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2008年4月の投稿

2008年4月30日 (水)

PAJ MoojenのNillmijのGrandeur

Nillmij_surabaya
4月26日のブログの続編:ジョグジャカルタのNillmijの事務所はGijselsの設計であるがジャカルタとスラバヤのNillmij事務所はPIETER ADRIAAN JACOBUS MOOJENの設計である。かれPAJ Moojenは何時ぞやのBoplo関連ブログで紹介したことがある。スラバヤ支店の場所はジュンパタンメラー橋の掘割に沿った昔のWillemskadestraat (現在はJl.Jembatan Merah)で隣は同業の生保会社Algemeene Maatschappij voor Levensverzekering en Lijfrenteのこれまた勇壮なオランダ時代の遺産が残っている。現在のこのスラバヤNillmijの建物は砂糖精製会社で最大の精製工場を持つ国営農園会社PTPN Xが使用している。1905年建設で当初のオーナーはアムステルダム貯蓄スラバヤ銀行であったが1910年Nillmijが購入した。1919年設立60周年事業としてこのビルの正面にオランダ製モザイクタイルが張られ今に残っているがこれはNillmijのシンボル化した図案である。
Nillmijの設立者はC.F.W. Wiggers van Kerchemで彼は蘭領インドで最初の一般銀行を設立し又、ジャワ銀行(De Javasche Bank 1863 – 68)の総裁でもあった。

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2008年4月29日 (火)

Nadine Chandrawinataミスインドネシアは未だ挑戦中

Nadine
ダイビングが趣味の2005年ミスインドネシアはRealita, Cinta & Rock n`Rollなどに出演した女優でもあるが、先週シンガポールのダイブ・エクスポを訪れていた。
シンガポール訪問は彼女の著作「NADINE; Labor of Love」のとともにインドネシアの水資源のプロモートの為であった。インドネシアはこのADEXダイビングエクスポで東南スラウエシ、西スマトラ、ゴロンタロ、北スラウエシ、バリ及び南西スラウエシの州が参加、ナーディンは南東スラウエシののワカトビ地区を担当した。
この様にインドネシアは多くのダイビング・サイトを持っているが彼女によるとその水中資源をプロモートするPRが不足しているとしている。又漁獲の為ダイナマイトを使用している漁師のが多いことも心配している。
彼女は1984年にドイツのハノーバーで生まれているが現在年末に広告に関するS-1学士号を採るべく勉学中でもある。2006年ミスユニバースのときの写真は「ジャカルタに生きる」に収録。身長174cmと大柄であるが両親は生粋のインドネシア人のようだ(苗字が同じ貴族系)

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2008年4月28日 (月)

Pintu BesarとPintu Kecir 大門・小門

Pintu_kecir_grodok_044
Pintu Kecirは中国人から良く聞く名前であるがPintu Besarの方が良く通る道である。
コタのガジャマダ通りを上っていくとグロドックの所から真っ直ぐ海岸の方に伸びるのがPintu Besarである。壊れかけたHotel Metropoleを右に見ながら98年のジャカルタ動乱で窓ガラスを壊されたそのままの道を行くと右にコタ駅が現れ左手はBank MandiriとBank IndonesiaのMusiumで其処から更にファタヒラー広場或いはカフェ・バタビアに向かい突き当たりのKunir通りまでがPintu Besar(大門)通りである。現在はBank Indonesia の所から左のカリブサールの方に回され車では真っ直ぐ行けなくなっている。
元に戻ってグロドックの所から左手に入りグルーッと北上して行きカリブサールにでるのがPintu Kecil(小門)通りである。どちらも昔のバタビア城に行く道で, 城はとっくの昔になくなっているのに道の名前は今に残っているのが不思議な気がする。写真はピントクチール(パンチョラン)の奥の左に入る道で同じく通りの名前はピント・クチール。

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2008年4月27日 (日)

ToshibaはオランダJohn Peetに入居

John_peet_toshiba_kota_2008_mar_096
カリブサールにあるこの間一部倒壊したサムドラのビルの横に東芝の名前がでかでかと出て景観を現代の商業主義の世界に引き込まれるビルがあるが、これは東芝が宣伝の為看板を出しているだけかと思ったが東芝が施設として賃貸していることがわかった。この建物は1919年当時のオランダの商業会社John Peet & Co.の為ガイセルが設計したもので正面は5つの柱の区割り(Bay)でこのオープンギャラリーは歩道となっており事務所への熱気を防いでいる。これにより建物は敷地一杯正面に張り出しておりこれは隣の隣のサムドラのコンセプトと同じで、同じ設計者だからである。

