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2008年3月の投稿

2008年3月31日 (月)

インドネシア企業会計原則と国際基準との対比

インドマルコ社「インドネシア企業経営」という月刊誌の3月号で通算5号の上記の論文が終結した。同三月号には下記の記事の目次で発売中である。詳しくは同社メールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netに照会下さい。
今月の税務法令アップデート
今月の経済法令アップデート  
会計原則 106(会計基準の比較 その5)
税務代理人の資格とその権利と義務
特別輸入業者登録番号(NPIK)
労務管理証書
税の権利義務に関する政令の要約 その2
輸出用自動車組み立てのパーツ等の関税免除
大卒者就職難の理由と対策
キャッシュフローステートメントの作成
バタムのメインサービス税関
今月の労働関連トピックス
源泉徴収されなかったPPh23の連帯責任は?
国交樹立50周年の日イ関係のこれから
納税者への法律援助
今月の月次経済指標 2007-2008トレンド
2008年2月度 下旬 政治・経済トピックス
2008年3月度 上・中旬 政治・経済トピックス
物価・貿易統計2008年2月発表
「明日の街角27~惰性への警鐘-3月の歴史から」 
「ジャカルタ東部の道路の英雄名」
「インドネシアの国立銀行」
今月の為替株式金利の動き

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2008年3月30日 (日)

名門Jacobson van den Bergの何処へ

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Jacobson van den Berg,ヤコブソン・ファンデン・ベルフは1860年設立のオランダの老舗商社である。現在も香港、タイ、UK、中国にその名を冠した会社が存続しているが当時のバタビアにはこうしたオランダ商社があり5大商社と言われ、夫々立派な会社建物を残しているがヤコブソンはカリブサールのトコ・メラーを本社にしていた。インドネシアとオランダの関係はインドネシアがニューギニアの領有権を獲得に乗り出して以来険悪となり全国的に共産党の労働組織・農民に蹂躙され、会社は国有化された。オランダの会社員が屋根の紅白旗を引き下ろしたのが見つかりその場で逮捕された。会社が国有化により正式に国有化された後はPT.Fajar Bhaktiとして一時余命があったが。。

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2008年3月29日 (土)

キャプテン・ジャスはJassenBrug

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プラサスティ墓地公園の中の左手、大きなMimbarの木の下にKapten Jasと言う名の墓石がある。墓石と言うより色々な石や可愛い像が置かれた一つの囲いで多くの人が敬慕の為に訪れている。1768年死亡と記されているが実在の人との確証はなく想像の世界の人のようで伝説的に三つの話がある。一つはコタのポルトガル教会Jassenkerkとも言われる教会の近くにチリウン川に掛かる橋がJassenbrugでこのJassenから来ている。Jassen はCiasemの訛ったもので西部ジャワCiasemからの木材がこのJassenbrugに貯木されていた。当時はバタビアは不衛生の町で遠くから船でやってくる人々も上陸するや発病し近くの現在BI博物館の所に病院があり、収容後直ぐ死体となりJassenkerkの墓苑に埋められたがここもスペースがなくなり、ここタナバンに移されたと言うがここもそう広くはないので捨てられたのかも知れない。その中の一つがKapten Jasと言うのであるがこの囲みが多くの人々の悲しみを囲んでいるのかも知れない。

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2008年3月28日 (金)

Jayawikarta皇子とJoko Santosoジャヤ師団長

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バンテンがスンダクラパを落としジャヤカルタと名前を変えた当時、この地を治めたのがバンテン王国の流れのジャヤウィカルタまたはウイージャヤカルタ一族である。
このジャヤウィカルタの墓があるというので出かけてみたわけであるが場所はジャティネガラ・カウムとジャティネガラの名前がついているが軍事基地であったジャティネガラからは離れてプロガドンの方角にある。そこのモスクにあるはずだと運転手がモスクのなかをズンズン進むので小生も連れられ奥に進むと先ず、超巨木ブリンギンの木の根元にジャヤウィカルタの碑があった。更に奥にはお墓もあるようであるがKyai二人が熱心に拝んでいたので入るのはここまでであった。裏手はスンター河が流れているが河幅数メートル故防御線になるようなものではない。この碑は現在の国軍司令官Joko Satosoがジャヤ師団長・中将のときの2003年に建立しているあたらしいもので碑文には「ジャヤカルタ皇子のインドネシア民族に示した、侵略者追放での勝利と献身を忘れぬ為」と記されている。
Djoko Susanto 1952年ソロ生まれ、1975年Akabri卒、知的・温厚・完全主義、クリーンでユドヨノ大統領に近い。1990年Seskoad陸軍大学卒業後は国防、情報部門が長くニュースにさらされてない。その後はデポネゴロ師団(ジャワ中部担当)、KOSTRAD部門長、パッティムラ師団(マルク担当)長、ジャヤ師団(ジャカルタ担当)司令官を歴任し、陸軍参謀長から国軍司令官(Panglima TNI)へ。

