« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »

2008年1月の投稿

2008年1月31日 (木)

所在不審な都心と大空間

Mega_kuninganKwitang_wahid_020

この写真を見てここがジャカルタであると思う人は少ないかもしれない。この角度からの写真ではその所在すらわからないかも知れない。そしてその側に大きな空き地がある。ジャカルタは世界一の渋滞都市になったが小生に掛かると彼方此方にある大空き地を指摘することが出来る。これらの空き地はいまや何処もインドネシア人好みのステラッテジスな場所になっており、不動産屋が開発のタイミングを虎視眈々と待っているのが一般的な傾向である。スハルト時代の強権での開発方式で、それが公的インフラに向ければ問題は解決するのであろうが。。高速インフラは永久に稼げるので参入する人は多いがバイバス、アルテリ、近道、陸橋、橋でも有料化すればどうだろうか
写真をアップロードしたいが為の文章で一寸無理やりな文章になってしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月30日 (水)

プルミナ・プルタミン・プルタミナ

Pertamina_017
ムルデカ・チムール北のPerwira通りに一昨年夏火事を起こしたプルタミナのビルが聳えている。その下に旧いオランダ時代の建物があるが、広沢さんのメールでこれが旧シェルのインドネシア オフイスであったことを知った。インドネシアには日本占領以前からオランダのロイヤルダッチシェルや米系メジャーが進出していたが、1957年にオランダから西イリアンを奪還する方針を打ち出し、国内のオランダ企業の接収が進んだ。その頂点が王立海運会社とロイヤルダッチである。
57年12月ロイヤルダッチ接収で北スマトラ、南スマトラとカリマンタン及び中部ジャワを担当した夫々の会社を国有化し夫々、プルミナ、プルミンド(後プルタミン)及びプルミガンという国営会社で事業を引き継いだ。 この3社は1968年に統合現在のプルタミナとなったもので、その後は競争相手であった米系カルテックスやスタンバックが勢いを付け請け負い方式や生産分与方式で石油生産が進められてきたが、現在はこの米系も昔日の姿はない。シェルは英国籍であり、国有化法はオランダを対象としているため合弁のオランダ部分を国有化したことでシェルの部分は共和国が1961年に買い取ったのでシェルの最終撤退は1966年である。 詳しくは広沢氏のホームペイジを参照下さい。http://www16.plala.or.jp/bouekitousi/index.html

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年1月28日 (月)

Pak Harto逝く

のんびりBung Hattaの墓について書いた27日、丁度ゴルフをやっている時間13:10に3週間の闘病の末Pak Hartoは亡くなった。今日の朝7時半頃のアパートの前のラスナサイト通りはハリム空港に向かう遺体のスハルトにSelamat Jalan Pak Hartoと別れを惜しむ市民がどっと道に出ていた。昨日の死亡発表時長女Tututがスハルトの幾多の失政をお詫びし、神が迎えてくれることを祈ると語っていたが、今日の国民は本来のインドネシア人に戻ったようにやさしそうな顔をしている。ハリムから空路でソロの埋葬地Astana Giri Bangun Karanganyarに運ばれSBY大統領の下、最後の別れが営まれる。 ブルネイ、チモール、シンガポール、豪州、クウエートの元首達が参列する。テレビが今12時最後の埋葬の合図銃声一発とラッパが鳴り響いた。夕べに白骨のたとえの通り死の確実さをひしと感じる1日であった。

お通夜はCendanaの自宅で行われ多くの人がお悔やみをTututに述べていたが息子3人の姿はなくTututの側で二人でお悔やみを受けていたのは次女だったのか、或いはバンバンと別れたハリマだったのか

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Hattaの墓はTPU Tanah Kusir

Hatta_tanah_kusir_057
クバヨランバルーの南ビンタローとの間にタナー・クシールと言う地域があるがここは公共墓地もありその一角にモハマッド・ハッタの廟があった。何故ここに埋葬されているかしらないが夫人の墓もここにある。英雄は英雄墓地に埋葬されるのかと思っていたが、トップの人間ともなると、スカルノの墓は生まれ育った所縁のブリタールにあるし、スハルトのはソロ辺りに準備されているというので、家族もあり夫々英雄墓地と別の所に廟を作るのであろうう。ハッタは1902年ブキイティンギー生まれで1980年にジャカルタ マングンクスモ病院でなくなった。1972年にスハルトがBintang RI Klass Iと言う最高勲章を授与している。国家英雄に叙されたのは1986年である。
奥さんとはボゴールで結婚したジャワ人である。子供3人、長女はMeutiaは女性担当大臣である。
スハルトは何時国家英雄に叙されるのであろうか

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月27日 (日)

