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2008年2月の投稿

2008年2月29日 (金)

ことしはTahun Kabisat(Leap Year)

今年は閏年で今月は29日まである。インドネシア語の説明によると、2月29日はうるう年(Tahun Kabisat)に2月に追加されたエクストラな日で、グロゴリアン暦によるとうるう年の60日目とある。
又うるう年はTahun Syamsiahの一つで1年が365日でなく366日である年である。1Syamsiah年は正確に365日でなく365日5時間48分45.1814秒である。このため4年に1日を追加するものでその年は4で割り切れる暦年である。それでも調整できない為100で割り切れる年(例えば1900年)は、400で割り切れる年(2000年)を除きうるう年としない。とある。

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2008年2月28日 (木)

ジャバ銀行とBank Indonesia

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1月7日のブログでファンデルカペレン総督と後任のデュ・ビス(デ・ヒシニース)総督のことは書いたが前任の財政失敗とデポネゴロ戦争の戦費調達を種々財政改革しながら、蘭印での最初の銀行を設立したのがデュ・ビス総督である。最初の銀行とは1828年設立のジャバ銀行、De Javasche Bankである。この銀行は現在の中央銀行Bank Indonesiaとして国有化(1951年国有化、1953年BI設立)された。De Javasche Bankは貨幣の流通をつかさどる中央銀行と民間融資を行う商業銀行の二つの機能があり、これをBNIと分けあったのが1960年である。(但し1968年まで、政府の経済政策の下請け的に融資部門も存続た)
なんとなく取っていた写真の建物が本物の写真と見比べてジャワ銀行のようである。現在のマンディリ銀行ミュージアムの隣でこれもミュージアムとして改装中のものである。

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2008年2月27日 (水)

7つのミュージアム・パケージツアー

インドネシアの7つのミュージアムがパッケージツアーを企画した。都市で言えばジャカルター・バンドン・スラカルタ・スラバヤであるがジャカルタでは国立博物館とマンディリ銀行ミュージアム及びジャカルタ歴史博物館、ソロはバティック・ダナール・ハディ博物館、バンドンは地質博物館、スラバヤは11月10日ミュージアムとサンプルナハウスである。
このプログラムは文化観光省が“Visit Indonesia “の一環としてち上げ、協力はタバコ大手のサンプルナ社である。国の歴史を保存しミュージアムを愛する伝統を作るものだとサンプルナ・ハウスの館長が語った。又旅行会社協会やホテル・レストラン協会、ミュージアム協会と協力する。との記事があった。どうもインドネシアの富豪のSampoerna社(但しP.Morrisに買収された)が社会貢献+宣伝活動のようである。
インドネシアは結構ミュージアムが多く、全国で275、ジャカルタでは小生の記録では40ケ所ある。写真は国立博物館新館National_musium_003

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2008年2月26日 (火)

メナドの紅白事件Peristiwa Merah Putih

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サトリアマンダラの博物館のジオラマ23号ではメナドの紅白事件と言うものがある。
1946年2月14日に事件である。これとミナハサ出身の英雄ラトランギの関係がわからなかったが、彼はそれ以前に逮捕されイリアンに流されていた。関係といえば密に青年組織に手紙を送り一致団結してインドネシア独立の為に戦うことを教え、又事件の後スラウエシはインドネシアの一部であると国連で供述したことがある。
オランダは1945年12月に至り英豪軍に代わって兵を派遣してきた。46年1月にはSpoor大将が司令官として赴任。2月には豪州軍に代わってメナドにもオランダが上陸してきたが、オランダは1679年のミナハサ-ネーデルランド同盟(Verbond)を頼りに友好を信じていたが青年隊の独立の熱気は燃え上がっていた。オランダ軍を駆逐した青年たちはそのバラックにオランダの国旗を裂き紅白のインドネシア国旗にして掲揚した。現在メナドから45kmのKawangkoaにLAPIAN - TAULU MONUMENTという記念碑がある。Charles Chus Tauluは青年隊の攻撃を指揮しオランダを駆逐したあと地区の治安回復を宣言し又翌日Bernhard Wilhelm Lapianを首班とするスラウエシ市民政府の樹立を宣言した。Lapitanはミナハサ・プロテスタント教会会議を組織したプロテスタントの英雄であるが、どうも中央政府の扱いは冷淡のようである。但しこの民衆・青年の対オランダに闘争が対外的にもインドネシアがサバンからメラウケ迄の統一国家を目指していることを喚起したことは記録されている。
この勝利の後彼らは8,000の兵を持つ日本軍キャンプを支配した。同じ地区に日本軍の洞窟がある。
写真はジャカルタのラトゥランギ氏の朽ち果て行く住宅ある。