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2008年3月27日 (木)

ジャカルタ攻略地ジャティネガラ・カウム

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1619年にオランダに蹂躙されて以来バタビアと改称されたがその前はヒンドゥーのパジャジャラン国のスンダクラパがイスラムのデマグ・バンテン連合に破れジャヤカルタであった。従い当時ここを支配していたのはバンテン王国のジャヤウィカルタ一族であり、彼らはオランダに駆逐された後もジャカルタの郊外に移り住み抵抗や妨害を続けていた。その地がプロガドゥンのジャティネガラ・カウム地区である。理屈をつける人はJatinegaraチークの国をNegara sejati真実の国と読む。Kaumとは外部の部族、一族、モスク管理者の意味がある。そのJL.Jatinegara Kaumを進むと左手の大きな木のあるモスクがありそれがMesdjid As-shalafiahである。このメスジッドがジャヤウイカルタ一族が植民した土地である。今日はそのモスク(名前が見えない)と中の大きなブリンギンの木の写真を貼り付けた。

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2008年3月26日 (水)

国立博物館の発祥の恩人Radermacher

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国立博物館は題材が大きすぎて後回しにしていたが、中身については日本人ボランティアによるガイドも行われているので建物について記すと、この建物は1862年から1868年に建てられたもののようである。ドーリア式円柱のある堂々たるネオクラシック建物の典型である。
正面に象の像があるがこれは1871年にタイのチュラロンコン王が寄贈したもので同じ寄贈の象はシンガポールの国会前にもある。インドネシアの博物館の生まれは1778年JCM RadermacherがBatavia Society of Arts & Scienceを創設したときでそのあとラッフルズがHarmonie会館のAnnexに自分の収集品も加え他展示館を作ったのが始まりである。
Rademacherは国立公文書館となった邸宅を立てたde Klerk総督の妻Sophiaの連れ子であるがヨーロッパへの帰路船上で中国人反乱にあい42歳でなくなっている。博物館にはde Klerk総督邸の絵柄入りフロアータイル、Sophiaの母の二番目の夫Coyett氏の大きな石の壺、Sophiaが最後に住んだToko Merahの家具遺品などRadermacher所縁のものも多い。

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2008年3月25日 (火)

タンジュンプリオク線は死んでいる

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タンジュンプリオク港が開港したのは1886 年だったが、その頃からタンジュンプリオクはバタビアの玄関となった。オランダから豪華客船が着港し賑わっている埠頭の絵を見ることがある。その後、鉄道も敷設されコタ駅とつながっているが、2日前の日曜に出かけたとき鉄道線を探したが所々線路が見えるものの路線上に小屋建っていたり、子供の遊び場になっていたりで使用されているようには見えなかった。タンジュンプリオクの鉄道駅舎はオランダ時代の建物でこれも既に大分前から使用されておらず商店や私営スクールなどが入居・営業している。横をずっと回るとこの駅の大きさがわかる。裏にはその後建て増しされた巨大な駅があり、たむろする男に聞くとある時間帯には走ることもあるという。コタータンジュンプリオクの他にタンジュンプリオクークマヨラン(アンチョール)線があるのでそちらを走るのであろう。ここも写真は非常に撮りずらいが後ろの緑っぽい屋根の建物が新館(新館と言っても覗くと薄暗く蜘蛛の巣が掛かっているような気配)らしい。


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2008年3月24日 (月)