Museum Manggala Wanabhakti森林博物館

Wanabhakti_palmerah_003
先日のManggala Wanabhakti森林公園の右奥に森林に関する博物館がある。裏庭に回ると木材運搬列車など飾ってあるがその横に巨木の化石が横たわっていた。長さは28メートル、直径は105cmで2メートルくらいずつ破断されておりそれは最早樹木でなく石である。バンテン州Rangkasbitung 20kmで発見された5百年前のものだそうで感慨に耽ることが出来る。博物館(電話570-3246)で平日しか開いてないため入ってない、中にはジオラマとかで木材切り出しなどがあるのであろうが興味を引くのはアロマトリートメント製品展示である。
* Kayu Putih:クローブ(丁子)から精油したもので、市販ではCap Lang というブランド名で,「白樹油」と表記されており、下痢、吐き気、風邪、歯痛、虫刺され、怪我、不妊と百薬であるが塗るもので飲むものではなかろう。クローブオイルは香水や菓子類に使われる。
* Myrtle:百日紅サルスベリ科かアールスパイスもこの中に含まれる。
* Cendana:白檀のインドネシア語
* Sandalwood:これも白檀、甘い香り
* Camphor:樟脳
又敷地内の樹木には名札がつけてあり、勉強になる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月26日 (土)

BSDのの中のCBD

Cenkareng_bsd_045
ジャカルタの中心スマンギのSCBD(Sudirman Central Business District)とBSDは良く混同するがBSDはBumi Serpong Damaiでシナール・マス グループが開発しているジャカルタ郊外の新都市建設でBSDは固有名詞である。この町はBSD Cityという。ジャカルタからタンゲランに向かうメラック高速道路をカラワチのひとつ手前のタンゲランで降り、Serpong Raya通りをSerpongに向かう。昔の人でもTIFICOとTOTO (あとKumatexなどあったか)がある通りであるが、いまや道も広く両サイドは開発で商業施設や住宅がならんで賑わっている。BSDに入ったなと思えるポイントは噴水の造型タワーであるが更に南に下ってSerpong-Bintaro高速道路が現在は出来ているので、メラック高速だけでなくセルポン高速でも来ることが出来る。ここにSerpong Damai Indahゴルフ場があり昔は何度か来たが今は高くて行けない。総面積は6,000ha、10万都市で、開発は1989年からでまだ開発途上、勿論BSDの中にCBDも開発中である。スポーツの森やWater 公園もあり見物だけでも楽しいことだろうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月25日 (金)

Klenteng Ancolは有名 

Photo
Klentengシリーズが続くが、最も有名な一つがここアンチョールにある。アンチョール公園の東側、Pasir Putih通りから海岸通りに抜け一番端まで行くと広々とした所にこの寺院がある。
この寺院は1650年以来何度か建て直されながらここにある。Fu de Zheng Shenを祀っている道教らしい。1600年代Sanpo(の船隊)中国人のジャンク船長がここに辿り着き船員の一人がイスラムのスンダのダンサーSiti Watiと恋に落ち住み付きこのお寺を建てたとある。聖所にこの家族のお墓があるそうである。人影もない海岸沿いのこのお寺の庭でまじないのお札を燃やす煙がなんとなくもの悲しい。


続きは2018年5月28日に

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月24日 (木)

これがObama氏の小学校SDN Menteng 01

Pgri_menteng_034
何でも写真に取っておくといつか役に立つものだ。ずっと前メンテン・チョクロアミノトのバッティク・プラザの横にMirandaレストランに入る小さな通りJl.Besuki があり、No.4に旧そうな学校があったので写真に取っていたのであるが、あるニュースからこれがあの米国大統領候補のオバマ氏の幼少の頃の学校であったのである。
ニュースでは相手陣営がこき下ろす為 インドネシアのイスラムの学校で極左洗脳されているなどといわれていたが、見るところそういうものでもない。 この学校は1934年にオランダが開校したもので1961年からインドネシアの国立小学校となったいる。オバマ氏はBarry Soetoroの名前で在籍し6年になるまでに転校したため卒業にはなっていない。写真の通りPGRIとは全国教員組合的な団体であり公立であるが別に応援しているわけではない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月23日 (水)

Manggala Wanabhakti森林公園とヌラヤン・シーフード

Wanabhakti_palmerah_012_2Wanabhakti_palmerah_018

ガトット・スブロト通りの国会の先を左に折れる所に入り口がある。ここはDPRの隣の広大な森林公園である。森林公園とは小生が仮に付けた名前でここには林業省の11階建てのビルやManggala Wanabhaktiミュージアムとオフイスビルがある。日本人に一番なじみがあるのはこのオフイスビル1階のヌラヤン・シーフードで150人ぐらい収容できる大きなレストランであるが予約しないと席がないくらい流行っている。
魚料理、特に変わった出し方をする魚のスープが得意だったように記憶する。(電話は570-0248)最近はトンと大人数で会食することがないのでどうなっているかは知らない。
敷地内には他に由緒ある喫茶店もあるし写真の通り静かな公園である。 ガットット・スブロト通り沿いは深い森林となっており、遊歩道を歩けばたっぷり森林浴が出来る。宿まることが出来さえすれば都会の中のキャンプ地である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月22日 (火)