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2008年4月26日 (土)

Nillmijとそのジョグジャ支店

Nillmij_jogja
4月17日のブログでAlaydrusの在所を買収したNilmijと書いたが正しくはNillmijで蘭領インドで最初の保険会社で最大手の一つであるが、1910年にバタビア・ジュアンダ通りに本店を建設その後、スラバヤ、スマラン、バンドン、メダンに支店を建設し現在まで残っている一つがGhijselsの設計によるジョグジャカルタ支店である。このジョクジャカルタ支店は1924年にKadasterstraatとNgabeanwegのコーナーにオープンした。支店事務所自体はその1/4程度を使用し他にNetherland Trading SocietyとEscompto 及び不動産会社Buynが夫々自分の玄関を持ち入居するオフイスビルとしたものであった。現在は記念碑的にリノベされBNIが入居しているようだ。NILLMIJとはNederlandsch Indische Levensverzekering en Lijfrente Maatschappijの略で蘭領インド生命保険・年金会社で設立は1859年、現在のジワスラヤ国営生命保険会社の前々身である。写真はR.W.Heringa氏のものでSeram Press社より借用した。

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2008年4月25日 (金)

インドネシアの国有銀行数の変遷とBANK EXPOR

金融危機前まではインドネシアの国営銀行は7行であった。既にこのブログでそれらの出生は伝えたので略称で言うことにすると、BNI、BRI、BDN、BBD、BAPINDO、EXIM、BTNである。この内その名前が残っているのがBNI、BRI、BTNであるがBDN、BBD、BAPINDO、EXIMの4行は1999年合併しBank Mandiriとなった。従いこの時点では4行に減った。
輸出入金融専門に見えたEXIMがなくなったように見えたが、同年政府はBank Expor Indonesai(BEI)を設立しているので5行が正解である。但しBank Exporは預金を受け入れないので商業銀行ではない。 EXIMはその名前と異なり他の銀行と同じ商業銀行となっており、本来の政策金融は中央銀行たるBIが行ってきたがこれを分離独立させたのがBEIであり、その発足には日本のEXIM(現在のJBIC)の10億ドルの融資の存在が大きく貢献した。
今、中銀は銀行部門の再編強化構想(API)を持っておりこれら少なくとも4行は更に1行に統合されるのであろうか Bank Exporの本社はジャカルタ証券取引所ビル(Gedung Bursa Efek Jakarta:Menara II Lantai 8,Jl. Jend. Sudirman, Kav 52-53 Phone : (6221) 515 4638)である。恥ずかしながらこの銀行の名前は完全に失念していた。それだけビジネスマンの言の葉にでないのかあるいは?

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2008年4月24日 (木)

UKI Diponegoro はオランダ時代のクリスチアン学校

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サレンバのUIの正面にはいくつかの別の大学があるがその中のオランダ時代の古い建物の学校がUniversitas Kristen Indonesia(UKI)である。この建物は設計家ガイセルスの設計で1927年に建築されたクリスチアン系教育機関のコンプレックスである。コンプレックスと言うのはいくつかの教育機関が同居しているもので真ん中の2階部分がオランダ教員訓練カレッジで両サイドに対照的に広がる一階部分はクリスチアンMULOスクールと一般中等学校であった。裏に広い校庭がある。UKIはチャワンにある方が本校でここは法学部らしい。 どちらもデモで有名である。

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2008年4月23日 (水)