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2008年2月25日 (月)

ジャカルタの歴代市長

ジャカルタの歴代市長の初代はスキマン内閣のとき 副首相となった国民党のSuwiryoで2度6年ほど勤めている。その後はDr.Soemarno、Sadikin、Soetiyosoが2期勤めている。道路名となったのはSuwiruyoのみである。WiyogoさんやSoerjadiさんの時代が懐かしい時代である。表がブログではどうなるかのテストである。
1 Suwiryo      1945~1951

2 Syamsurizal   1951~1953

3 Sudiro      1953~1960

4 Dr. Soemarno  1960~1964

5 Henk Ngantung 1964~1965

6 Dr. Soemarno  1965~1966

7 Ali Sadikin    1966~1977

8 H. Tjokropranolo 1977~1982

9 R. Soeprapto   1982~1987

10 Wiyogo Atmodarminto1987~1992

11 Soerjadi Soedirdja1992~1997

12 Sutiyoso      1998~ 2007(7 Oktober)

13 Fauzi Bowo     2007~2012

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2008年2月24日 (日)

サリーナのマクドナルド

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インドネシア最初のマックダーナルズは1991年2月23日ジャカルタのサリーナデパートの1階角地にオープンした。外食好き欧米好きのジャカルタ人に人気で今日まで賑わっているようだ。
その横はハードロックカフェで現在はエムユーカフェーか、2月2日に紹介したMiko Kaffeの現代版がここにもあった。デパートの外から見えるガラス張りの店作りも流行った理由の一つであろうか。ガラス張りはいまや珍しくもなくなったが。 小生もこの17年の間に1回くらい言っただろうか。サリーナの2階の角には巨大なゴム製マック人形がゆれる如く立っていたがのを思い出す。日本では例の藤田田氏が1971年に銀座に開店している。

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2008年2月23日 (土)

東京ジャカルタ会と日イ博覧会

2008
昨日、恒例の東京ジャカルタ会冬季親睦会に行ってきた。主賓ユスフアンワール大使のスピーチ(エディソン・ムナフ教育文化アタッシェ)に対し日本側は竹内大使が挨拶された。総勢60名が参加、女性コーラスのコールアングレック(代表:船田さん)が色を添えた。最高齢は日本占領時司令部に勤務していた岡部さん(88歳)である。現役・前向きのインドネシア側に対し日本側はインドネシア・クナンクナンガンばかりであるが、今回は日経新聞の小牧さんが日経の若い世代を引き連れてこられていた。日イ友好年の事業、日イ博覧会の説明のためでもある。昔の日本の力を思い出し人々を頑張らなくちゃと元気づけたのではないだろうか。驚くことにこの博覧会は日経新聞社がインドネシア側最大のメディアコンパス社を誘い主催していることだ。日イ国交回復50周年記念、日イ友好年をぶち上げた政府関係者がいるとすると最大の目玉が出来てホットする事であろう。博覧会はクマヨランのJIEXPOで11月1日~9日に行われれ300社の参加を見込んでいる。(照会先:日経文化事業局FAX:03-5155
-2860である。参加料金はブースm2当たり$230)JALの機内でのジャカルタ紹介ビデオに追加でこれを案内してあげてはどうだろうか

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2008年2月22日 (金)