パルメラーのVihara Dharma Bhakti

Wanabhakti_palmerah_029Klenteng_palmerah_034

別名Klenteng Han Thian Siang Teeに行ってきた。PalmerahのPT.Gramediaの近くである。ここに行くには一方通行の道が邪魔して遠く南のプルマタ・ヒジャウの陸橋の辺りから線路沿いに北上してやってくるしかない。Gramedia の先を右に折れる、両側がびっしり屋台が連なるGangを150メートルほどいくと右側にある。1700年代のものでこの地域をオランダ人から購入した中国人が立てものであるが、この寺院は二つの龍が絡みつく赤い円柱が有名のようである。又奥にイスラムの墓もあるそうである。そう言えばこのGangの左側にイスラム・モスクもあり、共存してたのであろう。クマンギサンからこのパルメラーにも北のグロゴール辺りの中国人が南下して住んでいる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月21日 (月)

ムルデカ宮殿の警備ポスト

Istan_merdeka_pos
Istana Merdekaは昨年4月7日のブログで紹介したが、この宮殿が完成したのは1879年と新しい。その以前はムルデカ宮殿の裏側ベテラン通りのイスタナネガラであったが、1869年、適切ではなくなったとしてPieter Mijer総督が新宮殿の建設を本国に申請し、許可を得て建設したものである。この宮殿の左手に小さな宮殿風建物がありなんだろうかと通り過ぎるたび思っていたがPos Keamananであった。現在は衛兵は正面のポストにたっているが詰め所的に使っているのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月20日 (日)

日イ友好年とインドネシア投資ミッション 

日本とインドネシアの国交回復後50周年については何度かブログで触れたが今日20日が調印を交わしたその日であり、この友好年開始の記念式典がタマンミニで行われる。午後4時からの開会式には友好年名誉総裁の秋篠宮さまと紀子さま、インドネシア側の名誉総裁であるユドヨノ大統領のほかハッサン・ウィラユダ外相、海老原紳・駐インドネシア日本大使、ユスフ・アンワル駐日インドネシア大使、ジャカルタ特別州のファウジ・ボウォ州知事ら約七百人が出席し、両国の文化発表や五十年を振り返る映像を観賞。この後、秋篠宮ご夫妻を歓迎する夕食会などが開かれる。(ジャカルタ新聞)年間行事の目玉はまだ知らないが、久し振りのインドネシア経済・投資環境視察ミッションがやってくる。日本アセアンセンターの企画であり、次のような案内があったので、転載しておこう。、
「今回のミッションでは、 ジャカルタおよびスマランを訪問し、日イEPAでも日本からの技術協力が約束されている裾野産業にスポットをあて、その現状と今後の展望やビジネスチャンスについて探ります。
期 間:2008年3月2日(日)~7日(金) 
訪問先:ジャカルタ、スマラン(中部ジャワ州)
参加費:全日程(成田発着)184,000円
現地参加  91,000円
詳細・申込書はこちらです。
http://www.asean.or.jp/invest/event/img/imission08.pdf
照会先 日本アセアンセンター 投資部 
電話:03-3546-2031 メール:info_in@asean.or.jp ファクス:03-3546-2676
皆様のご参加をお待ちしております。 )日本アセアンセンター 投資部
東京都中央区銀座4-10-3 セントラルビル

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月19日 (土)

Djoko Santoso,インドネシア人の風格

少し旧くなり恐縮ながら昨年末国軍司令官になったDjoko Santoso陸軍大将は、温厚(kalem)で品があり(luwes)知的な(intelijen)な方のようである。ロープロファイルで誰ともにこやかな将校であるが職務・性癖は完全主義者である。 2年の陸軍参謀長KASAD から、空軍大将(Marsekal) Djoko Suyantoの後の国軍司令官Panglima TNIにユドヨノ大統領によりに抜擢された。1952年生まれ、1975年AKABRI卒である。ユドヨノ大統領に近く、人権蹂躙、軍ビジネスに縁がなくクリーンで通っている。1990年Seskoad陸軍大学卒業後は国防、情報部門が長くニュースにさらされてない。その後はデポネゴロ師団、KOSTRAD部門長、パッティムラ師団(マルク担当)長、ジャヤ師団(ジャカルタ担当)司令官を歴任している。2003年のジャヤ師団長就任式にはTry Sutrisno,、Surjadi Soedirdja、Wiranto、Sutiyoso、Djadja Suparman.、Prabowo Subianto とそうそうたる面々が顔を揃えていた。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年1月18日 (金)

三元宮は古いコタの納骨堂

6404
コタ駅を通りハヤムウルック通りに向かう所に左手からジュンバタン・バトゥ通りが出てくるが
その通りの端に旧い建物が並んでいる。一番、端にあるのが三元宮であるが、こんな小さな建物もHeukenのジャカルタ歴史サイトに出てくる。Rumah Abuとあるので納骨堂でタン氏やリム氏の家系との事である。1800年台末建設で彫り物や家具に見るべきものがある。又この裏手にあたるPinangsia通りにも幾つかあるらしいので何れ探検しよう。それにしてもこの納骨堂の横の建物の方が気になる。ナンだろう。車が多くて近づけない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月17日 (木)