Lengkongの英雄 Daan Mogot

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グロゴールからタンゲランに向かう道にDaan Mogotと言う名前が付いていることは昔のブログに書いたがBSDのLengkong地区もDaan Mogot ゆかりの場所であることが判った。BSDの中心・シンボルの噴水がある所から左に折れブミ・セルポン・ダマイと言うゴルフ場に向かう道の右側に、Taman Daan Mogotと言う石碑と小屋程度の建物があるがここがその所縁の土地である。
これを無視し一寸中に入る左手は土盛りでよくは気が付かないが大きな忠霊塔がある。忠霊塔には以下のような文言が刻まれている。
「1946年1月25日金曜日であった。それがLengkongの血の海事件が起こった日である。そこでダーンモゴット率いるタンゲラン軍事アカデミーの学生隊が日本軍からインドネシア軍TRIへ武器の引渡しの要求をしたとき、急に雨のごとく日本軍からの銃撃が起こり、結果に34人のアカデミーの若人とダーン・モゴット含むTRIの3人の将校が斃れた。」
ダーーン・モゴットは日本軍の設置した所謂柳川学校の第1期の優等生で惜しい人材をなくしたと悔やまれている。

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2008年3月23日 (日)

景観を台無しにする大型看板

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BTNの綺麗な建物も周りが囲む大型看板で殺風景で荒れ果てた街となっている。写真に簡単に入るような小さなものでなく一本の鉄柱に括りつけた6メートルx10メートルもあろうかと思われるものがざらである。ここの写真は民家の屋根を突き抜けて建っている。隣も入れると数本あるのであるが自動車に乗ったままでは一寸取り難い。写真を取り出して特に最近は目障りになってきた。
コマーシャリズムの生きすぎである。\消費大好きな国民だから文句はでない。

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2008年3月22日 (土)

Bank Tabungan Negara (BTN)の正面建物

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BTNは消費者金融をメインとする国営銀行で、あの金融危機を乗り切り今もその由緒ある名前で生きている数少ない銀行の一つである。
この銀行の歴史をたどると1897年まで遡る。蘭印政庁によるPOSTSPAARBANKでこの銀行は最初から個人の枕の下の貯めたお金の貯金を勧めるものであったので銀行と言うものを広く一般に知らしめることにも貢献した。独立後オランダの侵攻で活動できたのは1949年末からで1950年にBank Tabungan Pos RIの名前となった、このときを現在のBTNの誕生の年としている。住宅金融KPRを開始したのは1974年からである。本店はハルモニにある。正面の門構えがPostspaarbankの時代のものである。なかなか写真が取り難い建物である。

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2008年3月21日 (金)

Halim空港のMPの職業倫理

我々は簡単にハリム空港と言っているが本当はアブドゥル・ハリム・プルダナクスマAbdul Halim Perdanakusumaと言う軍人の名前の空港なのである。正式には更にRaden Abdul Halim Effendi Perdanakusuma Wongsotarunoというから驚きである。
Halim空港にその人の偶像があるというので出かけてみた。前回も行って解らなくて帰ってきたが、
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今回は空港の入り口の近くに空軍のコンプレックスがあったのでそれと見当をつけてきたわけであるが、入り口の検問は何もなく入ると直ぐにその像があった。更に向うの方にMPが見えたが多分大丈夫だろうと高を括って写真を一枚、と同時に向うの方から制止の声がかかり、MPの一人がやってくるではないか。何をしているのか、何処から来たのか、許可はあるか、何処に住んでいるのか、パスポート・キタスはあるかとか矢継ぎ早に聞いてくる。パスポートもなく観念しながら車に戻り、ブログの写真資料を見せながらお金を挟むが、金は要らないと突っぱねられ愈愈観念しバックに何かないかと探しているうちに向うは今度は運転手のKTPと運転免許を要求しそちらのチェックに移っていた。穴の開くほど5分間ぐらい見比べながら、最後はちゃんと許可をとって 入るのだと諭し釈放してくれた。前からそう感じていたがMPは体も大きくハンサムな男がなっており、精鋭のプライドと職業倫理感を持っている。今日は一時どうなるかと肝を潰していた後でもありブログで持ち上げておく次第。それにしても運ちゃんは動じずに応対してくれたなぁ。こう言う場合、ムスリム同士の信頼感が二人にあるのが感じられた。写真はこのTNI空軍基地である。

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2008年3月20日 (木)

