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2007年12月の投稿

2007年12月31日 (月)

観光文化都市ジャカルタの2008と日イ友好年

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2007年もジャカルタは音楽、絵画、踊り、映画のフェスティバルが続いたが国際的にもそのポジションを固めつつあり、2008年も次のような行事が予定されている。
*2月:インドネシア・オープン・ゴルフ(14日、チェンカレン)
*3月:Java Jazz 、毎年定例化、民間
*5月:ボゴール植物園 190年記念エクジビション
* 6月:ジャカルタ生誕フェスティバル、DKI
* 8月:国際文芸祭、2年毎、民間
* 8月:アーバン・フェスト、初回、民間
* 8月―9月:Q! Film Festival 、毎年定例、民間
* 9月:ショウブルグ・フェスティバル、毎年、DKI
*10月:アジアン・ビーチ・ゲーム
*11月:JakJazz、毎年、民間
*11月:アート・サミット、3年毎、文化観光省主催
* 11月:Konfiden Short November、毎年、ジャカルタ芸術教会
* 12月:ジャカルタ国際フォト・サミット、毎年、民間又はJIffest、民間
* 12月:ジャカルタ映画フェスティバル、毎年、ジャカルタ芸術教会
2008年は日本との賠償協定署名(1958年 従来の領事館を大使館に昇格)から50周年に当たり、両国は記念事業を行うが基本的には外務省或いは実行委員会の認定を得て官民で個別に行う1年間のシリーズ行事であるが詳細は未だ知らない。1月20日の開会式には秋篠宮ご夫妻がお出でになり大統領を表敬訪問、ジャワ島中部地震の被災地で日本が再建を援助した中学校や世界遺産のプランバナン寺院、ボロブドゥール寺院遺跡などを視察される。折りしもインドネシアは1992年のVisit Indonesia Yearに続き観光年を実施する。スローガンは気取りすぎた為英語の文法を間違った“Celebrating 100 Years of Nation’s Awakening”. であった。正しく“Celebrating 100 Years of National Awakening”.と言う。写真は歓迎の塔付近完成を急ぐグランド・インドネシア


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2007年12月30日 (日)

Gelora Bung Karnoの“Rama”像

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スナヤンのスポーツ競技場はスカルノ大統領がアジア競技会のため建設したことをちなんで愛称の Bung Karnoの名前が付いている。その前のGeloraと言うのはGelanggang Olahraga:競技場:の略である。この競技場のアジア・アフリカ通りの正門の左右の塔の上で弓を引いている武者像があり、更にズンズン入って行くとスタデイアムの正面直ぐ下にも弓を引く武者像がある。多分これはラーマーヤナに出てくるラーマ王子と思われる。
調べてみると彫像家Drs. Pius Prio Wibowoがここに1998年と2005年にラーマ王像を作っているのでそれかもしれないが2005年はリノベーションとの事ゆえ二つともそうかどうかは不確かである。ラーマ王子の物語を簡単に纏めると、弟バラタ王子に王位を譲ることになり宮殿を離れたが、時代は羅刹の時代で世界は苦境にあった。ラーマ王子も色々な妨害に合い、妻のシータを南海に誘拐されたが、最後は鳥やハヌマーン猿たちの応援で取り返し王位に付くことが出来た。しかし囚われ時のシータの貞節を疑った為、シータは地に身を投げ打ち、ラーマ王は後悔しながら世を去ることになる。余りスポーツとは関係ないようだが。。

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2007年12月29日 (土)

Kanisius高校の卒業生のキラ星

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先日のブログのカニシウス高校の卒業生リストがあったが、一寸驚くほど現代の著名人が並んでいる。1927年創立であるから独立前後の英雄というより1世代後れのオルデ・バルの人々といえば共通性があると思う。あえて代表を選ぶとワナンディ兄弟で長兄はオルデバルの力となったKAMIの代表でもある。同じ頃のSoe Hok Gie、アクバール・タンジュン、サルオノ・クスマートマディア、サトリオ、マルズキ・ダルスマン。更にアトランダムに記載するとギナンジャール、ヤンダルマディ、ピーター・ゴンタ、ウィトラー、シャリール、アトモダルミント元ジャカルタ市長と現ジャカルタ市長となったファウジー・ボゥオも居る。多くは裕福な或いは華人子弟で彼らにとってはKenang2 SMAでさぞ懐かしいだろう。この銅像は多分聖人カニシウスである。

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2007年12月28日 (金)

Angieの誕生日 12月28日

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Angelina Sondakhは少し古いが2001年のMiss Indonesiaである。愛称Angieで今や国会議員でもある。今日12月28日の出来事を探していたのであるがAngieの誕生日が出てきた。
そういえばこのブログに1年前セレブを登場させたこともあるので、このブログが続く御蔭ともいえるセレブを時々登場させよう。彼女は1977年12月28日父ソンダック博士の仕事の関係でオーストラリアで生まれたメナド人で中学時代に再度豪州シドニーでも学生時代を送り、ジャカルタに戻ってからはアトマジャヤ大学を卒業し独語も操れる。モットーは「Manusia berusaha, Tuhan yang menentukan」とのこと。2004年から2009年まで民主党の国会議員に選出されている。