ラーマヤナとNUのエッチ度

Rama_nov_027
2月のブログにスナヤンのラーマヤナのラーマ王を乗せたが以下はこの像を見たおばさん二人の会話でナフダトゥールウラマのホームペイジにあった。(  )は意訳のみ
Muslimat A: "Patungnya itu kok besar banget ya?" (この像、まあなんて大きいいのでしょう)
Muslimat B: "Iya, gede banget. Kira-kira gede mana dengan patung di dekatnya Ka'bah pada zaman jahilah dulu ya?" (いやぁ大きいね 昔のカバ神殿の近くの像と同じくらい大きいかな)
Muslimat A: "Bu-bu, pertanyaanmu kok sulit banget. Kalau saya sih mikirnya patung itu laki-laki apa perempuan, hehehe?"(あんたの質問は難しいわ 私なんかこの像が男かしら女かしらと考えているのに (照れ笑い)
Muslimat B: "Walah, kalau cuma pengen ngerti laki-laki apa pempuan sih gampang. Coba aja diraba. Gampang kan?" !!!??(まあ!男か女か知りたければ簡単よ さすってみるだけよ 簡単でしょう?)
宗教団体のホームペイジまでインドネシアらしくて嬉しくなる話だ。ところでこのラーマの話がラーマーヤナであるがなんとなく現代でも耳にする名前(登場人物)を紹介するだけでラーマヤナの大筋の話はわかる。
•ラーマ:ラヴァーナの討伐の為ウイシュヌ神がダシャラタ王に授けた王子
•ラクシュマナ:ダシャラタ王とスミトーラ妃との間の息子、ラーマの腹違いの弟でラーマに忠実に仕える。
•シーター:ラーマの妻、ダンダカの森でラーヴァナに誘拐され居城ランカー島に連れ去られる。シンタとも。
•バラタ: ダシャラタ王とカイケーイー妃との間の息子、ラーマの腹違いの弟で、侍女の姦計でラーマをダンダカの森に追放し即位する。
•ハヌマーン:猿族ヴァナラ族で主要なヴァナラの一人で風神ヴァーユの子、空を飛び、シーターがランカ島にいるのを見つけ救出の戦いにラーマを助ける。
•ラヴァーナ:羅刹の王、ランカー島に居住
•カラ:ラーヴァナの弟。ダンダカの森でラーマに倒される
•ガルダ:鳥族、ラーマ軍の危機を助けに現れる
•マリーチャ:ダンダカの森で美しい鹿に変化し、ラーマとラクシュマナを誘い出して、シーターの誘拐を助けた
写真は正門の方でさすられた方は2月のブログを御覧下さい。

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2008年4月21日 (月)

ゴールドマインはまだどこかに

英国のArchipelago Resources社は2009年までに保有金鉱山の採鉱を始める。この金鉱山は北スラウエシにあり埋蔵量は1百万オンスと言うから小売市場値で言えば10億ドルか
インドネシアは金、錫、銅、ニッケルの世界的資源国であるが国際資本の呼び込みには法的不確実性や汚職、行政怠慢、土地問題などで二の足を踏んでいる。昨年米国のNewmont Mining Corpは汚水処理問題で長引いた調査や法的紛争に明け暮れた。鉱山部門の経済成長率は2%に過ぎない。因みにインドネシアは世界第9位、パプアは第10位の産出国で産出量は1位の南アの341,485kgに対し92,936kg(世界シェアー3%)である。
スハルトの末期にカナダの鉱山会社が最大級の金鉱山発見のニュースで揺れ、一人が不思議な死亡を遂げた事件があった。インドネシアは何か冒険心をかき立たせるものがある。インドマルコのインドネシア・ニュース配信で4月15日に下記があった。
豪Oxiana、マルタベ(北スラウェシ)に金銀生産ファシリティ建設計画、投資3.1億ドル

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2008年4月20日 (日)

KAIのラッフルズ・スクウエアー

Kreta_api_kantor_juanda
ジュアンダ通りの端からパッサールバルーのゴルフ店に行くときその入り口の左端は大きな古い建物があったがいつの間にか取り壊されていた。 次に見に行くと細い柱と薄い床板が見え何か建設中であった。その次に見にいくと其処にはRaffles Squarerなる看板があり、どうもこの土地の所有者インドネシア国鉄(今はPT KERETA API (Persero))は商業主義に走り、モールでも作っているようだ。Raffles Square と言えば上海にある高層(49F)高級ショッピング・オフイスビルなのでどうせ負けに決まっている。アクセスと駐車場が問題であるがポイント開発は失敗に終わるだろう。この生前のビルはなんとなく趣があり、オランダ時代に繋がるものと思われるが何だったのだろうか?市の保護施設指定を免れて国鉄の予約センターなどに使用されていた時代は知っているが。。この表側の写真は「インドネシア企業経営」の2003年3月号表紙にある。

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2008年4月19日 (土)