プラパタンのBrig.Mobilにもオランダの痕跡が。

Brimob
プラパタン橋からセネンに向かう所にMarinirの司令本部があるがその先を更に行くと同じ右側にBrig.Mobil Polisiがある。このあたりも19世紀のオランダ金持ちの邸宅地であった。このBrig Mobの建つ所に立派な邸宅があったようだ。1867年の写真をみると、建物は2メートル以上の土台があり正面の広いベランダには右と左からゆるく弧を描く階段があり鉄柱のコラムが白亜の壁にくっきりと美しい。広いベランダは8本の円柱が立っている。基壇部分も正面にアーチ型の窓又は入り口になっているようだ。現在のBrigmobにもこのあたりが辛うじて残されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月16日 (水)

Masjid Cut Nyak Dienの利用法

Kwitang_wahid_059
今ではサリーナ・デパート辺りも町の中心部の地位を降りて、Wahid Hasym通りやCikini通りでも日本人になじみが薄くなってきていよう。Wahid Hasym通りをメンテン方角に向かうと5叉路の所にホテル・チュマラ(昔はここにJJCがあった)、その横に日本料理の味平もあるホテル・ジョハールがある。ホテル・ジョハールの前の道Jahar通りを少しゴンダンディア駅のほうに行くとKemiri通りが入ってくる所に掲記のモスクがある。この道の先にCut Metia モスクがあり、そこの線路沿いのゴンダンディア(Soroso)に向かう道がCut Nyak Dien通りであり、又この名前はアチェの女傑(07年5月17日ブログ参照)の一人であるがこのモスクの名前になった理由は知らない。2002年頃、当時の副大統領ハムザ・ハズ(ポンティアナック出身)はここでお祈りをしていたようだ。覗き込むと中2階になっており、結婚式なども行われる。モスクだと安上がりで出来るようで、そう言っても20百万以上だ。なぜかモスク前に救急車?霊柩車?が止まっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月15日 (火)

インドネシアの郵政 PT.Pos

Kantor_pos
インドネシアの郵政を担当する機関は国営企業体で株式会社形態をとるPT.POS(Persero)である。まだ民営化されてないので100%政府保有となる。本社はバンドンJl. Banda No. 30 Gedung Wahana Bhaktiで、ジャカルタの芸術劇場の裏手にあるこの写真の大きな建物はジャボタベック地区を担当する第IV地方事務所(Jalan Gedung Kesenian 2)である。郵便局数は全国で3,914ケ所だが、日本はなんと24,700ケ所もある(あった?)。
1月9日のブログで掲げたスマランの郵便局の写真は1862年頃の建物で郵便庁がJ.P.Theben Tervileにより設置された頃のもので、第二帝政時代のフランス式建築だそうだ。ジャカルタはフィラテリ記念館(06年5月9日ブログ参照)が1913年に郵便事務所として建てられたものなので、現代のこのビルの建築年代はかなり新しいことになる。一寸変わったデザインに興味を引かれただけである。東京中央郵便局と同じく大きな窓取りが特徴である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月14日 (月)

インドネシアの海兵団Marinir

Marinir
インドネシアの海兵隊はマリニール或いはKORMAR (Korps Marinir)として特にジャカルタ動乱の時には国民の期待を集めたものである。紫ベレー隊(BaretUngu)とも呼ばれ多分アメリカ海兵隊からの輸入かもしれない。但しアメリカは海軍省に属するが海軍とは別個の軍であるがインドネシアは海軍に属している。
タクティス標はXXXで師団(XX Divisi)より上で軍(XXXX Kopur 又は tentara)より下である。編成は意外に速く1945年11月15日である。クディリでTKRの一部として編成、初代司令官はAgus Subekti海軍少将であった。司令本部はジャカルタ、アルヤドゥタ・ホテルの裏側のプタンブランにある、Markas Komando Korps Marinir(MAKO KORMAR)で住所はJalan Prapatan No. 40 Kwitang, Jakarta Pusat、Telephone (021) 3841035である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月13日 (日)

All Saints Anglican Church

Eng1a
史跡案内に旧いイギリス教会があるというので出かけたことがある。プラパタンの短いJl.Arief Rahman Hakim通り(オランダ時代はEnglische Kerk Wegと言われた)の左手と言うのでアルヤドゥタ・ホテル前をU・ターンして慎重に車を進めると一寸くぼんでいる入り口を発見、こっそりそこに違反駐車して徒歩で侵入するとそこがイギリス教会であった。直ぐサトパムがやって来て所用を尋ねられ写真は駄目だと拒絶される。このような場合は喜捨をすれば良いのだろうが失敗した。先月12月にホカホカ地球家族の阿部さんから写真を送ってもらったのでこれをアップロードする。イギリス国教会は中国に布教することを決定したが鎖国にあったため代わりに中国人が多いバタビアにが選択され1822年最初の伝道師が派遣され、最初のバンブーチャーチを建設したが現在の本格的建物にしたのは1828年である。1879年からは牧師もいなくなり、本国からの資金援助も停止したため苦境にあったが1910年からシンガポールの管区となって何とか続くことが出来た。写真は1864年頃のものである。ここに無事に来るにはミサのある日曜日に紛れ込むのがいいのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月12日 (土)

