って見たが、小さな道が縦横に入りこみ、とうとう目的を果たせなかった。スティヨソ知事がブタウイのミュージアムが建設したとかのニュースの記憶のみを頼りに尋ね尋ね行くうちに目的地が何時の間にやらバライ・ラキャットに変わっていた。 丁度そこにやって来た小学校帰りの女の子達を写真にとったのが唯一の収穫であった。
「ジャカルタの人々」にアップロードしたが、彼女達も小さい頃からもう インドネシア人である。 写真は後姿で遠ざかる風景である。


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2007年11月26日 (月)

今年の9人もの国家英雄誕生

Tugu_pahlawan_10jun06
毎年英雄の日に何人かが国家英雄に叙勲される。今年も9日に発表があったが遅ればせながら本ブログのメインテーマの一つでもあるので記録をとっておこう。今年は9人にもの人に国家英雄の叙任と夫々の勲章が与えられた。イスタナムルデカにおいて副大統領や多数の大臣陪席し大統領自らが遺族に対し表彰した。
1)dr. Adnan Kapau Gani
1905年9月16日西スマトラのパレンバヤン生まれで南スマトラでオランダの支配に対し戦っ
た英雄で又1928年の青年の誓いの会議の主唱者の一人である。国軍少将である。国家英雄叙任
2)Dr Ide Anak Agung Gde Agung
1921年7月24日バリGianyar生まれ、オランダ・ユトレヒトでドクター 学位取得、外交官でもありRIS内閣で内務大臣を務めた。国家英雄叙任
3)Prof Dr Moestopo
国軍少将、1913年7月13日クデリ生まれ、BKRの議長、ムストポ大学を創設国家英雄とbintang Mahaputera Adipradana叙勲
4)Ignatius Slamet Rijadi
国軍准将(死後昇格)、彼は23歳の若さで1950年11月4日に死亡。独立後の人民保安軍で第26連隊長を務め、1948年オランダの侵攻時ソロの解放に貢献した。1950年マルクのRMS反乱鎮圧にも参加した。国家英雄とbintang Mahaputera Adipradana叙勲
5)Ahmad Dahlan Ranuwihardjo SH
1925年12月13日ペカロンガン生まれ、1966年から68年MPRSのメンバーで又奨学金組織を創設発展させた。国家英雄とBintang Mahaputra Utama叙勲
6)Prof Dr Teungku Muhammad Hasbi Ash-Shiddieqy.
1904年3月10日北スマトラ・ロクスマエ生まれ、ウラマで教育者で特にジョグジャのスナンカリジャガ国立イスラム・学院のGuru Besarを務めた。国家英雄とBintang Mahaputra Utama
7)Rohana Koeddoes,
1884年12月20日生まれでスマトラ・ミナンカバウ族の女性である。教育とジャーナリストとしてのイスラム女傑である。国家英雄とBintang Jasa Utamaが与えられた。
8)Nya' Abbas Akub
1932年4月22日マラン生まれ。映画監督、シナリオ作家。「インドからの人形」でアジアの名声を博した。国家英雄とBintang Budaya Parama Dharma叙勲
9)Daeng Soetigna.
教育者でありアンクルン音楽の文化を花開かせた先生である。
1908年5月13日バンドン生まれ。国家英雄とBintang Budaya Parama Dharma叙勲
写真は英雄の像

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2007年11月24日 (土)

バタビアの汽笛一声ブイテンゾルグへ

Stasiun_kota_072
昨日のボゴール駅とジャカルタが鉄道で結ばれたのは丁度日本の新橋横浜の汽笛一声と同じ年である。当時のバタビアーブイテンゾルグ間では1,067mmゲージを採用しコストを引き下げたとある。バタビア・コタ駅はBOES(Bataviasche Ooster Spoorweg Maatschapij)とも昔は呼称されたが最初の建設は1870年、現在の駅舎はガイセルズ設計の1926年完成である。
日本が占領した時代にはオランダは国有鉄道と民間鉄道でジャワ・スマトラ・マドラに鉄道を張り巡らしていた。国有鉄道ではジャワだけで2500km以上、これに民間の十数社があったというから大したものだ。これで東インドの富を掻き集めたと見ることもできる。コタ駅は正面が地下道などの工事中でごった返しており写真は殆ど無理なのでこの写真は横からである。