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2007年12月27日 (木)

SCBDとPacific Place

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SCBDとはSudirman Central Business DistrictであるがこのSCBDが何処までの範囲かわからないが円周で言えば1600メーターくらいであろうか。SCBDの中心は細長い楕円形をぐるりと回る道路の内側でここにPacific Placeがたつ。その南のCar ExpoやExpo Center(レストラン街)なども何れ取り払われるのであろう。この下に開発業者が開発している地下トンネルがある。10月に一部が開通しスディルマン方面からこの地下トンネルに入った車両はトンネル内で二つに分かれ、一つはガトッスブロト通り方面へ一つはスノパティ通り方面へ抜けることが出来る。計画では上記縦の細長い楕円形の地域をクロスするように横に細長い楕円形の地下道が敷設される。パシフイック プレイスはリッツカールトン・ホテル、ショッピングモール、オフイスタワー及び2棟の38階建て最高級サービスアパートメントからなる。香港にも同じ名前の複合商業施設があるらしいが、どちらも高級を狙っており、昔は新規オープンのシャングリラ、グランドハイヤット、ヒルトンIIなど闊歩したものであるが、ドンドン敷居が高くなると感じるのは年の所為?いや昔は検閲がなく敬礼で迎えてもらったものだ。写真はいいものがないのでとりあえず裏手からのもの。

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2007年12月26日 (水)

Tanah Bangのショッピング・モール・モスク

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タナバンを通るとき大きなショッピングモールとも見えた大きな建物は実はモスクであることが判った。名前はMasjid Al-Makmurで1704年にマタラム・イスラム王国のKH Muhammad Asyuroが率いた.一統が建設したものと言う。彼らは1628年~1629年のマタラム・スルタン・アグン王のバタビア攻撃の時以来タナバンに居付いたもので、最初のモスクは小さなものであった。現在のような大きなモスクがあった記憶がないのでこのモスクはかなり新しく建てられたものであろう。地下道や橋梁も出来てアラブ人の居住地区は取り払われて周り一帯は商店やカキリマだらけになっているが、商店区域も整備されTanah Abang Trade Center (JTTC) や Jembatan Metro Tanah Abang (JMTA).といわれる。

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2007年12月25日 (火)

Filateliで国際切手展

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インドネシアで切手展は1996年バンドンで世界青年切手展が開かれたが来年国際切手展を計画している。国内切手展(Panfila)は毎年定期的に行われているが、国際切手展は1990年代にアジア太平洋部門の国際展をIndopexとして ‘93"と95年に行っている。パッサールバルーのジャラン・ポスにあるFilateriは11月通りかかったとき化粧直ししていた。道路沿いに並んでいた切手関連 屋台がフィラテリの塀と共に取り壊されの広々としている。この屋台には小生のビジネス・ノウハウの二つがあったのであるが、何処に行ったのやら探さねばならない。切手蒐集が趣味の方はインドネシア切手趣味の会(Perkumpulan Filatelis Indonesia :PFI)に照会してください。電話は021-3861788、021-3518710、021-3518711、場所は Jalan Pos No 2で元パッサールバルー郵政事務所(Kantor Pos Pasar Baloe)で現在はKantor Filateri Jakartaのこの写真の中にある。

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2007年12月24日 (月)

ジャワと日本をめぐる列強

ジャワを襲ったポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスで最後に残ったのはオランダであった。日本との貿易でもオランダが幕末まで守った。種々不可思議もあるが以下の年表で風雲曲折を探ってみよう
1511年:ポルトガルマラッカ占領、以降アンボン、広東、寧波へ
1543年:ポルトガル更に北上、種子島に漂流、鉄砲伝来
1550年:ポルトガル、倭寇・外国貿易に熱心な松浦氏の平戸へ。ザビエルも鹿児島上陸し同年、平戸で伝道に成功
1557年:ポルトガル、マカオ政府の官許船が定期入港するようになり貿易隆盛となる。中国生糸を輸入し日本の銀で買う(輸出)。西の都として栄える。
1561年:ポルトガル、平戸で殺傷事件、松浦氏もカトリック忌諱で、ポルトガルは去る。
1584年:スペイン1571年にマニラを拠点化後、平戸に商館
1587年:秀吉のバテレン追放令
1589年:英西戦争(無敵艦隊敗れる)でスペイン、日本を去る。1624年断絶、来航禁止となる。
1600年:オランダリーフデ号、豊後漂着、ヤンヨーステンやウイリアム・アダムス(三浦按針)は幕府の顧問に。
1609年:オランダ平戸に国書を提示、布教を前提としない、商館を開く、以降、定期便で幕府に西洋事情を伝える
1633年:第1次鎖国をへて1635年、長崎集中令
1639年:島原の乱でカトリックの脅威を知る。ポルトガル船の来航禁止
1641年:平戸閉鎖、出島に移転、ケンペル(ドイツ人日本史を著す)シーボルトなどが蘭学へ。
1810年:1799年VOC閉鎖、本国もナポレオンのフランスに併合された後、1824年英はジャワをオランダに返還(以上については弊著「ジャワめぐる欧州列国のに詳しい)の間本国滅亡の世界の中で出島だけにオランダ国旗が翻っていた。
その後オランダのみが世界への窓になり蘭学から開国へのエネルギーとなり幕府側には軍船や海軍伝習所を与えた。日本は260年オランダを封じ込め、科学技術を奪った。青木昆陽、志筑柳園、前野良沢・杉田玄白、勝海舟

