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2008年6月の投稿

2008年6月30日 (月)

Rajawali違い

Rni
3月20日のブログの「砂糖輸入はラジャワリ」以来ラジャワリとはRCTIなどピーターソンダック率いるRajawariと同じだと思っていたがどうも違うらしい。こちらはRajawali Corporation で1984年設立である。
20世紀初頭、世界のトップ華僑財閥であった建源公司Kian Gwan は黄仲涵(Oei Tiong Ham)の時黄金時代を迎えたがその3代目でスカルノ政権に没収されて国有企業となったRajawali Nusindoとは別である。Rajawali Nusindoとは医療機器や消費財を扱う国内流通業者であるが精糖業のRajawari Nusantara Indonesia (RNI)と親会社である。国内36支店をもちPhillip Lamp、Mustika Ratu等多くのPrincipalを持つ。
この会社の名前はPT Perusahaan Ekspor Impor (PIE) Rajawali Nusindo やPT Perusahaan Perkembangan Ekonomi Nasional (PPEN) Rajawali Nusantara Indonesia.などと変遷し今又Rajawali Nusindoに落ち着いている。
会社はクニンガンのJl Denpasar RayaでRNIと同じビルである。社長はLestijono氏である。

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2008年6月29日 (日)

Indofood、世界一のラーメン生産は今

世界一のインスタント・ヌードルメ―カーPT Indofood Sukses Makmur Tbkは燃料や原料などのコストアップの中、生産数量の維持に努力している。インドネシアの国内消費量は一人当たり年間60パックで総計140億~パックである。同社の2008年計画は130億パックである。同社の売り上げは250億ドルで、独占製粉会社ボガサリ製粉も昔同様サリムグループが香港ベースのFirst Pacific社を通じ保有している。幹部Anthony Salimは石油燃料依存から石炭へ、輸入小麦も国内産へ切り替えていくと決意を述べた。アナリストは同社は今期1.3兆ルピア(1.4億ドル)の利益で昨年比3割アップを推定している。世界のインスタント・ヌードルの消費量は2006年で総計980億パック、内中国が470億で半分、インドネシアは第2位の140億パックで、第3位は同数で何とアメリカである。日本は54億である。 同社は製糖業も手がけているが インドネシアの国内砂糖の価格は国際価格より高く関税アップなどの保護政策下である

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2008年6月28日 (土)

Rajawaliと建源(Kian Gwan)公司

建源公司とは20世紀初頭インドネシアの砂糖王と言われた2代目黄仲涵が率いた華僑財閥である。
父親は太平天国の乱の中国本土をのがれジャワで小売商から身を起こし建源公司を設立、砂糖の輸出やアヘンその他の扱いで財を成した。黄仲涵の時代が黄金時代で欧米・アジアを結ぶ国際貿易に乗りだし世界最大の華僑実業家といわれた。家族経営の中でも家訓を持ち、子供の教育に熱心で家業分散と株式制など華僑の経営の真髄は持っていたと思われるが世界大不況、日本占領、独立戦争の時代の荒波と最終的にはスカルノ政権による華人排斥政策の犠牲となり法令違反の廉で政府に没収され消え去った。58歳の生涯で8人の妻と26人の子供を持った華麗なる一族の没落は悲しい物語であったろう。没収された会社はラジャワリ・ヌシンド株式会社と改称されて現在もラジャワリ・ヌサンタラ・インドネシアとして砂糖プランテ-ション/精糖業に従事している。世界大不況の後砂糖は不景気に見舞われ建源公司は他の産品に移し特にゴムで成功、ゴム王といわれたこともある。現在でもインド、ブラジルが世界の砂糖の半分ほどを供給しており、ジャワが力を失ったのは世界的供給過剰の為であったであろう。現在のインドネシアはより魅力ある米生産にシフトし、設備の老朽化もあり輸入国となった。

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2008年6月27日 (金)

Hotel Indonesiaは生まれ変わる

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いつの間にかグランドインドネシアがオープンしていた。タムリンから向こう側のマスマンシュールまでが多くのビル群でつながり真ん中辺りのビルに西武デパートも堂々オープンしている。 Ascot辺りから迂回しインドラギリ通りにこっそり駐車して西武に向かう。日曜日なのでそこそこ客は居るのに安心し3階辺りから、昔そごうに向かう道の上を渡るビル間ブリッジを通ってホテルインドネシアと繋がるイースト館(?)に行ける。 ホテルインドネイアは現在最終段階でこのイースト館からホテル側に行けるがそこは異様なアラビア王宮風のスペースで内装が行われている。こちらにはビル内遊園地もあり、ゴンドラなどがビル内で動いていたり、趣向を凝らしたレストラン街もある。日本に帰る日であったので次回は半日コースで再度来ることを念じ30分で切り上げた。グランドインドネシアとホテルインドネシアは06年3月24日と28日のブログで画・由来は紹介した。
ホテルインドネシアは次回行く8月にはホテルインドネシアケンピンスキーという名でオープンするとのことで飯ぐらい食べに行こう。

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2008年6月26日 (木)

Hasjim NingとMochtar Riady

19日のブログのHasjim Ningの続きであるが、彼は1995年に亡くなるまでモフタールリアディ/Lippoグループとのパートナーで株主の一人であった。Lippo Bankの会長職でもあった。
息子のSorayaの教育をLiadyに預けMochtarは息子のJamesに預けて米国戦略或いはチャイナ・スキャンダルに繋がるのであろう。スハルト時代への激流にはGM・クライスラーの代理店ジャーカルタモーターやフィアットの組み立てのインドネシア・サービス社にイブヌ・ストウォを受け入れ、乗り越えたたが、同時期進出してきた日本の自動車メーカーに追われ、2000年にはフォードの総代理店であったIRMC(Indonesian Republic Motor Company)もフォード自らの設立のPT Ford Motor Indonesiaに取って代わられた。
James Riadyはハシムニンが保有していたBank Perniagaan Indonesiaという弱小銀行を2年で資産130億を1,000億に増やした。この銀行は父親のMochtarが創設したLippoBankの一部になるのであろうが、今又LippobankもBank Niagaとの合併が進んでいるようだ。以上のような断片的不確実な情報には行き当たったがLippoBankもマレーシアの他人の手に渡りあの金融危機がいくつかの頁を吹き飛ばした感がある。

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2008年6月25日 (水)

Riung Sariのスンダ料理

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ジャラン・ジュアンダには有名なパダン料理のサリブンドゥがあるがその横にスンダ料理のレストランを見つけた。見つけたというより店先のプロモーションに引っかかったと言うことであるが、店の名前はRiung Sariでテレビ映画で有名な女優のTiti Kamar さんが3年前に店を出したという。 昔からある店かと思ったがその前は洋品店だったとか。 店内は広く適度の暗さと涼しさを保って落ち着ける。この辺りは店前の道幅が広く駐車もできいい場所だと思うのだが、小生が入ったときは客は誰も居なかった。その後3組 入ってきて売り上げに貢献したことになる。 アヤム・ルブス、テンペ、ゴーヤの煮付けなどを食し大瓶1本で7万ルピアの昼食であった。ソロ、ボゴール、パレンバン等出身地が異なる店員が仲良く働いており、入れ替わり立ち寄って話しかけてくれ、日本に戻る1日前の後ろ髪を引かれる店であった。

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2008年6月24日 (火)

ヨハン・マーツオイケル総督の長命

VOCが繁栄した時代の総督ジーメンスの一人置いた後の総督でVOCの外領拡大とジャワの反乱に明け暮れた1653年から1678年までの25年間も総督の地位にいた。
1653年セイロンを占領
1657年マラバール、コロマンデル進出 ポルトガルより肉桂独占を奪う
1658年パレンバンとの衝突、胡椒の独占権を取る
1667年マカッサル ハッサンウディンをスペールマン艦隊が攻略、ボンガヤ条約で保護領とする。以前ハッサンウディンに一族を殺され恨みを持つブギスのパラッカ王の応援を得る。
1674年トルナージャヤの暴君アマンクラットI世に対する反乱が起こる。アマンクラットI世はVOCの応援を依頼。
トルナージャヤの反乱はオランダに対するイスラム民衆の戦いの様相となり、暴威を振るった。スペールマンの強硬な武力行使を認めぬ宥恕政策のマーツオイケルはその戦乱止まぬ中1678年死亡する。 マーツオイケル亡き後スペールマンは参事会で発言権を増し、強力な軍隊を派遣、ヒュルト、St.Martin、Jonkerの活躍場面となる。ここでもパラッカはブギ兵を率いて応援しマタラムが平和になるのは1681年であった。セイロンでのポルトガル駆逐戦は彼の次に総督となる武人ライクロワ・フアン・フーンスの活躍でありマカッサル・トルナージャヤ鎮圧はその後に総督となるスペールマンの活躍によるものである。彼自身は72才の長命であったがバタビアで命を落とすこととなる。それはジーメンスもファン・フーンスもスペールマンも皆同じであった。

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2008年6月22日 (日)

シンガポールでVISA取得あれこれ

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東京の大使館でのVISA取得に失敗したのでシンガポールで取得することにした。高い喧嘩についた訳であるが久々ののんびり豪遊旅行を味わうことが出来た。何処に行くかと考えるにやっぱり植民地時代の建物がある地域をシンガポールリバーのバムボートから撮ることに決めた。生憎太陽が逆行であった為、下船後Clarke Quayからラッフルズが上陸一歩を記したアジア市民歴史館まで歩き又Andrews Cathedralへ、その後いつの間にかFort Cammings Hillに上る羽目になり汗だくの半日観光であった。
VisaはマルチならS$270、午後3時過ぎには持って来てくれる。タクシーの運ちゃんも余裕が出てきており昔はつっけんどんの印象があったが、結構親切だ。帰りのチャンギ行きは地下鉄に決めた。カバンを引きながらラッキープラザをブラブラ更に地下道を地下鉄駅を探しながら歩いたが一度も危険を感じなかった。地下鉄(MRT)は$2.70でタクシーの1/7で済んだが2度乗換えが必要で隣に親切そうな女性が居なかったら危うく乗過ごす所だった。

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2008年6月21日 (土)

総督とインドネシア駐在期間

蘭領インドネシアの総督の任期を見ながらすごく長い人を見つけた。ヨアン・マーツオイケルで1653年から1678年まで実に25年もの長期に総督の職にあった。あとジーメンとアウトホールンの3人で1600年代は47年間の長期政権があったことになる。1700年代は3人で37年1800年代は
1人で10年となり徐々に少なくなっていく。5年が単位となるのは1845年からであるが社員の駐在5年はそれよりもっと早い。交通事情や衛生事情は今より異なるが現在の駐在員の標準駐在期間や議員・閣僚の任期5年もこの辺りに元があるかも知れない。
ジーメン 1636-1645年 9年
マーツオイケル 1653年ー1678年
アウトホールン 1691-1704年 13年
イムホフ 1743-1750年 7年
パルラ 1761-1775年 14年
アルティング 1780-1796年 16年
カペルレン 1816-1826年 10年

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2008年6月19日 (木)

Hasjim Ning の豪壮な自宅

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いつも通るチキニの通りであるが何かの拍子にそこに豪壮な建物があり、それがインドネシアで有名な富豪であるハシム・ニン氏の自宅であることが解った。かってはインドネシア経団連KADINの総裁(1979-1982)を務めたハシム・ニン氏はスカルノ時代からの自動車輸入商権などで財をなした。
スカルノ時代の経済政策第一はオランダの抜けた後の流通業等産業を華人を廃してプリブミ化することであったがそれが輸入権と国営銀行融資付きのベンテン計画である。ここから成功したのがハシムニンでありダサートやスダルポであった。
本名はMASAGUS Nur Muhammad Hasjim Ning 、1916年パダン生まれである。中学を出てからはジャカルタに出てきて勉学の傍ら、自動車清掃夫から始まり、石炭やキニーネの扱いなどもやった。独立戦争はカウイラランと共に銃を取り、除隊後の1950年PT Djakarta Motor Companyを設立、その後は亡くなる1995年までPT.IRMCの会長を続けてきた。当時彼はヘンリーフォードとか自動車業界の王とニックネームされた。彼が関係したグループに現在のLippo やチプトラのJaya Groupがある。北スマトラ大の名誉経営博士号を授与されている。

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2008年6月18日 (水)

Kapten Jonkerの最後

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4月7日のブログでマルンダのヨンケルを紹介したが、アンボン出身の彼はVOC側の隊長でスペールマン(のち総督)の下でクタ少佐やSt.Martinと共にトルノージョヨの乱(1674年~1680?年)を、又バンタンの内紛(1680年~1683年)で戦果を上げた仲間であった。その後スーラパチの乱も起こった時代にジャワ全島で回教徒の反欧州人運動が起こった。首謀者はスマトラの狂信者で自ら艦隊を持っていたほどであるがこの艦隊は1686 年にオランダのKrijn Dee Rondeの艦隊に撃破された。この運動は止まず1689年にはヨンケルもこの運動に参加していた。St. Martinの裏切りや会社の不当な取り扱いが彼を反オランダに走らせていたのであるが彼もバタビア付近で殺された。(前のブログでは死亡年は1681年としていたが。。。)


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2008年6月17日 (火)

Kampung Ambonのいわれ

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Rawamangun ゴルフ場の近くにKampung Anbonアンボン村と言うのがあるというのでゴルフの帰りに出かけてみた。こういう名前は道路名にもなってなく、況や村や郡の名前にもなってない。なんとなく蔑称に近い通称のように感じる。従いここは郡でいえばKayu Putih郡かRawamangun郡に所属している。
何か名前が残ってないかと探し、Kayu Jatiの通りに市場の名前になっているを発見した。 Pasar Kampung Ambonと一寸長めの名前である。 1619年バタビア蘭英大海戦の時クーン総督がアンボンから自国の艦隊14隻を応援の為つれてきたとき乗船していたアンボン兵が、海戦後ここに住まわされたという。 なんとなく屯している男達の表情がきつい感じがした。

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2008年6月16日 (月)

スハルト一族の富豪リスト

バクリーをトップとするインドネシア富豪リストがGlobal Asia社より発表された。バクリーが代表するようにしたたかな面々である。金融危機で裸にされたように見えた華人もちゃんといるがスハルトの子供達他親族も
スディカトモノ 51位 300百万ドルを筆頭に以下そろっている。
51 Sudwikatmono 300 Indika Group
61 Hutomo Mandala Putra 253 Humpus
75 Bambang Trihatmojo 176 Media
97 Sigit Harjojudarto 132 Humpus Investment
113 SitiHardijanti 102 Citra Lamtoro
150 Probostejo 66 Mercu Buan
とは言うもののインドネシアの150人の資産総額は690億ドルで2位のマレーシアを大きく引き離し最近のインドネシアの力を見せ付けている。

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2008年6月15日 (日)

Slamet Riyadiはアンボンとソロで取り合い

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北からジャティネガラに入ってくると聖ヨセフ教会の向かいの反対側に小さいSlamet Riyadi通りがある。あるいはマンガライ駅から下ってくる方が行き易い。色々軍の施設がある一角であるが、このIgnatius Slamet Rijadiは国軍准将(没後昇格)で、彼は23歳の若さで1950年11月4日に死亡。スラカルタの宮廷軍の将校の子供としてソロで生まれる。独立後の人民保安軍で第26連隊長を務め、1948年オランダの侵攻時ソロの解放に貢献した。1950年マルクのRMS反乱鎮圧にも参加した。年代からはこの時亡くなった様でもある。2007年国家英雄とbintang Mahaputera Adipradana叙勲、名前からはキリスト教に改宗したのであろうか。オランダ譲りのフリゲート艦の名前やアンボンの港の名前になっている他、ソロに同じ名前の大学がある。写真は中でも閑静な道路の奥にZeniのベンケルが見える。

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2008年6月13日 (金)

Toko Tigaと言うBakmi

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ピントゥ・クチールの奥、運河を左に取った先にToko Tigaと言う通りがあった。今もあるかどうか知らないが、一方通行の狭い道で車が数珠つなぎの道でここにBakmi Toko Tigaと言う中華ラーメン屋がある。 中国人の店の名前が道路名になるとはすごい力であるが多分通称になってしまっているだろう。このバクミーもジャカルタでは古くから有名である。手狭になったからであろうが現在はここは1支店となり、何時の頃からか本店はワヒッド・ハシム通りに移ってきている。ここが出来る前はメンテン・チョクロアミノト通りのヘーローの横で営業していた時代もあった。 小生はここのあれは豚の内臓だろうかMi-Babatを良く食べる。内臓の切れ端をよけながら、時々細麺にまぶして思い切って食べる、その時チャベーも多めにしてハラハラ食べるのが好きである。 写真はワヒッドハシムは3140902

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2008年6月12日 (木)

Pinangsari Noodle & Chinese Resto

Pinangsari
華人の友人がレストランを開いたと言うから出かけてみた。 プルイットのPantai Mutiaraの高級住宅地を後ろに控え、前は大メガモールで好立地かも知れない。パンタイ・ムティアラは各家にマリーナを持つようなジャカルタの北海岸に開発された住宅地である。このピナンサリはNoodleも専門の一つなので昼、小腹が空いたときも、夜のディナーにも向いている。メガモールは昔、鰐園があったところで100匹以上は居ただろう鰐は何処に行ったのであろうか 鰐の口に頭を入れたり鰐のちんぽこを引き出したりしたショーをやっていたが今は面影もない。このメガモールを中心にして囲む道は一方通行で前面がPluit Indah 裏手がPluit Permai通りであるがそれを更に外郭で囲む道がPluit Barat Raya、Pluit Selatan Raya、Pluit Timur Raya、そしてPluit Utara Rayaと約1km程度の四角形で囲んだ北のPluit Utara Raya No.56に店はある。高速でPluitの入り口のJembatan Tigaから右側Pluit湖側のPluit  Timur Rayaを北上し同Utara通りで入り中ほどムアラカラン発電fのところでUターンし
て500m程戻ると店はある。 バクミー ピナンサリがバクミー・ガジャマダのように有名になることを祈る。 
電話は6660-5656

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2008年6月11日 (水)

Bank EXIMの最初と最後

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国有商業銀行の一つにBank Eximが有ったが現在はBank Mandiriに合併されて最早ない。Bank EXIMの本社があった所はコタ駅の正面で現在Museum Mandiriとなっている。
生まれの歴史は文献が錯綜しているのでその集大成をやってみた。
歴史を辿ると旧く1824年設立のN.V.Nederlansche Handels Maatschappij(NHM)である。
オランダ本国がフランスの支配から独立し、1824年イギリスからも東インドの還付をうけるやVOCの再興を夢見たアムステルダムの商人数名と国王ウイルヘルムIの後援も受けてこの貿易会社を設立したのである。会社自体は綿織物工業を持つイギリスに太刀打ちできなかったが1830年代の強制栽培制度から独占的に砂糖などの作物の輸送に当たることが出来てからは大きく立ち直った。この会社が農夫等への融資など銀行部門をおこなうのが1870年からかも知れない。1942年日本占領時は閉鎖され、日本降伏後は再開したが1960年イ政府に国有化された。国有化後農漁夫組合銀行(BKTP)となり引き続き輸出金融も手がけていたが、1965年の国有銀行集約化政策でBank Negara Indonesia Unit IIとなったが、1968年にこの各UNITが分離され Unit IIはBank Ekspor Impor Indonesia (Bank Exim)となったものである。尚現在の建物自体は1933年完成のものである。

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2008年6月10日 (火)

Kuwitangのもう一つの教会

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Kwitangの英国国教会Anglican Churchの手前、Toko Genung Agungの手前に小さな教会が目に付く。何か謂れがあるのだろうと先週前を通った時、車を停めた。思ったとおり、時のスチヨソ前市長が文化施設(Cagar Budaya)に認定した碑文があり その横に教会小史の碑文もあったのであるがこちらはカメラに全部収めきれずに帰ってきたので小史にもならないが、名前はGereja Kristen
Indonesia Kwitang、でオリジナルは1876年建築、その後壊され1924年に再建された。最後の行の右、左は Ar…. …emanとあるのでデザイナーの名前であろう。いつか突き詰めてみよう。
スチヨソが文化遺産に認定した碑文には1993年のことであるが、良く考えると彼は1998年から市長であるので合わない。想像するに市が認定した年が1993年、その後売名家のスチヨソが碑文を作らせたのであろう。署名の下に署名の日付はなかった。

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2008年6月 9日 (月)

08年5月の投資環境ニュース

* インドネシア、OPEC脱退へ2004年に純輸入国に転落。
* 石油燃料の値上げ平均28.7%の引き上げ。
* 空港高速道また閉鎖
* 大統領が石油燃料値上げを決断、3割も(NNA) 貧困層1500万人増加か
* 契約社員制度を法改正で撤廃、労働相
* 対日世論調査、日本は未だ「最も重要なパートナー国」、マレータイ星では中国が一位。
* 次期インドネシア銀行総裁にブディオノ現経済調整相
* 日イ経済連携協定(EPA)、国会可決、7月に発効、貿易の92%が無税に。
* ホテルインドネシア、改築後ホテル・インドネシア・ケンピンスキーとして運営へ、8月
* インフォーマルセクター労働者、年内に1千万人増の7,700万人到達の見込み
* 富裕層増加。預金50億ルピア以上は2.6万人、10億ルピア以上は12.8万人(預金保証機構)
* バタム3島 自由貿易地域の管理庁設置:大統領令出る。向こう5年間に外資誘致5倍へ
* 改正地方自治法に大統領署名、2008年第12号法律。無所属候補の立候補認める。

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2008年6月 8日 (日)

Mesjid Tamboraの謎

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グロドック、タンボーラ地区を臭いKali Cidenに添って仕方なく南下するとき、ふと古いモスクがあった。何しろこの正面の道は幅3メートル程度の一方通行で後ろからも車が連なっているので少し離れてやっと写真に収めることが出来たが、出来栄えはこの通りである。ノンムスリムはアクセス不可とあるので仕方がない。このモスクは建築に中国人モスリムの香りがする。現在の建物は建て直されているが、元々は1767年にマカッサールの
Haji Mustoyib Ki Daengが立てたものである。彼はマカッサールからスンバワのタンボーラ山麓に移りVOCに反抗していたもののようで、VOCに逮捕されバタビアで刑を受け釈放後このモスクを建てたとある。柱のタイルはブルーダッチタイルで当時金持ちにはもてはやされたが、これに男と動物の絵の描写があり、それはイスラムには禁じられているものだとのこと。初めて聞く話であるが。。

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2008年6月 7日 (土)

Supriyadi死して司令官に 

スカルノが1945年10月9日、インドネシア国軍の最初の軍司令官(兼治安相)に任命したのがスプリヤディであるが、彼はブリタール反乱の首謀者で死亡したのか出頭せず、スモハルジョ参謀長が暫定司令官となった後 スディルマン将軍が後を継いだ。
スプリヤディは1923年生まれの東ジャワ出身でELS(小学)、MULO(中学)からマゲランの領域管理学校等に遊学、日本が占領期にはタンゲランの青年道場で訓練を受けた。1943年10月の郷土防衛義勇軍(PETA)編成の時は東部ジャワ・ブリタールの小団長(後大団長とも記載あるが..)に抜擢されていた。1945年2月ブリタールの横暴な日本人とのイザコザや或いは凄惨な労務者の監視の職務に愛想を尽かし、多くの仲間からの推されて反乱を起こした。子飼いのPETAからの反乱に驚愕した日本軍は直ちに制圧し軍事裁判で6名死刑、3名終身刑を含む55名を厳罰に処したがスプリヤディは裁判前に既に日本軍に殺されていたのか今もって不明とされている。スプリヤディは反日の英雄として一般的には高い評価を得ているが、親日友好的なスカルノが何故彼を最高位につけたのかも不思議である。国軍の歴史は2007年5月のブログ参照。初期の司令官は:
Urip Sumoharjo 中将、1945:暫定指揮官
Sudirman 中将、1945年11月:人民治安軍総司令官
TB Simatupang 少将、1950-52 総参謀長

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2008年6月 6日 (金)

月刊誌「インドネシア企業経営」5月号

外国人管理ブルーブックや会計・税務・輸出入手続き等下記の記事の5月号が発売中である。詳しくはメールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netに照会下さい。

今月の税務法令アップデート
今月の経済法令アップデート  
会計原則 108( 固定資産 その2 )
外国人管理のためのブルーブック
過払い税金の金利の返戻
関税率・通関価額・罰金等の決定手順
首都の税務署見学記
鉱物製品輸出に対する船積み前検査義務
サブリースかシェアリングか~税務裁判判決例
銀行再編構想と単一持株制度
固定電話から携帯電話への接続料金の変更
Q&A 税務担当従業員は委任状が必要か?
繊維・繊維製品の輸入規制アップデート
PPh21 SPT準拠月次計算シート
今月の労働関連トピックス
食糧危機とコメ輸出機会
2008年4月度 下旬 政治・経済トピックス
2008年5月度 上・中旬 政治・経済トピックス
Q1経済成長率、物価・貿易統計2008年5月発表
「明日の街角29~幸福な生活・プレカリアート」 
「アルバトロス・クラブ原論」
「BSDの英雄道路名」
今月の月次経済指標 2007-2008トレンド
今月の会計・税務用換算レート
今月の為替株式金利の動き

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2008年6月 5日 (木)

政権揺らぐ宗教戦争 イスラムテロ

6月1日のアフマデイアの 信教自由を守る集会を攻撃し多数の負傷者が出たイスラム過激派FPIに対し6月4日59名を逮捕、この対立は今後大きな混乱を生むのではないかと心配だ。
徹底したFPIの廃絶を望む一方政権にも大きな傷をのこすのではないだろうか。昔小生もFPIの襲撃に必死で逃げたことがあるので憎しみが強い。プレーボーイ誌発刊に反対し編集部を襲撃したこともある白装束のテロ集団である。 イスラム=テロと見られるのにイスラムは不満であるがキリストは自戒の宗教ながらイスラムは強要の宗教であるのでムスリムが自ら糺さないとそう見られる。宗教の自由を守る擁護派と対立図をジャカルタ新聞から記録しておこう。
擁護派:ユドヨノ大統領、グスドゥール、アミンライス、アドナンブユン・ナスチオン、トドゥン・ムリア、グナワン・ムハマッド、パンチャシラ連盟(超党派の国会議員40名)、ウイドド調整相、アンソール(NU青年団)、バイトゥル・ムスリミン(闘争民主党)、エッフェンディ・ホイリ(民族覚醒党代表)ハイルル・サレー・ラシッド民族覚せい党議員、ヒダヤット(カディン会頭)
FPI 側:ハビブ・リジック代表

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2008年6月 4日 (水)

St.Maria de Fatima中国人の教会

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中華コタ街の真ん中にユニークな華人の教会があると言うので出かけてみた。金徳院の裏側と聞いていたのであるが金徳院には狭い道路で車で入れず歩かねばならないので、金徳院に向かうのでなくその裏側から攻めようと思ったが、あのガジャマダ通りから左に折れて裏側に向かう道は逡巡しているうちに通り過ぎてしまった。結局ピントゥクチールに入り運河沿いに左に折れ、グニャグニャ曲がりながら、尋ね尋ねて突き詰めることが出来た。道路標識はJl. Kemenangan III/47である。歴史はそんなに旧くはない。19世紀に多くの中国人が家族の将来をい思い蓄財し一等地に大きな中国邸宅をたてたもので、1955年にカトリック教会に買われて教会となった。屋根の上に十字架がありかろうじて教会だと解る。名前はSt.Maria de Fatimaである。ガジャマダ通りからはKeadilan通りから入るのが良いように思う。

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2008年6月 3日 (火)

Menteng 31に集う人々

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1945年8月19日以降和解革命家達はプラパタンどおり0番地に本部を設けた。ここには無政府主義に落ちた旧日本軍の軍事教練を受けた学生グループなど三つの青年グループがいたがその中で後に統一戦線と名付けたグループはメンテン31に独自の本部を設け移動した。かれらは①スカルニ、②ウイカナ、③ハエルルサレー、④アダムマリク、⑤ダルウイス、クスナンダル、ヨハン・ヌル、サムシュディン、アイデット(直ぐ抜けた?)、⑥ニティミハルジョ、⑦バンドゥ・ウイグナ、⑧クスナエニ、⑨アルムナント、⑩ハナフジーが参集、行動委員会とインドネシア青年隊(API)を組織した。Menten31ミュージアムには11人のメンバーとなっており上記10名と⑪Djoharである。さしずめ11人の志士としておこう。このブログは昨年5月11日と6月29日を参照乞う

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2008年6月 2日 (月)

Marundaの謂れ

タンジュンプリオクから更に東に進むとマルンダの工業団地などがあるがこの地区の名称のマルンダとはHeukenのジャカルタ地誌によればこの地に住んでいた盗賊の名前、Rondaから来ていると言う。中国商人Nuk Eng Cakを殺したためオランダの地区地主のSchotに追われ最後は捕まりグロドック刑務所に入れられたそうである。
良く似た名前に17世紀のオランダの艦隊長官 de Rondeがいるがこれが名前で残る筈はない。この刑務所は昔はLindeteves市場の裏にあったそうである。Heukenは他にもこの地の義賊を紹介しているがその内Si PitungやJonkerは既に紹介した。Marundaには何故か多くの盗賊伝説がある。

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2008年6月 1日 (日)

Lindetevesとは懐かしい

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Glodokの華人密集地をうろうろしていた所、其処からガジャマダに抜ける道の向うに大きなビルが見え屋上に横に長く看板が見え、良く読むとLindeteves Trade Centerとある。ここは昔はPasar Lindetevesであったところであるが、その名前の由来は多分オランダの商社の名前であろう。カリブサールやファタヒラーにオランダ商社の名残の建物が散見されるが、こんな中国街にもあったのである。アヤム・ブルック通りを北上してPlaza Glodokを通りすぎて直ぐのところ、Jayakarta Hotelまで行かない所であるが屋上の看板は今日まで気が付かなかった。オランダの商社は強制栽培で、特にコーヒーなどで大儲けをしたが、4月2日のブログで紹介した5大商社の内、4社までかぎつけたことになる。

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