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2007年11月23日 (金)

ボゴール駅も旧い建物

Bogor_07_032
先日ボゴールに行ったときボゴール駅に2度も行くはめになったが地図では植物園の近くであるが2度とも大回りさせられた。ボゴール駅は1881年に建設された旧い駅である。又最初に電車(KRL)が導入された駅でもある。Sukabumi-Bogor線はデーゼル車両である。
ジャボタベク地区の通勤者の便としても利用されておりかなり短い間隔で発車している。ジャカルターボゴール間のチケットはRp11,000 片道、約1時間の所要時間である。このBogor-Jakarta線には多くの日本の電車もここで老体に鞭打ち頑張っている。都営三田線の電車は姉妹都市の東京からの贈与だそうである。

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2007年11月22日 (木)

Balibo事件とは

最近Balibo事件のニュースが散見された。BaliのBombの死刑囚の話だと思っていたがこれは1975年の事件のようである。何で今頃と疑問も湧くが、二つのニュースをから探って見よう。
Balibo事件は東チモールのBaliboと言う街でオーストラリア人ジャーナリスト5人がインドネシア軍により殺された事件である。この当時は東チモールはポルトガル領であり、インドネシアがその年の12月に侵攻する前の10月の話である。
5人は豪州のテレビ局からの取材に入った21歳から29歳の記者やカメラマン、音響録音技師等からなるチームでBaliboのある家に豪州の旗を掲げ壁にAustraliaと大書しまさかインドネシアの軍隊が攻撃するとは考えもしなかった。インドネシアの軍は後に彼らは共産党員でありフレテリン同調者と考えたと主張したが、実際は侵略がばれるのを怖れたものであった。
彼らの死体は家族の同意も無くジャカルタに移送され埋葬された。一度は豪州国防省がケリを付けたものであるが、2006年には国際記者機関が国連に再調査を依頼したこともある。その後の調査で内3人はハビビ内閣で情報相までなったユスフ ヨシュファーが銃殺命令を下し、5人目の人は浴室で背中からナイフで突き刺されたようである。戦場で戦争に巻き込まれたものでなく意図的な殺人であるとして最近、豪州NSW検死官から国防省に再調査が出された。豪州では映画化も進んでおり、5人の死体の豪州移送についてハワード首相も言明している。
遺体は焼却され何故か四つの箱に分けられクバヨランラマの教会の墓地に埋葬されたとのことであるが数字のミステリーもある。以上は合成文であるため、双方の主張や時間の前後が錯綜しているかもしれないが、何かに発展するものとは思えない。

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2007年11月21日 (水)

R.S PelniはRumah Sakit KPM

Petamburan_nov18_001
プタンブランのペルニ病院は1915年にオランダの王立海運会社Koninklijke Paketvaart Maatschappj (KPM)が作ったKPM病院 "Djati Baroe"である。この設計に当ったのが有名なガイセルズである。
最初の図面では土地面積30,000M2で、その後拡張されRS.Pelniとなった1982年の土地台帳では64,000m2の広さがある。建物は3つにわかれ前面棟は医者、病院管理者、看護婦、コックやクラークの住宅とレクレーションルームで、中棟は2階建ての病室で大きい方がオランダ人用、小さい方が現地人用とされ、奥の棟は女中、運転手用とされていたそうである。オランダから独立後は同じくインドネシアの海運会社Pelniがその船員等従業員の病院として引き継いだが1972年からPT.Pelniから分離して一般にも開放されている。

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2007年11月20日 (火)