こんなところにFusion Spaやヨガ

Fusion_spa
こんなところに道があるとは知らなかった。その道はそこそこ広いのであるが遮断機でブロックされておりその前にオジェックやカキリマがいるので側まで行かないと道があるとは判らない。
マハカム・ホテル前の通りの右側、KOIレストランの手前の道であるが肉のはなまさレストランの後ろに半分みえるのがZYZZYXなる名前の韓国式SPAである。発音はジージックスだろう。Fusionとは何なのかしらないが多分薬草マッサージなのであろうか。あるいはヴィデオでも未ながらなのか 料金は90分Rp120,000と並みであるがデラックスクラスは40万になる。駐車上のおっさんや受付嬢が僕に対しここは男だけなどと言っていたのがわからない。この店の隣はヨガ道場ので白人系の人達が出入りしていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月11日 (金)

Prapatanの全国手工芸協議会

Badankerajinan
アルヤドゥタ・ホテルの裏側はチリウン川が流れその前の道はパッサール・スネンに向かう道がプラパタン通りでありメンテン通りに向かう道が65年オルデバルを求めるデモで亡くなった学生の名前のArif Rahman Hakim通りである。そのチリウン川に掛かる橋プラパタン橋の横に一寸旧そうな建物がある。隣は海兵隊の司令本部の施設がある。奥の方にも建物が幾つかあるが河よりの建物がオランダ時代のものである。この建物は1860年から1870年代にかけて流行ったオランダ人エリートの好みの様式である。
一階建ての白亜の建物で前面は双つの円柱が立つ広いベランダを持つ。今でもこの特色は残されているが独立後はハメンクブオノ9世(国防省)の事務所として使われた。最近まで全国手工芸協議会の施設であった。10年前行った時は奥の建物はびっしり手工芸品が展示・即売していたが昨年行った時は全部どこかに移転しており、単なる政府保有の儀典施設になった模様。この程度のオランダ建物は沢山あり、維持費用も大変である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月10日 (木)

St.Ursula女学院と教育モットー

Wahidin_utomo_018
1月5日のブログのSancta Ursulaの続きであるが、この裏手はチリウン川に沿って走るポス通りに正面玄関を持つウルスラ女学校である。女学校の校舎とその付属施設のSancta Ursulaの建物が正面と裏で或いは北と南で二つの大通りに面しているのである。聖ウルスラはパウロVI法王が1969年に聖ウルスラはフリクションとして列伝から削除されたがそれまでは大きな活動をしてきた。一つはイタリアで貧しい少女への慈善教育活動を行って「聖ウルスラ修道会」で1535年に創設された。創設のアンジェラは後1809年に聖アンジェラと列せられた。ポーランド出身のウルシュラ・レドゥホフスカヤは、20世紀初頭に聖ウルスラ修道会の修道女として活躍した人物であるが、2003年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖され、聖人となっている。聖ウルスラが二人いる話となる。この宗派は1857年にバタビア(Nordwjik)に進出し2年後ここにこの学校を創設したものである。当時はKleine Klooster(小さい修道院)と呼ばれた。
写真は正門からの物であるが、オリジナルは屋根の形と黒い円柱の奥の円柱4本だけで右・左に拡張されている。又1990年にはセルポンにもUrsula女学校を設置している。モットーはSERVIAM = AKU MENGABDI.奉仕という事で日本の聖ウルスラ学院(共学)では「神に愛され、人を愛し、自らに与えられた生命を生き抜いていく人間」へと育てる「カトリック教育」の理念をもっているそうである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 9日 (水)

日本橋界隈の旧跡 

Photo
Kantorposkf1
ウエルトフレーデン所縁の記事を書こうと思い頭には「カントール・ポス」があったが、手元にあったパンフに日本の最初の郵便役所の案内があった。東京の地下鉄は今80周年を迎えており先日、日本橋駅で入手した80年前の地図案内パンフである。江戸橋南、殆ど証券取引所近くにあり、1871年前島密がここに役所を作ったとある。郵便局と称されるのは1875年からである。バタビアは1853年である。
その他日本橋界隈では
* 日本橋:五街道の基点。南詰に由来碑がある。現在の橋は1911年、橋名は慶喜の筆。
* 名水白木屋の井戸:旧東急の前身白木屋の2代目が掘った井戸で井戸跡に石碑がある。
* 凧の博物館:COREDOの北東辺りの洋食のたいめいけんの5Fに先代が開館した。
* 銀行発祥の地*1873年第一銀行が生まれた日銀の地。東反対に野村證券本社。
写真は関係ない同志で東京中央郵便局とスマラン郵便局 このカテゴリーの1年前は1月4日の明治神宮参詣であるがは出来事は2008年と置きなおすだけで今年と全く内容は同じであるが唯一つやタイの食べ物が1年で3割も値上がりしていることに驚く。明日又ジャカルタに行く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 8日 (火)

