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2008年7月の投稿

2008年7月31日 (木)

改正所得税法の要点はこれ

インドネシアの会計・税務・輸出入手続き等下記の記事満載の月刊誌「インドネシア企業経営」7月号($100/月)が発売中である。詳しくはメールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netに照会下さい。

インドネシアの 今月の税務法令アップデート
インドネシアの 今月の経済法令アップデート  
インドネシアの 会計原則 110 ( 固定資産 その4 )
インドネシアの 改正所得税法の要点
インドネシアの 日本~インドネシアEPAの関連規定
インドネシアの 日イEPA:原産地証明について
インドネシアの 日イEPA:特定用途免税制度(USDFS)について
インドネシアの 外国人雇用手順改定:外国人雇用計画書編
インドネシアの 外国人雇用手順改定:労働許可編
インドネシアの 付加価値税のその他の課税標準
インドネシアの 関税総局職員の新倫理コード
インドネシアの 廃棄物処理法
インドネシアの 今月の労働関連トピックス
インドネシアの サンセットポリシーの規定法令
インドネシアの CSR 企業の社会的責任Tanggung Jawab Sosial
インドネシアの 電子情報・取引法 その2
インドネシアの 製糖業の現状
2008年6月度 下旬 政治・経済トピックス
2008年7月度 上・中旬 政治・経済トピックス
物価・貿易統計2008年7月発表
橋本政彦 「明日の街角31~ラスト・リゾート」 
西見恭平 「東ジャワの蘭領時代の回顧」
今月の月次経済指標 2007-2008トレンド
今月の会計・税務用換算レート
今月の為替株式金利の動き

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2008年7月30日 (水)

Jl.Bankには5つのオランダ銀行

Kota_2008_mar_075_2
ジャカルタに銀行通りがある。番地は1番だけかもしれないが短い道である。
コタのピントゥブサールからカフェ・バタビアに向かう道に入ると直ぐ、大昔NHM、昔EXIM、今マンデリィ銀行博物館、その先が大昔JavanischeBank,昔BI、今中銀博物館、その正面に向かって背後が大昔NHB、昔BBD、今マンデリコタ支店、BI横の運河に向かう道に大昔Escompobank、昔BDN、今マンディリ文書館(?)運河を越えると大昔Chartered、昔BBD、今マンディリ保有廃屋化と5つの銀行があった。このBI横から運河に向かって曲がる道がJl.Bankであるが上記の5つの銀行のうちBDNだけがこの道のアドレスを保有している。現在はBIもBDNもリノベされこのBank通りを挟んで威容が見られると思うので今度確認しに行こう。上記でBBDが二つ出てくることやその先代のオランダの銀行の名前が似ている為こんがらがる。
とりあえずBIとBBDとの間のPintu Besar通りからBank 通りの改装完了したBDNを写したもので4ケ月前である。左手がBI、右手のBBDは見えない。

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2008年7月29日 (火)

Bayanも公募増資、ゴールドラッシュの石炭産業

前回のAdaroに続きインドネシア第3位の石炭会社 Bayan Resourceも上場する。一寸遅かったが今日から8月1日までが応募期間である。価格はRp5,800 で最近の相場の下限に近いがこれで5億ドル強の資金調達となる。この価格では2009年の利益予想の6倍、時価総額で21億ドルとなる。
Adaroは7倍、その他すでに上場している3社のPEはPT Bumi Resources Tbk BUMI.JK,、PT Indo Tambangraya Megah Tbk ITMG.JK 及びPT Tambang Batubara Bukit Asam Tbk PTBA.JKのPEはそれより上の8倍から10.5倍である。

創業者のLow Tuck Kwong(75%)とJenny Quantero and Engki Wibowo夫妻(25%)の株式5億株も同時に市場に売却する。又その後2億株以上の株式売却のオプションを持っており、一連の計画が完了後の一般株主保有の公開率は31%程度である。 石炭の値上がりもあり彼らも富豪リストに出てくるのであろう。 既にバクリーやタノト、スリヤジャヤの名前が大手石炭会社のオーナーとして名を連ねている。
インドネシアは世界最大の石炭輸出国でBayanの生産は今年9百万、一位のBumi Resourseは55百万である。

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2008年7月28日 (月)

Nillmij保険はJayasraya 

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元オランダNillmij保険については既にそのスラバヤ支店の建物は4月30日と7月7日のブログでジョグジャ支店の建物は4月26日に紹介したがこの保険会社の本店はJakartaにあった。1994年ごろ生命保険会社協会の会長をお連れしたことがあるが、この国営・且つインドネシア最大の保険会社Jayasrayaがオランダ時代の歴史を引き継いでいたとは認識してなかった。ジュアンダ通りのアストラ・インターの近くにあるがあそこの建物は正面を現代風にリノベしているが裏に回ると昔の建物の遺構がはっきり見える。或いはその建物の右端はバトゥトゥリスに向かう通りでそこを一寸入ると昔あれほど行った中華レストラン「サヌール」がある。これも夜であったので気が付かなかったのであろう。写真はサヌールから裏側を取ったもので樹木が生い茂りこれも逆に邪魔していたのだ。
設計は既紹介のMoojen(7月9日のブログ)で1909年建設である。

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2008年7月27日 (日)

