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2008年5月の投稿

2008年5月31日 (土)

Gereja Ayamのネオ・ロマネスク

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ずっと以前2006年12月13日のブログのGereja Ayamの続きである。場所はパッサールバルー、ピントゥブシー、サマンフディ通りに面したオレンジ色の大きな教会で屋根に風見鶏があるからGereja Ayamと言われるがオランダ語でも同じ意味のHAANTJES KERKであるので相当昔からそう呼ばれていた。ところがAyamと言われる所以は本当は正面の丸いステンドグラスの模様であるからかも知れない。
これは車輪窓(Rosette)と言うのであろうか軸の丸窓を囲む六つの丸窓の合計7つの丸窓で構成された車輪状のステンドグラスで夫々にバイブルからのシンボルのデザイン絵が描かれている。真ん中が鶏で時計の12時の所が鳩、2時がペリカン、4時がバイブル、6時が錨、8時が船、10時が百合の花である。正面に三つのアーク状門があり真ん中の大きな方が入り口、左右二つは塔屋への入り口のようである。
ピンク・オレンジ色が青空に映えて一瞬目を見張る建築でネオ・ロマネスク調のデザインはCuypers and Hulswit 設計事務所のHulswitである。

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2008年5月30日 (金)

インドネシアBRIMICsへ

27日インドネシア地方投資フォーラムが開催され経営コンサルタント大前氏が講演、規模と潜在性では明るい見通しだが対外的イメージが悪くインドネシア自身がBRIICsの概念を世界に訴えていくべきとエールをおくったとジャカルタ新聞が報じている。
同じ日、豪州のシンクタンクでも世界は今インドネシアに対するイメージをブラジル、インド、メキシコと同じ中産国として普通の国としてのイメージにアップデートするべきときだとしている。BRICsの概念はGoldman Sachs のJim O'Neill エコノミストであるがBRICsに続くNext 11として2005年にBangladesh, Egypt, Indonesia, Iran, Mexico, Nigeria, Pakistan, the Philippines, South Korea, Turkey 及び Vietnam. を上げている。彼は若し今それをディスカスするとなるとBRICsの仲間入りするのはメキシコかもしれないがインドネシアもその直ぐ側にいるとコメント、偶々Bloombergもこれらの他に香港のFranklin Templeton Investments.やLehman Brothers Holdings Inc.も時を同じくしてインドネシアの再評価をぶち上げている。結論つけて言えばBRIMICsとなろうか。

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2008年5月29日 (木)

スカルノハッタ空港にもA-380飛来 

先の5月20日台風接近中の日本に初就航したA-380であるが、これがジャカルタにも来るような報道があった。スカルノハッタ空港は2400mの滑走路2本でスタートしたはずであるが現在は3660mと3,600mになっており更に4,000mの滑走路とそのターミナル3を建設中で今年12月には完成する。4,000m以上あればA-380も受け入れの準備が出来るという話である。4,000mの滑走路は日本では成田、関西、中部だけで、成田はあと一本が2,180mでこれを2,500mに拡張中と言う程度だからスカルノハッタは凄いことになる。

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2008年5月28日 (水)

モノレールは民間事業としては挫折

先週ファウジボウヲ知事は世銀のLavia財務官と会談し2007年には完工してた筈のMonorail Projectについて協議したが、世銀側の見方は現在の民間営利事業としての推進では大きな損失となる見込みでファイージビリティはなく融資には応じられないと拒絶したそうである。世銀の調査によれば民間では出来ないので官100%でやるしかないと言う結論で、民間推進派がこの実現不可能なものを高く売りつけようとしているのに目を晦まさないようにとの注文である。
会社側の財務担当のダイレクターは平均し32万の」乗客が確保できればフィージブルト強気である。市の土地利用許可さえ取れれば未だ中近東の投資家は居ると自身を持っている。ファウジーは未だ手垢が汚れてないようでこの推進の中核会社PT Jakarta Monorail.からテークオーバーしバペパム(国家開発計画庁)の手に移したいようである。どうなろうとユスフカラは又太るのであろうか

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2008年5月27日 (火)

スカルノの独立記念演説

スカルノは若い時代よりその弁舌で多くの信奉者を得てリーダーとして伸してきた。独立戦争期、議会制民主主義の時代は表舞台から少し外れていた感があるが国内治安、地方の反乱以降生来の文学才能を発揮して独立宣言では美辞麗句をつらねて国民を煽ってきた。
1958年 挑戦の年
1959年 我が革命の再発見
1960年 天使が空から攻撃するように(我が革命の展開)
アンペラ(Amanat Penderitaan Rakyat):国民の苦悩の声
1961年 Re(solusi)So(sialisme)Pim(Pimpin)革命・社会主義・民族指導、
       インドネシア民族は今RIL:革命(R)・イデオロギー(I)・リーダー(L)を持った。
1962年  オランダに対する勝利の年宣言 (西イリアン)
1963年  インドネシア革命の鐘がなる 
1964年 Tavip: 危機を生き抜く タフン・ヴィブレ・ペリコローソ
1965年   昏倒治療中?
1966年   歴史を離脱するな
独立宣言記念演説以外にもナサコム・マニポル・ウズデックなどのスローガンを多用しバランス感覚を失ったのであろうか