インドネシアの砂糖輸入はラジャワリ

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世界最大の砂糖生産国であったインドネシアが終に輸入する羽目になっている。砂糖精製工場は十分なキャパがあるのに砂糖がないということで既に何年かそのような状況のようで砂糖の輸入権を持つ企業には国営農園企業のほかRajawariの名前がある。今年は235千トンで毎年増えている。昔東ジャワのマジャパヒットの故郷を走った時は見渡す限りサトウキビ畑がありまたオランダが残した軌道があったが今はどうなっているのであろうか Ikatan Ahli Gula Indonesia (Ikagi)があるのも東ジャワのスラバヤであり、東ジャワのAlastlogoの農民銃撃事件の土地もRajawaliがサトウキビ農園などをやっていたようだ。ラジャワリ・グループは大本はRajawari  Nusantara Indonesia(RNI)でアルゴ、ファーマシー、卸売りが3本柱でパームオイル、ゴム、不動産にも進出、昔からクニンガンの目立たない所に本社があった。
この間インドネシア富豪第5位になっていたピーター・ソンダックが率いるTVや移動体通信でもおなじみのラジャワリグループとは別のようである。
RNI Building,Jl. Denpasar Raya Kav D. III Kuningan Jakarta 12950 Telp. 021-2523820 2523830

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2008年3月19日 (水)

国軍のAlastlogo農民銃撃事件とRajawali

昨年5月の同事件が今月から来月にかけて漸く裁判に持ち込まれるようだ。国軍兵士による農民4人を銃撃し死亡させた前代未聞の事件で人権保護団体LBH や香港ベースのアジア人権委員会などの人権運動機関の根強い活動の成果であろう。この事件は東ジャワのAlastlogoでパスルアンの海軍Marinir兵士による農民4人射殺(8人重傷)事件で組織的犯罪であるにも関らず襲撃した13人の兵士のみが逮捕されたが9月20日に拘留期間満期で釈放となった。事件は土地に絡んでおり、オランダ時代、独立戦争混乱時代、国有化の時代、共産党問題時代、軍の時代といわくありげな土地のようである。農民はそこにシンコンなどを栽培していたが、Rajawaliグループも砂糖を栽培し所有権を主張している。軍はそこに軍の居住区とする計画であるとして追い立てたようである。
亡くなった中には妊婦もおり3歳の子供も巻き添えをくった。Marinirはスハルト退陣暴動の時は市民寄りの行動で信頼を得たが、今、軍は軍ビジネスを断ち切ることが課題である。

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2008年3月18日 (火)

バクリー氏の転落

フォーブスによる「世界のビリオネアー」リストが発表された。つい昨年末も「インドネシアのリッチェスト 40」と言うのがありこれによるとバクリーがトップであり且つビリオネアーは11人居たのであるが、今回のリストにはバクリー氏は名前さえ見当たらない。ラピンドの損失を計算に入れてはずしてもらったのであろうか。他にシナールマスのエカチプタもない。タバコのジャールムはあるのに常連のグダンがラムやサンプルナもない。従い今回のビリオネアーは5人に激減している。多分両者はデータの取り方(例えば家族単位であるとか)の違いであろうか
リッチェスト40の詳細についてはインドマルコ社の企業経営誌に詳しく解説があるのでそちらを御覧下さい。
5人の名前とリスト(世界の順位・氏名・金額)は下記の通りである。
284 Sukanto Tanoto   38億ドル

605 Michael Hartono  20億ドル

605 R Budi Hartono   20億ドル

652 Martua Sitorus   19億ドル

962 Peter Sondakh   12億ドル

人が隠す最大のものが財産であるので、発表されたものは公表の上場有価証券や不動産のみがベースになる。隠し預金は最早入らない。それにしても金持ちにすると人騒がせな話かもしれない。

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2008年3月17日 (月)

インドネシアの憲兵隊 POM

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インドネシアの憲兵隊はPolisi Militerと言い(CPM、CはCorps)と略される。憲兵と言うと旧日本軍の悪いイメージがあるが現在の自衛隊では警務官と言うようである。行政取り締まりにも暗躍した憲兵は警察任務が正面にでるが、軍の内部軍規維持が主任務である。警察と見分ける為白いバンドとかユニフォームで一目でわかるようにしてある。各国とも精鋭を配置しており、外交礼なども担当する。インドネシアのCPM(Pusat Polisi Militer :PUSPOM)はTNI本部に所属する変更の議論があったが最終各軍にあるようだ。陸軍にはPOMAD、海軍はPOMAL、空軍はPOMAUとなる。Sultan Agungにある憲兵隊はKomando Daerah Militer Jakarta Raya、Jayakarta Polisi Militerと標識があり、これによるとジャカルタラヤを担当するジャヤカルタ(師団)憲兵隊地区司令部のようだ。内部の壁にDamai Itu Indahと掲げられていたほか、 このPOMDAMの右側の刑務所の陋屋は既に写真を届けたが、左側はヤヤサンや互助会などがある。いずれもオランダ時代からの遺産の建物のようである。
ヤヤサンの名前はYayasan Kartika Raya(勝利の星財団)、婦人会の互助会(Persit)はKantika Candra Kirana(美しい月と星の光)などの詩語が散りばめられている。