今日はHari Istiqlal

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昔のウイルヘルミナパークにはスカルノの時代に東洋最大のモスク Mesjid Istiqlalが建設された。建設開始が1961年8月24日であるので完了した日なのであろうか イスラムの大祭であるIɗul Fitri,、Iɗul Aɗha や Mauliɗ Nabi Muhammaɗ,には大統領以下閣僚がお祈りにこられる。最近は観光客にもオープンになり水門のあたりから自由に車で入られる。写真は正面のサンマリー・大伽藍の庭からの写真である。

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2008年2月21日 (木)

BMGの打ち捨てられた事務所

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Arief Rahman Hakim通りのアングリカン・チャーチ英国協会の手前に崩れかけ放置された建物がある。ここも市の中心といえば中心であるが放置されてもう長い。 運転手に聞くとBMGだという。又正確にBadan Meteorologi dan Geofisikaというので後で調べたが気象・地球物理学庁となる。 さしずめ日本の気象庁にあたるが気象のほか、地震、津波、磁力、時刻、空気、干潮、山火事など何でも扱う。日本の気象庁だけの名前は簡単すぎる。
Goeだけ取って見てもGeochronology地球年代学、Geography地理学、Geology地質学、Geometry幾何学、Geomorphology地形学、Geophysical地球物理学、Geopolitics地政学があるがこの中の一つでも運転手がちゃんと言えたのには驚いたわけである。 なんせオランダが1866年には政府の機関として設置した国である。写真の左手は屋根も崩落している。真ん中のファザードは東オランダ建物のものである。
現在の事務所はクマヨランのJl. Angkasa 1 No.2, Kemayoran, Jakarta Pusat - Indonesia (Telp. 021-4246321)にあるので今度ゴルフの序に見てこよう。

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2008年2月20日 (水)

Rivoli劇場は不滅か

Rivoli
クラマット・ラヤ通りをスネンから下ってくると右側クラマット・プロから出てくる道の角にこの映画館がある。なんとなく古くいつもここを通ると目を引く何故か不思議な建物である。
グナダルマ大学のSiregar氏によるとここは1950年~1970年代にインド映画専門の映画館であった落ちぶれかけたのを1980年代にスタヂオ21に対抗したデザインで国内映画に切り替えて再興したが1990年代には又寂れもうずっとこの通りの陋屋を晒している。
多分ショッピングモールなどに変わるのであろうか。ここを通るバスの車掌はRivoli! Rivoli! Rivoliと乗客に連呼していたが、最近出来たバスウエーの駅名はPalputihと言う30メートル先の小道の名前が付けられている。この懐かしい名前も消えていくのであろうかとSiregar氏はなげく。

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2008年2月19日 (火)

インドネシア金融界の不気味

インドネシア中銀総裁の汚職捜査と中銀BLBI(流動性資金支援)の不正の検察が動いている。BLBIの方は金融危機時の中銀による銀行への緊急支援であるが総額144兆のうち回収されたのは24兆に過ぎないという。120兆がBCA銀行等で霧散したことになる。最近この融資のブラックリストにFadel Muhammadの名前が出て紛糾している。 彼はカラ副大統領の事業グループのトップエクゼクティヴであったが現在はゴロンタロ州知事となっている。
このリストは先週政府が委員会に提出したがこの中にFadelの名前があり、このリストはデータの間違いに抗議している。Hendarman Supandji 検事総長も Sri Mulyani 財務大臣もその妥当性を主張し、国家官房Hatta RadjasaはFadelの無実の訴えを退けた。Fadel が異議を唱えている記録は、既になくなった彼の銀行Bank Intanが882億の支援を受けたった49億しか返済していないというものだ。

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2008年2月18日 (月)

