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2008年7月14日 (月)

ジャガタラ文のお春こいしや

7月6日のブログのコルネリアの続きであるが、昔からジャガタラ文とジャガタラお春はカラユキさんと混同し女衒にかどわされジャカルタに流れてきた日本女の悲しい話だと思っていたが白石広子著の「ジャガタラの貴婦人」や「お春の消息」を読むと大違いである。そこで調べたことも含め要点全てを記すと;
島原の乱のあと幕府は1639年第5回目の鎖国令でプロテスタントとの子供までジャガタラに追放したがこの中に15歳のお春もいた。オランダ女性でここまで渡来する人も少なくこれら西洋人との混血の若き女性は総督以下歓迎で間もなくお春(マリア)はVOCの若いシモンセンと結婚、(コルネリアもクノールと結婚)アムスの香り高いバタビアのオランダ邸宅に土人の奴隷にかしずかれ72歳までの一生を遂げた実話である。母、姉、夫、心の人、子供6人に次々と先立たれる悲しさはあったが、“日本恋しや、ゆかしや、みたや、みたや、みたや..”と言うジャガタラ文は西川如見の創作(化)と見られている。ジャガタラ文は長崎にお春の手紙と平戸に3通(前出コルネリア、コショロ、フク)4~5通が残っている事になっている。お春については長崎に“長崎の 鶯は鳴く いまもなお じゃがたら文の お春あわれと”と言う吉井勇の碑文のお春碑があり又“赤い花なら蔓珠紗華..雨に泣いてるじゃがたらお春..”と言う昭和14年の長崎物語(梅木三郎作詞)という歌謡がある。この歌は小生も良く歌ったものだ。白石女史は小生とも駐在がダブル、ジャカルタ勤務の現地旭硝子社長の奥方であり、ジャカルタの古文書館で調査しお春の自宅の賃貸契約書、遺贈証書、洗礼記録などで新しい事実を発見し冒頭の作品を著した。“国際都市に生きたお春たちは、我々にそういう逞しい日本人の子孫であることを示唆してくれる”と結んでいる。

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