タナー・アバンTanah Abangの謂れ

Tanah_bang
Fachrudin通りがマスマンシュール通りに繋がる一帯は所謂タナーバン市場であるがこの地はKampong Baliと言うのが地名で、タナバンを冠した通りはここではなく、Budi Kemuliaan通りがAbdul Muisとぶつかる所にタナバンNo.5 から4,3,2,1と北上してある。 No.1のところにDKI Pusatの州役所とPrasasti墓碑記念公園がある。現在のタナバン市場の辺りは地方への卸物流市場でヤクザの仕切る町、或いはその昔は遊興の地帯で、小生は実際この地に降り立ったことはない。
地名の由来はジャワ語の赤い土地という意味である。何故ジャワ語かというと、1628年マタラムのスルタン・アグンがオランダのバタビアを攻撃したときの陸の拠点のひとつであったからだという。今でも渋滞は付き物であるが、一寸前は写真の地下トンネルはなかった。

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2007年11月19日 (月)

Pelni病院もオランダ時代のもの

土曜・日曜ともジャカルタ・コンベンションホールで何かやっていたのかスナヤン競技場を囲んで大渋滞が発生、警察はガトットスブロトからの侵入路を閉鎖したので更に渋滞に輪を掛けた。隣のタマンリアの入場券を支払っても入ろうとする車もあり、小生もスナヤン・アトレートホテルに迎えに行く為、国会議事堂を迂回し、ホテル・ムリアに侵入しどうにか目的のホテルに近ずくことが出来たが、閉鎖しても余り効果がないことを警察はどうして学習しないのであろうか。二日目は通りがかったが急遽行き先を変え、逆のプタンブラン方向に舵を切ったところ、犬も棒ではないがオランダ時代の建物を発見することが出来た。
Petamburan_nov18_005
それが現在病院として使われているPelni病院である。中までずんずんとはいることが出来たが奥行き400メートルもあり、広い中庭には見舞いで付いてきた子供達が遊んでいるような、ゆったりした療養設備と見受けられた。プタンブランはガトットスブロトの終わりのスリッピー・フライオーバーを右に曲がり日本人墓地やサンティカ・ホテルもある地区でこの前の道はJl. Aipda KS Tubun 通りでチデン方面へ北上する道である。写真は逆光だったので中庭から建物の玄関棟の部分を撮ったものを紹介しよう。

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2007年11月18日 (日)

Abdul Muis通りと民族運動英雄

モナスの西側のマジャパヒット通りからメダン・ムルデカ・バラット通りータムリン通りと併走するのがAbdul Muis通りであるが、Prasasti墓地公園に行くとき位しかつかわないがこのAbdul Muis (1883年~1959年)はブキティンギ生まれの民族運動英雄である。、Stoviaで学ぶも中退。イスラム同盟の幹部役員を務めた。1927年ジョグジャカルタの青年部のデモを指揮し逮捕され国内幽閉に処された。文筆家であり、レポーターとしてオランダ政府を批判した。著作の小説に「西洋かぶれ」がある。これはある現地人の男がオランダ女性と結婚することによって現地人から脱出できると考え、結婚に漕ぎ着けたがこの結婚は植民地社会の中でどちらの社会からも疎外されて破滅の道をたどらざるをえなかったという内容である。(小説の内容はインドネシア専科による)「西洋かぶれー教育を誤って」(Salah Asoehan 1928年作)

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2007年11月17日 (土)

残念!Harmonie会館

Photo
マジャパヒット通りのハーモニー会館は1985年に取り壊されたというので丁度小生も駐在しており、コタの奥のエカリアなどの中華料理を食べに行くときとか、或いは昼でもピントゥクチ―ルにあった会社のお客の問屋訪問したときなど前を通ったはずであるが当時は関心がなかったので何の思いでもない。ハヤムウルック通りから見るとこの会館がマジャパヒット通りに突き出た感じでマジャパヒット通りは交通渋滞であったので取り壊し道幅を広げると共にセクネグの一部にもなっている。この会館は19世紀始め公式オープンしており、オランダ人の社交場で夜な夜なダンスパーテーなども開かれていたのであろう。
建設はダーンデルス総督(1808~1811)の時代にエンパイヤ・スタイルの建設様式で設計され、ラッフルズの時代の1815年に英国ジョージIII世の后となるショーロット妃の誕生を祝してオープン式が挙げられた。広沢氏より昔の写真が送られてきたので借用する。