Mochtar Riadyの貢献 

リッポーグループの創始者であるMochtar Riady(李文正)氏は今年79歳であるが医療、教育分野で後進の発展に尽くしている。この23日、世界最高のレベルと言われるベルギーのIBAと早期がん予防の提携調印を行った。 彼は既にアトマジャ大学の裏に現在Siloam病院を建設中で、ここにMochtar Riady Comprehensive Cancer Centre (MRCCC)を設置する予定である。又Mochtar Riady Institute for Nanotechnology (MRIN)を設立しており、ここの研究とのドッキングも視野にある。彼が育てたLippoBankは金融危機の大きな荒波の中今はマレーシアの国営投資グループの手に渡ったが優良不動産事業であるLippo KarawatiとLippo Cikarangを中心に財力は維持しグループのyayasanがこれらの社会貢献事業のバックボーンとなっている。
インドネシアオペレーションの責任者でStephan Riadyは香港ベースのグループ活動を担当している。 MochtarはNano研究所の話であったが孫まで含めたRiady一族が責任を持っていくと語っていた。教育分野ではPelita Harapan Universityを設立。
その他
メデイア分野ではInvestorやGlobe Asia誌を出版、新聞社Suara Pembaruan,やFirst Media ケーブルTV会社を保有している。
著作には下記がある。
1999年 Mencari Peluang di Tengah Krisis危機の中から機会を求めて
2004年Nanotechnology management style 家族経営の救助
2006年Ancient Philosophy and Modern Management

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2008年7月26日 (土)

Krakatau SteelとMittal 

世界最大の鉄鋼メーカーとなったMittalはこの4月にユドヨノ大統領に書簡を出し Krakatau Steel購入を含むインドネシア投資の意向を伝えた報道があったが、このMittal によるKarakatau Steelへの接近は今も続いている。
今週、Mittalの代表はBanten 州知事やKadinと会談し、インドネシア政府の民営化政策に乗ってKSの株を購入するか、合弁での新工場建設か鉄鉱石調達の為Aneka Tambangと協力するかの三つの選択となっている。インドネシアに投資を呼び込むのはKadinの仕事であるとして、政府としては新工場建設を望んでいるようである。
一方のKSは政府の持ち株を6割以下にする政策でIPO を計画しており、KSは2012年までにキャパを2倍の5百万トンとする計画である。
KSは本年上半期で7,500億ルピアの利益を計上しているがこれは年間計画の8割達成である。通期では1兆ルピアを超えるがこれは昨年の3,200億の利益から4倍にも達する規模で、2006年は1,260億の赤字であった。
5兆ルピアの資金調達となろうIPOはこの11月になろう。
フランス、ルクセンブルグ、ドイツのNO1鉄鋼メーカーを飲み込んだあのインドの大富豪Mittalは1億トン以上の生産量となった。MittelもKSも今は値段急騰中の鉄鉱石・石炭の調達が過大となってきているのでこの話はどうなるか。それにしても久し振り覗いた世界の鉄鋼産業は見違えるようになっていた。

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2008年7月25日 (金)

Harian RakyatのMascotto

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アジア・アフリカ通りは昔グローテ・ポストウェークと言われた大通りであるがそこに2大Heritageのホテル、サボイ・ホマンとプリアンゲルがある。プリアンゲルから上っていくと、サボイホマンの前にこの一寸古い建物がある。と言うよりプリアンゲルの隣である。
正面にPikiran Rakyatとあるので同名の新聞社の事務所であったのであろう。過去形であるのは既に閉鎖されている為である。この建物は1925年頃建てられたものでMas O‘yeのサイトで当時はMascottoと言う名前の自動車販売店であったようだ。Pikiran Rakyat誌はバンドンを中心とする西ジャワをカバーする地方紙である。20万部程度であるのでこの建物の利用にも事欠くのかもしれない。

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2008年7月24日 (木)

スカルノ第三夫人 南溟に消ゆ

何かの時にメモしていた西木正明著の「わが心、南溟に消ゆ」を読み終えた。知らなかったが、ついこの間といえるインドネシアでは金融危機の最中の1997年から99年にかけ婦人公論に連載されたものである。
デウィ・スカルノの蔭に浮気者スカルノに舐められ浴槽に剃刀の鮮血を染め果てた周防咲子,本来なら第三夫人の毅然たる一生である。昭和9年の生まれ、日イ賠償協定の1年後の1959年、25歳の若さであった。その死亡は人知れずジャカルタ西北郊外に葬られたそうで、作品では1980年、「市街地開発事業のため。。現在は広い幹線道路になっている」と淡々と締めている。全身全霊で18歳の若さで尽くした医学生丹野、賠償商権に人身御供を画した木下産商の木下社長、キャバレー紅馬車に現れる岸首相、性的タフガイ・スカルノ、不思議な叔父大沢、これら男達の犠牲であるが、西木の描写は生半可で清々しない。死の直前、彼女が詩を書いた時の熱帯の邸宅での物憂い閉塞した気持ちが残ったままである。「蝶よ お前は私の翼 風に乗り 海を越えて 伝えて欲しい 遥かな人に わが心 南溟に消ゆと」 解説の杉江松恋はジャガタラ文を思い浮かべ 周防咲子も。。日本恋しや こいしやと泣いたのでしょうかと結んで鎮魂の積もりでいるが、スカルノはその後数年で失脚、木下産商も蔭も形もなくなったことがせめてもの救いである。住んでいたところはムントン街で高い椰子があると出ているがメンテンのスウイルヨ通りだろうか 遺骨は日本人墓地に移されたのであろうか 

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2008年7月23日 (水)