インドネシア・オンライン・ライブ・TV

exblog ガドガド」(http://gadogado.exblog.jp/)さんや現代インドネシア事情(http://plaza.rakuten.co.jp/gendaiindonesia/diary/)で紹介されたインドネシア・テレビ放送のImediabizのLiveTVに今日アクセスしてみた。アクセスはhttp://www.imediabiz.tv/で堂々国内7テレビ局が見られることになっているが今日はオペレーション資金の不足で中止していた。
今までも毎日なにか起こっていたようであるが、やはりこれだけのものをただで見るわけにはいくまい。何か支援したい気はあるが、、

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2008年2月17日 (日)

オリビア ラッフルズ夫人の墓

Raffles
シンガポール建設の父Sir Stamford Raffles (1781-1826)の夫人の墓のお参りに行った。
中央ジャカルタのプラサスティ墓地公園にある。彼女Olivia Mariamne Rafflesは1771年生まれだから10歳も年上である。若きラッフルズが、秘書官長ラムジー氏の困りものの人と結婚する事でペナン勤務に抜擢されたと噂された、軍医の未亡人であった。結婚しても子供はいないため、同衾しなかった、神聖な愛であったといわれる。ジャカルタに来て4年に満たない1814年にブイテンゾルグで亡くなった。
ブイテンゾルグ宮殿に住むラッフルズはボゴール植物園にその記念碑を建てている。
彼女の父はアイリッシュの一部族に属するがインドでロシアの部族女と結婚したためアイルランドを追放された。彼女は英国で育ったが22歳のとき親族と合流する為インドに渡ったがそのときの船長と公開中に出来たあと到着後東インド会社の軍医と結婚するも軍医は急死した。金に困った彼女は夫の死亡退職金を貰う為会社秘書官事務所に出向きそこで働くラッフルズ書記官と出会う。6ケ月後二人は結婚、ラッフルズは年俸が£70から £1,500に上がっていた。赴任した東インドでは噂にもかかわらずミント総督、詩人のライデン、地元の歴史学者ムンシ・アブドラから賞賛を得、お似合いの夫婦であった。ペナンの山にオリビアの名前も付けられた。1811年ジャワに副総督となったとき夫人はジャワ貴族に対しラッフルズの威厳を与える存在であった。彼女の死後の二番目の妻はソフイアと言いラッフルズ伝記を記したが、彼女についての記述は少なく又詩人ライデンと取り交わした作詞、書簡は破棄されたと見られている。


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2008年2月16日 (土)

東京駅の新幹線乗り場

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大手町から東京駅に回るはずがどうも日本橋に戻りさらに八重洲口の新幹線乗り場の方に来てしまった。標識が十分でなく現在の標識では自動的にここにやってくることになる。えらい遠回りさせられた上ここ東京駅、八重洲口、新幹線駅に登る階段にはエスカレートもなく、つい近頃のキレル老年になってしまったが、ホームに上がり気が付いた。ここは一番空いているし改札をすぎれば直ぐホーム(最後尾)になるので思えば便利である。マニア宜しく新幹線の写真を撮り、乗車中は富士山を取り捲ったが、腰掛けたまま取るようではいい写真は取れない。富士市辺りの工場の白煙は富士山の風景を駄目にするが排煙処理しているのであろう湯気のように直ぐ大気に消えていた。

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2008年2月15日 (金)

プルタミナの新社章の意味

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プルタミナの本社写真をブログに掲載した所、ビルの壁の会社ロゴが昔と変わっているのを 廣澤さんから指摘された。そういえばあの有名な昔の竜の落とし子(クダ・ラウト)が現代風に変わっていた。もう何年にもなるのに気がつかなかったが、スハルト退陣後の改革の動きはプルタミナにも押し寄せ2001年第22号 新石油ガス法で独占的権力或いは決定権を剥ぎ取られ、又ダウンストリームの市場の自由化が打ち出され、2003年には政令No.31/2003でプルタミナの株式会社化が実施された。
この株式会社化を機にこの新ロゴが改訂されたのであろう。
今ではシェルのガソリンスタンドも見られるようになり、火がついたプルタミナも全てのガソリンスタンドの模様替えと各地に新SSを設置拡大している。
チカンペック高速道路沿いには立派な休息エリアと共にモダンなSSが建設されているがそこの写真は何れ置き換えるとして写真は街中のものである。赤いかさとかいわれるが。。