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2008年3月16日 (日)

最近の投資環境トピックス

3月
*08年度補正予算:経済成長目標を6.8%から6.4%に下方修正、インフレ率は6.0%を6.5%に
*国連安保理でのイラン制裁決議:非常任理事国のインドネシアが唯一の棄権票投じる。
*大気汚染と犯罪でイの都市は住みにくい:ECA。254都市中ジャカルタ190位、スラバヤは212位。

2月
* 所得税法改正審議:法人税率最高30%を25%に引き下げで国会第11委合意。
* フィッチがイ格付け引き上げ:カントリーリーシングBB→BB+。
* アウトソーシングは重負担の退職金規定に問題、産業紛争解決裁判もあまり有効でない
* 昨年のGDP成長率は通貨危機後最高の6.3%。
* 公務員・軍人・警官の給与、今年平均20%引き上げ。
* 昨年の輸出、前年比13%増の1139.93億ドル、輸入は21.8%増の744.03億ドル
* 首都また大洪水。大渋滞で大統領さえ立ち往生する場面も。空港午後まで閉鎖

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2008年3月14日 (金)

回復なるのか日本人駐在員数

JJCから送ってきた領事館の統計でインドネシア在留で在留届けを出している数は全体で11,205人だそうである。バブルのピークは15,000人ぐらい居たと思われるがジャカルタ暴動後の99年には11,766人に激減、2000年に軽い恢復があったものの、その後毎年減り続けて2007年に初めて前年比135人の増加を見ているが来年以降上向きが続くことを祈りたい。ジャカルタ地区(総領事担当地区ベース)でこれを見ると多分ジャカルタ暴動で1/4は減少したと思われ(75%になる)、現在はピーク時の65%程度である。 65%といえば過半数を割り込み大げさに言えば半分強に近い訳だから、実感どおりである。以上の数字は毎年10月現在であるが、ピークの数字はないので98年10月の数字を少しオーバー目にみたものである。変動は少し遅れて出てくるので少なくとも2007年10月の増加を将来の増加の先触れと見ることも出来よう。(そう見たいものである。)

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2008年3月13日 (木)

千人の英雄Pahlawan Seribuと言う道路 

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地図を見ているとセルポンの南側に“千人の英雄”Pahlawan Seribuと言う名前の道路があったので出かけてみた。何か記念碑なども地図に出ていたが生憎出かけたとき地図を忘れて、尋ね尋ね行ったわけであるが、もう誰もこの名前の由来を知っている人も興味を示す人もいなかったが一人だけその名前の墓地があるという人がいた。其処に記念碑があるのだろうと問いただすとないという。記念碑は諦めてその墓地に行くことにしたわけであるが、其処は高速を降りて、BSDより反対側にくだり右手にテクノ工業団地行きの道があるのでその道を取りしばらく行くと道路沿いに墓地を見つけることが出来た。単なる墓地と言うよりやはり真ん中に慰霊塔がある大きな墓地公園と言うほうがあっている。但し正門は閉まって守衛も誰もいない。 隣の工場に入って一寸話してみる。インドネシアがオランダとの独立戦争の初期、オランダの最新鋭の銃器に散った地元青年団と民衆の戦いを記念した墓地のようであった。プラウ・スリブもあるのでスリブと言っても千を意味するものでなくここの場合150人程度である。

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2008年3月12日 (水)

Kali Besarのオランダ時代の建物の崩落

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カリブサール・バラット(or Jalan Kopi とも報じられているが)を通っていると海運会社PT.Samudraのマークが入っている古いオランダ時代のビルが半分崩壊しているのを目にした。そういえばジャカルタ新聞にも報じられていたが他のニュースを見るとスンダクラパの海洋博物館の旧いオランダ時代の倉庫も崩れたそうである。どちらも大雨のせいだそうであるが海洋博物館のほうの修復には410億かかるそうである。一雨で何百億の損で渋滞のひどさを増す道路へお金が回ってこないことになる。このカリブサール・バラットにはPT.Samudraの右横がオムニバタビア・ホテルで左側にトコメラーのほかロイド保険会社やスタチャン・バンクなどが、これら18世紀の建物を使っている。東芝のマークもでかでかと掲げられているのはどういう関係なのだろうか。