Mandiri Bankのコタ支店はどこ

Mandiri_caban_kota_oud
KOTA駅の前は中央駅にふさわしく広い広場があったのは1960年代までであったようで、当時この広場の前に現在のBank EximとBank Indonesia及び駅の前に立って右側にはBank Bumi Dayaがあり銀行に囲まれていた。Bank EXIMとBank Bumi Dayaは合併したのでBank EXIMはマンディリ博物館となり、Bank Bumi DayaはBank Mandiriのコタ支店となり現在も昔の建物で実際営業をやっている数少ない建物である。バスウエーに前をえぐられなおかつ大木の陰となっているので気付く人は少ない。
この建物は1937年にJ.F.L. Blankenberg と C.P. Wolf Schoemakerが設計し、.Nederlandsch-Indische Handelsbank(NHB)が建設したものである。 バンクマンディリ博物館の掲示ポスターによると、Bank Bumi Daya は1959年De Nationale Handelsbank NVを国有化したBank Umum Negaraを起源としているとのことで先日のブログに書いたがこの二つの名前、どちらもNHBと省略できるが同じものである。このNHBには数奇な歴史がある。

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2008年7月22日 (火)

無残オランダの建物

Asransi_1910
以前にもこのブログに掲示した写真であるが、Priambodo氏のサイトでこのジャカルタ一無残な姿を見せているオランダの建物の正体が判った。
ここはファタヒラー広場の横の道を北に向かいJl.Kunirに向かうJl.Kali Besar 3とぶつかる角にある建物で1890年に建てられ、オランダの保険会社2社が使用していた。保険会社の名前は“Ongevallen verzekering mij. FATUM” 及び“Onderlinge levensverzekering van EIGEN HULP” である。Eigen Hulp即ちGotong Royongは1878年にオランダで設立された生命保険会社で1890年代にはここと、Jl.Juanda及びJl.GajahMadaに支店を持っていたとの説明があった。写真のこの建物の後ろに見える中国建物がカフェバタビアである。今のインドネシアの力ではこの建物の一帯も整備されると思う。

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2008年7月21日 (月)

元チャータードバンクは今マンディリ

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バンクインドネシアと共に整備なったマンディリ銀行博物館の中に見覚えのあるオランダ時代の建物の写真があった。カリブサールにある元チャータードバンクで、最後はBank Bumi Dayaが使用していたが、合併によりなったMandiriが当然に今の所有者になっているわけである。1921年イギリスのChartered Bank India、Australia & Chinaが建設したもので正面にドーム(Kubah)を載せた3階建てでステンドグラスが美しい。本国のHaariemのJ.Sabels en Coの作である。Bank Bumi Daya は1959年De Nationale Handelsbank NVを国有化したBank Umum Negaraを起源として、1964年にはイギリスのChartered Bankの営業権を取得したあと一旦Bank Negara Indonesia のUnit IVになった後Bank Bumi Dayaとなったもので、1999年に他の3つBank Dagang Negara(BDN)、Bank Ekspor Impor Indonesia(EXIM)及びBank Pembangunan Indonesia(Bapindo)の国立銀行が合併して出来たものである。住所はJalan Kalibesar Barat No 1-2

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2008年7月20日 (日)

Lippo Bankの名前が消える

Niaga_tower_atlet_hotel_006
Bank NiagaとLippoBankの合併が成立する。19日、マレーシアの株主の株主総会で可決され合併が公式に確認されたといえる。インドネシアの銀行再編構想(API)の中で早くから取りざたされ、決定されていたようなものである。新銀行はCIMB Niagaとして、 10月1日スタートとしている。総資産ではやっとダナモンを抜いてインドネシア第5位になる程度である。社長となるArwin Rasyid 氏は輝かしい経歴の持ち主でPT.Telkomの社長を務め、Bank Negara Indonesiaの副社長、Bank Danamon Indonesiaの社長と Bank Niagaの副社長であった。元々KhazanahはLippoBankの93.6%を保有し、又Bank Niagaの63.4%を支配しているCIMBの20.2%の株を保有しており、インドネシアで複数の銀行を保有してはならないとするBIの単一銀行政策により、6月には現実化していた。Khazanahはマレーシア政府の保有する事業の投資経営を担当する企業で金融部門にCIMBを持ちCIMBはマレーシアの2番目の金融機関で子会社Bumiputra-Commerce Holdings Berhad (BHCB)を上場させ市場価値は100億US$である。 タイ、中国にも進出、日本も置いて行かれそう。下は5月時点でのランキングである。
Bank Mandiri Rp 274.97 兆
Bank Central Asia Rp 219.72兆
Bank Rakyat Indonesia Rp 205.19兆
Bank Negara Indonesia Rp 165.27兆
Bank Danamon Indonesia Rp 93.04兆
Bank Niaga Rp 56.14兆
Pan Indonesia Bank Rp 52.46兆
Bank Internasional Indonesia Rp 51.02兆
Citibank Rp 43.82兆
Bank Permata Rp 40.81 trillion
Lippo Bank Rp 39.73兆


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2008年7月19日 (土)

