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2008年4月10日 (木)

Jayawikarta・Wijayakarta の正体

4月4日のブログの続きであるが、UI大学のSlamat Muliana教授がジャカルタの地名の発祥をファタヒラーのJayakartaでなく、その勝利の後スンダクラパを支配したバンテン王国の3代目の支配者であるJayawikarta(若しくはWijayakarta)皇子であるとしている。かれはスンダクラパのチリウン河 西側に砦を築き先に1610年にチリウン川東側に木造倉庫建設を認めていたオランダの動きを監視していた。クーンは1613年にこれを石造りに変え更に1618年には砦にした。Jayawikartaはこれに対抗させる為彼の砦兼税関(Pabean)の近くにイギリスにも施設の保有を認めた。その後が蘭英大海戦(既報)となり、クーンの勝利でこの地がバタビアとなるのである。この地を追われたJayawikartaは王族の地バンテンに戻りその地のKampong Katengahanに埋葬されたが、別の伝説ではJatinegara Kaumに拠点を築きVOCを攻撃し続けたとある。 彼はTubagus Ankeの息子であり、又前回登場したPurbaya皇子やSanghyangの曾祖父である


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