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2008年5月 3日 (土)

ハレのとき居ないシャフリル

Kali_gresik_sjahril
このブログには何度も出てくるシャフリル(1909~1966)であるが歴史上の節目には何故か姿を見ない。象徴的なのは、独立宣言時や、ハーグ円卓会議或いは主権移譲のときである。逆に言えば問題がある時に彼が居り犠牲になるタイプかもしれない。インドネシア協会の潰れそうなときや、オランダとの協議に適確者がいないとき彼が出てきた。
独立宣言時は急進青年の動きと年長慎重派のスカルノの間でちょっと日和見を決め込んだ。彼が国民中央委員会に出てきたのは9月27日、出てくるや青年たちに押され国民中央委員会の常任議長となり立法権を奪取したり、兄貴分のハッタに政治宣言を行わさせ、政党自由化から12月25日には議院内閣制(パンチャシラ憲法復帰迄の間)とし首相・外相、内相兼務となる。オランダとの妥協姿勢に対するタンマラカの闘争同盟の反対に一旦辞職するも第2次内閣を組閣、46年6月には反対派の一部軍人に拉致されたが、これはスカルノの戒厳令で形勢を逆転出来、一味を大統領室での協議に呼び込み一転一網打尽に逮捕した。7月3日事件である。そうした上でのリンガルジャティ協定であったが、オランダの協定破りの動きから次のレンビル協定は同じ社会党を組んだシャリフディンに任せたがここでも国民の賛成を得られず、袖を分かったシャリフデインの急進戦線への脱落からマディウン事件まで混乱期のなかで落ちていく。
エンサイクロペディア トコインドネシアには彼の情報はゼロ、他の情報でも1948-1962は55年の選挙大敗以外何をしていたか解からない。スカルノは名誉を回復されたが、シャフリルは未だ何かあるのであろうか。この写真の運河沿いにSutan Sjahrilの通りがある。普通気が付かないが写真に取ると楚々として美しい。

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