資源株IPOの暴騰利益を追え

インドネシアの最大の株式公開となった石炭会社PT Adaro Energy Tbkは7月16日に上場を果たし初値はRp630高のRp1,730を付けたので暴騰率は60%となる。これで約$13億ドルの資金調達である。
この規模は日本で言えば2006年の野村不動産(1,260億円)、出光興産(703億円)を凌駕する。
Adaro Energyはインドネシアの2番目の大手石炭会社PT. Adaro Inodonesiaの株61%を保有している。
全般的な株式市場不振の中、資源株としての石炭はここに来てトン当たり$130-150から$190に値上がりしている。応募段階で既に募集株数の5倍が申し込んでおり、利益水準から言えば8.5倍程度の値段である。
この後8月には同じ石炭株PT Bayan ResourcesがIPOを計画しており、又Krakatau Steelも11月ごろIPOの予定である。

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2008年7月18日 (金)

Lindetevesのスラバヤの建物とその後

Bankniaga
スラバヤの英雄道路のマンディリ銀行は1911年にHulswitt設計のLindeteves Stokvisの建物である。Hulseitはバタビアの設計事務所Hulswit, Fermont & Ed. Cuypersの一人である。
付属の時計台は高くスラバヤのランドマークになっている。この一帯はkalimas河、Semut駅までBibis地区と呼ばれる。
Lindetevesは商社であるが金属加工、機械製造会社である。 Bank Niagaが使用していた時代もある。日本占領時は北浜部隊が銃器、戦車の修理・保管などをやっていたそうで、インドネシアの独立ラスカルはここを占領し多くの武器を得たとか。Lindetevesはスマランが本社であったようだが、スマランにはそのその名を留めた建物はない。
一時スリヤジャヤの時代のアストラグループにPT.Lindetevesの名前があった。
Lindetevestは今日、オランダ本国の船舶その他消費財卸しのLindeteves International B.V.シンガポールのLindeteves-Jacoberg Limited(子会社への経営指導会社)などがあるが関連は知らない。

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2008年7月17日 (木)

ディ-メンス総督とお春の時代

ディーメンス総督は1636年から1645年まで、これも長い駐在期間の9年でバタビアで最後を迎えたが、1619年クーン総督がバンタン・イギリスを放逐して以来僅か17年でVOCの黄金時代を築いた。業績も良く高配当を実施し、占領地の基盤も1641年にはポルトガルのマラッカを占領、1642年には台湾全島を占領、バンタン港を封鎖・マタラムには対等と認めさせ、日本では出島だけであったがその地位を固めた。
バタビアの人口は9,000人、内オランダ人3,000人で市の拡張も実施した。郊外はシナ人の砂糖栽培も盛んであった。タイヘル掘割通り(Tijgergracht)やAmanusgrachtも作られ、白石さんの「お春の消息」では他にヨンカー通り、へーレ通り、マラッカ通り、郊外ニューウエー通りなどが出てくる。日本人は精悍で塩魚だけで十分とその労働力(特に兵士など)で重宝がられ、1613年のピーテルボットの時代に68名の契約移民が招かれたとのことでマダム・シオンズと言われた、お春が到着したのは1640年1月1日でディ-メンス総督にも歓迎された。お春の時代にも100人位の日本人がすんでいた。村上直次郎「17世紀のバタビアの日本人」には1632年の人口の8,058m人のうち日本人108人と出ている。

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2008年7月16日 (水)

Bandung、花の都のオランダ時代

Bandung_041
バンドンは西ジャワの首都で人口2.6百万、インドネシア4番目の大都会である。海抜768mであるがパラヒヤンガン山地に囲まれた盆地の地形は防御に向いておりオランダ政庁が首都をバタビアからバンドンに移そうとした理由である。
盆地の主たる川はCikapundungでこれはチタルム河の支流でバンドンを南北に分けカラワンで又合流する。地質学的にはここには古代スンダ山があり洪積世の時代に2回の爆発があり最初の爆発で盆地が出来、2回目の爆発でチタルム河がせき止められ巨大な湖となった。この水がどう引いたのかは未だ解明されていない。
最も古いバンドンの歴史は1488年に遡る。パジャジャラン王国の一地方として記録がある。
オランダ東インド会社VOCは17世紀から18世紀に、お茶のプランテーションを開き、1786年までにはバタビア、ボゴール、チアンジュール、バンドン、スメダン、チレボンの道路は完成していた。
ダーンデルス総督はインドからのイギリスの攻撃を防ぐ為防御システムの強化に乗り出し、バンドンを通るジャワの東西を結ぶ1,000kmの道路を建設した。この道路はバンドンでDe Groote Postwegと名付けられた。現在のアジア・アフリカ通りである。
ダンデルスは1810年Cikapundung河の側に。“Zorg, dat als ik terug kom hier een stad is gebouwd!” (私が又戻ってくるまでに街が建設されているよう“にとスティックを埋め、R.A. Wiranatakusumahを知事に任命、彼は現在の中心広場アルンアルンに宮殿とmasjid agung とpendopo (公的集会場所)を建設した。その場所が現在は町の中心地碑KM 0 kota Bandungとなっている。
現在Wiranatakusumahがバンドン市の創設の父とされその年の9月25日がバンドン市の誕生日である。19世紀にキニーネの栽培も盛んになる。
1880年にバタビアとの最初の鉄道が結ばれた。その頃からシナ人も住みつくようになった。
gemeente自治体として認められたのが1906年である。オランダの農園主はバンドンをリソート地として開発しバンドンはジャワのパリと言われるようになった。今でもKota Kembang(花の都)が愛称である。彼らはバタビアから女性やビジネスマンを引き連れ週末バンドンに訪れた。Braga通りはカフェ、レストラン、ブティークなどがそろったプロムナードであった。ここにはサボイ・ホフマンホテルやプリアンガーホテルも立ちコンコルディア社交クラブもあった。
バンドンの首都構想は1920年代で最初に、現在Gedung Sateと呼ばれている政庁事務所が建設された。
バンドンはアールデコ建築の建物の宝庫である。このブログではイソラ・ヴィラ、グドゥング・ムルデカ、ITBは出したので再度訪問してもう少し加えよう。