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2008年3月10日 (月)

500年前の土のままのファタヒラ

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コタのファタヒラー広場は特に西側のワヤン博物館側は相当手が入ったようであるが、歴史博物館の裏手辺たりは歩いてみると意外な発見がある。ジャカルタ開都の時代からその中心であった所に意外や当時のままの土むき出しの一角があったのである。隅のほうでは夜に出かける屋台の周りで3人の男女が所在なさげに暑さを凌いでいる。日本ではさしずめ夏草が茂ると表現するのであろうが、その向うに朽ちそうなレンガ作りの建物が見え木々の上に青空が広がっている。
目を落とした足元には昔のままの土である。何処でも土があるところはその土の年齢は地球の年齢と同じことになるのではあるが、ここは何故か500年前からの話が似合う。はだしの土人や、ポルトガルやオランダ人が行き来したのだと思うと単なる土ではなくなるのが不思議であった。

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2008年3月 9日 (日)

Gedung Tinggiは健在

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昔パルメラーのグラメディア社を訪問したとき、近くにGedung Tinggiがあることを思い出しそれらしき場所に行ってみた。其処には新しい建物が建っており、聞くとこれもグラメディア社のものだというので,まさか文化の担い手である出版社が歴史遺産を潰しはしないとだろうと不審に思っていた。
案内書の住所Palmerah Baratを訊ねて行ってみると、そこにはちゃんとGedung Tinngiがあったのである。老人とのやり取りで破壊されたことになっていた自分の勘違いに胸をなでおろしたことだった。この建物は18世紀の終わり頃この地の農園主Andries Hartsinckが1780年に建設したとある。建物の様式は当時流行ったオランダ・インドネシアの混合様式で一階は広いオープンギャラリーで二階はクローズト・ヨーロピアン・スタイルで、チークのフロアとロビーのタイルが今も残ったオリジナルという。90年代には一部だけ警察が使用していたが現在も標識は見えないが警官が出てきて審問されたので警察分署には違いないが2階などちゃんと使えるようになっていた。90年台の写真と並べてみよう。

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2008年3月 8日 (土)

改装成ったマンディリ博物館

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Bank Mandiriは2 Oktober 1998の金融機関リストラプログラムが適用され翌年4つの国営銀行が合併して出来たものである。四つの銀行とはBank Bumi Daya(BBD)、Bank Dagang Negara(BDN)、 Bank Ekspor Impor Indonesia(EXIM)及び Bank Pembangunan Indonesia(BAPINDO)である。
BAPINDOを除いてどれもオランダの銀行等を国営化したもので、一番旧いのEXIMである。又これは銀行ではなくN.V.Nederlansche Handels Maatschappij(NHM)と言う商社であった。設立は1842年である。BDNは1857年である。四つの銀行が合併した後一番由緒あるBHMの本社がミュージアムとなっている。前庭は公道とされその分、道が広くなったが、コタ駅に面する側にトタン塀が出来、坑道は見当たらなかった。あのトンネルは駅の中と博物館の中を繋いでいるのであろうか? 折角行ったのに旧い建物ばかりに目が行き気がつかぬまま戻ってしまった。

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2008年3月 7日 (金)

ジャカルタポストは未だ25歳、

日本人にとって唯一といえる英字紙であるが小生の1回目の駐在の最後に発刊された。当時は日本語の翻文館ニュースが最新ニュースを伝えてくれたが限られたものであり、「インドネシア通信」や「週間展望」で旧い記事を読んでいた時代であった。1990年代はインドネシアオブサーバーやインドネシアタイムズもあったが最近は見かけなくなった。1982年当時のAli Moertopo情報大臣とゴルカールの支持新聞 Suara Karya誌の代表者Jusuf Wanandiとの話し合いで誕生した。
会社の経営はKompas Gramediaが担当している。従い会社の住所はKompasと同じパルペメラーである。(Jl. Palmerah Selatan 15, Jakarta 10270, Indonesia Phone: (62)(21) 5300476, 5300478 Fax: (62)(21) 5350050, 5306971
役員はJusuf Wanandi、Sabam Siagian、Fikri Jufri、 Cherly P. Santoso、Daniel Rembethである。Sabam SiagianさんはJJCで著名人講演会にお呼びしたことがある。