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2007年12月23日 (日)

Kelenteng Jin De Yuan - Petak Sembilan金徳院Kim Tek Ie

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中国正月Imlekがくると金徳院とかPetak Sembilanと言うお寺の名前を華人から聞くが、何も日本の明治神宮などのように参拝客でごったがえすほどはないようだから今度Imlekに行ってみよう。ここは仏教のお寺であるが幅広い中国人の宗派を迎え入れるらしい。中国人の中では仏教の他、Tao道教や Khonghucu 孔子:儒教がある。.
メールを頂いた、テレビ朝日の地球ポカポカ家族に登場の中村氏によるとこの寺院は1650年建立したが1740年の華僑大虐殺(Tragedi Pembantaian Angke)事件のとき破壊されたが1955年にJin De Yuan [Kim Tek Ie] の名前で再建されたものである。
ガジャマダ通りを北上しGlodok Cityの所のPancoranを左折しPetak Sembilan地区に向かうがそこまでは行かずKemenangan通りで又左折し大分歩くと行き着ける。住所は、 Jl.Kemenangan 3、 SMA Katolik RiCCiの隣である。中にはふたつ三つ副坊があり、彼方此方にこじきがたむろしている。お寺の中には若い女性二人がお線香に火を付けていたのでホットするものがあった。金徳院の看板の上にYayasan Vihara Dharma Bhaktiと言う名前も出ていた。一杯名前のある寺院である。

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2007年12月22日 (土)

Klenteng SentiongはCoyett House

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12月9日のブログの続きであるが、Klenten Sentiongは元、Coyettなる人のカントリーハウスで彼はこの家を建てた年1736年になくなった。F.J.Coyettは当時の東インド協議会の理事であったが祖父は1662年に台湾商館を国姓爺に滅ぼされたいる。1733年中部ジャワ訪問時8世紀から10世紀頃の多くのヒンドゥーや仏教の出土品を持ち帰り私物化し1736年建設したこの自分の家に置いていた。
子供の居ない彼は死の直前に美貌の未亡人Goossensと結婚した。Goosennは副総督van Westpalm(1734年死亡)の妻であったがその娘がSophieでかの公文書館を建てた総督De-Klerkの罰一妻である。FJ.Coyettの死でGoossensは遺産相続し彼女はJohannes Thedens総督と結婚するも1758年死亡しその後この家はMossel総督の手に渡るがモッセルも儲ける間もなく死亡、投機家を経由して中国人のカピタンLim Tjipkoを長とする中国人社会の所有するところとなる。彼らの夢の跡はひとかけらもなく歴史ははかなさを迫ってくる。

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2007年12月21日 (金)

明日はHari Ibu母の日

日本で母の日と言えば 5月の第2日曜日でアメリカから輸入したものであるが、インドネシアには独自の「母の日」がある。
インドネシアの場合ジョクジャのMandalabhakti Wanitatamaと知られる建物で1928年12月22日から25日に第1回婦人会議があったことから来ている。この会議は現在でもKOWANIとして続いている。今まで女性でインドネシアの国家英雄となった人はM. Christina Tiahahu、 Cut Nya Dien、 Cut Mutiah、R.A. Kartini、Walanda Maramis、 Dewi Sartika、 Nyai Achmad Dahlan、Rangkayo Rasuna Saidと多い。このブログでも二人を除いて既に登場させた。この日を母の日定めたのは1959年スカルノ大統領である。
5月を母の日としているのは世界で75ケ国(米国、豪州、カナダ、ドイツ、イタリア、オランダ、マレーシア、シンガポール、中国)、英国他欧州、中近東は3月である。KOWANIは国際女性協議会(ICW)の会員でもある。以上が判った要点である。

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2007年12月20日 (木)

最近の投資環境トピックス

12月
*本年 成長率6%か、政府目標6.8%に及ばず。但し6%台は11年ぶり。
*5ケ月ぶり政策金利を8.25%から8%に引き下げ
*10月の輸出額、初の100億米ドル超
*インドネシア、07年のインフレ率は6.3―6.7%になる見込み=中銀副総裁
*鳥フル:死者続く。プカンバル、タンゲラン、ジャカルタなど累計93人に。年間30人増
*列島揺るがす地震頻発つづく。

11月
*ジャカルタの最低賃金は8%アップの972,604ルピア、業種別では100万時代へ(107ドル)に
*インドネシアでは食糧不足の懸念、世界的コメ生産の減少で
*ガルーダ航空、名古屋-デンパサール便再開、来年6/2から。
*国民生活豊かさランキング、世界177カ国・地域中イは107位。
*欧州へのイ航空乗り入れ禁止措置の解除見送りに。
*北ジャカルタ中心に下痢被害、死者も出る。
*首都空港への高速道路が大潮で冠水する騒ぎ。欠航多数。
*イの教育レベル、世界130カ国/地域中62位、昨年の58位から後退:UNESCO調べ。