RT5/RW3ダンドゥットのコタ・インタン橋

Jembatan_kota_intan_1
カリ・ブサール・バラットのバタビア・ホテル前に掛かる橋はオランダの吊橋Jembatan Jungkit.に似て観光名所になっているがこの橋の名前はJembatan Kota Intanとも謂われる。ここからバタビア城に行けるためでもありバタビア城がBenten Intanと呼ばれていたからである。オランダがここに橋は掛けたのは1628年で大運河の東(オランダ側)と西(旧イギリス側)を繋ぐものであった。従い最初の名前はイギリス橋であったがその後バタビアの中心でJembatan Pusat、そのあと鶏市で賑わいJembatan Pasar Ayam、1938年にはJembatan Ratu Juliana(Pphaalsburg Juliana)と変ってきた歴史がある。
又80年代だったろうかダンドゥットでRT5 RW3というのがあったが、その中にKota Intanが出ていた。 ……No10 Nomornya rumahku ..jl.cinta.. naik saja bis kota jurusan kota intan.. kalo kamu tak keliruu……

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2008年4月18日 (金)

ジャヤ師団の編成と軍国の香り 

Kodam_jaya_2008_mar_02
ジャヤ師団では先般チリリタンのストヨ少将通りのジャヤ師団本部においてその第51ウイージャヤカルタ連隊司令官、第52ウイージャヤクラマ連隊司令官およびジャヤ師団憲兵隊司令官の軍務任命式を行った。執り行ったのはジャヤ・ジャヤカルタ査察総監、国軍少将スルヨ・プラボウオ少将である。
1) ジャカルタの第1守備隊参謀長となるアヴィアント・サントノ大佐の第51連隊長の職は現在陸軍参謀第1作戦計画第1補助参謀であったモハマッド・ナッシール大佐に引き継がれる。
2) 共和国陸軍教育訓練局長となるルードワイク・フレデリック・パウルス大佐の第52連隊長の職は現在陸軍参謀長副官長であるソニー・ウイジャヤ大佐。へ引き継がれる。
3) 共和国陸軍憲兵教育訓練センター司令官になるイラン・シャプディン大佐のジャヤ憲兵隊長の職は現在タンジュン・プラ・第6師団憲兵司令官であったドディック・ウイジャナコ大佐が引き継ぐ。
ジャヤ師団は二つの連隊がありその一つは第51/ウイジャヤカルタ連隊は四つの大隊、第0504大隊(南ジャカルタ)、第0505大隊(東ジャカルタ)、第0507大隊(ブカシ)、第0508大隊(デポック)を擁し後一つ第52ウイージャヤクラマ連隊は三つの大隊、第0502大隊(北ジャカルタ)、第0503大隊(西ジャカルタ)及び第0506大隊(タンゲラン)である。
中央ジャカルタを守備する第0501大隊は独立している。
ジャヤ師団は配下に攻撃部隊と補助部隊、すなわちジャヤサクティ首都防衛第1歩兵旅団、ファラテハン空挺砲兵第1連隊、第7特別装甲車両騎兵大隊、第7地域砲兵旅団と第3攻撃工科分遣隊を持っている。強そうなジャヤ師団の軍国の香りを嗅いで下さい。

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2008年4月17日 (木)

Alaydrus通りの謂われ

Gajah_mada_plaza
コタに向かってガジャマダ通りをいくとGajah Mada Plazaの横に左手に曲がる道が昔クタパン今はZainul Arifin 通りである其処まで行かずその一つ前の左手に曲がる道がJl.Kh.Hasyim Ashari通りでこの二つの通りの間にあるのがAlaydrus 通りである。現在は事務所と商店が軒を連ねているが昔は多くの人が住む住宅地であった。名前はArydrus Laanであった。Laanと言うのは車では一寸難しいGangより少し広い道のことである。ここに小生の友人の華僑の事務所があったのでここの道の謂れを調べてみた。
昔ここにHabib Abdullah bin Husein Alaydrus という人が住んでいたそうである。彼はここの倉庫や家々すべてを保有しJl Gajah Madaを含め、Jatipetamburanに11,5 haの土地と建物を所有し、その地区には又 Husein Laan やIsmail Laanという名前の道があったそうである。
養息子のHabib Abubakar Alaydrus 翁の話ではAlaydrus通りに80戸の建物、Gajah Mada通りに25戸を保有していた。この家賃収入で月あたり12,000グルデンを得ていた。当時の相場では米100kgの俵Karungで7.5グルデンであった。彼はその管理のためBouwmatchappij Abdullah bin Husein Alaydrusを設立した。ヌサンタラの人々の調査を行ったLWC van der Berg によるとそのような裕福なアラブ人は4人しか居なかったそうである。Habib Abdullah はアチェ戦争にも多く献金したことで知られる。 又第1次戦争ではトルコを応援した為イギリス官憲に長く追われることがあった。又1901年にジャカルタで最初の近代イスラム教育機関Jamiatul Kheirを支援し イスラム同盟の理事も勤めた。Heukenの話ではPekojanの旧いAn-Nawirモスクの改修にも力を貸した。1936年80歳台でなくなる。世界恐慌で多くの借金を造り最後はオランダのBank Nilmijに買収されたとあるが結局は国有化されたのであろう。リパブリカ誌のAlwi氏の話であったがこんな細かな話をだれが今頃興味を持つのであろうかと自虐してみた。尚Alaydrusは4月5日のブログのLuar Batangのモスクの開祖も同じ名前である。黒い建物がGajah Mada Plaza。

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2008年4月16日 (水)

3月の投資環境トピックス・ニュース


* 今年の自動車販売52万台、輸出倍増目指す:業者協会。
* イ経営者協会全国会議:大統領が法人税最高税率の段階的引き下げ案
* フィリピンで訓練されたジェマ・イスラミアのイ人約300人が帰国のもよう:警察長官。
* 対日LNG輸出、日本の電力会社6社と2011年以降段階的に輸出量削減で合意
* 事業統合/合併会社への税便宜、必ず黒字が条件:財務相令。所得税率10%の措置。
* ガルーダ航空、6月より名古屋~デンパサール便再開へ。週3便運航予定。
* 国連安保理でのイラン制裁決議:非常任理事国のインドネシアが唯一の棄権票投じる。
* 大気汚染と犯罪で住みにくい:ECA。254都市中ジャカルタ190位、スラバヤは212位。

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2008年4月15日 (火)

インドネシア最初のガス灯・クタパン

Ketapan_luar_batan_jatinegara_013
こんなところに政府の機関がと不審に思うKetapangにGas Negaraがある。
Ketapangとは今はガジャマダ通りの裏側のJl. Kh. Zainul Arifinである。バタビアの公共ガス事業は早くも1859年に開始されている。オランダ政庁は民間のデンハーグのL.J.N Einhoven & Coに委託しガスを供給した。この蘭印ガス会社がこのKetapangにあったのである。これも1958年国有化の波に洗われ、面々と続いて現在の国営上場企業PT Perusahaan .Gas Negara(PGN)でLNGのDistoribution/ transmissionを担当している。又増大するガス需要に対応する為スマトラとジャワに3ケ所のターミナル建設(総額18億ドル)を計画している。

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2008年4月13日 (日)

Trounojoyo通りの警察機動隊?

テベットの方からブロックエムに向かう時、マンパンからテンデアンに道を取るがこの道を更に西に走るとウォルターモンギシディ通りでここは最近韓国料理店など多くの洒落た店がオープンしている賑やかな通りがある。
Brimob_sep07
ここを過ぎると最初の信号でKepolneg Brimob(警察機動隊)を右手に越える所から、トルノジョヨ通りとなる。更に次の信号でMabak POLRI(国警本部)を右に迎えて最後ASEANセンターである。国警本部のガジャマダの像は既にブログで触れたが対面する警察機動隊の方にも誰かの銅像があるが未だ怖くて読んでいない。通りの名前のトルノージョヨのは、マタラム王国のアマンクラット1世の暴政にマジャパヒットの末裔と称し1674年反乱を起こした。反乱軍の勢いは強く、又マカッサルの海賊の反オランダ精神から応援に参戦するものが多く1677年クディリを都と定め更にマタラムの当時の都ブレレッドも占領した。 1678年になるとオランダ政庁はついで即位したアマンクラット2世の求めに応じ有利な条約と引き換えに制圧に出てきたため、反乱軍はクディリを捨て、逃亡、トルノージョヨも1682年山中で捕らえられ処刑された。この逮捕をやったのが先のブログのカプテン・ヨンケルである。

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2008年4月12日 (土)

スカルノ・ハッタ飛行場の代替アクセス

Daan_mogot_cengkareng
日本に帰ってきた日は朝から晴天、その前の日も日中はかんかん照りであったが夜は雷雨激しく帰国日が心配されたが、その通り夕方から雨となった。飛行場に着いてからは雨も止み、前回同様ジャカルタ市のネオンを見ながらテイクオフできた。既に雨季も去らんとしているのでジャカルタと飛行場のアクセスで洪水の心配は要らないと思うが滞在中に一度調べてみたことがある。但し道は細く渋滞この上もないことを覚悟しなければならない。
一般にはメラック高速でセルポンからタムリン通りを北上するか、カラワチからイマム・ボンジョールを北上する方法がある。タムリン通りはスディルマン通りとなりダーンモゴットを突き抜けプンバングナンIII通りからマルセカル・スルヤダルマに出て飛行場の裏手に出る道である。イマムボンジョルも北上したあとスルヤダルマに向かう点では同じであるが小生はダーンモゴット通りに出てから右手に取りハリム・プルダナクスマ通りから北上し
フセン・サストラネガラから飛行場の前の最後のTollgateに出る道がある。成田からは京成電車で差し込む陽光と桜を楽しみながら家に戻れたことは嬉しいことであった。写真はダーンモゴット通り、左手に取るとハリム通りとなり飛行場に北上する。

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2008年4月11日 (金)

Masjid Angkeベタウイ ウラマの勝利のシンボル

Angke
Tubagus Angke通りにあるMasjid Angke Al Anwar は 早く1931年に記念建造物指定を受けている。勿論イ政府も1972年に保護施設として指定している。このモスクは1761年4月2日に建造された。オランダのDehaan博士はその著書でこのモスクはタタールの中国女性がバンテンの皇子に 嫁いでこのモスクを建立したと紹介している。モスクの裏に幾つか墓がありなかんずく、 Syarif Hamid Al Qadriはポンティアナックのスルタンで、1800年代にオランダによりバタビアに連れてこられイスラムの教えを説いた。1854年になくなる。このモスクは土地200m2の上に 15 x 15 m2 と言う小さなものであるが建物には古代バンテン風とチナやヒンドゥの香りが残っている。
このモスクの名前は通りの名前のTubagus Angkeからきているのではない。近くを流れるカリ・アンケ河の名前から来ておりが河の名前自体が、1740年10月9日の中国人虐殺事件での死体が捨てられその地で河の色が赤く(AngkeはHokkianで赤の意)なったところから来ている。河の色は今は黒色である。
Tubagus Angkeはジャテネガラ・カウムで登場させたJayawikartaの父親のようである。また
ここにはJayawikartaの尊敬した助言者Wijayakusuma皇子の墓がある。
このモスクも独立戦争時代はアンケの青年団の闘争の拠点であったが 隣Sawah Lioのアルマンシュールモスク程 傷付けられることは無かった。

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2008年4月10日 (木)

Jayawikarta・Wijayakarta の正体

4月4日のブログの続きであるが、UI大学のSlamat Muliana教授がジャカルタの地名の発祥をファタヒラーのJayakartaでなく、その勝利の後スンダクラパを支配したバンテン王国の3代目の支配者であるJayawikarta(若しくはWijayakarta)皇子であるとしている。かれはスンダクラパのチリウン河 西側に砦を築き先に1610年にチリウン川東側に木造倉庫建設を認めていたオランダの動きを監視していた。クーンは1613年にこれを石造りに変え更に1618年には砦にした。Jayawikartaはこれに対抗させる為彼の砦兼税関(Pabean)の近くにイギリスにも施設の保有を認めた。その後が蘭英大海戦(既報)となり、クーンの勝利でこの地がバタビアとなるのである。この地を追われたJayawikartaは王族の地バンテンに戻りその地のKampong Katengahanに埋葬されたが、別の伝説ではJatinegara Kaumに拠点を築きVOCを攻撃し続けたとある。 彼はTubagus Ankeの息子であり、又前回登場したPurbaya皇子やSanghyangの曾祖父である


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2008年4月 9日 (水)

チナ・ベンテン?は禁句

Tangerang_kinkou
良く耳にするが中国人の中でもタンゲランに住む人々を呼称する非公式名称である。一般的にチナ・ベンテンの人々は、農民、漁師、畜産を営み・・下流で貧しい豚などと蔑まれていた。中国人社会としては旧く、最初から中国語を下敷きにしたマレー語を使い、他の中国人社会とは異質で現地のプリブミ住民に似た特質を持っている。これは中国人と住民との間の既に300年以上の混血のせいである。中国人かと思うとプリブミでプリブミかと言えば中国人"terlalu Pribumi kalau dikatakan sebagai orang Tionghoa dan terlalu Tionghoa kalau dikatakan sebagai orang Pribumi", なとと言われる。
ここでは住民間の文化や信仰のタブーが衝突することなく自然に平和に混交し、衣装、料理舞踊などに豊かな文化が見られる。この文化の交流はタンゲランの文化資産でありタンゲランの青年達はPecun と言う龍の船の競争祭りのようなチサダネ・フェスティバルを実施している。またCap Go Meh(旧暦正月の明け)でもタンゲラン青年団の応援で毎年祝っている。タンゲランの華僑の方も多く実業に成功しており、今やこの言葉は禁句であろう。

