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2008年4月17日 (木)

Alaydrus通りの謂われ

Gajah_mada_plaza
コタに向かってガジャマダ通りをいくとGajah Mada Plazaの横に左手に曲がる道が昔クタパン今はZainul Arifin 通りである其処まで行かずその一つ前の左手に曲がる道がJl.Kh.Hasyim Ashari通りでこの二つの通りの間にあるのがAlaydrus 通りである。現在は事務所と商店が軒を連ねているが昔は多くの人が住む住宅地であった。名前はArydrus Laanであった。Laanと言うのは車では一寸難しいGangより少し広い道のことである。ここに小生の友人の華僑の事務所があったのでここの道の謂れを調べてみた。
昔ここにHabib Abdullah bin Husein Alaydrus という人が住んでいたそうである。彼はここの倉庫や家々すべてを保有しJl Gajah Madaを含め、Jatipetamburanに11,5 haの土地と建物を所有し、その地区には又 Husein Laan やIsmail Laanという名前の道があったそうである。
養息子のHabib Abubakar Alaydrus 翁の話ではAlaydrus通りに80戸の建物、Gajah Mada通りに25戸を保有していた。この家賃収入で月あたり12,000グルデンを得ていた。当時の相場では米100kgの俵Karungで7.5グルデンであった。彼はその管理のためBouwmatchappij Abdullah bin Husein Alaydrusを設立した。ヌサンタラの人々の調査を行ったLWC van der Berg によるとそのような裕福なアラブ人は4人しか居なかったそうである。Habib Abdullah はアチェ戦争にも多く献金したことで知られる。 又第1次戦争ではトルコを応援した為イギリス官憲に長く追われることがあった。又1901年にジャカルタで最初の近代イスラム教育機関Jamiatul Kheirを支援し イスラム同盟の理事も勤めた。Heukenの話ではPekojanの旧いAn-Nawirモスクの改修にも力を貸した。1936年80歳台でなくなる。世界恐慌で多くの借金を造り最後はオランダのBank Nilmijに買収されたとあるが結局は国有化されたのであろう。リパブリカ誌のAlwi氏の話であったがこんな細かな話をだれが今頃興味を持つのであろうかと自虐してみた。尚Alaydrusは4月5日のブログのLuar Batangのモスクの開祖も同じ名前である。黒い建物がGajah Mada Plaza。

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