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ヨハネス・カンプハイス(Camphuis)総督と出島 

J.カンプハイスはトルノージョヨの乱のスペールマン総督の後の平和な時代(1684年~1691年)の総督でかれは出島の商館長として3回、3年(1671年~1675年)赴任滞在した。日本研究の資料も多く集めた日本びいきで、バタビアの総督邸も日本趣味で飾り立てたそうである。貿易伸張のほか学術振興にも力を入れ自身「バタビア史」を著し又部下である有能なケンペルを日本に派遣し彼の有名な「日本史」の出版を援助した。
オランダの日本・出島の商館長は1641年からなんと幕末1860年まで167人もいる。オランダの総督は67名故、日本の方が滞在が短かったことになる。日本の場合は江戸に参勤に出るほかは出島に監禁されたようなもので出入りが許された日本人は丸山のおいらん程度であったというから短くなり或いは何度も来たくなるわけである。

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2007年12月19日 (水)

渋滞制圧の高速プラン

ファウジー知事の話によると市は近い将来二つの高速を計画している。
市はPT Jakarta Propertindoを持っており、この会社がやることが前提となっている。
又現在新しい12kmのハーバー・トル・ロードを建設中で完成すれば港へはチャクンからこの高架高速へと真っ直ぐ繋ぐことができ交通渋滞を緩和する。
二つの高速とは外環道路に西ジャカルタのMeruya を通る道を追加するWest Iと北西のKapukと南のBintaro-Fatmawatiを繋ぐWest IIである。これが出来るとジャカルタの西側からタンジュンプリオク港に行くにはWest Iを通れば良いしBekasiに行きたければWest IIに乗りPondok Indah - Jati Asih - Bekasi,とジャカルタ市内を通る必要はなくなる。
問題はファイナンスだそうで又、ブレーク・イーブンは7~8年掛かるとしているが市自体が事業に参加するようだ。南の外環道路が期待されているがポンドク・グデのチクニール入り口はいつも多くの車が並んでいる。チケットのブースの手さばきは其れほど遅いとは思えなく感心することが多いが何故だろうか

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2007年12月18日 (火)

キリスト嫌いへの挑戦 メナドのキリスト像

寛大なイスラムと多様性を謳うインドネシアであるが、イスラムのキリスト攻撃のニュースはしょっちゅうある。何が何なのか 傍観者にはわからないが、お互いを異端視しているとしか言い様がない。
西ジャカルタのドゥリ地区の教区では教区牧師によるミサなどを行ってきたが、ここに来てイスラム過激派の妨害が激しくなりこの日曜日に最後のミサをやることで全ての活動をやめることにしたが、この最後のミサの開催について地元警察は治安に責任が持てないとして中止を勧告した。教会等の施設は宗教省からのロケーション許可が必要であり、これが取れてなかったようである。このロケーション許可は9割近いムスリム社会の中では先ず不可能に近いように見える。多様性の中の統一とかの標語はそれがあってほしいから標語になるのであって現実にある特質でもなんでもない。同じ空気は吸いたくないというわけであるから相当離れれば良いということになる。メナドにアジアで最大のイエスキリスト像が建った話もニュースにあったが、これは華人の不動産大富豪Ciputraが自らのチプトラランド住宅地に立てたようで、広大な土地を買ってしまえば出来るという証左かも知れない。その上メナドはカトリック信仰者が多い地区であるからである。

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2007年12月17日 (月)

Sam. Ratulangi通りの彼の住宅 

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チョクロアミノト通りの北の 端の三叉路を右に取りCut MutiaのBopuloに向かう道がサムラトランギ通りで、二人でやっと抱けるくらいの太い街路樹が並ぶ落ち着いた旧い道である。11月のある日、この道に何かあるだろうと見当をつけて車を降りて直ぐ、中庭に胸像のある家を見つけた。何か見た顔だと近づいて見ると何とラトゥランギ博士である。5月6日のブログでラトゥランギの伝記は書いたが、広澤さんからコメントを頂いていた。それによると
彼はこの道に住宅を構えていたらしく、ラトランギィ博士と親しい西嶋重忠さんの厳命で広沢氏の親友がサムラトゥランギ通りのラトゥランギ未亡人の家に下宿させられた話が出ている。この胸像がある所がその家なのか一寸確認できなかったが間違いないだろう。左の建物は小さな学校の廃墟で青年が二人座っていた。インドネシアの道路名の英雄とその道の関係は殆どないのが不思議であるがこのラトランギ通りは関係があった。

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2007年12月16日 (日)