インドネシア 改訂株式会社法 の邦訳

昨年法律 2007年第40号で発布された改訂株式会社法の条文及び注解の邦訳が完成しております。インドマルコで邦訳し別冊で発売中ですがA4版で全70ペイジです。
価格はインドネシア国内はRp700,000+VATで日本では9,000円(送料込み)となっております。申し込みはメールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netでお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

インドマルコ「インドネシア企業経営」12月号

下記の記事目次の12月号が発売中である。詳しくは同社のホームペイジ
www.indonesialink.net/indomalco/ へ。メールアドレスはrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netである。

インドネシアの 今月の税務法令アップデート
インドネシアの 今月の経済法令アップデート  
インドネシアの 会計原則 103 (会計基準の比較 その2)
インドネシアの 輸出入通関に関わる帳簿の実施
インドネシアの 自由貿易地域をめぐる法令
インドネシアの 納税遅延にかかる金利罰則
インドネシアの 2008年主な州の最低賃金速報
インドネシアの 輸入通関検査
インドネシアの 首都の投資ワンドア統合サービス
インドネシアの 税金納付書と税目コード一覧
インドネシアの 今月の労働関連トピックス
インドネシアの 一時輸入
インドネシアの 土地建物税の金額
インドネシアの 投資環境トピックス2007年
インドネシアの 富豪ランキング トップ40
インドネシアの 首都のレストラン税徴収手順
今月の月次経済指標 2006-2007トレンド
2007年11下旬 政治・経済トピックス
2007年12月度 上・中旬 政治・経済トピックス
物価・貿易統計2007年12月発表
「京都精華大学にて・・・」 柘海広志
「明日の街角24~歴史と文化について」  橋本政彦
「クバヨランバル東南の英雄名」 西見恭平
「インドネシア鉄道小史」 南海洋一
今月の為替株式金利の動き
発行:PT. Indomalco Info Center
Plaza Sentral 3rd , Jl.Jend.Sudirman No.47,Jakarta 12930 Indonesia
TEL: (-62-21-)570-9767, 570-9768(直通), Fax:570-9769, 574-1923
Handphone:0816-726585, 0811-996071 E-Mail: k2433@attglobal.net 主幹:西見、兼松
ホームペイジ:www.indonesialink.net /indomalco/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Gedung Pancasilaは元軍司令官邸

403mar_04gedung_panca_sila
プジャンボンのパンチャシラ記念館は1830年代に建てられた当時の軍司令官邸である。
それ以前の軍司令官邸は現在St. Maryカセドラルのあるところにあったがde Kock将軍が1828年に売却し、プジャンボンに引っ越した。この地区は1849年軍司令官となったDuke Bernhard Sachsen Weifmar Eizenbachの名前からDuke Park或いはHertog Parkと言われた。
1918年にオランダの東インド政府軍の本部がバンドンに移った為、その後は新しく設置された国民参議会(Volksraad)となり、1945年6月スカルノがパンチャシラ宣言をした場所となった。独立後ここTaman Pejanbonは外務省の管轄となり、現在まで条約締結やレセプションなど外交関係の行事に使われている。正面のベランダ(Seranbi)には8本の円柱が立ち三つの入り口はあるところは1870年の写真と同じである。写真には裏の外務省本館の高いビルが邪魔である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 7日 (月)

カセドラルとDu Bus総督とde Kock将軍

Kasedral_ursula_2
インドネシアのカトリック教は16世紀ポルトガルが支配した時代に齎されその力の残った地域のアンボンやフローレスに生きている。オランダのVOC時代にはオランダがプロテスタントであった為頑強にカトリックは否定されたが1806年本国がナポレオンに支配されるやボナパルトは両派に均等に扱う旨の布告が出された為、ここインドネシアでもカトリックが復活した。1807年にはローマンカトリックの総本山のバチカンの直接統括する地区となる。ダンデルス総督はスネンのJLl. Kenangaの南端に小さな教会を与えた。東インド政府の長で最初のローマン・カトリック教徒はDu Bus全権委員(総督)で当時の軍司令官de Kock大将とはいい関係ではなかったが軍司令官の邸宅を何とか購入し教会に作り直すことに成功した。全権委員とはイギリスからの領土還付に際しオランダの植民地統治方式を君主の絶対権力の下に置き、その委任を受けたのが全権委員(General Commissioner)で前任の全権委員ヴァンデル・カペレンの財政失敗の後、指名された総督である。
カペレン時代からの軍司令官de Kockは1825年からデポネゴロ戦争に従事しておりベンテン戦法を編み出したがこれには多額の支出を要し、緊縮財政を守るドゥ・ビュス総督と対立したのであるが本国からの戦力増強にも成功し、デポネゴロ戦争を押えることが出来た。写真はSancta Ursulaからのカセドラル。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 6日 (日)