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2007年11月16日 (金)

広大且つ長期繁栄のスリウイージャヤ

10月20日のブログの続きのスリウイージャヤであるが名前は一つでもスマトラやマレーやジャワで、時代を散りばめ顔をだすので、それを繋ぐと長期国家となる。例えば
* 680年代、ジャヤナサ王の時代、ジャンビのマラユ王国もスリウイージャヤ帝国に統合された。中国の記録によればこの当時スマトラの2つの王国、ジャワの3つの王国がスリウイージャヤの影響下にあった。その一つがマラユでありタルマネガラである。
* ジャワを支配したシャイレンドラは姉妹朝であり、ボロブドールを建国したサマラトゥンガ王は792 から 835.の間のスリウイジャヤの王でもある。(この資料ではボロブドールはサマラトゥンガの時代の825年に建立)
* 12世紀までに帝国にはスマトラ、セイロン、マレー半島、西ジャワ、スラウエシ、モルッカ、ボルネオ、フイリピンの一部を含んでいた。タイのChaiyaも帝国の地方首都であった。
Sriwijaya通りはクバヨランのBrimobの裏から真っ直ぐ北へ、北のGaluhを付きぬけスノパチ通りに達する道であるが、その名前の道は他にジャカルタ地区だけでもDepokやKarawachiなど数ケ所にある。 KarawachiのLippoが開発した住宅地にはSriwijayaと並んでWijaya、Brawijaya、Aditiawarman、Tirtayasaと固まって古代の王の名前がある。民間が建設した住宅地の通りに付ける名前にも苦労のあとがある。
Sriwijaya_hotel
中央ジャカルタにはSriwijayaホテル(21 344 0409)がある。住所はJalan Veteran 1であるし円柱も配しているので由緒でもあるのかと思うがスタンダードでRp290,000で格安である。建物は70年代建設であるが、その前はここにカバディノ?と言うホテルがあったそうである。

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2007年11月15日 (木)

映画のジュンバタン・メラー

ジャウンバタン・メラーの橋の続きで昔同名の映画があったがその紹介文は以下のようである。
ジュンバタン・メラーの橋の下のKalimasにPuspo オバがWarungを構えていた。そこは色んな人の集まる場所でオバさん自身は古着を売っていた。そのうち養子になるSudiasihに店を任せたが皆にWarungの花ともてはやされた。
よく店に来る多くの中にNgawangが居たが、彼は嫁を幸せにしようとスリを働くが失敗し、又Kenangaは夫の仕返しに娼婦になった。Siswantoは学生でSudiasihに心を寄せていた。このSiswanto-Sudiasih と Ngawang-Kenangaの愛が話の中心である。 Siswanto-Sudiasihの愛の成就でNgawang – Kenangaの愛が戻る。その後Puspoオバに迷い事が発生、あと一人の子供が結婚予定の夫とその母を連れて帰ってきたのだ。貧乏の足かせから逃れられない小さな人間、大きな社会の中で浮き沈む小さな人間の話が織り成す1973年の名品である。監督 Asrul sani、主演: Sukarno M. Noorと Fifi Youngは最優秀男優、女優賞受賞、Njoo Cheong Sengの小説で1950年にも映画化された。とある。

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2007年11月13日 (火)