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2008年5月26日 (月)

現金支給でも貧困者増

貧乏人に対する現金補助が始まった。先に従来の補助金対象の石油燃料の値上げに対する貧困者に対する現金による支援(BLT)である。政府はこの23日から平均28.7%の値上げを実施した。ガソリンはRp4,500からRp6,000(33%up)、ディーゼルオイルがRp4,300 からRp5,500へ、又ケロシンがRp2,000 から Rp2,500.となった。
貧困者に対する現金支給は各地の郵便局で登録済み貧困家庭に対し月額Rp100,000を支給することになり、最初の日の23日、副大統領とジャカルタ市長は連れ立ってクマヨラン郵便局の支給現場に赴いて実施状況をモニターした。
一方では学生が反対のデモを繰り出して100名強が逮捕されたが、大きな動きとはならず乗り切ったのであろう。ユドヨノ政権は2005年にも平均125%もの値上げをしておりその際も何とか乗り切ったのには驚いたが原油の問題はどうにもならないと諦めがあるのであろう。値上げを抑えその分を生産者に補助する方式では貧乏人だけでなく金持ちが得をするとして貧困者のみに補助が行く点では優れているのであろうが貧困者の定義も難しいし、支給の手間が大変であろう。カラ副大統領は集まった貧困者との対話を行いこの現金はむしろ福祉の改善に役立てるものだとしている。
値上げ分の補填と紐付いたものではなく従い18ケ月間のみ支給される。貧困家庭は19.1百万人で合計14.7兆となるそうである。(これは今年5月から12月までの予算の如し) 尚前回2005年10月も同じ方式であったが貧困家庭は15.6百万であった。前回も福祉の向上を願ったのであろうがこれを見る限り貧困者は増えている。

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2008年5月25日 (日)

De Kock大将は3度顔を出す

歴史書などで3度も名前が出てきたのでここで纏めておくとデ・コック大将はダーンデスル総督の時代に陸海軍編成のためにボイスケス少将と共に協力したことがあるがこの時代は1809年ごろで大佐であった。1825年デポネゴロ戦争のときは大将に昇進しており、征服した地にベンテン(砦)をきずきその点と他の点を結び征服地を拡大していくベンテン戦法を編み出した。この戦争は多額の戦費を必要とし総督デ・ビュス・デ・ヒシニースは反対であったが副総督でも合ったコック大将は本国から3,000の兵も得てデポネゴロ戦を平定できた。又ジャカルタの大伽藍の場所はデ・コック大将の邸宅であったが、デ・ビュス総督の依頼によりこれを売却したとある。
ベンテン戦法は1890年代後に総督ともなるヴァン・ヒュースの簡易誓約書に取って代わられる。

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2008年5月24日 (土)

VincentiusはPanti Asuhan孤児院

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クラマット・ラヤ通りを上っていくと緑に包まれた趣のある建物に出会った。塀の内側に看板が立っておりPanti Asuhan St.Vincentiusとある。塀の隙間から覗くだけであったが静かな佇まいで男の子の孤児院とは思われない。この孤児院は150年の歴史があるカトリック系の孤児院である。1855年Vincentius 財団の設立、1856年UrsulaのほうがNordvijkに最初のウルスラ女学校を開校している。この土地に移ったのは1910年で建設は1915年設計家Ed.Cuypers、 M.J. Hulswit  及び A.A. Fermontの手による “indische“のネオクラシックなデザインで換気窓に特徴がある。現在は2階が320名の寝室で裏側に学校もある。(Jl. Kramat Raya no. 134 Tel:3909882)


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2008年5月23日 (金)

Ali Sadikinアリサディキン逝く

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インドネシアの民族覚醒100周年、スハルト退陣10周年の21日、元ジャカルタ市長アリ・サディキンが逝った。1927年7月生まれであるので数え81歳、病気を患いシンガポールの病院で療養中であった。国葬に値するこの男はハッタと同じTanah Kesirを墓地と選んだ。多くの人々に愛され惜しまれた死であったが、それは人々の生活感情に立った不屈の一貫した信念で多くの決断をしてきたからである。小生のブログには昨年7月25日「Ali Sadikin市長にこんなにも功績が」として紹介している。「ジャカルタ市のオランダ時代の旧建物等の保存、公園、博物館に意を尽くしたことで、小生のブログにもよく名前の出るアリ・サディキンH. Ali Sadikin元ジャカルタ市長を紹介しておこう。退役海軍中将(Letnan Jenderal TNI KKO-AL )だけあってスマートさを感じさせる。KKOとは海兵のKorp Komandoである。1927年7月7日生まれの80歳でJI. Borobudur No. 2 でご健在である。今までにBintang Mahaputera Adipradanaを叙勲(Tanda Kehormatan)している。スカルノ大統領時代に何度かスカルノの内閣を海洋大臣等で支え、Putera Bangsaに列せられた。氏は首都の首長を1966年から1977年まで務めた。特に芸術振興にも力を入れ1968年にはタマンイスマイルマルズキ(TIM)をオープンした。その他、ラグナン動物園、プロジェクト・セネン、アンチョール夢公園、タマンリア・ルマジャ、プルイット衛星都市、などをオープン、チョンデット地区の文化再評価やバス網の整備にも力を尽くし或いは今に続くジャカルタ生誕記念日の祭りや博覧会ジャカルタフェアーをスタートさせた。」
最大の功績は有識者50人で“petisi 50”を創立しスハルト政権に対する歯に絹着せぬ批判を行ってきたことであろう。その他上記にもれていることは ジャカルタ5地区に青年センターを作ったこと、自動車税の導入、ギャンブル税も市の開発には有効であったし、街娼をKramatTunggakに集めたこと(既に閉鎖されている)、タマン・リア・スナヤン(運営がまずいのか余り流行ってない)や学校は2,400ケ所、道路整備は1,200kmと言われ病院などKampong(村落)整備に力を入れた。法律支援Legal Aid Institute や消費者保護Indonesian Consumers Foundation (YLKI)の創設にも功績があった。写真はなくなるかも知れないスネンのガルンガン