バリ気候変動会議での日本の役割

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世界190ケ国以上の代表が集まった11日間にも渉ったバリ会議の成果は何であったのであろうか。日本は最大の悪者のアメリカの後ろで活躍し逆にインドネシア等世界のNGOにも笑われたようでプレゼ下手、コミュニケート下手を露呈した印象だけが残った。
最終日、欧州が求める削減目標の数値(25%~40%)は日米の反対で宣言に盛り込まれず、2013年以降のポスト京都プロトコールへのロードマップ作りを合意し先送りした。これまで京都の名前と省エネ技術で世界をリードしたかに見えた日本であったが世界は理解してない。日本は初日から削減目標に触れず世界のNGO300が選ぶワースト化石賞を総なめにしたそうである。
インドネシアはテーマの一つの森林減少の防止に積極姿勢を見せ、減少防止をCDMの排出権として認める等REDDを推進する。世銀は森林保護の資金ファイナンスとして総額$160MのFCPF基金をドイツ$59mil、英$30m、NZ $22m、豪日各$10m仏$7m等からの資金で設定した。
又インドネシアは破壊されつつあるサンゴの保護のため$34百万の支援資金を得たが贈呈者はGlobal Environment Facility (GEF)や米国、アジア開銀で他に豪州やWWFなどからも想定されている。 JICAがバリに作ったマングローブ自然保全博物館・公園に会議参加者を招いた見学会も行われたそうだが、この公園は在ジャカルタの楠氏の設計である。バリ ブヌド湾の広大な100 haの土地に海水を引き込みマングローブ林を生育浮橋で公園をめぐり博物館で自然保護を学ぶことが出来る。散策木道は、全長2,780mで約1時間30分で一周でき、マンブローブ博物館本館でマングローブの生態や自然災害に対する防止機能等を紹介していて、当公園で半日はマンブローブジャングルを満喫できる。(PT.アーキフォルムクスノキの楠さんの電話番号は021-61-573-9662)
写真は建設中のところ、同氏提供のものです。

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2007年12月15日 (土)

Biopore土壌改良の洪水対策の3方得 

ファウジー新ジャカルタ知事が新たに進める洪水対策がBiopore absorption holes (biopores)である。 簡単に言えば有機堆肥土壌作りである。 こうすることにより洪水対策としては土壌が多くの水を吸収してくれるというものでIPBでは昔から研究を進めていたようだ。
T型の道具で幅30cm、深さ100cm以下の穴を掘り有機ゴミを穴に処分ししつつ小生物の活動で堆肥化するものでこれにより通常の土質より多くのWater Catchingが出来る上に樹木の肥料ともなる。 キャンペーンでは多くの市民をクニンガンに招き、穴を掘り最後にマホガニーを植え、マンゴの種をまいた。T型道具はRp175,000だそうで住民のボランティア活動を期待しているので市にとっては予算不要の有機ゴミの廃棄処理を削減できる。3方得と言うより、業者の利益も考えると4~5方得である。インドネシアにはピッタリなアイデアである。詳しくはWahyu Purwakusuma 、the IPB Biopore Team tel 0817225172.に聞くとよい。携帯電話で待っているところなど感心である。そういえば昔小生も裏庭で土壌改良に勤めたが確かEMや米ぬかなど発酵補助剤が必要であったが堆肥そのものを作るのではないから埋めるだけでいいのだろう。

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2007年12月14日 (金)

SMA Kanisiusカニシウス高校の3C精神

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Cut MutiaからMenteng Rayaに曲がったところNo.64に大きな教会風建物がある。これはKolese Kanisiusカニシウス・カレッジである。1927年創立のヤヤサンBudi Siswaが運営するカトリック系SMP/SMAである。珍しく男子校である。この名前は聖人カニシウスSanto Petrus Kanisius (1521-1597)から来ており、彼はオランダのイエズス会士で宗教改革の中、ドイツで反宗教改革を指導し、『キリスト教々理摘要』(Summa Doctrinae Christianae, 1556年)を表した人でそれはヨーロッパ各国語に訳され、この公教要理は、宗教改革後のカトリシズムを代表する文書となったとあります。ドイツやニューヨークのカニシウス・カレッジが有名で3C: Competence能力、Compassion哀憐、Conscience. 良心の標語を教育に掲げている。数年前のイスラム系テロで爆弾の標的にされた5ケ所(カトリック大聖堂前、カニシウス高校、マトラマンの聖フランシスクス尼僧院、ココロニア教会、ハリムのオイクメネ教会)の一つである。玄関庭には自由に入れるが中までは遠慮した。裏には運動場やチャペルは当然在る。

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2007年12月13日 (木)

Hari Nusantaraは海洋漁業省の日?

今日13日はHari Nusantaraと言う日である。1957年の12月13日はインドネシアは領海12マイルを原則としつつもその内海を領海として世界に宣言した日で2001年にHari Nusantaraとして記念することが法定された。従来は東インド時代(航海法の時代)から3マイルであった。3マイルとは陸からの大砲が届く距離であったといわれ、オランダ・イギリスなど航海の自由を求める海洋国家が主張する海域であるが、1980年代になって世界の大半が12マイルを主張している。日本も12マイルを原則としつつ津軽海峡などは3マイルとしてしている。但しこの領海は領海国が定める事前通告義務とかの法令を守る限り無害通過は認めるのがルールである。更にインドネシアやフイリピンなどの島嶼国では島々が囲む内海は全て領海を主張しそれがインドネシアの場合Nusantara群島理論である。但し個別に相手国と条約或いは協議が行われている。このヌサンタラの自然は神がインドネシアに与えた贈り物というのが群島理論でありその実践は海洋漁業省が管轄するもののようだ。

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2007年12月12日 (水)