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2008年2月14日 (木)

ガヨ・マウンテン・コーヒーの行方

アチェ ナングルー・ダルサラム州のガヨ部族はもうガヨのブランドのコーヒー生産が出来なくなる。オランダの企業がそのトレードマークの保有を主張しているためである。
この世界的に有名なインドネシアのアラビカ・コーヒーは中央アチェの高原で作られるがアムステルダムのHolland Coffee CV社がそのトレードマーク使用を禁じている。彼らはガヨ・マウンテン・コーヒーとして商標登録済みである。そのようなニュースがでていた。コーヒーのことは知らないが今頃そのようなことが主張できるのであろうか。確かにインドネシアのコーヒーは1696年にオランダ人が持ち込んで成功したものであるが。。インドネシアの生産の90%はインスタントコーヒーとなるロブスター種で、高原で栽培されるアラビカ種は10%に過ぎなく同じスマトラのマンデリンやスラウエシのトラジャが有名である。

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2008年2月13日 (水)

IHSの間違いその2:Vihara Dharma Bhakti

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先に間違いを指摘したIHS出版の本であと一つ間違いがある。1月22日で紹介したVihara Dharma Bhaktiの住所であるが本にはPalmerah Barat No5とあるがここにはなく、在るのは紹介したとおりグラメデァの先のGangをパルメラー市場に向かって下るところの住所で言えばPalmerah SelatanのGeloraである。両者はバス通りの南と北で2kmも離れている。小生がここで撮った龍の彫り物の柱はその本で写真が出ていたものと同じでありそれが間違いの決め手である。
Palmerah Barat 5は小さな小道で、所在を尋ねた小さな商店は中国人の店であった。ステテコの親父が煎餅などを店先に並べていた。写真の小道はパルメラー市場に下る道の方である。

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2008年2月12日 (火)

チキニ事件:Indonesian Heritage Societyの間違い

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Indonesian Heritage Societyが出している本に、スカルノが狙われたチキニ小学校爆弾事件があったところをチキニラヤNo.87の学校だと写真つきで説明していたがどうも腑に落ちないので再度訪問し学校敷地内にいる住民に聞いたところどうもその本は間違いであると思われる。正しくはこのブログに掲げた方である。ほんの真向かいと言える、Cikini RayaのNo.74-76にありYayasan Penguruan Cikiniという財団経営で幼稚園TKからSD、SMP、SMA、SMK、SMM(Musik)、ISTN(Institut Sains dan Teknologi Nasional科学技術)迄備えている。
一寸先のブンカルノ大学とは経営体を別にするのであろうがこれを入れると幼稚園から大学までであることとなる。
ここがチキニ事件が起こった場所であるという決め手はJoang 31記念館に飾られている狙われた車の説明にPenguruan Cikini(Percik)と記述されていたからで又間違いの方はSMP Negri 1で中学校のみである。

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2008年2月11日 (月)

今時のJALとKAL 2月11日

雨の間の間隙に飛び立った機体の下はジャカルタの夜の夜景が広がった。今日は朝から雨でゴルフも出来ず仕方なく会社に出かけたが事務所の入り口の鍵を紛失していることが解り、捜索や借りることに半日をフイにした。夕方には晴れ間を見せるようになり、バンジール渋滞にも備えて早めに出かけた空港は韓国人でごったがえっている。団体が帰国中とも見えたが何組かの家族は多くの人と最後の別れをしており、本帰国組と見受けられた。30年前は日本もここで別れの万歳などで騒いでいたのを思い出した。JALとKALのカウンターは隣り合っているので凋落の日本と上昇の韓国或いは老若の差をはっきり写している。 出国審査も各列30人くらい並んで30分も掛かる込みようである。それでも今日のJALは乗ってみると7割程度の乗客率であったが、小生自身は45B席で両隣が空席でゆっくり出来た。今成田空港では申告のあるなしに拘らず税関申告書を義務つけている。 住所電話職業まで書かせるもので何故時代と逆行するのであろうか。日本の今日は穏やかな春日である。