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2008年5月22日 (木)

インドネシアのBala Keselamatan救世軍

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マトラマン・ラヤ通りを下っていくとき清潔な教会風の建物があった。作りは新しいので小生に取って価値は低いが正面ペディメントに掲げた名前Bala (軍隊の意味)Keselamatanから何とか救世軍であることはわかった。
救世軍とは1865年ロンドンの William Boothと妻のキャサリンが創始し、現在は、世界111の国と地域で伝道事業(=宗教活動)、社会福祉事業、教育事業、医療事業を推進するキリスト教(プロテスタント)の教派団体である。日本では社会鍋などが知られているが国連NGOでありノーベル賞候補である。福音派、教義はリベラルで実践を重んずる。飲酒喫煙風俗は禁止である。活動のいくつかをインドネシア語で言えばDapur Umum(給食所)、Rumah Tumpangan (宿泊所)、Panti Asuhan(孤児院)などがある。1894年オランダ人がはじめ全国15州に活動拠点がありバンドンが本営である。この建物の立派さからジャカルタが本営でもいいような感じであるが。。

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2008年5月21日 (水)

Soerosoは元Gondandia

チキニ地区のホテル・マルコポールから ホテル・メンテンIIに向かう道はCik di Tiro通りからSoeroso通りとなる。このSuroso通りは昔はGondandia Raya通りと言っていた。その名残がホテル・メンテンの手前にあるホテル・ゴジラである。ゴジラはGondandia Rayaの省略である。この通りの名前は正確にはRaden Pandji Surosoで彼は初代ジャワ市長3人男 Surjo、Suwiryo、Suroso の一人である。経歴を述べると;彼は1894年シドアルジョに生まれ、地方土木局員、新聞編集長を経て1942年人民参議院議員となる。イスラム同盟や大インドネシア党で活躍、日本占領時代はジャワ奉公会支部長、州長官を歴任し独立準備委員会委員に。独立後も中部ジャワ州長官、Bakin長官、50年にはナッシール内閣で労相、後55年まで歴代内閣で人事省、社会省、公共事業省を任じる。(以上シマトゥパン「インドネシアの独立の道」左藤正範氏訳より)
1950年人事相として数万の農園労働者のストライキを鎮めたり、労働紛争解決委員会(P-4) を設置した。1962年、地方分権委員会の委員となり、地方自治法の立案に参加。1966年6月ナスチオン大将が議長となった暫定国民協議会(MPRS)で最長老の議員としてスカルノ大統領の責任を追及し、終身大統領としての地位を剥奪することとなる。1972年には初めて、インドネシア公務員住宅(188戸)の建設を行った。1981年に亡くなり1986年国民英雄となる。 

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2008年5月20日 (火)

Semarang Urban Hertage Tour

スマランの象徴は若人の塔かも知れない。スマラン事件は悲惨であるがそれを記念したのか市の案内では日本支配に反抗した若人の勝利の記念碑としている。ここには先に紹介したLawang Sewu(千の扉)があるがここから北に行く通りが若人通りで官庁が並ぶ大通りで北の端にGereja Blendukなる壮麗な教会とインドネシアで最古の鉄道駅Stasiun Semarang Tawangがあり、又塔から東に向かうとSimpang Lima五叉路と言うか五街道のショッピングモールに囲まれた広い広場がある。Museumも多くMuseum Ronggowarsito、Museum mandala Bakti、Museum Nyonya Meneer、Museum Jamu Jago dan Muriなどがある。Klenteng Sam Poo Kong、Istana Majapahitも有名である。市のサイトには歴史的建物として170もの建物がリストアップされていたが、殆どが朽ちつつあるのではないだろうか

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2008年5月19日 (月)

Surjo、Suwiryo、Suroso スルヨ

似たような名前であるが全員初代の州知事でジャカルタの道路名になっている。Surjo(Suryo)は東ジャワ、Suwiruyoはジャカルタ、Surosoは」中部ジャワである。Suwiryoは昨年6月3日のブログにSurosoは明日に回すとして、Suryoを紹介する。 Suryo R.M.は1898年東ジャワMagetan生まれ、HISを卒業後、MagelangのOsviaで学び、Ngawiで民政官を務め更にマディウンやスカブミ、ジャカルタで警察関係に携わり、日本占領時は県知事や理事官を務めた。独立後直ぐ東ジャワ州長官になりこの時、イギリスのスラバヤ上陸を迎える。独立か死かとスラバヤを死の海としたこのスラバヤの戦いを戦い抜いた。最後は1948年DPAのメンバーであった時代に業務でNgawiに出張した折、共産党の暴徒に遮られ殺された。1964年独立擁護英雄に叙せられた。ジャカルタではクバヨランバルーの北東、スノパティ通りと共にクバヨランバルー地区の北東周辺をかたどる道にこの名前が付けられているが、昔はウィジャヤ通りやウオルター・モンギシディ通りに向かえる便利な道であったが現在はテンデアン通りに向かう中心からはずされる一方通行の通りになっているのが残念だ。