ラッフルズとフリーメイソン

FreemasonKimiafarma

ラッフルズを引き立ててくれた印度総督ミントーは彼の為フリーメイソンリーを紹介し身分的に低いラッフルズもこれに応じ会員となり第3位階まで昇級していく。このブログでフリーメイソンのロッジの所在地をベテラン通りでなく、ブディウトモ通りだと折角結論を出した訳であるが、ナイジェル・バーリー著、柴田裕之監訳のスタンフォード・ラッフルズ伝に又異説が出た。その部分を記録にとどめ将来の課題とする。
「ダーンデルスは陰謀を恐れハーモニー建設を思い立ち、ラッフルズがこれを完成しオランダ、イギリスの親睦を促す。ミントーが紹介してくれた当時二つあったバタビアのロッジを避けポンドク・グデーのロッジに参加した。フリーメイソンの集会所「東洋の星」は現代のジャカルタに今尚残っている。ハーモニー会館が建っていた通りの角を曲がると直ぐだ。この区域はラッフルズを初めとするイギリスの高官達が住んでいた。この集会所はどうやら「悪魔の巣窟」という綽名が突いていた。建物の前の庭をダーデルスは兵の教練に使いラッフルズは競馬場として使った。」
ラッフルズが住んでいた所は現在の宮殿の中のビナグラハの辺りで、ここならハーモニーから曲がって直ぐと言えるがブディウトモだとするとイステクラルから流れてくる運河を越え且つ一歩中の通りに入らなければならない。前庭はどちらも同じ程度であるが、どちらも競馬場とするには一寸たりないように思える。。
写真を並べておくので11月4日のブログも参照下さい。
フリーメイソンは元々古代の建築士のクラブでエジプトのオシリス崇拝とソロモンの神殿が中心的。オシリスのシンボルがオベリスクで神の勃起したペニスといわれるが彼らは各地にオベリスクを建設した。とも上記書物には書いてある。

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2007年11月12日 (月)

ボゴールにもJumbatan Merah

Bogor_07_030
スラバヤのジュンバタン・メラーは有名であるが昨日ボゴールに行ったがボゴールにもジュンバタン・メラーがあった。土地の人もそう云っているので小生が名ずけた訳ではない。スラバヤのもメラーの謂れは特に無く、赤く塗っているからメラーだけの話である。ボゴールの橋はチサダネ川に架かるキャプテン・ムスリハット通りにあり交通の要綱である。駅の近くであり、ここで鉄道からの客や郊外へ行く人はAngkutanに乗り換える。この小型バスが渋滞を巻き起こしている。市内は右折制限が多く皆は走りたくない方向へ走らされている。
この写真は走りながら車窓から無造作に数枚撮った一枚で、近くからキッチリ被写体が取れたこの写真は驚きであるが道にうずくまる人は乞食で、これは偶々はいったもので写そうとおもったものではない。

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Jembatan Merahと英雄の日

昨日の土曜日11月10日は英雄の日であった。スラバヤに上陸せんとした英印軍はブントモ以下、独立か死かと叫び近代兵器に立ち向かった。英印軍のマラビー准将は戦死、上陸を阻止した日でスラバヤのジュンバタンメラー付近が戦場であったので、今も生存した戦友がこの川に顕花を捧げた行事のニュースがあった。スラバヤは1743年にパクブオノIIがオランダVOCに条約を押し付けられオランダの支配下に入ったがこのジュンバタン・メラーはスラバヤ港から舟で接続しており内陸部への交易の中心であった。現在はプラザ・ジュンバタン・メラーが賑わっている。ジャカルタにも地図によるとジュンバタン・メラーはある。何といつも通るNyi Ageng Serangビル(既ブロッグ済み)の前の道であった。

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2007年11月11日 (日)

プリンス・オブ・ウエールズ=ペナンの建設

どちらもインドネシアとは関係ないが強いて言えば1812年バタビア副総督ラッフルズがバタビアに赴任する前に一時勤務したところがペナンである。ナイジェル・バーリー著、柴田裕之監訳のスタンフォード・ラッフルズ伝に面白いことが書いてあったので記録しておこう。
ペナンはシリーと一緒に食べるビンロウヤシの実の意味で英領時代はプリンス・オブ・ウエールズと呼ばれた。1786年フランシス・ライトがここを訪れたがマレー人部族につかまりあわや殺される直前に酋長の娘が貰いうけ、一緒にこの島を開発することになった。ライトは銀貨を大砲に詰め込みジャングルに打ち込み、それを拾い集めるマレー人が踏み固めてこの植民地が開発されたと言い伝えられている。昔建っていた建設者ライトの大きな石像は日本軍に破壊され、現在は小ぶりのライト像が博物館にある。酋長の娘の話はバージニア州にやって来たスミスを助命したポカホンタスの物語が先にあったそうだ。
尚プリンス・オブウエールズはレパルスと共に日本軍ゼロ戦に撃沈された戦艦でレパルスは香港にレパルス湾が今もあるはずである。又ペナンはインドネシア語ではピナンである。