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2008年2月10日 (日)

マジャパヒット通りのKlub Harmoni 

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マジャパヒット通りはムルデカ宮殿辺りからセクネグを通ってコタの入り口のジュアンダの橋の辺りまでの短い通りで、ここに昔ハーモニー会館があったが1985年に取り壊されたところである。今ハーモニーという名前はここからコタ入り口の地名で残っており、バスウエーターミナルの名前である。ハーモニー会館の裏手にホテルDu Pavilionと言うアラブ系のSungkar家が保有したホテルもあったがこれもセクネグに取られてしまっている。写真は取りにくいが、通りの真ん中のセンターライン位までが昔の位置である。会館の入り口はベテラン通り側とマジャパヒット側にある。この会館は19世紀始め公式オープンしており、イギリス人とオランダ人の社交場で夜な夜なダンスパーテーなども開かれていたというから今となっては参加できないのが残念である。

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2008年2月 9日 (土)

最近の投資環境トピックス

1月
* 08年は中東マネー50億米ドルの流入期待:イの中東大使の元外相。
* インフレ抑制目標財務相決定:08年は4-6%、09年は3.5-5.5%、2010年は4-6%。
* 07年PMA認可156.5%増の401.1億ドル、PMDNは16.04%増の188.87兆ルピア
* イの経済自由度、157カ国・地域中119位、前年の124位:米ヘリテージ財団
* 日イ国交50周年友好年開幕、秋篠宮来イ *2008年はVisit Indonesia Year。
*スハルト元大統領逝く

12月
* 年末1週間の降雨で121人が死亡(ブンガワンソロ流域)
* 石油ガス採掘設備品の輸入関税を免除、輸入にかかるVATおよびPPh22は留保、
* 本年 成長率6%か、目標6.8%に及ばず。但し6%台は11年ぶり。
*5ケ月ぶり政策金利を8.25%から8%に引き下げ
*政党法改正を可決、党役員の3割は女性に、パンチャシラは見送り
*10月の輸出額、初の100億米ドル超
*国連気候変動枠組み会議がバリで開幕。09年までのロードマップに合意
*カタール投資ファンド、イ国原油炭鉱、鉱山、発電事業に10億ドル投資
*イスラム開発銀、Tithe(1/10税)による貧困撲滅ファンドに$100億用意。
*「官僚は投資家支援を」「事業認可遅れは私書箱に通知を」とユドヨノ大統領
*インドネシア、07年のインフレ率は6.3―6.7%になる見込み=中銀副総裁
*鳥フル:死者続く。プカンバル、タンゲラン、ジャカルタ累計93人に。年間30人増
*列島揺るがす地震頻発、

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2008年2月 8日 (金)

Klentengで中国春節を迎える

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中国正月は今年は2559年、昨日がそうで、インドネシアでは福建語のImlekと称する。マンダリンではYin Lieで月のカレンダーでの動きを示す。
正月、仏教徒は日本と同じくお寺にお詣りするようで中国仏教寺院、ここではKlenteng(Vihara)は賑わったようである。ジャカルタでは西ジャカルタ区が一番多いがその中では何と言ってもPetak Sembilanにある金徳院(12月23日のブログ:Jin-De-Yuan temple or Vihara Dharma Bhakti)、で次いでアンチョールのDa Bo Gong temple(1月25日のブログ:Vihara Bahtera Bhakti, 此方は北ジャカルタ)とグロドックのVihara Dharma Widjaja (Jl. Kemenangan)である。 正月は2週間続きCap Go Mehと言う儀式で終わる。人々はGong Xi Fa Cai.と言って、親の家に集まりご馳走を食べ子供はお年玉を貰う。駐車場のSatpamがゴンシファチャイと言ってドアまで開けてくれた。お年玉が欲しかったのだろうが慌てて出すわけには行かない。
それにしても、新年と言うものはいいものである。気持ちとしてはいつも新年で有りたいと思うが。。
写真は旧ダナモンの裏手にあるお寺さんである。Wihara Amurva Bhumiと言う名前であるが、土地の人は何時の時代かわからないが大変旧いものだと説明してくれた。Karet Teng Sinの謂れがあるかもしれない。

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2008年2月 7日 (木)

ボゴール植物園の開設

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12月20日のブログで一部紹介した、日本出島の商館長でもあったファンデル・カペルレン総督(1820年~1826年)は、学術に力を入れた他は保守主義の男で欧州人の入植者が政庁の競争相手となることからその基盤たる借地を禁止した為土侯(土地を貸す)、土人(耕し働く)にも不評を買った。学術に力を入れたとは欧州人の初等教育制度を作り上げたことと、それを補佐したドイツ人ラインワルト(Reinwardt)を重用し、ボゴール植物を開設せしめたことである。ボゴール宮殿を愛したラッフルズがボゴール植物園を造ったが公式にはこのラインワルトが開設したとして、ドイツによる記念碑が建っている。 後任のDu Bus総督については1月7日のブログで記述している。
写真はボゴール宮殿正面。

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2008年2月 6日 (水)

インドマルコ「インドネシア企業経営」1月号

下記の記事目次の1月号が発売中である。詳しくは同社のホームペイジ
www.indonesialink.net/indomalco/ へ。メールアドレスはrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netである。
インドネシアの 今月の税務法令アップデート
インドネシアの 今月の経済法令アップデート  
インドネシアの 会計原則 104 (会計基準の比較 その3)
インドネシアの 2007年ネガティブリストの見直し
インドネシアの 改訂法人所得税年次申告書
インドネシアの 中古資本財の輸入規定アップデート
インドネシアの 経済指標2002-2007年
インドネシアの 近代的商店の出店規制
インドネシアの 税金関連書類の署名権者
インドネシアの 通関に関わる異議申し立ての手順
インドネシアの 2008年州・主要県/市別最低賃金一覧
インドネシアの 租税総局の組織と税務署の編成
インドネシアの 国軍 組織と権限
インドネシアの 今月の労働関連トピックス
インドネシアの 税務の強制執行
インドネシアの ビジネス・エグゼクティブ 1
今月の月次経済指標 2006-2008トレンド
2007年12下旬 政治・経済トピックス
2008年1月度 上・中旬 政治・経済トピックス
物価・貿易統計2008年1月発表
「素晴の『帆』に思いを込めて・・・」 柘海広志
「明日の街角25~」   橋本政彦
「クバヨランバルの南方の英雄名」  西見恭平
今月の為替株式金利の動き
Plaza Sentral 3rd , Jl.Jend.Sudirman No.47,Jakarta 12930 Indonesia
TEL: (-62-21-)570-9767, 570-9768(直通), Fax:570-9769, 574-1923
Handphone:0816-726585, 0811-996071 E-Mail: k2433@attglobal.net 主幹:西見、兼松
ホームペイジ:www.indonesialink.net /indomalco/

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2008年2月 5日 (火)

アルジュナとクリシュナ

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ラーマーヤナの英雄ラーマが7番目のアヴァタラで8番目がマハーバラタのクリシュナであるがマハーバラタの英雄はアルジュナである。マハーバラタはパーンダヴァ王家とカウラヴァ王家の間に起った同族間戦争を主題としてアルジュナの結婚や友人クリシュナとの説話をちりばめる。
アルジュナはパーンダヴァ兄弟の5人のうちの3人目で、インドラ神の息子である。又体格も良く美男子で4回も結婚した。
最初の妻ドラウパディーは弓の競技に勝ち勝ち取ったものであるが、この競技には兄弟5人が参加しドラウバディを連れ帰った時母クンティは賞品が花嫁とは知らず兄弟喧嘩せず分け合うよう言ったものだからアルジュナは気前良く受け入れ兄弟共通の妻とした。その後兄弟の約束事を破らざるを得ず罰として追放の旅に出る。
旅の最後で4番目の妻となるスパドラーの兄がクリシュナであるが二人は従兄弟でもあった。
クリシュナも巻き込まれる同族の戦いが始まったときクリシュナはアルジュナ側に参加、アルジュナの戦車の御者となり、アルジュナの恐ろしい異父兄カルナの攻撃から逃れるために戦車を縦横に駆ったり、彼の天の武器を使い果たすなど、戦の様々な局面でアルジュナを守った。モナスのムルデカ・バラット通りのある彫刻はこのクリシュナが駆るアルジュナの馬車のようである。