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2008年5月18日 (日)

Lawang Sewu 千の扉

スマランもオランダ時代の名残を残す古い町で或いは15世紀の鄭和Ceng Ho伝説から三保廟Sam Po Kongが有名だが市は保護すべき旧蹟建物として102ケ所指定している。Thomas KarstenのPasar JoharやLawang Sewuという建物も同名の映画で有名である。Lawang_sewu_seramang__graceemilia
Lawang Sewu建物自体は1908年建設でオランダのJF Klinkhamer と BJ Quendagの作品である。最初は1864年設立のNederlandsch Indische Spoorweg Maatschappij (NIS 蘭印鉄道会社)の事務所であったが 独立後は現在のKAI(国鉄)の事務所として使われた。映画はこの場所で撮影されたホラー映画であるが、保護施設を映画用に手が入れられオリジナリティが破壊されたとして非難されている。
Lawang Sewuとは千の扉と言う意味で、多分写真では見えないがこの正面の両サイドはオープンギャラリーとなっており40弱のアーク状の門扉で飾られている。5月8日のブログでふれたスラバヤのAlgemeene保険会社と同じネオローマン・アークである。写真はGrace Emilliaさんのブログより借用。

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2008年5月17日 (土)

おいしい商品だったコーヒー

インドネシアは世界第3位のコーヒー生産国であるがインドネシアに最初に持ち込まれたのは1696年インドからと言われている。これにはインドネシアと関係する前史がある。コーヒーは元々アフリカ・アラビアのムスリムが愛飲していたものを欧州人の旅行者が知りヨーロッパに紹介し世界に広まったようであるがこの第一世に1614年に第3代総督の右腕であるピーテル・ヴァン・デン・ブルーフ(Pieter van den Brooke)がいる。彼はジャワ赴任の前に通商関係調査でアラビアに行った時1616年にモカ(イエーメン)でコーヒーを知りそれ以降VOCの大きな商品となったということである。
その後アラビアの支配者であるトルコがこれを妨害した為、他の生産地を求め、ジャワがその候補となり、1696年に栽培が開始され何度かの失敗を重ねながらも1707年以降採算の良い輸出品となったとある。ヴァンデンブルーフは蘭英大海戦の時、クーンが応援船隊を呼びに行った時のバタビア城留守番司令官であったが、弱体を現わし、逮捕され、敵側から味方に降伏勧告する始末であった男である。
コーヒー栽培はその後も重要な商品であり続け、1870年の強制栽培廃止も例外とされ1915年まで強制栽培されたほどである。オランダはコーヒーはオランダ人が持ち込み栽培に成功したことからオランダの所有として 過極な条件を押し付けてきたものである。現在もインスタント・コーヒーでは世界2位、アラビカ・コーヒーではマンデリン、ガヨ、トラジャなど有名を馳せたブランドがある。

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2008年5月16日 (金)

パクブオノ通りのレジデンス

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クバヨランバルの入り口に立つ青年の像の左側からクバヨラン地区を大きく包み込むように回り込むのがPakubuwono VI通りで、その通りはクバヨラン・ラマに向かう地点で Kyai Maja通りにぶつかる。パクブオノ6世は1823年から1830年のススフナン・パクブオノ家の王でディポネゴロ戦争(ジャワ戦争)の後オランダの侵略にはむかった英雄の一人として扱われる。ジャワ戦争の後の政庁との条約で領地の割譲を不満として隠棲したが、政庁は第二の反乱を恐れ彼をアンボンに追放し、そこで亡くなっている。Pangeran Bangun Tapaとも呼ばれる。この通りは上りと下りの一つの車線がどちらも一方通行でそれがぶつかる(両方がそれるが)所に豪華マンション パクブオノ・レジデンスがある。スナヤン・シティ開発のポドモログループの開発で建設は日本大手であるが日本人には人気がないようだ。

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2008年5月15日 (木)

トリコラ、ドイコラ、オイコラ

スカルノの凋落への進む段階の国民に対する命令で、1961年の三つの命令、1964年二つの命令から1965年には最後を迎える。トリコラ(Tri Komando Rakyat)は オランダが西イリアンをパプア国として独立させる国連提訴を求めたことに対しスカルノは同年12月19日にイリアン開放に向けた国民の任務として① オランダのパプア国設立を失敗させること②西イリアンに紅白旗をたなびかせること ③総動員の準備をすることの三大命令を下した。少将スハルトがマンダラ作戦を担当しムルダニが落下傘部隊を指揮した。その後国連とアメリカの調停で1962年8月15日ニューヨーク協定で移譲への道筋が合意できた。ドイコラDwikoraはマレーシアとの対決が頂点に達した1964年5月3日に①インドネシア革命を維持・強化すべしと②マレーシア粉砕すべしと言う二つの命令を下し同年共産党トップ3人が入ったドイコラ内閣を組閣し益々9月30日事件への緊張が高まった。マレーシア対決はスカルノ失脚後やっと1966年になってスハルト臨時大統領・アダムマリク外相の手により正常化された。