ウエルトフレーデンの渦巻き一方通行

Sancta Ursulaはラパンガン・バンテン広場を囲む北の辺であるラパンガン・バンテン・ウタラ(北)通りにある。ラパンガン・バンテンはここから左折してL.B西通り、さらにL.B南通りに左折し、また北に左折してL.Bチムール通りを経て戻ってくる逆「の」の字方向にラパンガンバンテン広場を回る。

北通りを右折するとカセドラル通り、更にポス通りへ右折しまたグドゥン・クスニアン通りへ右折して元に戻る「の」の字型に回る。(この区画の中にカセドラル、ウルスラ女学校、フィラテリ、芸術劇場、カントル・ポスがある)

この区画の右側はアンチョールから入って来るストモ通り(左)-グドゥン・クスニアン通り(左)-ブディ・ウトモ通り(左)グヌン・サハリ通り(左)と逆「の」字の1区画を形成する。(この区画の中に統計局、3つの旧いオランダ時代の高校、フリーメイソンの館などがある)

左の区画はカセドラル通りをベテラン通りに左にとりすぐベテラン1番通りを左にとりプルティウイ通りを左に取るとイステクラル・モスクを逆「の」の字で巡るの一区画を形成する。

その南の区画はモナスのムルデカ・チムールを北上しプルティウイ通りに右折し、更にラパンガン・バラット通りをプジャンボン通りに右をとり又右のムルデカ・チムールに出てくる「の」の字が形で囲む一区画がある(この中にプルタミナ、運輸省、コストラッドがある)
モナスも基本的に反対周りは出来ない逆「の」の字形である。
つまりこの一帯は「の」字の右回り左回りの渦巻きが6個ほどある不思議な交通規制の一帯である。この区画をたすき掛けや十字で分断する道がないためこれはこれで工夫したものであろうがぐるぐる目が回り何時まで建っても土地勘が湧かない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 5日 (土)

Sancta Ursulaはここジャカルタにも生きている。

Sancta_ursula_wahidin_utomo_015
パッサール・バルーの中央郵便局の隣、大伽藍カシドラルの裏に瀟洒の建物がある。三角ぺディメントにSancta Ursulaの名前が記されている。聖ウルスラの聖所である。SanctaはSanctumの複数系であるので聖ウルスラは複数なのであろうか 聖ウルスラは20世紀初頭のポルトガルの聖ウルスラもいるがこちらは4~5世紀の英国ローマンカトリックの聖ウルスラであるが、伝説上の人物として1969年にその聖祭を否定されている。それまではドイツのケルンのUrsulaplatzeの墓碑の解読と13世紀の殉教列伝(黄金伝説とも)から聖処女として広まっていた。伝説では、南西イングランドの王の王女ウルスラは結婚の為11人の侍女と夫々に1,000人の付き人、総勢11,000の処女をつれて婚姻先に向かったが途中ローマ法王に巡礼した帰りのケルンでフン族に襲われ全員首を切られる虐殺されたというものである。
ケルンの大伽藍の近く、聖ウルスラ伝説起源の地には聖ウルスラ教会がローマ様式の12大聖堂の一つとして立っている。又ケルン市の紋章が、ウルスラを守護聖女とする11個の燃える炎をデザインとしてる。聖ウルスラ修道会の教育活動を経て世界の各地の女学校の名前としても使われておりここはその女学校の施設である。イスラムの地に伝説上の聖処女が生きているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 4日 (金)

戦史に見る戦力

ジャワ攻略では日本軍は、戦力2倍のオランダ軍を圧倒したと自慢げな記述を見るが、日本の傲慢、自尊心、井の中の蛙は太平洋戦を引き起こした時から変わってないようだ。
当時ジャワには連合軍合計10万の兵がおり、日本軍4万に対しバンドンに5万の兵を集結していたがオランダ本国はドイツに蹂躙されたドイツ軍政下にあり東インド軍の戦意も低かったに違いない。バンドンの司令部は日本軍の戦力を20万と誤信していたことが降伏に繋がったものである。ちなみにオランダはインドネシア独立戦で第1次警察行動で15万の兵力を送ったとある。小出し戦力投入で戦死者をだ出した旅順、ガダルカナル、インパールは共に3~4個師団であった。 戦場の違いはあるが、欧州戦の規模は圧倒される。若干の記録を見てみよう。
* ポーランド侵攻投入兵力 150万、戦車3,000両、戦闘・爆撃機2,000機(ポーランドは大戦中ユダヤ虐殺もあり、6,000,000の死亡者を数える)
* フランス侵攻時迎える連合軍は兵200万、戦車2,500両、飛行機3,000機。ドイツはアルデンヌの森に兵力集中し突進しダンケルクに追い詰めるが、戦死者2万を出す。
* ノルマンディ作戦、10日間で60万の兵が上陸、1ケ月間で150万、2ケ月で250万人を投入、ドイツを撤退させパリに向かうまでに2ケ月を要する。
* ソ連のベルリン攻略 兵250万、42,000砲、戦車6,300両、飛行機8,400機
* 日本は関東軍で100万を豪語、敗戦でソ連に抑留されたもの60万、大戦での戦死者230万、民間死亡者80万、対する中国は戦死130万、民間1,000万という。ドイツの戦死者は285万、民間死亡230万。
日本の井の中の蛙は学校教育とテレビで一向にかわってない。テレビを見ながら歯がゆい感じがする毎日である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 3日 (木)