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2008年4月 8日 (火)

Si PitungやSi Jampangはマルンダの義賊

Marunda_sep307_019
19世紀の終わり頃、マルンダでオランダの徴税官の横暴から農民を守ったSiJampangは義賊として伝説で残っている。オランダと戦い最後は騙され殺害された。Heukenn 氏は彼の墓がこの地にあるはずであったとして探したが判らなかったそうである。但しもっと有名なSi Pitungという義賊もおり、彼の家はムージアムとなっているそうでマルンダの沖合いの島に高潮から守るため打ち込まれたパイルの上の家である。マルンダの先は工業団地になっておりそれを抜けると湾岸にでる。其処から沖に島がみえたがそこまでで諦めた。一陣の風にカラカラの埠頭は真っ白い砂嵐に襲われた日であった。良く似たSiJagurはジャカルタ歴史博物館に横たわる旧いポルトガルのキャノンの名前である。

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2008年4月 7日 (月)

マルンダのKapten Jonker

17世紀の終わりにかけてインド・セイロン・マカッサル・スマトラ・バンテンでVOCのために戦い又一時マタラムのススフナン・アマンクラット2世のボディガードもやったCaptain Jonkerはその功績でマルンダの地を与えられた。歴史に残る最大の功績は1679年にジャワで暴れたトルノージョヨをトルートの山(アンジャスマラ山の近く)に追い詰め降伏せしめたことである。アマンクラット2世はVOCのスペールマンと条約を結びVOCの応援を依頼したもので、ヨンケルはスペールマン軍の隊長であった。アンボン出身者である彼はアンボニーズの入植者と共にマルンダにの地に住んだが、1681年に蘭印協議会のメンバーのDeSt.Martinの裏切りで殺されている。 この頃はJonkerはオランダへの反乱を企てたのだろうか。Jatinegara Kaumの解説で一寸顔をだす。
Tuguの近くのカンプン・マンガにSumur Jonkeran と言う聖なる井戸があったというが今は何の気配もない。

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2008年4月 6日 (日)

BNIとBIはどっちが先

Bni_kota
Bank Negara Indonesia 1946 (BNI)は1946年に設立されたインドネシア政府が作った最初の銀行である。この時点では独立間もないインドネシア政府は中央銀行を構想したものである。1946年10月30日設立後数ケ月でインドネシア共和国の公式通貨(ORI)を発行したこの日は国家通貨の日となり、また設立の日7月5日は国立銀行の日として記念されている。 1953年設立の中央銀行たるBank Indonesiaが軌道にのったあと1955年増資が行われ、政府が保有する商業銀行としての位置づけとなった。BIについては2月28日のブログがある。
1968年からBank Negara Indonesia 1946が正式の名前となったが1998年名称から1946を削除し単にBNIと元に戻ったがロゴには今も1946年が入っている。ロゴ入り看板は検察庁前にでかでかとあったが。。写真はコタの旧本社(現在の本社はSudiruman No.1 の万年筆型ビル)である。

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2008年4月 5日 (土)

Luar Batangの最古のモスク

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スンダクラパの昔のパッサールイカンの一つ入り江の向うの村がLuar Batangである。ここにSayid Husseinの墓があり、多くの人が各地から参詣にきているが、かれはムハマッドの子孫で高名なSayid Hussein bin Abubakar bin Ardullah bin al Aydrusと言う人でジャワ島の北海岸の諸都市に布教をおこなった。彼は1756年(or 1798年説)に死亡、Mesjidの外側に葬られたが、後にこのモスクが拡張され1827年には内部になったという。この教会自体は1739年に建立されたというのでインドネシアでは一番旧いモスクになる。ここに参詣に来た人は小銭をポケットにわんさと準備し、帰り際に密集する子供達を押しのける為この小銭をなげる。空中高く飛ばされた小銭に飛びつき地面を転げるコインを追っかけ集団が埃を立てて取り合う様はひどいものである。
小生も出てきたときしつこく付き纏われ、車の窓から投げたが何時までも追っかけられたこの執念には度肝を抜かれたことだった。