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2008年5月14日 (水)

4月の投資環境ニュース

*西ジャワ州、北スマトラ州の知事選、相次ぎ大政党候補がイスラム原理主義候補に敗北
*トラック輸送コスト、道路不整備や賄賂が原因でアジア平均より55%高
* 国軍ビジネス移管促進チーム設置へ:大統領令。
* インドネシア最高裁、会計検査院の調査を拒否
* 中古資本財の輸入、来年は原則禁止:工業省金属機械繊維諸産業総局長が方針。
* 海運法改正案、国会で可決。港湾運営を民間に開放へ。
* イ航空会社のEU乗り入れ禁止措置継続決定:EU。
* 08年度予算案も可決。成長率6.8%→6.4%、インフレ6.0%→6.5%、財政赤字GDP比→2.1%
* 観光ビザでのデモ参加はだめ:NGOメンバーら外国人15人逮捕される
* 中銀(BI)総裁を逮捕、中銀改正法審議めぐる贈賄容疑で。
* 日本政府がインフル対策発表。発症邦人の帰国停止など。イ死亡者数107人に。

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2008年5月13日 (火)

ジャランスラバヤもラワサリと同じ運命

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Jalan Surabayaの骨董店通りがDKI市政府により強制撤去される話があったが、その後都議の反対もあり、進んでないものと思う。今年に入ってクバヨランバルー・Baritoの花屋・熱帯魚マーケット通りやRawasariの陶磁器市などが撤去・移転を余儀なくされている。これらは不法占拠であり、市の緑化政策で強制されているものである。ここはどの旅行案内にも出ている昔からのアンティーク街で約200キオスクがあるが実際はその75%が既に土地所有権を持っているそうであるので一筋縄では行くまい。小生はここではカバン(新品がデポネゴロ通り側に何店か売っている)を2回ほど買った覚えがあるが、骨董品は現在は殆どがまがい物と言われているので投資目的では失敗するだろう。

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2008年5月12日 (月)

Geo Wehryのオフイスビルの不気味

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コタのファタヒラー広場から一寸離れた海岸の倉庫方面の道Jalan Kunirを通ると豪壮な建物がもう十数年前から空き家のままであった。Jl. Kunir No.4で昔の道路名はLeeuwinnegrachtstraatである。,ここが蘭領インドの5大商社の一つGeo Wehryジョー・ウエーリーの本社であることを知って最近はどうなったかなと訪問したことがあった。工事中の塀の間から中に入ろうとすると怖そうな守衛に制止され、それでもシャッターを切ったが後で見ると空写真であったので又訪問する羽目になった。このときは門の隙間からこっそり取ったので全景は無理であったがかなり整備されているように見えた。Geo Wehryは1860年設立で、現在のWayang / Puppet Museumを倉庫としていた時代もあった。ここを訪問したインドネシア人も気味悪がっていたが、どうもギャンブルが行われているようである。この建物の設計もガイセルス氏であるが、彼が三つほど設計したデザインのうち、他の二つは建設費が嵩むとして一番シンプルのこのデザインが選ばれて建設された。1927年建設である。写真は十数年前と今年のもの。今年のものは何かに使われている。

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2008年5月11日 (日)

大潮被害と政府機関のだらしなさ

インドネシアの報道によると昨日の9日に大潮が起こるだろうとの警告があった。夜の22.00-23.00にかけ約1mの高さになり、雨が重なると1.4mとなると共和国海軍海洋局がジャワカレンダーに基づき発表したものである。通常は60cm、過去40年では1.26mが最大であったそうだ。1ケ月に2回あり、今月は次回が21日だそうだ。9日はどうだったのであろうか。
スカルノハッタ飛行場高速は大潮でつい最近も通行不能のニュースがあったばかりであるが、小生は次回は24日ごろジャカルタ入りしたいが大潮になるのであろうか その場合は代替道路を通るかと思いながらインドネシアの気象庁BMGや災害監視Bakornasのサイトをサーチしたが気象庁に予報機能はなくBakornasでは次のような説明と対策があったのみであった。
「大潮(Gelombang pasang或いは Puncak Air Pasangとも?)は強い風・大洋での嵐、急激な天候の変化及び月・太陽の引力の変化による潮の干満が通常より大きくなることである。対策としてはラジオなどの予報に注意し避難すること、或いは波の力を落とす防潮インフラの建設である」とのことだ。
月の引力(毎日の干満潮)に太陽の引力が加わる地球の自転・公転の関係から月と太陽が一直線に並ぶ日つまり新月と満月の日が両方の引力が同一方向で重なる為大潮となり重ならない時つまり上半月と下半月の日が小潮の日となることは日本もインドネシアも変わる筈ないがインドネシアの説明はどうしたのであろうか。日本では旧暦カレンダーとかで明確に解るのであるが、インドネシアはジャワ暦など見かけないが、兎も角も直近の満月の日などを聞いてみることだろう。
それにしてもつい最近あったばかりで不思議に思いジャカルタ新聞を見ると既に8日の早朝に起こっていたことがわかった。全くガッカリさせるインドネシア(特に官庁)だ。くどいが
1) 既に8日に起こっている大潮を9日だと予報した海軍海洋局(報道によるとそう見える)
2) その予報を9日に報道したDKIのBerita Indonesia
3) 大潮カレンダーもない気象庁
4) 引力の説明が殆どない(風の所為にしている)災害監視庁、但し飛行場の高速道路が洪水になるには嵐か大雨などが重ならないと起こらないことは事実であろうが。。