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2007年11月 9日 (金)

St.Mary Catholic Cathedral

Kathedral
Istiqralモスクの前のカセドラル大聖堂も大きすぎて写真に取りにくい。モスクの庭からとったのがこれであるが、モスクの塀が邪魔したりする。中には蝋燭製造工場やカトリックの歴史博物館もあるそうなのでミサのない日にでも訪問しよう。パリのノートルダムとくらべようはないがホーチーミンの大聖堂よりは一回り大きいネオゴチック様式で1901年建設である。インドネシアはオランダが支配したのでVOCの時代はカトリックはご法度であったが、オランダがフランスに支配された時代にローマ教皇の教区ができたので、この大聖堂の前史があるはずである。木のドアーの前に聖母St.Maryの像があり、St.Mary Catholic Cathedralと言われ、或いは現地人は単にGreja Kathedralと呼ぶ。

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2007年11月 8日 (木)

仲良く建つIstiqlal MoskとKathedral

Istiqral
モナスの北東にそびえるイスティクラル モスクは9.5haの三角形の土地に10万人収容できるモスクと言うことで東南アジア最大である。三角形と言うのは昔シェル・今プルタミナの建物の前の道JlPertiwiと大伽藍前のJl.Kathedralを二等辺直角三角形としてその斜線部分が鉄道に沿うイタリヤレスト Doms前のJl.Veteranである。住所番地なぞはない。その三角形中に無理やりメッカの方に向かわせているのでなんとなくアクセスし難いが北の側の水門から入るのが入りやすい。 このモスクもスカルノの発案で1961年にクリスチアンの建築家Silabanがデザインし1967年に完成、オフイシアルには1978年になってオープンしたとある。
5階建てのメインビルと付属ビル、それを囲むような コの字型の2階建てのコリドーがありこの コの字の中がアウトサイド・テラスである。メインのドームの直径は45メートル、ミナレットの高さが70メートルである。正面にカソリックの大伽藍が向かい合ってその威容を競争しているが、日曜は大伽藍が渋滞するが、モスクは閑散としていた。

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2007年11月 7日 (水)

Batawiの伝説 Batu Ampar

バタウイのふるさとのCondetにはBatu Amparと呼ばれる地区がある。Dewi Sartika通りから南に下るCondet Raya通りとチャワンから南に下るBogor Raya通りの間の地区である。
Batuamparにも伝説がある。 Gegerと言うプリンスのファミリーの話で、夫人Nyai Polong との間に気絶するほどの絶世の美人の娘Siti Maemunahがいたそうで、彼女が年頃に育った頃マカッサルのAstawana 皇子がプロポーズしたが父親は一つの条件で承諾した。条件はチリウン川の近くの池の上に一軒の家と東屋を一晩で作ることであった。その家への道は石を敷き詰めるものであった。
Siti Maemunahを娶りたいが故に Prince Astawana はもてる力を動員しこの期限に間に合わせ建設することが出来た。二人は結婚し、それ以来この場所は石を敷き詰めた道 Batu Amparといわれるようになった。というこれだけではなんの意味もない芝居がこの間Gedung Kesenian Jakarta (GKJ) で上演された。

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2007年11月 5日 (月)