Hari Bakti Pekerjaan Umum 祝日のオンパレード

12月16日がBlambanganの戦い記念日で話題とするのであればXXの日と言うのは沢山ある。12月3日はHari Bhakti Pekerjaan Umumは公共事業省の公共事業の意味であるがさしずめ公共奉仕の日とでも訳しておこう。1945年この日は独立への勝利の日としてSapta Tarunaとして知られる7人の青年の殉教を記念するもので各州のPU省が主体的に行事を行っている。
その他調べが追いつかないがHari Ibu(78?母の日)、Hari Nusantara(1999年12月13日ヌサンタラ海洋の日)、Hari Bakti Transmigrasi(移住奉仕の日12月12日)、Hari Guru(教師の日11月25日)、 Hari Kesetiakawanan Sosial Nasional(1948年12月20日 国民連帯の日)、Hari Aids sedunia(世界エイズの日)、Hari internasional penyandang cacat(国際障害者保護の日)、Hari hak azasi manusia(世界人権の日 12月10日)などがある。
HKSNの日は8月29日のブログに出したが 12月20日である。何か催しはあるのだろうか

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2007年12月11日 (火)

Blambanganの戦いとインドネシア観光年

JP誌に観光文化省がインドネシア観光年を期してウエブサイトwww.my-indonesia.infoを立ち上げたというニュースがあった。情報量も少なくYogyakarta、Central Java、 Lombok、West Nusa Tenggara、Manadoなどに偏っているようである。インドネシアの観光旅行者訪問は2006年6百万人で2007年は7百万人と予想されている。予想外に増えているのだ。イベント情報では12月16日はバニュワンギでBlambangan王国の戦争記念行事が紹介されていた。要するにバニュワンギにはOsingといわれる地方語や平和な文化が今も伝統として残っているが、それはマジャパヒット朝の終わりごろこの地にはBlambangan 王国が同じヒンドゥ国として栄えていたがイスラムのマタラム国が侵略せんとしたとき王国はバリに逃れマタラムの侵略は失敗したというもので、バリの踊りにもここの文化の影響が残っているそうである。関心は薄い話かもしれない。

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2007年12月10日 (月)

ジャカルタのよく似た地名

外国語でよく似た言葉で何時までも区別が付かなくなることがある。外国語の接し方、履歴、経験が全て違うのであるから良く似た名前と自分で思うことが全ての人に通ずることはないと思うが、一つ紹介しつつ自分の記憶の明確化を図ってみよう。ジャカルタ人々に住所を聞くと南あるいは南西ジャカルタでよく聞く地名であるが;
Ciledug:クバヨランラマに向かうパクブオノからの陸橋をこえていくのがCiledug Raya通りでこの道の目指すのがタンゲラン寄り、セルポンの近くのCiledug地区となる。
Cipulir:Ciledug Raya通りの北と南にCipulir地区があり、Cipulir PlazaやITCモールもある。
Ciputat:クバヨランラマのCiledug Raya通りから南に下る道がCiputat Raya通りで、これはポンドク・インダーに向かうIskandar Muda通りと併走し高速を超えたずっと先で合体し南のCiputat地区に到達する。
Cinere:Cilandak地区の南、Ciputat地区の南東にある地区がCinereでポンドック・チャベ・ゴルフ場の近くであり、パンカランジャティ・ゴルフ場の前を走るのがCinere Raya通りである。
Cipete:クバヨラン・バルの南、ダルマワンサ地区の南で、又西のファトマワティ通りと東のアンタサリ通りの間を繋ぐのがCipete通りでありCipete地区である。
此方の方向もドンドン開発されてジャカルタ市街が拡大していると思われるので次回訪イ時の課題である。

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2007年12月 9日 (日)

紅葉のハイムを撮る

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3日朝旅行バックを引きながら、我がマンションの庭に入る。雪の如く降り積もる枯葉の舞に、見上げる空は雲ひとつない秋晴れであった。一晩で枯れ木になると思われた木々であったが数日持ち続け、カメラを取ったときが最後の見ごろだったのであろう。青空と白いマンションのコントラストが見事であった。 今日で丁度1週間であるが、家内も小生が戻ってからの晴天続きに驚いている。紅葉の雄大な自然の風景も美しいが一つ一つの木の紅葉振りは「カリスマ・ガードナー」の頁
http://blog.livedoor.jp/fuka_k/archives/cat_50014607.html で見とれることができる。
ジャカルタに洪水が来ないことを祈りつつ。

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誰も知らないKlenteng Sentiong

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実は小生はここに2回行っている。パサール・バルーのLautzeに入ると最初の中国寺院である。
この間Heuken SJ氏の本に紹介されていたので訪問したわけであるが行って見て、昔、何気なく遭遇した場所と同じ所であったので驚いた。監視員にも、訪れている中国人信者にも書物を提示してKlenteng Sentiongと叫んだが明確な反応はなかった。この名前は共同墓地寺院という意味であるがここの敷地は小さく墓地はなかったのである。隣にオランダ風建物があるので何か関係ありそうであるが壁の外である。共通点はアドレス、寺院名、中のバロック飾り付けの階段等である。
監視員はチップを取るため勿体ぶっていたが信者や関係者は老人で小生がドンドン中に入っても何もいわれない。内部は其れほど大きくなく展示或いは祀られている彫像で旧さを感じるものは少ない。Heuken SJによるとこの寺院は1736年建立の旧さであるが、現在のアドレスはJl.Lautze 38、寺院名は現在Vihara Buddhayanaとありこれでここであることは間違いないが、 中国名ではWang Jie Siと紹介されている点では実際はWang Kiap Siである。オランダ人のカントリーハウスであったものが1762年共同墓地の土地を探していた中国人社会の手に渡り、中国寺院として今日に至っているが、長い年月の間に一部は破壊され、現在の正門は昔の裏門であるとか、2階も改装されたり、多くのコレクションも散逸して見る影も無い。