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2008年3月 6日 (木)

インドマルコ「インドネシア企業経営」2月号

下記の記事目次の2月号が発売中である。詳しくは同社のホームペイジ
www.indonesialink.net/indomalco/ へ。メールアドレスはrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netである。
インドネシアの 今月の税務法令アップデート
インドネシアの 今月の経済法令アップデート  
インドネシアの 会計原則 105(会計基準の比較 その4)
インドネシアの 税の権利義務に関する政令の要約 その1
インドネシアの 輸出通関手続きの改定
インドネシアの ジャカルタの就業外事故・死亡補償
インドネシアの 総選挙前の製造業成長の見通し
インドネシアの 税金の納付日・場所・手順・分割納税と納付延期
インドネシアの 保税蔵置所へのEDIによる輸入品搬入
インドネシアの 労働省の調査に入られたら
インドネシアの 国軍 揺籃の歴史と改革
インドネシアの 個人納税者所得税年次申告書(超簡易)
インドネシアの 輸入規制関連規定の変遷 アップデート
インドネシアの 欠損金控除明細
インドネシアの 今月の労働関連トピックス
インドネシアの 一次産品取引に対する付加価値税
今月の月次経済指標 2007-2008トレンド
2008年1月度 下旬 政治・経済トピックス
2008年2月度 上・中旬 政治・経済トピックス
2007年GDP速報、物価・貿易統計2008年2月発表
「最近の気まぐれレビュー(8)」 柘海広志
「明日の街角26~二つのリスク・真の不確実性」  橋本政彦
「ジャカルタのラーマー・バラタ」 西見恭平
今月の為替株式金利の動き

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2008年3月 5日 (水)

プルメスタの最後

「嵐の前のインドネシア」というRosihan Anwarの日記(左藤正範訳)の61年頃からプルメスタの崩壊が出てくるがそれを拾うと:
61/3 ローレンス・サエラン 投降 兵士90人と。
61/4 ソンバ中佐 プルメスタの大立者 投降 兵士25,000人
61/4 ワハブ・ブラヒム アチェ ダルールイスラム軍 兵士2,000人
61/4 カウイララン プルメスタ総司令官 投降
61・6・23 アフマッド・フセイン 西スマトラ、投降13,500人
61/7 シンボロン 革命政府外相 北スマトラ 投降12,000人
61/8 フレンチェ・スムアール 中佐 革命参謀長 投降
61/8 ズルキフリ 投降
61/8 ブルハヌディン・ハラハップ 政府国防省 投降
61/9/19 シャフルディン・プラウイラネガラ 政府主席 投降
61/9 ナッチール元首相投降
61/9 ダフラン・ジャンペック大佐 西スマトラ 射殺
61/9 アッサート投降 
61/11 カハールムザカル隊(南東スラウエシを指導)投降
これでプルメスタは終わったのであるがその後もこの動きは生き続け、2004年にアチェの解決、北ミナハサの新カブパテン認定でプルメスタの年表は終わっている。ダルル・イスラムは65/2月になって カハール・ムザカールが山中で射殺され終わることが出来た。

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2008年3月 4日 (火)

ジャカルタ憲兵隊の陋屋刑務所

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マンガライのパサラヤからクニンガンに戻ってくる道にいつも何かあると思いつつ通り過ぎてしまうのであるが、行って見ると軍の施設と陋屋があった。ここはスルタン・アグン通33番地で隣のルンプット市場に車を止め写真を取ってきた。 旧いオランダ時代の建物のように見えるがインドネシア国軍の憲兵司令部(Polisi Militer:POM)である。其処を恐る恐る過ぎてその隣の道の角地に朽ち果てるのを放置された建物がある。そことPOMとは境の塀の破れで繋がっており、POM内でたむろしている兵士が此方を覗いている。ここは又聞きによると憲兵隊の刑務所であったという。隣の憲兵司令本部は綺麗に維持されているが、ここにはジャカルタ市の歴史保護建築物の標識はないので、いずれ取り壊されるに違いない。

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2008年3月 3日 (月)

マタラムのSanggurah碑文

一寸1ケ月前ヒンドゥー・マタラム朝の文化遺物であるPrasasti Sanggurahと言うのが
イギリスから返却されるニュースがあった。未だ交渉中であったので帰ってきたわけではないがこれはラッフルズが収集した中から上司のMinto総督に献上されミントーはスコットランドに持ち帰っていたものである。従いMinto Stoneと呼ばれることがあるが
3メートの高さ、3トンの銘板となっており西暦982年当時のマラン地方の王名Sri Maharaja Rakai Pangkaja Dyah Wawa Sri Wijayalokanamottungga (Dyah Wawa).など古代ジャワ語で588文字が刻まれている。マタラムが中部ジャワから東に移った謎を解く重要なものだそうだ。
交渉はHashim Djojohadikusumoがやっている。彼はスミトロ博士の御曹司で今は骨董屋をやっている。昨年11月には彼の家に5つの文化遺物が見つかりつかまっていた。

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2008年3月 2日 (日)

Permesta・PRRI国内反乱と国軍の偉業

1950年代から1960年代初めまでの国内反乱は同時に起こったダルルイスラムの運動と共にインドネシア各地を舞台に長期にわたった反乱騒動であったため頭が混乱する。ダルルイスラムはムルメスタ国内反乱と一線を引くもので別稿にするとしてプルメスタ((Perjuangan Semesta:全体闘争)を概括してみよう。
プルメスタは10月17日事件から発する軍内部の権力闘争と軍に介入する政党・政府との反発、それが中央政府の汚職や地方分配への不満、中央の左遷化反対、ハッタへの心酔が背景に流れている。
彼らは反共産主義でスカルノ独裁でなくハッタとの二人三脚、地方分権、ナスチオン交替をもとめた。全ての背後にズルキフリ・ル-ビス参謀次長がいた。関連年表を掲げてみる:
1956年7月:ハッタ、辞任表明
1956年10月:反ナスチオン派ルービス、政府転覆企画失敗、罷免に地方軍部反対
1956年12月:パダンでフセイン中佐反乱 バンテン評議会を結成 地方行政奪取
1956年12月:メダンでシンボロン大佐、ガジャ評議会結成 ルービスの働きかけ
1957年1月:パレンバン、バルリアン中佐、ガルーダ評議会結成
1957年3月:マカッサルでスムアル中佐のマングニ評議会、プルメスタ宣言
1957年3月:バンジャルマシンでハサンバスリ中佐、ランプン・マンクラット評議会
1957年3月:プルメスタに対し東インドネシア一帯に戒厳令
1958年2月:ブキティンギで、革命政府宣言 マシュミ党のプラウイラネガラが首相
1958年3月:政府軍鎮圧作戦で米CIAの反乱支援発覚。
1958年5月:政府軍ヤニ大佐、革命政府首都ブキティングを陥落さす  メナドを首都に
1958年6月:政府軍メナド侵攻、陥落後 反乱軍は各地でゲリラ化  
1959年3月:プルメスタ1周年記念で反攻 内閣改造アッサート大統領・ナッシール首相
事後政府の帰順工作と反乱長期化で順次降伏、最終1961年まで続いた。
Merdeka_barat_13_kana
写真はここはどこ国軍本部?Mabes TNI はCilankapであるがこの辺にもあるはず。


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2008年3月 1日 (土)

ハッタ辞任でスカルノが狂った

Hatta
スカルノの晩年は気が狂ったとしか言えない政治で八方塞がりの状況を現出した。それはハッタ辞任で歯止めがなくなりシャフリルの逮捕、療養拘禁から死亡(3月9日)の2日後はスハルトの3月11日命令でであったことが暗示する。ハッタ辞任後の燃え盛る国内反乱や西イリアン奪還はスカルノの勝利で終わったが、それが逆に慢心と失政に繋がることになる。ハッタの辞任は1956年12月で、それを契機に国内の地方不満軍人は反スカルノの実力行使に動き、パダン・メダン、スラウエシでの軍評議会反乱は、50年から各地に起こったダルルイスラム反乱と共に国内は騒然となった。スカルノは57年4月、戒厳令を施行、ジュアンダ超内閣議会で西イリアン奪還を打ち出したがこれは軍のエネルギーのはけ口とする戦略でもあった。
スカルノとハッタは性格的にも正反対で特にスカルノの容共的傾斜がハッタに見限られたきっかけであったが、マシュミ党も副大統領も政府から軽んぜられていたことも大きい。しかしハッタの人間性は何時までも人々に尊敬され続けている。ハッタの墓にはそれが易しく答えている。
Meskipun Bung Hatta teller tiada, Bung Hatta akan tetap hidup dalam hati kami
Cita-cita Bung Hatta akan senantiasa menyinari perjuangan kami

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