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2008年2月 3日 (日)

スナヤンのアヴァタラ:ラーマの像

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12月30日に写真をのせたスナヤン競技場正面に弓引く立像の門があるが、これはラーマーヤナに出てくるラーマ王子である。正門を入って奥のスタディアムそのものの下にも同じラーマ王の像がある。弓矢や衣装を比べて同じものと判断したのである。ラーマ王はインドの2大叙事詩ラーマーヤナの主人公である。ラーマーヤナはヒンズー教の聖典でもあるが、ラーマは最高神ヴィシュヌの10の化身(Awatara)の7番目である。
  シュリ・ラーマ・チャンドラとも呼ばれ、アヨーディヤーの王で魔王ラーヴァナから人類を救った。Awataraアヴァタラとはヒンズゥ教で正義(ダルマ)が衰え悪が栄えた時悪の世界からこの世を守るため、神が特別な姿をとる化身或いは現実世界において一つの形を取った神の明示である。10のアヴァターラの一部を紹介すると、8番目がマハーバラタのアルジュナの友人クリシュナである。9番目が仏陀といわれて、10番目が末世の最後の破壊的な力 カルキ、他に日本語の発音に近いマツヤ(魚に化身)やクルマ(亀に化身)がいる。

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2008年2月 2日 (土)

MIKO Koffieは最古のコーヒーハウス

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先日のマンガラ・ワナバクティ公園の中にちょっと旧いコーヒーハウスがある。池に面した建物で周りの戸外にもパラソルとイステーブルが4パラソルほどあり、ちゃんと明かりと音楽が配線されていて、日曜日など客は 中に2~3人と言う程度で読書、執筆にはもってこいの場所である。
壁に旧い看板風な宣伝文句があり 200 Jaar Meesterschap in Koffieと書いてある。200 years Mastershipと言う意味か MIKO Koffie NVはベルギーの会社で1801年にLeonardus Michielsenが焙煎業をはじめ長男が1908年にCoffee Houseをオープンした。現在は世界各地に進出しており、真空パックやMIKO Filterなど開発してきた歴史を持つ。MokaとかCappucinoとかLatteとかも書いてある中にAcornと言うのがあったがなんだろうか

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2008年2月 1日 (金)

蘭英の戦没英霊墓地Menten Pulo

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カサブランカに建つ同名のアパートの裏には広い墓場が広がっている。元々このカサブランカ通りは墓地を横切って作られたものでプリ・カブランカだったか手前のアパートは全面お墓に囲まれていると言ってもおかしくないくらいである。中国系の墓の荒れた一帯もあればイスラムのTPU一般墓地で少し手が入った一帯もあり、其処に立派に仕切ったヨーロッパ風墓地もある。其処はオランダの英霊墓地と英連邦墓地の2セクションがあるようでオランダ・セクション側にキリスト風とイスラム風がアレンジした礼拝所がたっている。行った日は曇った日で人影も無く為に中に入るのがためらわれたが、物の本には第二次世界大戦時に、日本軍の侵略に倒れた軍人及び一般市民の墓と言うことで5,000体ほどは白き十字架がびっしり並んでいる。日本軍が全てでないであろうが複雑な感に打たれる。毎年4月と5月に当地の両大使館主催の祈祷式が行われる由であるので、日本の罪を糾いたい人は行ってみると良い。

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