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2007年12月 8日 (土)

中東が支配するインドネシアへ

大産油国カタールの600億ドルという元首ファンドはインドネシア政府と組んでインドネシアの原油探鉱、鉱業、電力分野への投資として10億ドルの投資を決定した。それだけのニュースがあった。原油高により更に原油探鉱の採算レベルがクリアーでき中東の持てる国は益々強大になっていく。60万の人口で、インドネシアと同等の産油量を誇り、LNGでは世界最大となるカタールの力は想像できない。デュバイの不動産投資WMAAR LLCはロンボックに6億ドル投じたツーリスト・リゾートを建設し100万人のアラブ旅行者を引き付けるという。ジャカルタモノレールへの融資や観光資源への投資を表明したドバイもあったが、徐々にインドネシアにアラブの色彩が強くなっていく。昔支配したオランダは残した建物で懐古趣味の観光スポットで面影を偲ぶだけとなった。その後支配した日本の影響力は車とバイクという物だけでは将来は心細い。序に高速道路、地下鉄、鉄道網を含めた交通全体を支配してはどうだろうか。韓国の経済ミッションで多くの韓国企業が鉄道に関心を示した。日本はもう遅いかも知れないが交通道徳ソフトはまだ行ける。

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2007年12月 7日 (金)

インドマルコ「インドネシア企業経営」11月号

下記の記事目次の11月号が発売中である。詳しくは同社のホームペイジ
www.indonesialink.net/indomalco/ へどうぞ。メールアドレスはrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netである。

• インドネシアの今月の税務法令アップデート
• インドネシアの今月の経済法令アップデート
• インドネシアの会計原則 102 (会計基準の比較 その1)
• インドネシアの輸入業者の関税総局登録
• インドネシアの税務調査
• インドネシアの会社登録証(TDP)アップデート
• インドネシアの輸出入品の職権検査
• インドネシアの税務署内諸手続きのフロー
• インドネシアの労働者派遣サービスの判決例
• インドネシアの地熱開発事業の行方
• インドネシアのVAT請求のない請求書
• インドネシアの改訂ジャカルタ特別州行政法 権限と分掌
• インドネシアのフォークリフトの借り上げPPh23
• インドネシアの国内流通潤滑油の登録
• インドネシアの今月の労働関連トピックス
• インドネシアのセメント事業
• 今月の月次経済指標2006-2007トレンド
• 2007年10下旬 政治経済トピックス
• 2007年11月度 上・中旬 政治・経済トピックス
• Q3GDP速報、物価・貿易統計2007年11月発表
• 「最近の気まぐれレビュー(7)」 柘海広志
• 「明日の街角23~ワイン、私の11月」橋本政彦
• 「クバヨラン・バルの西側の英雄名道路」 西見恭平
• 今月の為替・株式金利の動き

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2007年12月 6日 (木)

Pasar BaruのVihara仏寺の数々

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パッサールバルーの裏手と言うか前面でもある大通りに面して素晴らしい教会(グレジャ・アヤム)があり、更にこの近くに仏教のお寺があると地図が示していたためこの込み入った地区に入ったのであるが、この地区はLautzeと言う。グヌング・サハリ通りを北上しマンガ・ブサールに入るジェンバタン・ブシ橋を渡るやすぐ左に折れチリウン川沿いに戻るとそこはカルチニ通りが右手にありそのNo.10 からNo.3まで下っていき、No.3を右折れしてLautze地区にはいると、そこには幾つかお寺があった。その一つはVihara Tri Ratnaは300年の歴史を有する。門の上に現在・過去・未来を表わすドームがあるそうであるが写真ではキャッチできなかった。又Thi Cong Wong Pho Sat and Kuan Yinをまつっているというので菩薩と観音は判るがそれ以上は調べてない。今日は外観だけであるがTri RatnaとViharaMahavira Grahaの写真を掲示する。余りお寺には見えない。


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2007年12月 5日 (水)

パシフィックプレイスと華人の賑わい

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11月下旬に新規オープンした巨大な複合商業施設のパシフィック・プレイスを見学に行ったが内部は円形空間を取り巻く内装になっており、ここでもグッゲンハイム美術館の螺旋フロアーを思い出したが、ここは螺旋状ではない。むしろリフト4台はあるがエスカレーターは次の上の階に行くエスカレーターに繋がっていないので嫌でも歩かされる。
前部のホテル(リッツ・カールトン)に向かう部分や後部の部分も複雑で見学ルートを決めるのは難しい。まだ全部が入居している訳ではないので10分ほどで退去したが、将来に賭けた大胆さには随所に感心する。商業施設でテロ防止の金属探知機を潜らせるのは始めてであるが、従い訪問者は殆どが華人に見うけられた。
パシフィック・プレイスはモール、ホテルの他高層住宅、オフィスで構成され、地上38階、投資額は250百万ドルと巨額である。Mariott Hotelを所有するTan KianとこのCBD地域を所有するアルタ・グラハなどの共同事業だそうだ。知り合いが関係しているので小生の運ちゃんもTan Kianの名前をあげ、またこの建設では幾多の死亡事故が起こったという。