Mahkamah Konstitusi憲法裁判所はメダンムルデカに

Merdeka_barat_alazhar_024
メダン・ムルデカ・バラットの国立博物館を通り過ぎて行くと何時建ったのか立派なエンパイヤースタイル的建物がある。堂々とMahkamah Konstitusiと書いてあるのですぐ憲法裁判所(MK)と判る。憲法裁判所は2001年の第3次憲法改正で規定され、2003年法律第24号で設置されたものであるので、建物も新しい。
憲法裁判所は、法律の憲法に対する審査や、国家機関の権限紛争の裁決、政党解散の裁決、および総選挙結果についての紛争の裁決、大統領の憲法違反の判決を行う機関で三権が3人ずつ推薦した判事9人の裁判官で構成されるがその互選で長官が選ばれる。現在はProf.Dr.Jimly Asshiddiqueで氏は最近「国家非常事措置法・Hukum Tata Negara Darurat」を出版し、シドアルジョの泥流事故などの非常事態に対する大統領の対応について問題を提起している。加えてユドヨノ大統領は汚職疑惑のユスリル元法務大臣を憲法裁判所判事に推薦したようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 2日 (水)

日本軍占領時代のオランダと中立を考える

日本軍が東インドネシアのオランダ軍を降伏せしめたのは1942年3月9日、上陸からたった9日間での偉業であったと何かで読んだことがある。時の兵力は日蘭同規模の5~6万人だったと思う。オランダ人全体ではインドネシアで20万人が生活しており、内13万人が捕虜となった。
オランダ本国は1939年9月にドイツが始めたポーランド侵攻で第二次世界大戦下にあった。条約により英仏は対独宣戦布告し、オランダは中立国を維持せんとしたが1940年5月10日、ドイツのオランダ攻撃で脆くも崩壊、オランダは第一次大戦で中立を守りとおせたことや親独感から油断していたと言える。ダムを決壊させる洪水作戦(かってスペインとの戦いで成功したことがある)を頼み、軍備がおろそかにして来ており旧式タンク1両、複葉戦闘機75機という有様であった。戦闘最初は相当抵抗を見せたがドイツ軍の爆撃でロッテルダムが廃墟となるや政府は5日で降伏、国王・政府はイギリスに亡命した。 以降ドイツの敗戦まで5年間もドイツの軍政下に置かれ、連合軍の解放も最後の国となった。ドイツのオランダ占領は対英攻撃の基地とするためであった。
日本はパールハーバーで当時中立宣言していた米国のトラの尾を踏んだことになり、イギリスに亡命していたオランダ政府も米・英・仏の対日宣戦布告に参加した。オランダ政府は参戦の軍は手持ちはなく蘭領インドネシアの戦力だけだったのではないか。
中立国を宣言した国は自ら他国を攻撃することはないが中立を守るためにはそれだけの軍備を備えることが必須である教訓である。それにしても日本の太平洋戦記物には世界史の中での動きとして捉えてないなぁ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 1日 (火)

鄭成功とCoyett総督

12月22日のブログのCoyett Houseに登場した国姓爺であるが彼は本名、鄭成功で「反清復明」を掲げて清朝に抗した明の漢民族の将軍で台湾の英雄とされている。奉じた唐王より国姓である李氏を賜った為国姓爺と愛称される。母は日本人であった為、近松門左衛門が歌舞伎の「国姓爺合戦」を書いた。
鄭成功(Zhèng Chénggōng、1624年 - 1662年)は、海の貿易軍団の首領鄭芝竜を父として、平戸で生まれる。 1644年清の李自成により明が滅亡したが鄭一族は唐王末裔を奉じ清と戦った。北伐に向かった鄭成功軍は17.5万で軍規厳しい軍であったが台風等も味方せず、南京では大敗を喫した。台湾を拠点とするため1662年当時台湾を統治していたオランダ軍をそのゼーランディア城を攻めオランダを追放し、鄭氏政権を打ち立てた。本人は同年亡くなり、政権も3代で終わっている。時の台湾12代総督がCoyett Houseを作ったCoyettの祖父Frederick Coyet(Coyett)である。Pasar_barusep07_salemba_kopi_053
ジャカルタ・パッサールバルーの小さな通りのお寺から台湾、南京、平戸と大きな時代の舞台があったことに驚く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »