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2008年7月16日 (水)

Bandung、花の都のオランダ時代

Bandung_041
バンドンは西ジャワの首都で人口2.6百万、インドネシア4番目の大都会である。海抜768mであるがパラヒヤンガン山地に囲まれた盆地の地形は防御に向いておりオランダ政庁が首都をバタビアからバンドンに移そうとした理由である。
盆地の主たる川はCikapundungでこれはチタルム河の支流でバンドンを南北に分けカラワンで又合流する。地質学的にはここには古代スンダ山があり洪積世の時代に2回の爆発があり最初の爆発で盆地が出来、2回目の爆発でチタルム河がせき止められ巨大な湖となった。この水がどう引いたのかは未だ解明されていない。
最も古いバンドンの歴史は1488年に遡る。パジャジャラン王国の一地方として記録がある。
オランダ東インド会社VOCは17世紀から18世紀に、お茶のプランテーションを開き、1786年までにはバタビア、ボゴール、チアンジュール、バンドン、スメダン、チレボンの道路は完成していた。
ダーンデルス総督はインドからのイギリスの攻撃を防ぐ為防御システムの強化に乗り出し、バンドンを通るジャワの東西を結ぶ1,000kmの道路を建設した。この道路はバンドンでDe Groote Postwegと名付けられた。現在のアジア・アフリカ通りである。
ダンデルスは1810年Cikapundung河の側に。“Zorg, dat als ik terug kom hier een stad is gebouwd!” (私が又戻ってくるまでに街が建設されているよう“にとスティックを埋め、R.A. Wiranatakusumahを知事に任命、彼は現在の中心広場アルンアルンに宮殿とmasjid agung とpendopo (公的集会場所)を建設した。その場所が現在は町の中心地碑KM 0 kota Bandungとなっている。
現在Wiranatakusumahがバンドン市の創設の父とされその年の9月25日がバンドン市の誕生日である。19世紀にキニーネの栽培も盛んになる。
1880年にバタビアとの最初の鉄道が結ばれた。その頃からシナ人も住みつくようになった。
gemeente自治体として認められたのが1906年である。オランダの農園主はバンドンをリソート地として開発しバンドンはジャワのパリと言われるようになった。今でもKota Kembang(花の都)が愛称である。彼らはバタビアから女性やビジネスマンを引き連れ週末バンドンに訪れた。Braga通りはカフェ、レストラン、ブティークなどがそろったプロムナードであった。ここにはサボイ・ホフマンホテルやプリアンガーホテルも立ちコンコルディア社交クラブもあった。
バンドンの首都構想は1920年代で最初に、現在Gedung Sateと呼ばれている政庁事務所が建設された。
バンドンはアールデコ建築の建物の宝庫である。このブログではイソラ・ヴィラ、グドゥング・ムルデカ、ITBは出したので再度訪問してもう少し加えよう。

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