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2008年5月10日 (土)

Bandung City Heritage Tour

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バンドンこそが20世紀始めのオランダ建築の宝庫であるのでこれらを訪ねるツアーを紙上で企画してみた。未だ地図までは解らないので歴史の遺産的なものをランダムに書いてみる。
1. グドゥン・ムルデカ(Gedung Merdeka と Museum Asia-Afrika:Museum KAA 、
G.Merdekaは1924にシュマケルが手をいれ、1938年にアールベルスが増築)
2. ホテル・サボイ(Savoy Homann、Jl. Asia-Afrika、1938年アールペルス設計、ストリームライン・アールデコ
3. バンドン工科大学(Institut Teknologi Bandung. ヘンリー・M・ボント)
4. ヴィラ・イソラ/インドネシア教育大学(Villa Isola/UPI ガイセルス)
5. バンドン駅舎(Stasiun Kereta Api、1929 Gijselsアムステルダム的アールデコ)
6. ブラガ通りの建物Center Point Braga
7. グドゥング・サテ(西ジャワ州庁舎、Ir. J. Gerber)
8. グランド・プリアンガー(1929年シュマケル設計)
9. グドゥン・ドゥイ・ワルナ(Gedung Dwi Warna、Jl. Dipanegoro No.59)
10 バンドン郵便局 Gedung Kantor Pos Besar Kota Bandung)
11 グドゥン・パクアン(G. Pakuan、西ジャワ州長官官舎)
12 文化センター財団ビル(YPK, Jl. Naripan No.7)
13 地質博物館(Museum Geologi Bandung)
14 ワンシット・マンダラ・シリワンギ博物館(Wangsit Mandala Siliwangi)
15 ジャワ・バラト銀行(Bank Jabar)その他
- Univ. Pajajaran
- Monumen Bandung Lautan Api(バンドン火の海事件記念碑)
- Observatorium Bosscha(Lembang)
- Pusat perbelanjaan Cihampelas、Cibaduyut、Dako。。。
自然も文化も料理も楽しめる都市であるので今後も折を見て取り上げて行きたいが写真は会議のあったMuseumより100m程度離れているムルデカ会館である。。。

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2008年5月 9日 (金)

インドネシアVISAで投資環境悪化は日本の所為

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昨年VISAの規定が変わり、変えると何故か悪化するのは何故だろう。東京のイ大使館も人が変わり態度が悪化している。現地で許可書が既にあるのに色々と文句を付けられ二度手間を踏ませることが続出。現地では相変わらず労働省や警察が工場周辺でうろうろして、アフターセールスの出張で工場内機械整備している程度でも拘束されるケースが多く出ている話を聞く。1日でも労働だと決め付ける。労働とは何かを規定すべきだろう。インドネシア企業が報酬を支払っているか、インドネシア人が就労代替できるか(能力ではなく地位:として)且つ6ケ月以上かを基準とすべきだ。どこかで収賄事件があったということであるが、昔のVISAカウンターでそんな話があったとは思えない。(親切とは言えなかったが妨害されたことはない)この反動はインドネシア人の日本VISA取得に対する日本大使館の審査の厳しさに対する報復だと言っているが、そういわれるとグーの音も出ない。同じ日本人がEPA締結の仕事をやっているのであるから何の意味もない協定が出来ると言うわけである。

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2008年5月 8日 (木)

Berlageのスラバヤの建物

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スラバヤ旧WillemskadeのNillmijの続編:旧Willemskadeはオランダ時代の建物が並んだ通りであるがNillmijの隣が同業のAlgemeene Maatschappij van Levensverzekering en Lijfrenteという会社が建てた建物である。現在の通りで言えばJl. Jembatan Merah No.21である。この建物は近代オランダ建築の父と言われるHendrik Petrus Berlage (1856-1934)のデザインで1901年の建設で今は、PT.Aperdi所有の看板が立てられており、殆ど朽ちつつある。Algemeene生保年金会社は政庁の政策変更もあり、1921年には破産している。
アールヌーボー様式で2階建てで正面に3つの玄関をもちオープンギャラリーでネオローマン・アークで縁取りされている。このネオローマン・アークはスマランのNetherlandsche Indische Spoorweg Maatschappij (1907) にも使われている。
裸のレンガを背負った玄関と2階の部分のアーク状の窓は彼の特徴でもある。壁と空間が作るシンプルな様式はオランダのZakelijkheid派の構造原理である。
中央玄関の上に1880年J.Toorop-Rozenburg作のバイブルからのある物語の絵のポルセランが飾られ、又玄関階段のbalustrade(欄干)の横にエバンゲリストのSt.Markの平和の象徴或いはベニスのシンボルでもある羽を持つライオン像が置かれている。
近代オランダ建築の特徴をいえば、合理性(ムダを省く)、幾何学駆使と言える。
写真は100年前ジュンバタンメラーは紙から見たWillemskadeで、屋根にAlgemeeneの看板が立っているのが件の建物である。向かって左がNillmijでこれは写真には見えないが、右の角地にあるより大きな建物は何なのか、今もあるのかこれは行って見ないと解らない。