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2008年7月15日 (火)

エコカーとパレスチナ、日本は関心低い 

インドネシアでは最近タクシーなどでVigasの名前の自動車用液化ガス(LGV、2気圧程度の低圧液化)がガソリン価格引き上げ前に比べ2倍に増えている。値段はRp3,600 からRp5,000に上がってきているようだ。ガス車への切り替えキットはRp25百万程度で政府は2010年までに公共自動車について切り替えを図っている。
価格差はガソリンが補助金付きのため差は少ないが政府にすれば、補助金が不要であり、環境には優れている点から推進するものであろう。似たものにCNG(圧縮天然ガス)があるがこちらは200気圧に圧縮したガスで容器が大きくなり設備費も高くなる。日本では燃料価格差が少なく、排出ガスも同程度とする誤解もあり、普及は後進国並だそうだ。

14日ジャカルタでパレスチナ支援のアジアアフリカ諸国53ケ国の閣僚クラス会議が開催された。能力開発支援と銘打っており、インドネシアは5年間に1,000人の公務員研修を行うと約束した。昨年の米国アナポリス会議で確認されたアジア・アフリカ新戦略パートナーシップの枠組み下、パレスチナ独立をリードするものものである。今日の日本の新聞には報道がないようなのはどうしたことであろうか。

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2008年7月14日 (月)

ジャガタラ文のお春こいしや

7月6日のブログのコルネリアの続きであるが、昔からジャガタラ文とジャガタラお春はカラユキさんと混同し女衒にかどわされジャカルタに流れてきた日本女の悲しい話だと思っていたが白石広子著の「ジャガタラの貴婦人」や「お春の消息」を読むと大違いである。そこで調べたことも含め要点全てを記すと;
島原の乱のあと幕府は1639年第5回目の鎖国令でプロテスタントとの子供までジャガタラに追放したがこの中に15歳のお春もいた。オランダ女性でここまで渡来する人も少なくこれら西洋人との混血の若き女性は総督以下歓迎で間もなくお春(マリア)はVOCの若いシモンセンと結婚、(コルネリアもクノールと結婚)アムスの香り高いバタビアのオランダ邸宅に土人の奴隷にかしずかれ72歳までの一生を遂げた実話である。母、姉、夫、心の人、子供6人に次々と先立たれる悲しさはあったが、“日本恋しや、ゆかしや、みたや、みたや、みたや..”と言うジャガタラ文は西川如見の創作(化)と見られている。ジャガタラ文は長崎にお春の手紙と平戸に3通(前出コルネリア、コショロ、フク)4~5通が残っている事になっている。お春については長崎に“長崎の 鶯は鳴く いまもなお じゃがたら文の お春あわれと”と言う吉井勇の碑文のお春碑があり又“赤い花なら蔓珠紗華..雨に泣いてるじゃがたらお春..”と言う昭和14年の長崎物語(梅木三郎作詞)という歌謡がある。この歌は小生も良く歌ったものだ。白石女史は小生とも駐在がダブル、ジャカルタ勤務の現地旭硝子社長の奥方であり、ジャカルタの古文書館で調査しお春の自宅の賃貸契約書、遺贈証書、洗礼記録などで新しい事実を発見し冒頭の作品を著した。“国際都市に生きたお春たちは、我々にそういう逞しい日本人の子孫であることを示唆してくれる”と結んでいる。

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2008年7月13日 (日)

Lindeteves Trade Centerとは

Lindeteves
グロドックのハヤム・ウルック側、グロドックセンターの横にLindeteves Trade Centerなるものがある。多分2004年頃出来たものと思うが当時はLindetevesは駐車も難しく、混雑しており、危険で楽しいところではなかったという。
小生の記憶はその前の時代かも知れないが、この辺りは何もなく広々としたパッサールだったように記憶する。
Lindeteves Trade Centerはワンストップ トレードのコンセプトをもち、道具類、電気製品、音響・映像機器、携帯電話、コンピュ-タ、電子機器の商人のための屋台含めたスペースを用意し、又フードコートや遊技センターヤジャイアント ハイパーマーケット、テナントに対した倉庫機能もPABXも備えている。
このリンデテフェス地区はPT. CITRA GEMILANG NUSANTARAが金物商の為に開発したもので2.6haある。もともと金物家庭用品の市場として何十年も有名であった。
ここの歴史はオランダの会社のNV Lindeteves Stokvis &Faという鉄鋼建材ファブリケーターの所在地であった。

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2008年7月12日 (土)

ITB、スカルノの母校

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バンドンの国立大学、バンドン工科大学(Institut Teknologi Bandung :ITB)は1959年創設となっているが、前身はインドネシア最初の工業高専である。
この高専はオランダが1920年に設立したもので、設計は Henri Maclaine Pontである。ミナンカバウの伝統的屋根の形を生かしたデザインはオランダの近代建築の父たるベルラーフの激賞を浴びた。 1926年工学士としての第1回卒業生を出しその中に スカルノがいた。日本占領時代は何処も同じであるがそのまま引継ぎ名前をバンドン工業大学とした。
多くの有名人がいるが、幾つか上げるとハビビ、バクリー、チプトラ、ギナンジャール、R.ラムリ、又このブログの中では他にジュアンダ、パニゴロが卒業している。バンドンの北の閑静な公園地域にあり、ITB自身700,000m2もある。小生が行った時は自由にカンパスに入れ、日本語の行事案内やそれより多くの小グループのクラブ?活動で賑わっていたが何よりもその中で地面に線を引いたりしたゲームが目に付いた。小学生の為の訓練のようで、多分教育部の学生だったのであろう。
或る世界の大学評価サーベイでは258位とか369位にランクされている。我が九大は136位であったので何故か胸を撫で下ろした。

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2008年7月11日 (金)

宝くじも社会貢献Padma賞 

この前、Padma賞と言う社会省からの社会福祉企業への授与があったがこれは賞品・賞金つきくじ(Undian Gratis Berhadiah :UGB)活動や社会活動の為の資金作り(Pengumpulan Uang atau Barang :PUB)で賭博行為や詐欺行為とならない模範を表彰するもののようである。Padmaとはサンスクリット語でロータスの意味がありインドネシア語で“Pandu Daya. Masyarakat 民衆を率いる力”と言うことで社会省のシンボルとしてロゴとなっている。2008年はBRA,Panin, Mandiriなどが表彰をうけた。その他今までに表彰受けた企業としてBCA, Metro TV, Lion Air, Unilever, Carrefourなどがある。この両方の活動には昔からちゃんと法律があり認可制で違法は取り締まっている。日本ではこの面では社会面をにぎわす事例に事欠かない。

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2008年7月10日 (木)

Binus大学のNippon Club 

Binus_nippon_club
もう4日も前の話になるがBina Nusantara UnivのNippon Clubがマンガ・ドゥアのWTCで日本祭りをやったようである。昨年もやったそうであるので多分2-3回目の行事であるが日本の急速な技術革新と国民のより良い生活を達成しつつ、国民のアイデンティティと伝統文化を維持してきた日本に学ぼうとする学生達の活動である。Slippiの向こう側にAngrek CampusとかKijang Campusなど三つのキャンパスを持つコンピューターIT専門の大学で情報管理、会計税務分野では重宝する学生が多い。リクルートする積りならTEL: 5345830に電話してみると良い。 1974年創立の新しい大学であるがいつの間にかこの大学は日本語科を設けていたのだ。ジェイピープルのサイトではゲスト出演したジャカルタ軽音部が会場を熱狂のウツボに落としだいぶ盛り上げてくれそうで又日本文化はアニメとコスプレか!と編集士を嘆かせたようであるが、写真をBinusのサイトから頂いたので宣伝をしておこう。

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2008年7月 9日 (水)

MOOJEN, バリ・メンテンの恩人

Boplo
ブログでも何度もでたMoojen,PIETER ADRIAAN JACOBUSモーエン(4/30’08 スラバヤNillmijのGrandeur, 5/13’07バリ植民地博覧会、5/9’07 バタビアKusntkriegs)であるがブログMy Odysseyに伝記があったので紹介しておく。My OdysseyはMy Linkに登場願った。
1879:オランダ・ゼーランド州に生まれる:
1890年代 ベルギーのアントワープで建築や絵画を学ぶ
1903年:蘭印に渡る
1904年:バンドンのKunstkringを設計
1905年:スラバヤのNillmijを設計
1908年―14年:バタビアの議員、技術委員会会長
1909年:バタビア・ノルトワイクのNillmijを設計
1910年:バタビアのBoplo(NV Bouwploeg)を設計、初期メンテン(Nieuw-Gondangdia)の年設計
1912年:メンテン・プロジェクト(tuinstad [garden town])開始1912:
1912・3年:メンテンのKunstkringの建設
1929年:オランダに帰国
1930-31年:Koningspleinの教育省の建物を設計、アントワープとパリでの国際植民博覧会に参加
1955年:死去 写真はメンテンのKunstkring芸術サークル


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2008年7月 8日 (火)

NillmijとKoloniale Bankの怪

Nillmij_surabaya
Ptpn_x_kolonials_bank
Berlagが設計したアルゲメーネ保険会社Algemeene Maatschappij van Levensverzekering en Lijfrenteは現在もありその隣(左側の隣の隣?)は蘭印保険会社Nederlandsch-Indische Levensverzekering En Lijfrente Maatschappij [NILLMIJ]の建物である。昔の住所で言うとAlgemeeneはWillemskade No.19-22で1901年建設されており、NillmijはWillemskade No.11で1905年建設で当初のオーナーはアムステルダム貯蓄スラバヤ銀行であったが1910年Nillmijが購入したものある。 Nillmijのこの写真では隣との間に道があり角地の如くで更に左に長い建物で写真の奥に鉄塔が見える。正面の横の入り口に“Nederlandsch-Indische” と言う彫り物があり更に“Levensverzekering”とあり次の欄に“Lijfrente Maatschappij”.が彫られているそうだから間違いなくNillmijのものである。Nillmijは国有化され現在のPT. JIWASRAYAになったが建物自体はJiwasrayaのものにならずPT PERKEBUNAN NUSANTARA X(PTPN X) のものになったそうだが一方、現在のPTPN Xの社屋はKoloniale Bankであったという。Koloniale Bankの完成は1928年 Willemskade No.3である。長い建物なので三つの建物が合体したのであろうか。そこにはNillmijの失われた昔日の威光の一部が見えるという。以上色々調べてみたがやはり現地で確かめないとどうなっているのか真実はわからない。写真はMy Odysseyからであるがスラバヤ在住ブログ参加者も料理できていないようだった。