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2008年4月 4日 (金)

Jatinegara Kaum

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プロガドン郡ジャティネガラ・カウム村でカウムとはスンダ語でムスリムが治める村の意味である。Jatinegaraが地名で現われるのは1665年のVOCの日誌で バンテン王国のPurbaya皇子にこの地を治めさせたというのが始まりである。Purbaya と言うのはバンテンの内紛で、1682年息子のハジ皇子にVOCの援助で王冠を奪われたスルタン・アゲン・チルタヤサのあと一人の息子である。
その後Purbayaは他のSangiangやSake皇子と共にバタビア城に連れてこられた後、バタビアの郊外地に移された。ジャティネガラを治めたのはSangiangであるが、Kapten Jonkerの反乱に組した廉で支配権を奪われた。その後のジャテネガラ村長はLuarbatanのSurawinataに移った。とDKIの資料にはあるが3月27日と28日のブログに登場させたJayawikartaの名前は出てこない。Jayawikartaはここに登場したバンテン一族の数代前で1619年にクーン総督にジャカルタを追われた王家の一人(スルタン・バンテンの家臣で多分部族的にはスンダ人か?)で彼の流れの人々がVOCに組したり、抗したりしこの地に住んだというのが省略されているようだ。
Surawinataもバンテンの王族の流れで、Sanghyangがセイロンに流されたあと1689年後を次いだ者でSanghyangの信頼できる部下であった。その孫Mas Achmat(Jaketra)が現在のJateinegara Kaumの人々の先祖であるようだ。写真はJatinegara Kaum通りで撮った鬱蒼たる竹林の施設である。

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2008年4月 2日 (水)

Geo Wehry他5大商社の国有化

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1950年代末のオランダ企業の国有化はニューギニア問題が拗れた後のスカルノの
強硬政策で大国を向うに回した一連の活動はインドネシアの国際的地位をいやがうえにも高めた、スカルノは精力的に日本やワシントンにも飛びワシントンではNational Press Clubで大演説で記者総立ちの大拍手を受けた。対蘭強硬措置発動で共産党の組合SOBSIは組合員・農民にオランダ企業の接収を司令しRoyal Packet Service Co. (K.P.M.) や the Netherlands Handelsbankを接収したその中にJacobson van den Bergもあった。1958年の国有化は事後的な法律とも言える。Jacobsonの他、5大商社と言われたのは以下の通りである。(  )内は国有化後の会社名
Borsumij :正式にはNVBorneo Sumatra Handel Maatshappij() (Budi Bhakti)
Internatio (Satya Negara->Aneka Bhakti)
Jacobson (Fajar Bhakti)
Lindeteves (Tulus Bhakti)
GeoWehry (MegaBhakti)
最後のGeo Wehryジョー・ウエーリーは現在のWayang / Puppet museumを倉庫としていたそうであるのでその改装なった遠景を掲げる。Geo Wehryは1860年設立である。

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2008年4月 1日 (火)

Anglican Churchと蘭英の戦い

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Hyatt Hotel Aryadutaの真向かい、森があり入り口が小さく引っ込んでいるのでなかなかわかりずらいがここにAnglican Chaurchがあり1829年以来ロンドンの宣教協会がここ中国人への布教の拠点となってきた教会である。オリジナルは玄関、聖壇、聖所(Chancel、sanctuary)にのみ残っているそうであるがここに二つの英国人の墓がある。一つは壁にはめ込まれているがJames Bowerと言う人で国王軍フェニックス号の船長で1812年Sambasseでの海賊との戦いが元での病気でなくなったと記されている。後一つは裏庭の墓地にあるWilliam Campbellと言う人の墓でこの人は1811年コルネリス(今のジャティネガラ)での英仏守備軍への攻撃戦でなくなった人である。オランダと英国の戦いは1619年のJ.Pクーンとのジャカルタ大海戦、1684年バンテンの内紛に乗じたオランダとの戦い、1811年のAmuel Auchmuty将軍のチリンチン上陸―ジャティネガラ勝利戦―>ラッフルズの時代の3回ある。イギリスが残したものは車の左通行である。写真は阿部さんのものを一つお借りした。

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