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2008年5月 7日 (水)

新会社法準拠の定款変更の実際例 

月刊誌「インドネシア企業経営」4月号で全ての会社が義務となった、新会社法準拠の定款変更の実際例が掲載されている。他に外国人労働者による教育訓練実施報告や会社の海外借り入れの中銀報告義務などが解説されている。同4月号は下記の記事の目次で発売中である。詳しくは下の住所に或いはメールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netに照会下さい。
今月の税務法令アップデート
今月の経済法令アップデート  
会計原則 107( 固定資産 その1 )
新会社法準拠の定款変更の実際例
PPN申告書フォーム1108
通関分野の諜報成果メモ(NHI)
外国人労働者による教育訓練実施報告
銀行以外の会社の海外借り入れ
追加要納付税額の計算例
中古資本財輸入に必要な技術オピニオン
首都の労務報告義務
公認会計士の業務
アパートメントの贅沢品税
引越荷物の関税免除アップデート
今月の労働関連トピックス
地方の観光振興策
今月の月次経済指標 2007-2008トレンド
2008年3月度 下旬 政治・経済トピックス
2008年4月度 上・中旬 政治・経済トピックス
物価・貿易統計2008年4月発表
「親父のダンディズム」
「明日の街角28~驕りと失敗」 
「スカルノハッタ飛行場周辺の空軍英雄道路」
今月の為替株式金利の動き

発行:PT. Indomalco Info Center
Plaza Sentral 3rd , Jl.Jend.Sudirman No.47,Jakarta 12930 Indonesia
TEL: (-62-21-)570-9767, 570-9768(直通), Fax:570-9769, 574-1923
HP:0811-996071 E-Mail: k2433@attglobal.net 主幹:西見、兼松
ホームペイジ:www.indonesialink.net /indomalco/

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2008年5月 6日 (火)

崩壊Maintz&Co建物とJakarta Kotaku

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カリブサールで2月ごろ崩壊したPT.Samudraの建物は蘭領インド時代はMaintz & Co.という会社が保有していた。この建物も隣の東芝の建物と同じくゲイセルスが設計したものでオープンギャラリーや2階建てなど同じコンセプトである。完成は1920年。こちらの方は8つのBay(仕切り:格間ごうま)を持つ。ベイは2本の柱で仕切られその2本の柱は2階の屋根のCornice(コーニスの eaves 軒ひさし)を突き出しタワーとなって頭はキャップされている。
注entablature エンタブラチュア 《柱 (columns)の上部に渡した水平部で, 上から順に cornice, frieze, architrave の部分から成る。
1950年代の国有化を経てサムドラの手に落ちたがこのPT Samudera Indonesiaは最大の民間海運会社でつい昨年亡くなったインドネシア40富豪の一人Soedarpo Sastrosatomo.が1964年に設立したものである。後継の娘さんShanti奥様はジャカルタ遺産再興運動をしているJakarta Old Town Kotaku (JOK)の副会長である。

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2008年5月 5日 (月)

プンチャック・シラットの教え

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昨年10月29日のブログ続編。昨日のキアイモジョは教祖の一人かと思うが現在、プンチャクシラットのは世界27ケ国に協会があり日本プンチャク協会のサイトには次のように紹介されている。 プンチャック・シラットとは、熱帯の島国インドネシアの伝統文化の1つ。約1000年の歴史を持ち、おおらかで調和を重んじるインドネシア民族の精神性にも影響を与え、現在でも全土で盛んに行われている武道のこと。自分の心身を磨き、素手・素足で戦う格闘技を言います。
基本精神は、「稲の教え(イルム・パディ)」  
プンチャック・シラット国際規約からPesilat(プンチャック・シラットの選手)の誓い "IKRAR PESILAT"を紹介すると:
1. Pesilat(プシラット)は、崇高な精神と品格を備える。
2. Pesilat(プシラット)は、同胞を尊敬し、友愛と平和を愛する。
3. Pesilat(プシラット)は、常に前向きに考え、行動し、創造性と力強さに溢れる。
4. Pesilat(プシラット)は、真実・公正・正義を守り、試練に立ち向かい、誘惑を跳ね返す。
5. Pesilat(プシラット)は、自身の言動に常に責任を持つ。
写真はタマンミニ入り口近くのインドネシア・本部。

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2008年5月 4日 (日)