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2008年7月 7日 (月)

6月投資環境トッピックス

* 豪首相、「アジア太平洋共同体」提案、台湾含め域内既成組織のレベルアップへ
* 国際帝石がティモール海でLNG基地提案、最大ガス田権益活用し投資2000億円
* アフマディア宗教活動締結令、過激派FPI増長、元大統領候補か
* ガルーダ、デンパサール~名古屋便就航、週3便、加算金値上げ JALで3万円
* 出国税廃止、2011年にNPWP保有者のみ。所得税の最高税率30%で合意
* 燃料値上げデモの暴徒化、裏で扇動者逮捕される。 大統領候補か
* PKB内紛:現党首派とワヒド派両方の臨時党大会を認めない裁判所判決。
* 物価統計の基準値を変更。5年毎の見直しで食料品ウエート、36.2へ下げ
* 日本政府がテロ対策支援に5.45億円の無償資金協力へ。港湾に監視カメラ等。
* 中小企業法案、国家可決。
* 首都モノレール建設は取りやめ、地下鉄に移行。DKI99%出資の運営会社設立へ。
* 印バジャジ二輪販売、1-5月は前年同期比96%アップの約5千台。
* 首都港税関で贈賄した15社調査へ:汚職撲滅委。事業者の間からは懸念も
以上 インドマルコ ホームペイジwww.indonesialink.net/indomalco/より

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2008年7月 6日 (日)

Corneliaとバタビアの貴婦人

「Cornelia.jpg」をダウンロードSka4062


現代インドネシア事情に★日本人同士の裁判その後★というのが出ていたが、バリポストに報道された日本人同士の裁判で、“かってインドネシアを舞台にした裁判争いは「おてんばコルネリアの闘い」を思い出してしまいました。”と言うことで17世紀バタヴィアの日蘭混血女性の生涯を描いたおてんばコルネリアの闘いという本を紹介していました。 日本人同士の争いの裁判は銭の貸し借りの醜い裁判であろうが、コルネリアの闘いはあくどい結婚詐欺のオランダ男に対する日本婦人の誇りの闘いである。
楽天ではこの本の著者はレオナルド・ブリュッセイ /栗原福也で売り切れであったが、丁度小生は白石広子著「バタビアの貴婦人」という本を読んでいてこのコルネリアに会っていた。白石さんのバタビアの貴婦人はあのジャガタラお春が主人公で、コルネリアの一生も随所に触れている。 コルネリアは出島の商館長ナイエンローデと日本婦人スリシア(キリスト教の宗教名)の娘(1629年生まれ)で、1939年の5回目鎖国令でジャカルタに追放され孤児院で育てられた。父親は財産を残してなくなっているので孤児院で不自由なく育ち、花も匂う20歳頃VOCの商館員クノールと結婚する。クノールは立派な商館員でVOCで出世し、又ビジネスでも財をなし莫大な財産を残し亡くなるが、次いで結婚するのが同じVOCの館員で弁護士のビターである。ビターは法のアナを付きながら名前の通りbitterlyにコルネリアの財産を食い荒らし、最後は本国での裁判に、子供達(10人とも)にも先立たれ一人、オランダで戦い無念の一生を終えた(1692年没)と言う話である。写真はクノールとの幸せな時代にオランダから招いた絵画師Coemanに描かせた(1664年)クノール一家である。拡大するとおちょぼ口の混血の美人で娘カタニーナとヘステルは1/4のみ日本の面影がある。Rijksmuseumのウエブサイトから借用した。この写真はHeukenの本にも出ているが右側の傘を持つ下男が後に1684年にオランダへの反乱を起こすスロパティである。
ビターは後に市長にまでなるが、スロパテイはコルネリアの無念を晴らしては呉れなかった。

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2008年7月 5日 (土)

GKI Kwitang教会の歴史

Kwitang_004
6月10日のブログの後、再度碑文を読みにこの教会を訪れた。その歴史は概ね下記のようである。
1873年にオランダの改革派クリスチアン教会は宣教師 E.Haanをバタビアのオランダ人のために派遣した。毎週金曜自宅で欧州人、ジャワ人、アンボン人、チナ系が集まった。Haan はインドネシア人にも手伝わせた。1886年にオランダはHaanの後、Ds.Huysingを後任に指名し、彼のアイデアで教会が建設された。その後も代は代わり又牧師も増えた。1924年には建築家 F.Wiemanの手により改造も行った。この教会は1929年に始めてムラユ語でサービスを行う現在の教会として落ち着いた。正式名称はGereja Kristen Indonesia Kwitang

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2008年7月 4日 (金)

月刊誌「インドネシア企業経営」6月号

インドネシアの会計・税務・輸出入手続き等下記の記事の6月号($100/月)が発売中である。詳しくは下の住所に或いはメールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netに照会下さい。
インドネシアの 今月の税務法令アップデート
インドネシアの 今月の経済法令アップデート  
インドネシアの 会計原則 109 ( 固定資産 その3 )
インドネシアの 08年5月新経済パッケージ~投資環境改善編
インドネシアの 税額票を伴う国内取引類型
インドネシアの 会社設立・定款変更承認書新フォーム
インドネシアの 2009年の祝日と一斉年休取得日
インドネシアの 租税総局地域事務所と税務署コード番号
インドネシアの 電子情報・取引法 その1
インドネシアの 日イEPA・インドネシア人看護師の受け入れへ
インドネシアの 納税基盤拡大への政策あめとムチ
インドネシアの 林業製品の輸出規制アップデート
インドネシアの 今月の労働関連トピックス
インドネシアの 固定資産の再評価に係る税務
インドネシアの タイヤ
インドネシアの 2008年富豪150人
インドネシアの2008年5月度 下旬 政治・経済トピックス
インドネシアの2008年6月度 上・中旬 政治・経済トピックス
インドネシアの物価・貿易統計2008年6月発表
橋本政彦 「明日の街角30~こころ・自然・未来」 
柘海広志 「神戸再生への序章」
西見恭平 「インドネシア・タンゲランの英雄道路名~バンテン小史」
インドネシアの今月の月次経済指標 2007-2008トレンド
インドネシアの今月の会計・税務用換算レート
インドネシアの今月の為替株式金利の動き


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6月の物価指数の読み

6月の物価は前年比11%アップと発表された。インドネシアは6月から物価統計の基準値を変更しており、食料品のウエートを43%から36%に大幅に下げたが近隣諸国との比較でも引き下げ過ぎで代わりに運輸・交通が増えている。マイカー保有率が高くなったというのであろうか。燃料値上げの影響から6月の11%アップの内運輸・交通が9%となっている。世界的食糧の値上がりは押さえ込んだが、炊事用家庭燃料は何処に入っているかは未調査である。
新 <------ 旧
-----------------------------------------------------------
食糧 : 19.6 <---- 24.69
食品(加工) : 16.6 <---- 17.62
住宅、設備 :  25.4 <---- 26.35
衣料 : 7.1 <---- 6.37
医療 : 4.4 <---- 4.31
教育 : 7.8 <---- 6.18
交通    : 19.1 <---- 14.47

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2008年7月 3日 (木)

Koloniale BankがPTPN X?

Ptpn_x_kolonials_bank
スラバヤのジュンバタン・メラー通りの昔で言えばウイレムスカデ No.3にある植民地銀行(Koloniale Bank)は現在PT Perkebunan Nasional Xが使用している。この建物はデザインはProf. Ir. Charles Prosper Wolff Schoemaker で建設はガイセルズが関係したAIAで、1928年に完成したものである。2階建てで中央の玄関ゲートを中心に対称的なつくりで太い2階の部分や窓の位置での太い横線が印象的である。AIAはKoloniale Bankの為Sendang Pitoeの管理事務所 [1924], Wonosarie の砂糖工場 [1925] やMaron の砂糖工場も作っている。 こちらの植民銀行は14PG を保有していたが、現在は少し減って11PG が残っている。ウイレムスカデは変遷もあり、込み合っているので混乱するが現在の建物の並びはどうなっているのであろうか。 
こちらの写真もXのHPから借用した。

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2008年7月 2日 (水)

HVAはPTPN XIに引継ぎ

Picture1
スラバヤ、ジュンバタン・メラーから一寸東のメラック通りに古い建物がある。現在は国営製糖会社の最大手PTPN XI(PT. Plantation Nusantara XI )が使用しているがこれは1920年建築着手、1925年完成の HVA (Handelsvereeniging Amsterdam)の建物である。
バタビアヤの建築家Marius Hulswit, Fermont & Ed. Cuypers.でデルフトのタイルや土着の色彩を盛り込んだスラバヤ最大のオランダ建造物である。赤茶色の荒い壁、頑健そうな玄関ポーチ、正面の玄関上の時計、1階も2階も3階につながる長い.柱が並ぶギャラリーで上はアーク状で花で飾られている。
HVAは公式にはアムステルダムで貿易会社として1879年に設立され砂糖黍、茶、ゴム、胡椒、キャッサバ、タバコなどのプランテーションをスラバヤ、スマラン、スマトラに多く持っていた。
1957年国有化されるときは17のPabrik Gulaがあり現在もPTPNは17PGを持っている。
増えもしてないが、減らなかったことを褒めるべきか。写真はPTPN XI社ホームペイジより借用。

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2008年7月 1日 (火)

ワドゥック・プルイットの水上スラム

Waduk_pluit054
DKIジャカルタでは北ジャカルタ プルイットの沼沢に不法に居住している数千の住民に移転を求める計画である。これは沼沢を貯水機能を高め洪水防止のためとしている。2008年予算ではPluitのWadukの周辺には住む8,000家族を移動させる。 ワドック・プルイットとはこの間のブログのメガ・プルイット モールを囲むプルイット・チムール・ラヤ通りの右側に横たわるモナスより大きな沼沢である。海側はパンタイ・ムティアラ・マリーナ豪邸群がある。沼沢へ上流から流れる河はクルクット河である。
プルイット・スラタン・ラヤ通りを東に伸ばすとプルイット・スラタン通りで更にその先はパキンから昔のパッサール・イカンに繋がる。クルクット河と言うが実はチデン運河とカナールブサールと更にチリウン河の流れが合体して流れ込んでいる。このクルクット河がプルイット・スルタン通りで沼に流れる込む所には大きなポンプダムがあり24時間(?)これまた大きな熊手が回り河のゴミをすくい上げている。 ゴミの量には驚くが何時ジャカルタ市民はゴミ放棄をやめてくれるのであろうか。

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