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2007年12月 4日 (火)

ジャカルタの大らかさ

昨日日本に戻ってきた。スカルノ・ハッタまでの道中で飲もうと持ってきた缶ビールであったがそのまま検査機を通過しており、更にJALのWaiting Wingの前にはイスもゴミ箱もあったので弁当を広げることが出来た。
弁当と言うのはJALの朝食はクチにあわないので1ケ月の滞在生活の残りの物の肉や漬物の類を整理する為もあり、持ってくるもので、これも検査機OKである。JALの出発時間は昔は11時台もあり現在は10時半だと思っていたのが良く見ると10時10分であったので慌てたこともあり朝食兼夕食の弁当になった。 Waiting Wingに向かう最後のお土産キオスクの香水を売り込みが激しく冗談で応対しつつ、つい買う羽目になったが、その直前でやっぱり冷やかしとなっていた日本人の若者の尻拭いでもあった。その若者は売り子の大らかさに感心するだけで場所を濁してしまった。日本の負けである。

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2007年12月 3日 (月)

2006年国家英雄選出とその待遇 

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2006年は8人の国家英雄であったが、最終選考段階では14人いた。以下9番以下が名誉を逸したが2007年にサバイブすることもなかったようだ。 社会省の国家英雄・同胞(Kesetiakawan)局が各州の意見を聞いて纏めるのであろうが2006年では西ジャワ、南スラウエシ、北スマトラが多かった。
英雄となると政府から毎月Rp1,600,000の手当てがでる。又遺族の医療保障(年2百万)、その他英雄墓地に埋葬されてない人は墓地管理費や遺族の住宅維持費などの補助制度があるようだ。
1. Pangeran Mangkubumi atau Sri Sultan Hamengkubuwono
2. KH Noer ALi (Jawa Barat)
3. Rd Mas Tirto Adhi Suryo (Jawa Barat).
4. H Pajongga Daenghale Karaengpolobangkeng (Sulawesi Selatan),
5. Opu Daeng Ruaju (Sulawesi Selatan)
6. Andi Sultan Daeng Raja (Sulawesi Selatan)
7. Ishak Hurudoko (NTT)
8. Dr M Tengku Muhammad Hasan (NAD)
9. Zainal Abidin (Riau)
10. Suratin (Jawa Barat)
11. Baidu Zaman (Sumatera Utara)
12. Moan Tekaiku (NTT)
13. Supriyadinata (Jawa Barat)
14. Jend Purn M Panggabean (Sumatera Utara)

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2007年12月 2日 (日)

ジャカルタ猖獗の地diarrhea で8人死亡

18世紀、バタビアは猖獗の地で連日多くの人が墓場に運ばれたが、今日も北ジャカルタではそれが再現されている。川上から流れてくるゴミで川は腐敗し、温暖化で海水レベルが上昇、海浜の低地帯は湿地帯化しており、病原菌の巣窟となっているようだ。
下痢で片付けられているが流行性チフスではないかと思われる。しかしニュースによるとそこまで酷くはなく、
罹病者はピーク400人であったのが最近は少し納まった数字である。市の水道も行き渡っていないので飲み水に事欠いており最後の死亡の赤ちゃんは脱水でなくなった。一方で市はチョクロアミノトどおりなど車を追い出したあと、鉄柱でブロックした歩道など美麗化に努めている。やっていることがちぐはぐである。

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2007年12月 1日 (土)

Wijaya studio21の買収の正体はMy Place

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コスモの横に若者達のビリヤードがあったがいつの間にか取り壊されている。そこは又一寸見物しながらビールを傾けるに良い店だったしその2階は健全マッサージ、3階はStudio 21の映画館であったが横のファーマシーなども込め3階までぶっちぎりでスペースを購入したものがいた。それが大手Spa マッサージのMy Placeであることがはるかはなれたラスナのアパートに投函されていたビラで判った。My PlaceはPatal Senayanに最初に店を出しいまやクラパ・ガデンやグヌン・サハリのブティック・ホテル(昔のゴールデン・ホテル)にもあり今回Wijayaにも大型スパをオープンする予定のようである。これでタンゲランの西部を除きジャカルタを全て押えたことになる。
大きなワールプールや20メータークラスの冷水プール、サウナ、スチーム、オキシジェント・ルーム、フイットネス、カフェなどが設備されている。温泉だけならRp100,000である。ここにあったマッサージのSpaはRp35,000であるが、高い程ジャカルタでは集客力があるようであるが、果たしてウイジャヤではどうであろうか。電話で聞くなら021-579-40849である。写真はグランド・ウイジャヤ内で。

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