ARSIP NASIONALのバロック建築様式

Arsip_nasional
ここはオランダの大富豪で総督に迄上り詰めたReyner de Klerk(1710年~1780年)が1760年に建てた邸宅で、オープンギャラリー(柱に囲まれたフロアー)のないクローズドダッチ様式で、玄関ドアーや窓は彫刻で飾られている。入るとギリシャ式列柱は内部にあった。バロック様式だというのでバロック建築を調べてみたが共通点は装飾であった。
一般にBaroque様式とは(①17世紀から18世紀に隆盛を誇る、絶対的権力に相応しい様式 :ベルサイユ宮殿 ②内部の複雑な多様性の空間、③彫刻・絵画・家具を含めた全体の芸術、④歪みの蔑称の過剰装飾、曲線を使用、素材をふんだんに使用、⑤大胆な採光で内部空間と外部空間の複雑な彫塑的合成 ⑥楕円形モチーフ:バチカン宮殿)を特徴とするとあり、ここのアルシップでは玄関・ドア・階段のカービングがそれであるようだ。玄関のドアーの上部が半円形になっていてそこから採光するファンライトといわれる部分であるが、ここのは四角の木製彫り物となっており他の窓の採光のファンライトと共にFaith、Aia、Europaと名付けられている。又旧約聖書からの出来事の絵が描かれたタイルが玄関の入り口に敷き詰められていると昔の紹介文にはあったが、行った時にはなかった。
あとで解かったことであるが内3枚は国立博物館に保存されているそうだ。 ファンライトのカービングもこのタイルの絵も、中国につくらせたものだそうだ。尚de Klerk総督のあと、Siberg総督もここを総督居住に使用した。(Arsip Nasional:JI. Gajah Mada No. 111)写真は玄関から裏へ続く館内を覗く


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2007年11月 4日 (日)

フリーメイソンの本物のKimia Farma

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10月10日のブログでフリーメイソンのロッジであったキミアファルマの館がベテラン通りとブディウトモ通りに二つあることになる話をしたが、今日それを確かめに行ってきた。確かにあったのである。それこそその昔Gedung Setan(幽霊館)と言われた館がブディウトモ通りにもあり、狐に抓まれていた話が本当であったのである。こちらも日常は何にも使われておらないようで何かの集会などに使われるのであろう、中の造作もしっかりしておりもったいない話である。ジャカルタにはこの程度のオランダ遺産は捨てるほどあるようだ。
この建物自体は1856年にたてられたものである。昔の写真には6本の柱の上のPorticoの中央にフリーメイソンのシンボルの星が飾られていたが現在はこれは当然ない。又ステンドグラスにFMならぬFK をあしらって雰囲気を保っている。2006/4/17のブログ、2007/1/6のブログ、および2007/10/10のブログのKimia Farmaの話はこれにて締めくくろう。

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2007年11月 3日 (土)

JAL 遠景は美しい

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今回もJALである。エコノミーの食事はいつも変わらず工夫がない。タイガールも自信がなさそうで無愛想である。今回後ろのコンパートメントは9人の乗客である。前回は、1月が7人、3月9.5人、6月が23人、8月が60人と増えてきていたので喜んでいたのであるが、多分金曜日だからであろうか。友人に聞く話だと水曜日頃は満席で乗れず
香港経由のキャセイにした人もいるという。満席はエクゼクティブに違いない。立派なものだ。
出発の日本では、夜の雨が明け方には上がり、何時までも続く雲間を飛び立ったがジャカルタは黒い曇天で雲の下を低空飛行でスムースな着陸で、機長に有難うと伝えておりた。チリンチンからタンジュンプリオク、アンチョール、ムアラ・カランやパンタイ・ムティアラ、とジャカルタ・ベイを横切るルートは初めてであったが、温暖化で沈み行くジャワ島を見るが如くであった。降りたらスカルノハッタの像でも写真に取ろうと思って居たのであるが、この曇天は計算になかった。3日も雨である。よその国は綺麗に、美しく見えるものだ。写真はボゴールの遠景とSOKAR空港のガルーダの像

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プンチャク・シラットの歴史

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プンチャック・シラットとは、インドネシアの伝統的武道で精神性を高め素手・素足戦うものであるが1,000年の歴史があるとされるがその歴史を伝えるものはない。1,000年と言えばクデリ朝の時代でダルマワンサ王のスリウイジャヤとの戦い、アイルランガ王の再統一の時代であり、多分に魔術を秘めた、部族毎に編み出された戦闘技であったに違いない。
その時代からイスラムの神秘主義的スーフィズムが入っており、その影響もあったであろうがイスラムの影響は15世紀にかけてである。中国人が上陸したチレボン、スマラン、スラバヤには中国拳法のKuntao(拳道:無駄な動きを廃する実戦力)が持ち込まれ1740年の中国人虐殺事件以降、バタビアでシラットに融合した。又1808年の北ジャワ道路建設では各地から多くのクーリーが移住してきて彼らの間で各地の保身術が紹介されこの交じり合いの形で新しいジャワスタイルのプンチャク・シラットが生まれた。 強制栽培時代には年間66日間の労役を提供させられた人々も多く彼らの労役の監視にシラットを身につけたが者が雇用された。彼らは土着の女性と結婚しその地かの地でプンチャクの技術・流派を残した。彼らのシラットはドラムやゴング、トランペットを使用する音楽を演奏させたという。各地・時代により色々流儀と歴史があったのであろうが、国際的組織もあることから国際ルールのガイダンスもあるのであろう。写真はPadepokanの中の像。

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2007年11月 2日 (金)

ファウジが何とかするバスウエーへ

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DKI市長は就任後の100日間で実施する優先する19施策を発表、その1番目がバスウエーである。100日後と言うと1月15日になるが1月スタート予定の3路線Lebak Bulus – Harmoni 、Pinang Ranti -Pluit 、Cililitan  -Tanjung Priokである。後ろに引くことは出来ないので道幅を広げる或いはランプ(交差道路)を作るのが一番目である。その他10番目目でのテーマは ② 迂回路の設置 ③ MRT(大量輸送システム)の準備 ④ 各種機関の改善 ⑤ 洪水対策 ⑥ 貧困者への教育、少量、医療供与 ⑦ 身体不自由者への施策 ⑧ スラムの活性化⑨麻薬対策⑩中央政府とのコミュニケーション改善とのことである。 
この1ケ月間ジャカルタは何処か変わった所があるであろうか。又一寸見に行って来ます。
バスウエーもこの写真程度ならいいのですが。。

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2007年11月 1日 (木)

TransJakarta のバスウエーマップ

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バスウエーで渋滞は益々で、計画地の住民の反対訴訟まで持ち上がっているようだが、なれたところは既に止むなしの受け入れ派が多くなってきているようだ。バスの利用が多くなり、歩道を歩く人が多くなり、安全な町になるなら積極的に利用すべきだ。路線数は2010年には15まで増えるので東京地下鉄並みになるわけであるが、何処ででもマップが手に入るわけではない。現在7炉心であるがTransJakartaに頼んで送ってもらってマップの一つをアップロードしよう。ファイルして拡大すると読めるはず。

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Most Powerful Woman 100インドネシア

Globe Asiaの最新号に「最も影響力のあるインドネシア女性100人」のリストが掲載された。
Top 10を紹介すると
1. マガワティ・スカルノプトリ(元大統領)
2. スリ・ムルヤニ・インドラワティ(財務大臣)
3. クリスチアニ・ヘラワティ・ユドヨノ(大統領夫人)
4. ミランダ・グールトム(中央銀行副総裁)
5. シティ・ハタティ・ムルダヤ(CCM・PRJジャカルタ・インテrナショナル・エクスポート)
6. マリ・エカパンゲストゥ(商業大臣)
7. ムールヤティ・ソディビヨ(ムスティカ・ラトゥ)
8. カルティニ・ムリヤディ(弁護士)
9. イチィ・ヌルサリム(ガジャ・トゥンガル・タイヤ)
10. ヤンティ・スカムダニ(ホテル協会会長・サヒド・ジャヤ)
クリスダヤンティが30位 アグネス・モニカが39位と歌謡界(あえて)からも選ばれていた。昔の家主のMien Unoさんも入っていたので宣伝しておこう。

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