Kyai Maja キアイ・モジョ

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昨年6月8日でディポネゴロの最後を記したがディポネゴロの軍師でもあったキアイ・モジョは1792年にモジョという村に生まれたウラマである。デポネゴロの甥にも当り、デポネゴロ戦争には一軍司令官として又デポネゴロの側近として仕えた。戦況が悪化した1828年従者共々ミナハサのトンダノに追放されJoton(ジャワ・トンダノ)と言う社会を形成した。キアイモジョはプンチャクシラット トンダノ流派を残した。ジャワ読みなのでモジョとなるが、彼の名前を冠した道路がクバヨランバルにある。パッサールミステックの前の道でトルノージョヨ通りからクバヨランラマの陸橋に向かう間である。写真はパッサールミスティック前で入り口横に一寸由緒ありそうな建物があるがなんなのかは未だ知らない。

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2008年5月 3日 (土)

ハレのとき居ないシャフリル

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このブログには何度も出てくるシャフリル(1909~1966)であるが歴史上の節目には何故か姿を見ない。象徴的なのは、独立宣言時や、ハーグ円卓会議或いは主権移譲のときである。逆に言えば問題がある時に彼が居り犠牲になるタイプかもしれない。インドネシア協会の潰れそうなときや、オランダとの協議に適確者がいないとき彼が出てきた。
独立宣言時は急進青年の動きと年長慎重派のスカルノの間でちょっと日和見を決め込んだ。彼が国民中央委員会に出てきたのは9月27日、出てくるや青年たちに押され国民中央委員会の常任議長となり立法権を奪取したり、兄貴分のハッタに政治宣言を行わさせ、政党自由化から12月25日には議院内閣制(パンチャシラ憲法復帰迄の間)とし首相・外相、内相兼務となる。オランダとの妥協姿勢に対するタンマラカの闘争同盟の反対に一旦辞職するも第2次内閣を組閣、46年6月には反対派の一部軍人に拉致されたが、これはスカルノの戒厳令で形勢を逆転出来、一味を大統領室での協議に呼び込み一転一網打尽に逮捕した。7月3日事件である。そうした上でのリンガルジャティ協定であったが、オランダの協定破りの動きから次のレンビル協定は同じ社会党を組んだシャリフディンに任せたがここでも国民の賛成を得られず、袖を分かったシャリフデインの急進戦線への脱落からマディウン事件まで混乱期のなかで落ちていく。
エンサイクロペディア トコインドネシアには彼の情報はゼロ、他の情報でも1948-1962は55年の選挙大敗以外何をしていたか解からない。スカルノは名誉を回復されたが、シャフリルは未だ何かあるのであろうか。この写真の運河沿いにSutan Sjahrilの通りがある。普通気が付かないが写真に取ると楚々として美しい。

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2008年5月 2日 (金)

JALよりKPMが欲しい 

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モナスチムールのKOSTRADの横の運輸省のビルはオランダ時代の海運会社KPM (Konin- klijke Paketvaat Maatschappij 王立海運会社:これについては昨年1月17日のブログを参照)の建物である。
KPMの宣伝ポスターがあったのでアップロードしたが見るうちに郷愁に誘い込まれる。
KPMは1865年設立のNISMという海運会社が合併し1888年に新会社として発足、スタート時は29隻で1918年は92隻、第二次世界大戦では140隻を数えたが大戦中に98隻が失われたという。ジャワー日本航路もあった。ポスターでは堂々たる客船で最大は1938年建造のTegelbergやRuysで14,150トン、次いで1928年建造のNieuw HollandやNieuw Zeelandが10,900トンであるが内航船は2,000トン 程度が多い。最近の航空会社はファーストクラスなどに力を入れ、つれてエコノミーとの料金格差を縮めたいのか料金が2倍位に上がっている。ゴールデンウイークを過ぎる割引テーブルはガクンと下がり成田-ジャカルタは2年前は5万円程度であったのが現在は14万円と上がっている。(内3万円は原油値上がり分)、もうこれに慣れるしかないのかなと諦めているがJALは勝手に搭乗率を予想しそれを材料に値段を上げている。実際はそれと大幅に低い率であるが返金しないところに腹が立つ。

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2008年5月 1日 (木)

Surabaya Urban Heritage Tour

スラバヤ市内の遺産を訪ねてというツアーの企画書があった。スラバヤの街は十数年前何度か行ったきりであるので余り記憶がないが興味を引くまま訪問先を記してみよう。
1日のバスツアーは先ずMandarin Oriental Majapahit Hotelから次の建物を訪ねる。
1. The HVA, Fermont [Cuypers and Hulswit, 1921] - Gedung PTP Jl. Merak
2. Town Hall [G.C. Citroen, 1925]
3. Governor Office Building [Ir. W. Lemei, 1931] - Kantor Gubernur Jl. PahlawanParlement
4. Building - Kantor DPRD Jl. Indrapura
スラバヤには30ケ所以上のオランダ時代の建物があるが、このツアーでは途中の道で以下の場所を通り過ぎることが出来る。“Tugu Pahlawan" monument、 Surabaya Post Office、”Santa Maria" Chatolic Church、PTP Building [Handelsvereeniging Amsterdam]、The Sigar Building、De Algemeene Verzekerings Maatschappij、“Europeesche Wijk" area、PLN building [architect : FJL. Ghijsels]、 "Arabische Kamp"、Chineesche Kamp、Indische Empire Style buildings 、Borsumij Building 、Office Building "Surabaiasche Handelsblad。
スラバヤの南のMalangも避暑地として栄えここにも多くのオランダの名残が残っている。旅情が誘われて来る。

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